5回目
1947.4.20 深夜LM計画――それは、真紅が初めて耳にする言葉だった。それも、当然のことだ。国家的な極秘プロジェクトを、一個人が知る術はない。たとえRM計画の主任だった男の娘であっても、例外ではなかった。「槐さん……その、LM計画って、なんなの?」「LMとは――」槐は、まるで禁忌の呪詛の詠唱を躊躇うかのように、暫し、口を噤んだ。室内が静寂で満たされ、僅かな仕種の、衣擦れでさえハッキリ聞こえる。真紅は逸る気持ちを抑えながら、槐の言葉を待ち続けていた。「LMとは『Laplace Material』の頭文字なのだよ」「ラプラス……素材?」「真紅。君は、ラプラスの悪魔という言葉を、聞いたことがあるかい?」彼の問いに、真紅は首を横に振る。だいたい、悪魔だなんて縁起でもない。それが当然の反応と言わんばかりに、槐は頷いた。「ラプラスの悪魔とは、物理学で使われる言葉だよ。 現在の状態から、未来は既知のものだとする思想を、決定論と言う。 その決定論で仮想される超越的存在を、ラプラスの悪魔と呼ぶんだ」
そんな解説をされても、寧ろ、余計に混乱してしまう。真紅は槐の言葉を反芻しながら、理解しようと努めた。「LM計画って、まさかその悪魔を呼び覚まして、戦況を逆転しようという企み? 現状で未来が解るなら、その逆だって可能なのだわ。 希望する未来に繋がる現実を、選ぶことも可能よね」「道理だな。LM計画の理想は、概ね、君の考えた通りだ」満足そうに微笑む、槐。けれど、その笑みは長く続かない。彼は真紅の青い瞳を鋭い目で見据えながら、再び、言葉を紡ぎだした。「本来、戦争は政治的な解決を得るための、ひとつの手段。根は、同じなのだよ。 クラウゼヴィッツも、著書の中でそう語っている。 では……戦争を終わらせるためには、どうすれば良いと思う?」「少なくとも、敵を殲滅するのは、愚行なのだわ。 対外的ストレスが失われれば、民衆の不満は自国の政治へと矛先を変えるもの。 その他、貿易などにおいても、損失の方が大きいでしょうね」「そうだ。隣国を滅ぼせば、やがて自国も滅びる。それは歴史も証明していることだ。 いつの時代でも、国家同士が対等に付き合って行かねば、繁栄など望めないのさ」真紅にも、だんだんとLM計画の目的が見えてきた。ラプラスの悪魔というのは通称で、実のところは、強力な新兵器なのだろう。悪魔と冠するあたりに、凶悪な大量破壊兵器の気配を感じた。「敗北必至の戦況を一転できれば……講和を呼びかけることも可能ね」
45年当時の政府首脳は、新たなエネルギー資源と、新兵器を後ろ盾に、可能な限り有利な条件で、連合国側と講和を結ぼうと企んでいたのだ。けれど、その企みは父ローゼンと、フォッセー博士の失踪により潰え、ベルリンに殺到する連合軍を前に、ヒトラーは地下壕にて拳銃自殺。次期総統に潜水艦隊司令長官カール=デーニッツが就いたが、もはや敗北を待つばかりだった。ローゼンが、自動人形の軍団を率いて、全人類に戦争を挑むまでは――「お父様は、どうして……人類を滅ぼそうとするのかしら」憔悴と疲労を顔に滲ませ、真紅はソファに身を沈め、項垂れた。自分の娘すらも敵に回して、一体、何をしようと言うのか。槐は、苦悩する彼女を、同情の眼差しで見つめていた。自分の父親に抗い、事によれば、その手で父の命を奪わねばならない。うら若い乙女が背負うには、あまりにも過酷な試練だ。「師は、おそらく……ホモ=サピエンスという種族に失望したのだろう。 肌の色、文化の違い、宗教という思想の対立……。 有史以来、人類は血なまぐさい闘争の歴史を刻み続けてきた。 その根元が、遺伝子という箱船に組み込まれたプログラムだとしたら、 もう変えることなど出来ないのさ。 ……新たな人類を、誕生させる以外にはね」
新たな人類……という単語に、真紅が機敏な反応を見せた。かつて、父の口から語られた名詞が、彼女の頭に閃いたのだ。「まさかっ! オリジナル・ローゼンメイデン?!」断言は出来ないが、と前置き、青年は言葉を継いだ。「遺伝子を辿っていくと、人類のルーツは、アフリカに居た一人の女性だという。 ミトコンドリア・イブと呼ばれる存在だよ。 もしかしたら、師は新たなミトコンドリア・イブとして、究極の少女を…… オリジナル・ローゼンメイデンを生み出そうとしているのかも知れない」自動人形たちの原型、オリジナル・ローゼンメイデン。真紅ですら、実際にその姿を見たことはない。父の失踪後、手懸かりを求めて書斎を探索していたときに覚え書きを見付け、それによって初めて、オリジナルの存在を知ったのだ。「お父様は、人類を滅ぼして、新たな人種による世界を創ろうとしているの? なんて…………傲慢な」それっきり口を噤むと、真紅は両手で頭を抱えて、くしゃくしゃと髪を掻き乱した。槐は、ソファに歩み寄って、丸められた彼女の小さな背中を、そっと撫でた。「疲れただろう。部屋まで案内させるから、今夜はもう休みたまえ」
内線で呼び出された薔薇水晶は、イヤな顔ひとつしないで、真紅を案内してくれた。そもそも、彼女は表情に乏しく、口数も少ない。よく言えば、お淑やか。悪く言えば、無愛想。この娘に、真紅の仲間たちのような姦しさは、全くなかった。「こっち……」先導していた薔薇水晶が、通路の一方を指差し、さっさと歩いていってしまう。真紅は小走りに、彼女の後を追いかけた。そして、二人は窮屈な連絡通路から、広々とした空間へと抜け出した。通路がアリの巣のように張り巡らされているアジトを想像していた真紅にとって、この変化は充分、驚愕に足るものだった。「ここって、集会所みたいなもの?」訊くと、薔薇水晶は肩越しに振り返り、こくりと頷く。つくづく愛想のない娘だ。真紅が胸中で苦笑した折りも折――「しん……く?」いかにも怖々と言った感じの、控えめな声が、彼女を呼び止めた。こんな所で、誰が?意外に思いつつ振り返った先には、眉を曇らせ彼女を見ている娘が、ひとり。その少女は真紅だと判明するや、不安そうだった表情を一変させ、しがみついてきた。
「やっぱりなのっ! 真紅っ! 真紅ぅー!!」「あっ、貴女……雛苺っ。無事だったのね!」「うんっ。ヒナは、このとおり元気なのよ」雛苺は、真紅と同じ街区に住んでいた娘で、幼なじみだった。真紅とは同じ歳なのだが、昔から、雛苺は妹みたいな存在である。小柄な少女と抱擁を交わし、真紅は懐かしそうに、彼女の柔らかい髪を撫でた。「ずっと、貴女のことを心配していたのよ。 私が出撃した数日後に、連合軍の無差別爆撃があったと聞いていたから。 貴女のご両親にも、挨拶がしたいわ。どちらに、いらっしゃるの?」途端、真紅の腕の中で、雛苺はピクリと身体を震わせ、徐に嗚咽を漏らし始めた。「……あのね。ヒナのお家…………焼けちゃったの。無くなっ……ちゃったの。 ヒナの……パパとママも、たくさんの思い出も、みんな……燃えちゃったのよ」今度は、真紅が息を呑む番だった。雛苺の両親は温厚な人たちで、真紅のことを、実の娘のように可愛がってくれた。真紅が戦場に赴くと知ったときには、ひどく悲しんで、無事を祈ってくれたものだ。だから、真紅も、雛苺と彼女の両親を、家族のように慕っていた。それなのに――――「ごめんなさい、雛苺。辛いことを、思い出させてしまったわね」「……真紅は悪くないの。悪いのは、戦争を始めた人たちなのよ。 ヒナ、戦争なんて……だぁいっキライ!」
「私だって、戦いたくなんてない」呟いた真紅の表情は、苦痛に歪んでいた。戦争は、まだ続いていくだろう。しかも、その泥沼を創り出したのは、他でもない真紅の実父なのだ。雛苺の嗚咽に責め苛まれて、心にズキズキと痛みを感じた。唇を引き結び、歯を食いしばって堪えていたけれど――不覚にも、強張った真紅の頬を、一筋の滴が流れ落ちた。今まで張り詰めていた緊張の糸が、フッ……と切れてしまった気がした。「ごめんなさい…………本当に……ごめん…………なさい」一度、堰を切ったように溢れた涙は、止めようもなく彼女の頬を濡らし続ける。その頬に触れる、雛苺の温かい指先。彼女はしゃくり上げながら、両手で真紅の頬を包み込んでいた。「……真紅ー。戦争は、いつまで続くの? ヒナ達はいつまで、地下に隠れ住まなければいけないの?」潤んだ瞳を、ひたと向けてくる雛苺に、真紅は答えることができなかった。ただ一人を除いて、確かなことは言えないだろう。この戦争を終わらせる術は、彼女の父、ローゼンだけが握っているのだから。もはや交わす言葉もなく、愁眉を寄せ合う二人の少女。薔薇水晶は何も言わず、鋭い光を湛えた琥珀色の瞳で、真紅を見据えていた。
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