4回目
もしかしたら、彼――槐は父の消息を知っているかもしれない。そう思うと、真紅は気もそぞろで、矢も楯もたまらなくなった。車長席に座って、ペリスコープを覗き込んでいても、忙しなく揺れる爪先が止まることはない。無意識の内に、彼女の焦燥が、動作となって表れているのだった。当初の行軍予定は、想定外の事態により、かなりの遅れをきたしている。本来ならば、脇目もふらず、ワルシャワを目指さなければならないところだ。なのだが……。「どぉしたの、真紅ぅ?」「ひあっ?!」物思いに耽っていたところへ、思いがけず間近で水銀燈に話しかけられて、真紅は珍妙な声を出した挙げ句、危うく車長席からズリ落ちそうになった。車内に、娘たちの陽気な笑い声が広がる。赤面した真紅も、気恥ずかしさを誤魔化すように、口元を引きつらせた。ひと頻り笑いの輪が広がった後で、やはり、水銀燈が真っ先に口を開いた。「真紅ぅ……貴女、槐って人のところへ行きたいんでしょぉ? 隠したって無駄よ。おばかさんの考えなんか、全てお見通しなんだからぁ」 「水くさいよ、真紅。ボク達は一蓮托生。みんな、キミの意志を尊重するつもりさ」
車内無線を通じて、三人のやりとりを聞いていた金糸雀と翠星石の声が、真紅の耳に届く。「そのとおりよ、真紅。カナ達に気遣いなんて無用かしら」「どーせ遅刻ついでです。一時間くらい寄り道したって変わりねぇですよ」「貴女たち……」その発言は、若い娘にありがちな認識の甘さに溢れていた。根っからの職業軍人ではないどころか、訓練すらロクに受けていない彼女たちが、軍規の厳しさなど知っていよう筈がない。真紅ですら、父が軍事機密に関わっていたと言うだけで、元は普通の女の子だった。戦える者が不足していたこと――そして、父の置き土産であるティーガーⅢを人手に渡すことを頑なに拒んだ結果が、軍属に身を窶した理由だ。決して、好きで戦場に来た訳ではない。仲間の娘たちも、同じ心境だった。本当は、怖い。戦いたくなんてない。死と隣り合わせの毎日に神経をすり減らして、燃えカスのように死んでいきたくはなかった。さりとて、傍若無人な自動人形どもに嬲り殺されることは、乙女の潔癖さが許さない。屈辱の烙印を押されるくらいなら、力尽きるまで戦って、闘って、敵を斃してやる。それが、人生を切り開くということだと、彼女たちは悟っていた。全ては、幸せを受け入れるための準備……。たとえ今日がどれほど酷い日でも、明日は夢みるような幸福が舞い込むかも知れない。だからこそ、泣き言を並べ立てる暇があるなら、生き延びる努力をすべきだった。死んでしまったら、甘い果実を味わうことも出来ないのだから。
けれど、彼女たちの敵は、自動人形ばかりではない。「貴女たちの気持ちは、とても嬉しいわ。だけど……軍規を乱すことはできない。 軍属である以上、身勝手な行動は許されないのよ」かつては敵対していた者たちが、利害の一致で結びついた、寄せ集め――それが、彼女たちが属する、ドイツ国防軍という名前のみの敗残軍だった。しかし、形骸化したとは言え、軍隊の体面を保つために軍規は定められているし、憲兵だっている。正統な理由のない遅延は、利敵行為と見なされ、処断されかねないのだ。敵の手にかかるにせよ、味方の手で裁かれるにせよ、かけがえのない仲間に危害が及ぶことは、真紅にとって耐え難い苦痛だった。「まずは、次の作戦に専念しましょう。 ワルシャワでの戦闘を終えて、それから引き返してくればいいわ」真紅は、これで良いのだと胸の内で自分に言い聞かせて、決然と顔を上げた。防衛線を固めることこそが、最優先事項なのだから。車内に漂う、不完全燃焼のような空気。真紅以外の誰もが、釈然としない面持ちだった。彼女はそれを無視して、双眼鏡を手に、前方を見据える。しかし、60秒と経たない内に――「ばっかじゃないのぉ?」やおら足元で発せられた嘲りに、真紅が目元から、双眼鏡を離す。声の主は、紅い瞳に鋭い光を宿して、真紅の胸元に掴みかかった。そして、力任せに車長席から引きずり降ろし、ぐいと顔を近付けてきた。
「物わかりのいいフリしてんじゃないわよぉ。未練たらたらのクセに。 なぁに? 私たちに、この戦車は任せられないとでも言うのぉ? 随分と、バカにしてくれるわねぇ」水銀燈の口調は、あくまで氷のように冷静で、波風ひとつ無いように思える。けれど、その場に居合わせた蒼星石には、彼女の激しい気迫が、ひしひしと伝わっていた。気丈な真紅でさえ、水銀燈の剣幕に気圧されて、返す言葉を喉元に詰まらせている。反論しないことが余計に苛立ちを募らせるのか、水銀燈の怒気は衰えなかった。まるで火に油を注いだように、押し殺した低い声で、捲し立てた。「真紅なんか居なくたって、私たちは戦えるわよ。 この戦車を動かし、敵を見付けて、大砲を撃って、どんな敵でも粉砕してみせるわ。 貴女みたいに、うじうじと悩んでる人に指揮される方が、寧ろ迷惑なのよねぇ」「……ご、ごめんなさい」珍しく、おろおろと謝る真紅の瞳を、水銀燈は蔑みの眼で睨み続けた。そして彼女は、突き飛ばすように、真紅の胸倉を手放した。蹌踉めいて、蒼星石に背中を支えられた真紅の鼻先に、水銀燈の人差し指が突き付けられる。「真紅ぅ……貴女は、もう用済みよ。車長は、蒼星石に任せるからぁ」「で、でも――」「つべこべ言わずに、邪魔者は戦車を降りなさい!」
解ったわね。と念押しした水銀燈は、それっきり、真紅には目もくれなかった。キューポラに上がるとハッチを開いて、身を乗り出し、誰かと話をしていた。あのベジータという青年に、戦車兵の経験がある者の有無を訊ねているのだろう。(ごめんなさい、みんな。そして…………ありがとう、水銀燈)彼女は、不甲斐ない自分を送り出そうとしてくれている。仲間たちの想いを痛いほど感じて、真紅は胸の内で、そっと感謝した。ティーガーⅢのシルエットが遠ざかり、闇に溶け込んでいく。真紅は道の中央に立って、道中の無事を祈りながら見送っていた。彼女の隣に佇んでいるのは、桜田ジュン。水銀燈は、彼を“整備士”兼“装填手”として搭乗させる目論見だったのだが、有能な技術者であるジュンは、槐の工房ですべき事があった。そこで、武器の扱いに長けたベジータが、やむなく選抜されたのだ。「……真紅」呼ぶ声は、月明かりのように柔らかく、どこか儚げだった。彼女に掛けられた声は、ジュンとは別の人物が発したものだ。廃墟の片隅を占めていた闇から進み出てくる、金髪の青年。その後ろには、彼の背後を守るようにして、若い娘が一人、付き従っている。彼女の左眼を飾る紫の眼帯が、夜の中でもヤケに異彩を放っていた。
「よく来てくれた、真紅。それに、桜田くんも……無事に戻ってこられて何よりだ」「先生こそ、無事で良かった。頼まれてた品は、なんとか揃えてきました」「本当に、ご苦労だったね。報告は、あとで聞かせてもらうよ。 さあ、君を待っている人の所に行って、元気な顔を見せてくると良い。 薔薇水晶、他の方たちを、地下壕に案内しておいてくれ」「はい……お父様」ジュンと薔薇水晶は軽く会釈すると、思い思いの方角に立ち去った。残された金髪の青年と真紅は、向かい合って、表情を和らげる。「槐さん……ご無沙汰していたわ」「それは、僕のセリフだよ。 君のお父上が失踪してから、何の連絡もせずに隠れていたことを、許して欲しい」「気にしていないと言えば嘘になるけれど、恨んではいないわ。本当よ。 槐さんにも、よっぽどの理由が有ったのでしょう?」「まあ、ね。とにかく、立ち話も無粋というものだ。中に入ろう」槐に促され、廃墟の狭い入り口から、瓦礫の中に踏み込んだ。崩落した家屋の間を縫って進み、瓦礫の隙間に潜り込んで、やっと地下へと続く隠し階段に着いた。だが、階段を下りても、今度は幾重にも連なる鉄扉が待ちかまえていた。「案内がなければ、辿り着けそうもないわね」真紅の半ば呆れたような感声に、槐の含み笑いが続いた。
「そうでなければ、隠れ家とは呼べないよ」「……まあね。でも、ただ隠れ住むだけの場所にしては、大袈裟すぎない?」「工房も兼ねているからね。研究設備も、あらかた整えた。 僕は今でも、次世代のエネルギー源を開発するため……RM計画を継続しているのだよ」「お父様と貴方が主任となって、進めていた極秘プロジェクトね」槐は歩きながら、無言で頷く。「45年初頭、我が師ローゼンは、ローザミスティカという物質の精錬に成功した。 僕は師と共にRM動力機関のプロトタイプを設計し、作り上げたんだ。 君らが乗ってきたティーガーⅢの動力が、それだよ」「私には『電力を増幅して、より大きな動力を得ている』くらいしか、解らないわ」「それで充分さ。道具を扱う度に、その原理を考える者など居ないだろう?」言って、槐はとある重厚な鉄扉を開き「入りたまえ」と、真紅を促した。彼女が招き入れられた部屋は、どうやら槐の執務室らしかった。膨大な資料や、試作の器具みたいな物で溢れ、服などの生活品が殆ど見当たらなかったからだ。彼は、申し訳程度に置かれた小さなソファを、真紅に勧めた。こくんと頷いた彼女が腰を降ろすのを見届けて、槐が口を開く。「君がここを訪れた理由は、師ローゼンの行方を、僕が知っていると思ったからだろう?」「……ええ。貴方は、お父様の共同研究者だもの。 なにか、本当に些細なことでも構わないから、教えてちょうだい。 お父様は、ローザミスティカの精錬成功の直後、失踪したわ。それは、何故? 人類の未来を支えるだろう功績を、独り占めしたかったから?」
そう訊ねたものの、真紅は、父がそんな下賤な男だとは思っていなかった。きっと、何か考えがあって、RM計画の成果を持ち去ったのだ。でも――――何のために、全人類に宣戦を布告したのかが解らない。 なぜ? 何故? ナゼ?真紅は表情を強張らせて、食い入るように槐を見つめた。対して、槐は「君の期待に応えられるか分からないが――」と、前置くと、執務机の椅子に、深々と身を沈めた。「率直に言うと、師ローゼンの失踪については、僕も詳細を知らない。 ただ、RM計画と対をなすLM計画が、少なからず影響していたとは思う。 なぜなら、LM計画の主任、コリンヌ=フォッセー博士も、師と同時期に姿を消したのだからね」コリンヌ=フォッセーという学者の名には、漠然とだが、聞き覚えがあった。しかし、LM計画については、全くの初耳だった。RMとLM――Recht(右)に対するLink(左)の頭文字を当てたのだろうか。真紅は固唾を呑みこむと、膝を乗り出して、槐の言葉に耳を傾けた。
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