最後の笑顔
天使、それは私にとっては私自身に死を運んでくれる存在のこと。彼らは人じゃないんだから人の悲しみなんて理解することができない。する必要もない、だから無慈悲にも神々しくも私を殺してくれるだろうと思っていた。いつまでも続く辛い闘病生活に疲れていたのは両親なんかじゃなくって本当は私、生きることを放棄していた私はどんな存在よりも弱いのだろう。けれども私のもとには天使じゃなくて優しい堕天使が舞い降りた。白い壁と白い天井に一体感を出したいのか清潔感を出したいのか知らないが白いベッドにシーツに枕、少女の周りは白だらけ。この部屋の白さがまるで病人である少女を拒絶しているかのように目に痛くなるときがある。少女はどこにも自分の居場所なんてない気がした。こうして人工的に命を延ばし続けなければ生きることができない。つまりは誰か人の力を借りなければ生きられないという人間の弱さを顕著に少女は自分を通して見ていた。それと同時に少女は吐き気すらも覚える。どうしてこう人間は万能じゃないのだろう。みんながみんな万能であれば誰も困らず泣くこともないのに。などと考えても仕方ない思考が積もる雪のようになっては麻痺した脳の中で解けていく。解けた思考の部分は膿のように化膿して少女の心を壊し続けた。 「…窓から天使が降りて来ないかな。」別に少女は宗教に入っているというわけではない。都合のいい無神論者を気取っているわけでもない。ただ『そういった類のもの』が居たらいいなと思う程度である。そして彼女は天使に異常に固執していた。人とは思えぬ美貌を持ち、鳥類のような白い翼で何処までも飛んでいける。白い檻の中でずっと生きる彼女が憧れるのも無理はない。今日もまた天使が降りて来ないかと思って窓を開け放しにしていたのだが目にするのは青い空だけ。窓の外に見える景色だけがこのモノクロ調の空間の中で唯一ある色彩でまるで別世界のように思えるほど外は明るい。何もすることもなくなってしまった少女は歌を唄い始める。古い曲なのだが少女はとても気に入っており毎日のように唄っている。実は幼い頃の夢は歌手になることで幼い頃から病院にいる少女はいつか歌手になることを夢見ては声が枯れるほどに唄っていたこともあった。しかしもう彼女は歌手になることなど望んでいなかった。どうせなる前に死んでしまうだろうと勝手に一人で見切りをつけていた。自分を見限っていた。それでも未練がましく歌を唄うのは彼女に残された唯一の自己主張のようなものだったのかもしれないし慣性で唄っているだけなのかもしれない。そんな歌声に魅せられた少女が一人だけいた。魅せられた少女は歌い手の少女の病室の扉を恐る恐る開けて病室に入って来る。突然の来訪者に思わず歌い手の少女は唄うのを中断して魅せられた少女をなぞるように見た。人とは思えないような美貌にちょうど開け放しておいた窓から入り込んだ風に吹かれたその銀色の長髪が一瞬だけ翼のように広がった、その姿を見たとき歌い手の少女は魅せられる少女に、魅せられた少女は天使になった。 「天使……」思わずこぼれ出た自分の言葉すら疑ってしまう。少女は本当に自分のもとに天使が舞い降りたのだと錯覚したのだから。少女が描いていたように窓から舞い降りてきたわけではないのだが少女が描いていた天使像に彼女はとても似ていた。 「ねぇ、歌の続きを聞かせてくれない?」 「え、ええ…」その日、少女の歌に魅せられて白い鳥篭の中に天使が迷い込んできた。それがめぐと水銀燈が出会った頃の話である。それからというもの、水銀燈とめぐはお互いに惹かれ合うかのように急速に近しい間柄となり気の置けない無二の親友となった。水銀燈が病院を去るときにめぐは言い知れぬ不安を抱いていた。このまま水銀燈が退院してしまったらもう今までのように毎日会うことができないかもしれない。折角、自分の天使を見つけたのに…そうなってしまったらどうしたらいいのだろうか。 「また会いに来るわぁ。」そう言って彼女は荷物を持って病院を出て行ってしまった。実はめぐはこのときにもう水銀燈は来ないだろうと思っていた。誰が好き好んで健康なのに毎日のように病院に来て私なんかの相手をするのだろうか。その日のめぐは歌をさっぱり唄わずに無気力な日を過ごした。翌日の朝、病院のゲロのような食事をいつもどおり残して点滴を打って寝そべっているとノックの音がする。とても気怠そうにどうぞとめぐは言った。 「おはよう。」それは水銀燈だった。突然の天使の来訪にめぐは驚いて上半身を起こして出迎える。水銀燈は寝てていいから、と言ってベッド近くのパイプ椅子に座った。 「どうして…今日は学校があるんじゃないの?」 「学校なんてあと一日サボったって平気よぉ。それよりも昨日の夜は寂しかったんじゃないのぉ?」自分の考えていたことが見透かされていたようでめぐは一瞬、ギクリとしたが知らん振りをしてそっぽを向いた。本当は彼女のこの心遣いがとても嬉しかった。めぐにとって初めて自分のことを最優先に考えてくれる人だったから。それからめぐと水銀燈は何をするでもなくただ色々なことを話して時間を潰していた。何故か楽しい時間だけは一陣の風のように過ぎ去るのが早い。もう面会の時間も終わりに近づいていた。 「今日はその、ありがとうね。」 「別にぃ、私が学校サボりたかっただけよぉ。サボって空いた時間をここで過ごしただぁけ。」 「そう?」天使は自分の優しさを隠すように言葉の羽根で自分の顔を隠した。それでもめぐには目の前にいる天使が自分に気をつかわせないように言ったことがわかっている。わかっているのでこんなイジワルをしてしまう。 「ねぇ、じゃあこれから学校をサボるときはいつでも来てね。」 「そうねぇ、気が向いたらまた来てあげるわぁ。」めぐが言ったイジワルですら水銀燈は軽く聞き入れた。そんな彼女を見てめぐは少しだけイジワルしたのを後悔した。名残惜しくしている二人だが別れの時間を告げるかのように茜色の光が二人の間を裂いて窓の外から白い病室へと入って来る。カーテンでも閉めていたらもっと長く居られたのかもしれない、などと下らないことをめぐは考えていた。なんだかんだ言って水銀燈はほぼ毎日のように病室を訪れてくれる。偶にめぐが死んだ振りをして本気で怒ったこともあったけれども。それでも貴重な二人でいられる時間を二人は大切にしていた。ある日、水銀燈が自分がよく唄う歌を探し出して来てくれる。その日は二人で一つのCDプレイヤーを使って一緒に歌を聴いたりしてずっと距離が縮んだようにめぐには思えた。それでも一人でこの白い鳥篭の中にいるとどうしても水銀燈が遠くにいるように感じている。実際に遠くにいるのだがそういう話ではない。水銀燈の幼馴染、真紅ともめぐは交流を持っていた。水銀燈ほどではないにしろ真紅もたびたびめぐの病室を訪れている。そしてそこで文化祭が近いことをめぐは聞かされて詳しいことを真紅から聞き出していた。暫くして水銀燈もやって来る。二人が揃うといつも無音なこの病室も賑やかなものになってしまう。 「真紅ってばいつも貧相よねぇ。背も小さいし胸もまな板だしぃ?」 「そういう貴女は背も高くて少し老けた顔をしていると思うのだわ。」 「何ですってぇ!?このブス!」 「何よ、この年増!」一応言っておくけれども真紅は年増と言っているけれども二人は同年齢です。とまぁこの二人が揃えば話題に事欠くことはなくめぐも病室で楽しめることの一つだった。真紅はいつもくんくん探偵を自宅で見るために先に帰ることが多くその場合はいつもの二人だけで雑談をする時間になるのが常だった。水銀燈が通う学校の文化祭の前日にめぐは薬を打たれてとても体がだるかった。けれども彼女が来るかもしれないと思って起きて待っている。朦朧としている意識の中で白い病室の壁は何も認識できるものもなく意識を繋ぎ止められるものが全くなかったので黒の眠りへと堕ちる。目が覚めた頃はもう面会の時間が終わった頃だった。結局、水銀燈とは何の話も出来ずに終わってしまった。最近、彼女は余り病室に来なくなってしまった。文化祭の準備で彼女も大変なのはめぐには分かっていたけれども大事な天使の心が離れてしまった気がしてならない。ふとベッドの横にある机の上にCDが置いてあるのを見つけた。それとCDのケースの中に手紙が入っている。それを見てめぐは水銀燈が来てくれたのを確信して心の底から安心した。歌の題名を考えると縁起でもないことなのだが彼女はきっとこの題名の意味を知らないのだろう。めぐは何度も水銀燈が書いて行った手紙を読んでは明日を待ち焦がれるかのように再び眠りに就いた。こんな生活が何時までも続くと思っていた。続かなくても、それでもいいと思っていた。両親はアメリカに行けば助かる、などと言っているけれどもめぐには実感が全く沸かないでいた。ただ生きるべくして生きて死ぬるべくして死ぬ、それが生まれてからずっと闘病生活をしていためぐが考えた生き方だった。けれども終わりが近づいているらしい。めぐの左胸は今までよりずっと痛んだ。まるで胸の内側からナイフが突き出されて傷を抉られているかのような痛み。このままだと死ぬのかもしれない。やっとお迎えが来た!そう思っていつもはナースコールをギリギリになるまで押さないでいた。けれどもめぐの右手は既にナースコールに伸びていて呼び出していた。朦朧とした意識の中でめぐは何故?と自分に問いかけていた。今更になって未練が出来たと知り、その未練が彼女であることを悟っためぐは心の中で嘲笑していた。やがて白い病室からまた黒い眠りの中へ入ったときに次に眼が覚めるのは何時だろうと考えめぐの意識は途絶えた。医者の話によると一命は取り留めたらしいがもうこの病院でこの心臓病を治すのは困難だと言われた。それはつまりアメリカに行って移植手術をしろ、と言っているようなものだ。これに我が意を得たと考えたのか父親はめぐに今度こそアメリカへ行く決心をさせようとしている。それでもめぐは水銀燈がここに来てくれる限りこのままこの病院に居座ろうと思っている。いや正確にはずっとここに居たいと思っていた。しかし父親の話によると水銀燈に本当のことを話してしまったらしい。こうなっては自分はここにいられなくなる。水銀燈は優しい、自分のためにめぐが死ぬ覚悟でここに残ることをきっと善しとしないだろうからどうにかしてめぐをアメリカに行かせようとするだろう。どうしようかと考えているうちに控えめなノックの音がめぐの耳に転がり込んだ。はい、と応えると水銀燈が暗い顔をして病室に入って来る。暗くてとても悲しい顔をしている彼女の表情を見てめぐはきっと何かがあったのだろうと感じ取った。今まで見せたことのないぐらい真面目な表情で水銀燈は話しを切り出す。 「聞いて欲しい話があるの。」 「何?」何、と聞いてみたけれども実を言うと水銀燈が言いたいことは殆ど予想がついていた。それでも話を進めるためにめぐは聞き返してしまう。本当は自分が予想している話なんて聞きたくもないのに。水銀燈はわざと悪口を言って自分とめぐの友情を断絶しようとしているのだがそんなことはめぐには分かりきっていたことだった。そんなことをしなくても本当は水銀燈が自分のことを考えて離れようと言っていることは理解できる。自分がそれすらもわからないでいると思われていると腹立たしくも思えたが本当はこのまま強い絆のままで別れるのが水銀燈にとってとても辛いということもわかってしまいめぐも辛くなる。自分が辛い顔をしていると水銀燈も辛くなるだろうとめぐは精一杯やせ我慢をして微笑みを取り繕った。昔から辛いときでも辛くない振りをするのは得意だったから。そこでめぐは気づいてしまった。今の自分は何をしても大切な天使を傷つけてしまう。一緒にいることで傷つけあい表面上だけの付き合いをするなんて耐えられない。だったら一度ここで別れて自分に取り憑く病魔を打ち破り何の心配もない、不安もない、邪魔のされない二人になりたいとめぐは考えた。不意に水銀燈は会話の途中でめぐが眠るベッドに上半身だけをうつ伏せに乗せる。もうここで二人でいられる時間も少ない。厳冬のこの季節では空は暗くカーテンを閉めたとしても時間は誤魔化せない。めぐの白い手は自然と水銀燈の綺麗な銀色の髪に伸びた。本当はめぐは余り水銀燈に触れたくなかった、たまに自分のこの白い手がまるで彼女の生気を吸う死神の手のように見えるから。でも触れられずにはいられない。この手が届く距離に彼女がいるうちにせめて最後に触れたかった。この手が離れたとき、それは彼女がもう届かないところへ行ってしまうとき。 「めぐ、私の将来の夢は決まったわ。いつかあなたを迎えに行く。だからあなたもそれまで絶対に生きていてね。」顔をベッドにうずめたまま水銀燈は鼻声でポツリと言った。顔を見なくても彼女が泣いていることなどめぐにはすぐに分かった。 「ふふ、わかったわ。けれどなるべく早く迎えに来てね?私もその頃には………」めぐが笑ったのは水銀燈を元気付けるためなどではなく、自分もまた泣き出してしまいそうだったからだ。最後の意地だったのかもしれない。ただ水銀燈には自分が悲しんでいる姿なんて見せたくなかっただけだ。けれども言おうとした言葉は無情にも看護師の面会時間終了を告げる声によってめぐの口の中でつっかえてしまった。言いたかったことが言えなかったことは残念だったがこのままの状態でいればめぐと水銀燈はずっと話し込んでいただろう。そう思っていためぐにとっては有難かった。時間をかければかけるほど別れが辛くなる。めぐはベッドの隣の引き出しからCDプレイヤーを取り出し水銀燈の手に直接手渡した。 「再会するときの約束、ちゃんとこれを持って来てね。」 「ええ、必ず行くわ。あなたがどこに行ったとしても、ね。」そうして歌を唄う少女の白い鳥篭の中から一人の天使が出て行った。やがて歌を唄う少女も白い鳥篭から巣立っていくように。とある日本の教会で歌を唄う女性がいた。別にシスターだとか聖歌隊に入っているとかではなくただの一般人で。しかしその歌声に何か人を惹きつけるような魅力があった。教会にいる神父は思わず声をかけてしまう。 「素晴らしい歌声ですね。この辺の方ですか?」 「いいえ、実を言うと少し前に日本に帰って来たばかりなんです。」 「そうですか、私は白崎です。あなたのお名前は?」 「私は…」その頃、銀色の長い髪を風になびかせて急ぎ足で歩くもう一人の女性の姿が見える。大学生になった水銀燈だった。学校帰りに自分の義理の父親である槐の用事を済ませに教会へ赴く。教会の神父と彼は親しい間柄らしく偶に神父が家を訪ねに来ることもあった。何でも今回は十字架を忘れて行ってしまったらしい。仕方が無いので教会に近い大学に通っている自分がそれを届けに行くハメになったのだ。 (あれから色々とあったわねぇ…)槐と雪華綺晶に薔薇水晶と一緒に暮らすようになってから水銀燈は何とか無事に卒業することが出来、一浪はしたものの大学生にすらなっている。水銀燈の記憶の欠落は槐のカウンセリングのおかげで徐々に改善されているのだがどうしても思い出せない記憶だけがあった。いつも病室へ行っていたのだがその理由が思い出せないのと自分が持っているCDプレイヤーのことだ。何故か自分の心の中でこのCDプレイヤーと入っていたCDは大事なものであるということだけは覚えておりこれを渡した人物を密かに探していた。まだ青かった夢の中で貰った大切なモノ。とある大学の一室にてヴァイオリンを弾く女性がいた。やや広めの額に緑色の髪をしたその女性の弓と絃が音を紡ぎ出し夢のような旋律を奏でる。それは羽ばたきが谺するように。
演奏が終わり女性は短い吐息を吐いてヴァイオリンを肩から下ろす。聞いていた観衆からわっと歓声が上がった。 「金糸雀先輩また腕を上げたんじゃないですかー?」 「そ、そんなことないかしら。ただ単に練習を続けてるだけよ。」金糸雀は音大ではなく普通の県立大学に進学しそこで音楽系のサークルに入って今でもヴァイオリンを続けている。大学以外でもみっちゃんにせがまれて自宅で弾くこともあるらしくその腕は昔よりも確実に上がっていた。彼女がヴァイオリンを続けるキッカケはやはりあの学園祭であろう。空の高さを知り、初めて空を昇るのではなく飛ぶことを知ったあの舞台。金糸雀は今でもそれを鮮明に思い出すことが出来た。そしてそのキッカケを作ってくれた恩人のことも。『夢の実』は再び実り始めている。胸のスカッとするような爽快な朝日が差し込むアパートの廊下の扉が開きその中から小柄な女性が元気よく出てくる。それを見送りに泣き黒子が特徴的な女性も玄関先まで出て来た。小柄な女性は元気な振りをしているのだがもう一人の女性はとても心配で仕方が無いという不安な表情をしていた。 「それじゃ巴、行ってきますのよ。」 「うん、気をつけてね雛苺。」雛苺と巴は今でも二人で暮らしてはいるようなのだが二人とも和解できたのか偶に実家に帰っては家族と時間を過ごしているらしい。存在しちゃいけない自分を受け入れられるようになって。そして今日は雛苺が実家に一度帰る日だった。雛苺の実家には養父がただ一人でいる。彼女は小さい頃にその養父に虐待を受けていた時期があった。それを救ってくれたのが巴でもあり真紅でもあり水銀燈でもあった。三人のおかげで雛苺はこうして明るい世界で生きていられる。なので正直を言うと雛苺は実家に帰るのを少し怖いと思っていた。けれども虐待をしていた養父にもまだ人の心は残っていたらしく巴と借りているアパートの一室の家賃は他ならぬ養父が払ってくれているのだ。なので全く顔を出さないのも失礼というものだろう。それに養父はもう… 「あの…ただいま……お父様。」暗室のように外の光を遮り電気も点けていない部屋のベッドの上で男は蹲っているように横になっていた。彼こそが雛苺の養父だった。養父は病魔に犯され完全に寝たきり状態になり今ではお手伝いさんがいなければ生活していくことすらままならない状態になってしまっている。雛苺はそんな養父に対して複雑な気持ちを抱いていた。哀れさと恐ろしさと愛しさ、それらの感情が混濁としてこみ上げて来る。もう養父の命は長くないだろう。ならせめてこれからでも毎日顔を見せに行こう、今の養父の状態を見て雛苺はそう決意した。それは同時に今まで忌避していた虐待を受けていた過去の自分と向き合う覚悟を決めた瞬間でもあった。叶わない夢がいつか叶うと信じて。空港で辺りをキョロキョロと見回すとても長い栗毛に緋色と翠色をした綺麗なオッドアイを持つ女性がいる。何か焦っているような待ち切れないような…もうすぐで自分の欲しかった物が手に入る子供に似た挙動をしていた。それもその筈だった、自分の半身のようにすら思っていた可愛がっている双子の妹が今日帰って来るのだ。帰って来ると言ってもこの冬休みの間だけの話で年が明けてしまえば彼女は夢のように去ってしまうだろう。別れは辛いけれどもそれが一時になるか永遠になるかは当人たち次第、お互いに強く会いたいという気持ちさえあれば何時だって会える。距離なんて関係ない、世界は繋がっているのだから。 「ただいま。」 「おかえりなさい。」鏡がそこにあるかのようにお互いの姿をそっくり映した二人が向き合っていた対となる瞳の色も髪の毛の色も本当にそっくりで。 「ちょっと見ねーうちに少し背が伸びたんじゃねぇですか?」 「そうかなぁ?君も大人になったと思うよ。」大人になってしまった姉の姿を見た彼女は予想していたにも関わらず少しだけ寂しい気持ちがしていた。自分も成長したのと同じぐらい姉も成長しているだろうと離れていた数年間ずっと考えていた。姉が変わったことへの嬉しさと都合のいい寂しさが彼女の胸中に渦巻いていた。やや俯いていると姉が彼女の手を取り歩き出す。 「こんなところでボサっとしてないで早く帰るです。おじじとおばばが帰って来るのを楽しみにしてるんですよ?」昔からいつもそうだった。姉は人見知りで怖がりな癖に自分の手を引いてどんどん先へ行ってしまう。本当はそんな姉がいつも羨ましかった。一人でアメリカへ行くのだって姉に拘り続ける自分の呪縛を解き放つためだった。気持ちではわかっているのにこうして姉の手に触れているとここがとても居心地のいい場所であることを実感させられる。自分の感覚が彼女を欲していたということを。 「やっぱり君は変わってないな…」 「ど、どうしたですか蒼星石?」 「ううん、別に。」数年の隔たりのある溝すらも君は越えてしまって僕のところまで来てくれる。それがとても嬉しいだけなんだよ。『夢の終わり』を見た同じ空の下、同じ陸の上で君といられることが。喫茶店でティーカップにその桜色の唇をつけミルクを入れたロイヤルミルクティーを少し口に含む。ミルクのまろやかさと茶葉の豊満な香りが口と喉を通して冷えたお腹にダイレクトに流し込まれる。しかし優雅な雰囲気を醸し出している金髪の女性の胸中は穏やかではなかった。何故なら今日は初めての男性とのデートだからだ。今日この喫茶店で待ち合わせということで何故か女性は1時間前から来てしまっていた。ここへ来るまでに何度も鏡の前で自分のメイクや髪型をチェックもしたし口臭まで気をつけたしお気に入りの香水だって使った。そうすることで自分に自信を持たせようとしたのだがいざその時となると緊張で手に汗をじっとりとかいてしまう。自分らしくない、と女性は自嘲気味に溜息をつくのだがそもそもそれが彼を好きになった理由だった。彼といると普段の自分とは違う自分を引き出してくれる。高飛車でクールを演じていた自分じゃない本当の自分を見つけられた。やがて約束の時間の10分ほど前ぐらいで黒髪の短髪に眼鏡をかけた男がやって来た。女性を見るなり少し意外そうな表情をした。 「あれ、もう来てたのか真紅…」 「私が何時来ようと勝手でしょう。」まぁそれもそうだな、と言って男、ジュンは真紅の向かい側の席に座って二人は向き合う形になる。真紅は直視するのが恥ずかしいのかもう残り少ないのにカップの中の紅茶を飲もうと目を逸らす。ジュンも店員を呼んで自分も何か頼もうとする。 「真紅は何かいらないのか?」 「じゃあ私も紅茶を一杯、それとシフォンケーキを頂戴。」注文を聞いた店員は引っ込み再び二人だけの時間が訪れる。初めてのデートのせいなのか真紅の鼓動はすでに早鐘を打つかのように高らかに鳴り続けている。こういうとき、周りのカップルは一体どんな話をしているのだろうか、などと考えているうちにどんどん無口になってしまい逆にジュンを退屈にさせているのではないかと更に思考の沼に入り込んでしまう。一人で勝手にまいっている真紅の様子を察したのかジュンは大丈夫とでも言いたげに笑いかけた。 「真紅のそういうところって可愛いな。」 「そ、そう?」初めてジュンに可愛いと言われた。今までは高圧な態度で接していたと自覚していたので可愛いなどと言われる機会が全く無かったからだ。真紅はすっかりジュンのペースに持っていかれていた。罠にはまった鳥とかそんなもののように。素直じゃない真紅は決して言わないが今がとても充実していた。幾許の夜、越えし想いが君といる夢に。教会ではまだ黒髪の女性が歌を歌っている。あの後に神父に言われて賛美歌を歌っていたのだった。素人にしてはとても上手く澄んだ歌声は空に昇るかのように教会内にこだましていた。この教会はカトリックではなくプロテスタントだったので華美な装飾はまったくなくそこまで広い場所でもなく木製のベンチとパイプオルガンと銀の十字架だけが置いてあった。平日の昼間なので余り人も来ておらずそこにいたのは黒髪の女性と神父の二人だけだった。賛美歌も歌い終わり一息つくように女性は木製のベンチに腰掛けた。気を利かせた神父がコーヒーを淹れて来て女性に手渡す。 「お聞きしてもいいですか?日本へ帰って来たのは用事で?」 「そんなところです。忘れ物のようなものを取りに来たんです。向こうにいたときも教会とかでよく歌の練習をしていたので同じ感覚で少し借りていたんですけど…」 「そうですか、もしも帰る必要がなかったらうちの聖歌隊に入れたかったんですけどね。忘れ物が見つかるといいですね。」 「ええ…見つかれば最高なんですけどね。」曇った表情をしてやや独り言のように女性は呟く。呟いた後にその忘れ物の一つである歌を歌い出した。昔、まだ自分が白い鳥篭の中で飼われているかのように病院に入院していたころ、あんなつまらない場所なのに、薬の独特の臭いのする場所なのに会いに来てくれた人によく聞かせて欲しいと言われた歌だ。天使のように自分のもとに舞い降りては暖かい優しさでモノクロだった女性の世界に彩りを与えてくれた人。歌の途中で不意に教会の扉が開かれた音がした。振り返ると其処には天使がいた。『夢の失楽園』から舞い降りた堕天使。外界の寒くピリピリ乾燥した空気に晒されながら水銀燈は徐々に教会に近づく。教会に入ればそれなりに暖かいかもしれないと思うと自然と足も速まる。今日は大学生の彼女にとって休日なのでさっさと家に帰って昼寝をしたかったのもあったのだが彼女は教会の静かな雰囲気が結構気に入っていたのだ。休日なのでどこへ行っても人ばかりがいて喧しい外とは違ってあの教会は基本、人の出入りはそんなにないので静かな場所である。その静かな自分の隠れ家でこのお気に入りのCDプレイヤーを聴いていると何故か水銀燈の心は洗われるみたいだった。教会の大きめな両開きの扉の前まで来て水銀燈は我が耳を疑った。自分が持っているCDと同じ曲が聞こえて来るからだ。この歌を知っている人に会ってみたい。ひょっとしたら自分が探しているその人なのかもしれない。目の前の扉をおもちゃ箱を開くかのように心ときめきながら押し開く。温度差のある外と教会内で風のようなものが巻き上がって自分の銀色の髪の毛がフワっと浮いたのがわかった。中にいたのは白崎神父と色白な黒髪の女性二人だけだった。しかも歌っているのは女性一人、一人だけで外に聞こえるほどの声を出していたとわかると水銀燈は仰天した。しかし黒髪の女性はこちらを見て虚を突かれたような表情をしている。白崎神父がこちらに気づいてやって来た。 「おやおや、どうもすみませんでしたね。」 「全くよぉ。大事なロザリオなのに忘れていくなんて貴方本当に神父なのぉ?」水銀燈は悪態をつきながら懐にしまっていたロザリオを白崎神父に手渡した。神父は言い返す言葉もなかったらしく申し訳なさそうな顔をして苦笑していた。黒髪の女性は相変わらず水銀燈を見て呆然としている。黒髪の女性の顔を見ると何故か水銀燈は頭が軽く痛くなり始めていた。教会の木製のベンチに水銀燈と黒髪の女性は腰掛ける。黒髪の女性は複雑そうな顔をして俯いていた。何か自分がいけないことをしたのだろうか、と水銀燈は思いながらCDプレイヤーを取り出してあの曲を聴こうとする。CDプレイヤーを取り出した途端に今度は激しい頭痛がして思わずプレイヤーを石の床に落としてしまった。水銀燈が激しい頭痛のために取り損ねていると黒髪の女性がプレイヤーを拾ってくれた。何故だろうか、水銀燈はこの黒髪の女性を知っている気がする。この人が自分にCDプレイヤーを渡す光景に見覚えがある。頭の中で埋もれてしまった、明るい綺麗な真砂のしたに埋めてしまった宝石のような大事な記憶がフラッシュバックし今の光景と重なる。 「迎えに来てね…」そして何より外で微かに聞こえていたあの美しい歌声…どれもこれもが重なった。水銀燈は黒髪の女性の差し出された手を取る。彼女の匂い、歌声、シルクのような手の感触、艶のある長い黒髪、全部自分の感覚が覚えていた。彼女がいたからこそ私のバラバラになっていた記憶が繋ぎ止められた。彼女を通して世界を感じられた。水銀燈は自分の頭の中に浮かび上がった彼女の名前をのろのろと、優しく紡ぐ。 「め…ぐ?」 「うん。」 「ごめんね、私………うぅん、まず言わなくちゃいけない言葉があったわよねぇ。迎えに来たわよ、めぐ。」 「うん。」お互いの目に涙を浮かべながら二人は手を強く握った。 「それでもう病気は治ったのぉ?」 「一先ずは退院できるまでよくはなったわね。でも完全に治ったわけじゃないからまだ油断しちゃ駄目だって先生に言われているわ。」それでも私が知っていためぐよりも今の彼女の方が肌の色は若干健康的になりやつれ気味だった顔もちゃんと健康的な容姿になっている。白い肌は血色の良さそうなベージュになっておりめぐの言葉が嘘ではないことを証明していた。 「ふーん…日本にはどのくらい滞在するの?」 「3日かなぁ…もともとそんなに長居するつもりはなかったから。本当は日本には完全に治ってから帰って来るつもりだったから今回は休憩みたいなものかな。」 「3日間!?そうなの…じゃあその3日間を………その、一緒に過ごしてもいい?」 「全然いいわよ。でもいつの間にか私よりも貴女の方が寂しがり屋になったみたいね。」イジワルそうに笑って私をからかうめぐを見てまるで昔に戻ったかのような感覚になった。記憶を失くしても感覚が彼女を覚えていたようにこの雰囲気も覚えていたのだろうか?不意に改まった表情になっためぐが私の顔を真剣に見てこう言った。 「ねぇ水銀燈、私たちのこの関係を終わりにしない?」 「え…どうして?」 「これは私なりのけじめなんだけどね。貴女のことを純粋な友達としてみたいの。 前は患者と見舞い人だったじゃない?だから……水銀燈、私と友達になって。」そんなことを言われて、今更私が断ることなんてないのに一々聞いて来るのがめぐらしかった。私も改まった表情になってめぐを見た。 「私も、もう貴女が私の記憶の楔にならなくてもいいように…いいわよぉ、お友達になりましょお。」めぐは今まで私が見せたこともないほどの笑顔で私の手を握った。今までの作ったような笑みじゃなく自然な笑み。今まで色んな人の笑顔や泣き顔や怒り顔を見たけれども、私が見たかった最後の人、その自然な笑顔だった。白い病棟から堕天使が舞い降りたあの日、私は窓を開け放すことはもうしなくなった。もう、天使はいらないよ。あの子が私の天使だったからじゃない。もうあの子のことを天使とは思いたくないから。窓を開け放したってやって来ない天使よりもいつもやって来てくれる彼女のほうが大切に思えたから。きっとこの楽しいときは夢のように果敢なく終わってしまうときが来るかもしれないけれどもまた違う夢をその人と見たいから。夢は一度きりのものじゃない、誰だって何度も夢見ることができるのだから。
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