『貴女のとりこ』 第十七回
『貴女のとりこ』 第十七回地下室への入り口を求めて、屋敷内を探索しはじめて間もなく――二階の廊下を歩いている最中に、薔薇水晶は足を止めた。そこは、彼女の部屋と、雪華綺晶の部屋の、ちょうど中間付近。片側は陽光が降り注ぐ大きな窓で、美しい庭を一望できる。反対側には、大人二人が並んで全身を写せる大きな鏡が、燦々と光を放っていた。「ここ……なんかしら? ヘンな感じがする」「そうか? なんの変哲もない大鏡に見えるけどな。白崎さんは?」「……ふむ。僕にも、桜田くんと同じ物が見えますねぇ」腕組みして、首を傾げる二人を余所に、薔薇水晶は鏡を矯めつ眇めつしている。そして、ふと――「鏡……それに、窓ガラス……まさか、合わせ鏡?」譫言を囁いたかと思った次の瞬間、彼女は鏡にぴったりと額を寄せた。まるで、鏡を潜り抜ければ、別の世界に行けるとでもいうかの様に。突然の奇行に面食らったものの、ジュンと白崎は黙って、彼女の様子を見守っていた。鏡の中の薔薇水晶が、背後に立つ二人に、会心の笑みを送った。「あったわっ! ここに、扉みたいなものがっ!」「本当ですか、お嬢様!?」「論より証拠よ。私と同じようにして見て。ジュンも」「あ、ああ……」薔薇水晶の気迫に圧倒されて、言われるままに、鏡に張り付く二人。そして数秒の後、ほぼ同時に、彼らは首を横に振った。「駄目だ。どう見ても、ただの鏡にしか見えない」「残念ながら、僕にも鏡としか……。マジックミラーの原理を利用した仕掛けが、 施されているのでしょうか?」この屋敷は、建てられた明治初期から幾度か、補修に併せて内装を変えたという。その際に、このマジックミラーを取り付けた可能性はある。施工記録を見れば、すぐに判明するだろう。だが、訊ねたジュンに、白崎は頭を振ってみせた。「僕の知る限り、この鏡に関する記録は、残されていません。 きちんと調べなければ判りませんが、建設当時から設置されたものかと」「だけど……そんな物が、明治の頃に有ったんだろうか?」「マジックミラーなんて言うから、特別な代物みたいに聞こえますが、 原理さえ知っていれば、当時でも調達可能でしたよ」マジックミラーとは和製英語で、本来はハーフミラーと言う。その名のとおり、鏡とガラス、両方の特性を持っている。普通の鏡はガラスに銀を蒸着しているが、ハーフミラーでは水銀を薄膜状に塗っているのだ。「とにかく、調べてみよう! 開けられるかも知れない」ジュンと白崎は、鏡の外縁を調べ始めた。雪華綺晶でも開けられたのだから、壊さずに通り抜けることは可能だろう。きっと、道具は不要。腕力も、大して必要ない筈だ。程なく、鏡をスライドさせることに成功して、50センチほどの隙間を確保した。その奥には、古めかしいアコーディオン式のシャッターが、ひっそりと佇んでいる。「これは驚きました。見取り図では螺旋階段だったのですが―― まさか、エレベーターに改装されていたなんて」「錆びて老朽化したから、変えたんじゃないのか?」「ふむ……桜田くんの言うとおりかも知れませんね」驚いたなどと言っているが、白崎の態度に、動揺は見受けられない。いつもの飄々とした印象を崩さず、隠し扉を潜ると、エレベーターを調べ始めた。続いて入った薔薇水晶が、彼の背に問いかける。「白崎さんでも、いつ施工したのか知らなかったの?」「ええ、お嬢様。鏡の件でも言いましたが、施工記録は残されていません。 古めかしい造りですから、大正時代ぐらいに設置された可能性が高いですね」「とにかく、早く降りてみよう」言って、ジュンが苛立たしげにエレベーターのボタンを押したものの、反応は全くない。緑青の浮いたシャッターを力尽くで開き、縦坑を覗き込むと、階下で停止しているのが、朧気に見えた。「柏葉! 雪華綺晶!」試しに二人の名を呼んでみたが、下からの返事は無い。「降りるにしても、下は暗いようです。 それなりの準備をしてから降りないと、危険ですね。ちょっとお待ちを」そう言うと、白崎は装備を整えるため、足早に階下へと消えていった。工具箱と、大型の懐中電灯を携えて戻った白崎は、再び縦坑の前に立った。「それにしても、奇妙ですね。 最初から今の状態だったのなら、雪華綺晶様も下へは降りられない理屈です。 最後に使った者が動力を切ったならば、この階で停止していなければ、おかしい」「お姉ちゃん達が下に降りた後で、電源にトラブルが起きた可能性は?」「考えられなくもないな。これじゃあ、降りようがない」「お二人とも、ご心配なく。僕が下に行って、電源系を調べてきましょう。 これでもフリークライミングなどの経験がありますので」言うが早いか、白崎は黒い革手袋をはめて、タキシードの上着を脱ぎ捨てた。工具箱から小型のペンライトとドライバーセットを取り出し、ベストの胸ポケットに納める。そして、身軽な仕種で、エレベーターのワイヤーに飛び付いた。「桜田くん。すみませんが、僕が下に降りるまで、ライトで照らしていて下さい」「あ、ああ!」ジュンが持つ懐中電灯に照らし出された縦坑を、白崎は慎重に下っていった。落差十メートル弱とはいえ、滑落したら、ただでは済まない。ひとつ間違えば、首の骨を折ってしまいかねないのだ。上で見守るジュンと薔薇水晶の額にも、冷や汗が滲み出していた。永遠にも思える数分が過ぎた頃、到着を知らせる白崎の声が上がってきた。そして、五分と経たずにエレベーターが唸りをあげ、彼を運んでくる。今もって使用可能な状態であることは、これで証明された。小さく軋んで、静かに停止したエレベーターの中で、白崎は硬い表情をしていた。「下で、見付けました」そう言って、白崎が差し出したモノ――――それは、女性の靴と、ポーチだった。靴は、二足。ジュンの隣で、薔薇水晶が「ひっ!」と息を呑み込んだ。「こ…………この靴……お姉ちゃんのっ!!」「こっちのは、柏葉の靴だ! それに、このポーチも!」ジュンには、直ぐに判った。それは彼女との、思い出の品。彼が、普段の感謝のしるしとして、巴に買ってあげた靴だった。見間違える筈がない。愕然と靴を凝視する二人に、沈痛な面持ちの白崎が、重い口調で報告した。「エレベーターの前に、作動キーと共に投げ捨ててありました。 お嬢様の見た夢は、やはり、現実だったようですね」「……そんな…………ああ、どうしよう……」「落ち着けって。とにかく、僕は白崎さんと下に降りる。 薔薇水晶は、ここに残っているんだ」「そんな……私もっ!」「いいえ。桜田くんの言うとおりにした方がいいでしょう。 下は、暗くて危険ですから」それは言い訳だった。白崎としては、薔薇水晶を同行させたくなかったのだ。何故ならば、凄惨な光景を目の当たりにするかも知れないから。姉の変わり果てた姿を見せずに済むなら、そうさせてあげたかった。先に乗り込んだジュンに続いて、白崎が工具箱を手に、エレベーターに乗る。そこへ、彼らの配慮を完全に無視した薔薇水晶が、飛び乗ってきた。「置いてきぼりなんて、イヤッ! 私も行くったら、行くんだからっ!」こうなると強情な娘であることを熟知している白崎は、苦笑して頭を掻いた。そして、ジュンと顔を見合わせ、困ったように肩を竦めた。「……やれやれ。仕方がありませんね」「それじゃあ、一緒に降りよう」ここで揉めていても埒があかない。三人は一緒に、地下へ降りた。エレベーターが停止するなり、逸る心を抑えきれないジュンは、ライトを手に先行した。前方の床を照らした光芒の中に、白い紙切れが浮かび上がる。駆け寄って見ると、重厚な扉の下から、トイレットペーパーが飛び出している。しかも、何か書いてあるではないか。ジュンは屈み込んで、明かりを向けた。 桜田くん わたし 柏葉巴は あなたのことが 大好きです 今も―― そして これからも ずっと―― あなただけを あいしています 会いたいな 大好きな あなたに きっと また会えるよね そう書いてあった。大切な幼なじみ。大好きな彼女から貰う、初めてのラブレター。ジュンは胸の張り裂けそうな想いに駆られて、扉に縋りつき、開けようとしていた。でも、開かない。押しても引いても、びくともしない。焦れて「なんで開かないんだよ」と毒突き、気付けば、拳を叩き付けていた。「柏葉っ! おい、柏葉っ! 中に居るんだろ? 開けろよ! ここを開けろっ!」彼の、血を吐くような叫びにも、室内からの返答はない。どれだけ怒鳴り、扉を殴っても、内側から叩き返されることは無かった。「お願いだ!! 扉を開けてくれ! 顔を見せてくれよっ!」いつしか、汗とは違う液体が、ジュンの頬を濡らしていた。切望を叶えられない非力な自分に対する、悔恨の涙。あの頃――引きこもっていた自分に呼びかける巴も、こんな心境だったのだろうか。ジュンの胸に残る古傷がズキズキと疼き、激しい痛みへと変わっていった。「頼むよ…………会いたいんだよ…………柏葉に……」泣き叫んだことで、急激に体力を消耗したジュンは、鉄扉の前でへたり込んでしまった。小走りに駆け寄ってきた薔薇水晶が、彼の肩に手を置き、労るように支える。彼らの頭上で、古びた蛍光灯が頼りなげに点滅して、灯った。「地下室の配電盤を調べたところ、ブレーカーが落ちていました。 古い建物ですから、雨が染み込んで、ショートしたのかも知れませんね。 おや? どうしました、桜田くん。具合でも――」「白崎さん! お姉ちゃんと巴ちゃんは、この扉の向こうに閉じこめられてるみたいなの。 だけど……開けられなくって」「本当ですか! ちょっと、見せてください」薔薇水晶に引き離されたジュンと入れ替わりに、白崎が鉄扉の前に陣取る。そして、ベストの内ポケットからペンライトを取り出し、調べ始めた。「……施錠されてますね。なのに、こちら側には鍵穴がない。 この鍵は、内側からしか開けられない仕組みらしいですね」「えっ? じゃあ、もう扉を開けられないの?!」「鍵を開けることは不可能です。 ――が、扉をこじ開けることなら出来るでしょう」白崎は、絶望に表情を暗くした二人を見て、力強く頷いた。工具箱から鑿と金槌を取り出すと、鍵の隣のレンガを、かつかつと鑿で指し示す。「屋敷の基礎部分は、建造当時のレンガ積みですから、鉄筋は入っていない筈です。 鍵が引っかかる部分だけ壊してしまえば、扉を開けられるでしょう」「だったら、白崎さん。僕に――やらせてくれっ! 僕の手で柏葉を救い出したいんだ。お願いしますっ!」「私からも、お願い。ジュンに……ジュンの気の済むように、させてあげて」並んで頭を下げる二人に、白崎は苦笑しつつ、道具を差し出した。「解りました。ですが、無理はしないで。ここは、酸素濃度が薄いようです。 疲れたのなら、いつでも交代しますから」礼を言って、ジュンは白崎の手から道具を受け取り、喜び勇んで壁を壊していった。心に思い浮かべるのは、巴のことだけ。彼女は、暗い闇に閉じこめられていたジュンの心を、救い出してくれた。だから、今度は自分が巴を助け出す番だと、張り切っていた。彼女の、はにかんだ微笑みを見つめたい。華奢な身体を、両腕一杯に包み込んで、壊れるほど強く抱き締めたい。募る想いを金槌に込め、鑿に叩き付けた。(待っててくれ、柏葉。きっと、僕が助けるから)心の片隅では、もしかしたら……という悪い予感が、闇となって沈滞している。こんなに喧しくしているのに、室内からの応答は全くない。それは、つまり――(くそっ! くそっ!)ジュンは、それを打ち消すように、腕を振るい続けた。不安や畏怖を道具にぶつけ、レンガと共に砕いて、取り除いてしまいたかったから。ただ無心に、一個の掘削機械になりはてて、一定の動作を繰り返す。鑿と金槌が、百年以上も前に造られたレンガを穿つ。何十、何百と、その音だけが長く尾を引きながら、虚しく谺し続けていた。そして、遂に……鉄扉の鍵が食い込んでいたレンガ部分は貫通し、室内から、裸電球とおぼしい儚げな光が漏れてきた。「やったっ! やったぞ、柏葉っ!」ジュンは歓声を上げるや、辺り構わず道具を投げ捨て、肩から鉄扉にぶつかっていった。もっと重いだろうという彼の予期に反し、鉄扉は軽々と開く。肩透かしを食って蹌踉めきながら、ジュンは室内に踏み込んだ。「柏葉っ! 柏葉っ! どこだっ!」叫んだ声が、狭い地下室に響きわたる。その余韻が残る空間で、ジュンは“それ”を眼にして、愕然と立ち尽くした。彼に遅れて、鉄扉を潜ってきた二人も、同様。二つの異様なるモノに目を奪われ、言葉を失い、動揺していた。ひとつは、簡易ベッドに横たわる、雪華綺晶。褐色の斑模様に染め上げられたドレスを纏って、彼女は瞼を閉ざしていた。隣には、綺麗に身体のカタチどおり並べられた人骨が、一柱。頭蓋骨だけが、有るべき場所ではなく、雪華綺晶の両腕に抱き締められていた。とても、満足そうに。とても、幸せそうに。微笑みながら、雪華綺晶は永久の眠りに就いていた。そして、もうひとつは――薄汚れた漆喰に、褐色の絵の具で大きく描かれた、写実的な肖像画。モデルは、柏葉巴その人だった。やや斜を向いた顔。人の顔は、右側から見たときと、左側から見たときで、印象が変わるという。何故ならば、完全な左右対称ではないからだ。巴の場合は間違いなく、左の横顔の方が魅力的だった。下がり調子の眉と、穏やかに細められた双眸。目元を飾る、印象的な泣きぼくろ。強張っているようで、弛められているようにも感じられる頬。僅かに開かれた、可愛らしい唇。どこか、モナ・リザを彷彿とさせる構図。憂いを含んだその表情は、見ようによって微笑んでいる風でもあり、また、落涙する寸前を切り取ったかの様でもあった。彼女の背後には、遠近法を応用して、二本の木が描かれている。おそらくは、創世記の記述にある『生命の木』と『知恵の木』なのだろう。楽園を追放された女神が、産まれた場所への帰還を果たした……という表現か。それとも、不死と完全性の代名詞として、描き添えられただけなのか。真意を作者に質すことは、もう出来ない。ひとつだけ確かなことは、この絵が半永久的な生命を持っている――と言うこと。一年を通じて温度や湿度が一定していて、酸素が薄く、紫外線による劣化を受けない地下室は、絵画の保管場所として理想的といえる。この地下室が取り壊されないかぎり、無窮の時を越えて保存され続けることだろう。ラスコー洞窟の壁画が、一万五千年を経てなお現存するように。巴はこの闇で、寂しげに微笑み続けるのだ。人知れず、永遠に――――憑かれたように、三人は絵から目を逸らせずにいた。ジュンと薔薇水晶に至っては、心ここにあらず……といった感じだ。まるで壁の中に広がる絵の世界に、魂を吸い込まれてしまったかの様に、言葉もなく立ち尽くしている。どれほどか経って、やっと、白崎が掠れた声で呟いた。「この状況から察するに……多分、これは雪華綺晶様が仕組んだことなのでしょう。 靴や荷物をここに隠し、柏葉さんを監禁して……」流石に、白崎はその先を言い淀んだが、この状況を目の当たりにすれば、密室で何が行われていたか想像するのは容易い。雪華綺晶のドレスを染めているのは、紛れもなく、乾いた血液の色。彼女が添い寝している人骨は、この場から消え去った、もう一人の娘に相違ない。「あ……ああぁ…………こんな、ことって……」薔薇水晶は両手で顔を覆って、泣き崩れた。ベッドのそばまで歩み寄ったジュンも、変わり果てた巴を見て、立ち尽くしている。間に合わなかった不甲斐なさ。助けられなかった悔恨。ジュンは堪えきれずに肩を震わせ、痛哭した。独り、絵を眺めていた白崎は、ふと、床に転がっている黒い塊を見付けた。それらを幾つか拾い上げて、重い息を吐く。「こんなものを絵筆代わりにして、描いたのですね。そして、絵の具は――」彼の掌には、太さの異なる髪の毛の束が幾つか、載せられていた。例外なく黒髪で、褐色の付着物によって、ガチガチに固まっている。絵筆は、巴の髪。絵の具は、巴の血液。彼女の全てを用いて描かれたこの絵は、正しく、柏葉巴の化身と呼べるだろう。狭い地下室に、ジュンと薔薇水晶の嗚咽が響く。それも、彼らが泣き疲れるに従って、次第に弱まり……やがて、しゃくり上げるだけとなった。訪れた沈黙。耳が痛くなるような静寂。ジュンは、泣きすぎて嗄れた声で、ポツリと言った。「……警察に……報せなきゃな」 ~第十八回に続く~
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。