『貴女のとりこ』 第十六回
『貴女のとりこ』 第十六回午前の眩い陽光に満ちあふれた部屋で、若い二人は向かい合う。けれど、間に漂うのは、甘い雰囲気などではなく、どこか冷めた空気。もごもごと口ごもる薔薇水晶の態度に苛立ちながらも、ジュンは押し黙り、じっと待ち続けていた。桜色の唇が、言葉を紡ぎ出すまで、ずっと――「実は……本当はね、私――」一方の薔薇水晶もまた、葛藤に苦しんでいた。本当のコトを伝えようとする気持ちと、更なる嘘で糊塗しようと企む想いの、板挟み。ジュンは、焦っている。だから、嘘だったと白状したら、きっと怒る。絶対に、嫌われてしまう。――じゃあ、嘘を吐き通した場合は?それも、決して得策とは言えない。嘘を嘘で塗り固めていけば、やがて自分でも真実を見失い、どこかで必ずボロを出してしまうだろう。いずれにしても、破局は遠からず訪れる。どちらの方が、傷が浅くて済むか……それだけの違いだった。だったら、破滅の道を迷わず突き進むのも、また一興。大きな嘘ほどバレにくいのは、歴史が証明しているではないか。既成事実さえ作ってしまえば、あとは噂が独り歩きするのを、待っていればいい。人口に膾炙するうち、尾鰭が付いて、ウソは真実へとすり替えられるのだ。落ちるところまで堕ちて、共に滅ぶのも、ひとつの愛のカタチだろう。 ――そうね――薔薇水晶の琥珀色の瞳に、妖しい炎が灯った。自分と同じくらいの身長しかない、彼。同年の男子にしては小柄なジュンと目線を合わせ、徐に話し始める。「今まで黙っていたけれど、私には不思議な能力があるの」「不思議な能力……だって?」おうむ返しに呟き、ジュンは胡散臭そうな眼を向けた。唐突に言われれば、戸惑うのも当然。が、ジュンは直ぐに理解した。薔薇水晶が、何を言わんとしているのかを。そして、急に憤りを覚えた。巴と雪華綺晶の手懸かりが掴めそうだというから、足を運んだのに……その手段が、よりによって超能力だなんて、馬鹿にするにも程がある。まるで、真剣に探そうとしているジュンをからかい、嘲笑っているかの様ではないか。真相は違うのかも知れないが、彼には、そう感じられた。「おい! なんなんだよ、それは。ふざけてるのか?」語気を強め、詰め寄ったジュンは、腕を伸ばして薔薇水晶の左肩を鷲掴みにした。その一瞬だけはビクリとしたものの、彼女の表情に、怯えや動揺の気配は無い。揺るぎない自信を瞳に湛えて、目の前に立つ少年を、黙って見据えている。ジュンの苛立ちは、彼女の毅然とした態度に呑まれて、急速に萎んでいった。薔薇水晶は、ジュンの顔から険が消えたのを見計らって、穏やかに話しかけた。「もう、落ち着いた? 私の話を聞く気に、なってくれた?」この時、ジュンは完全に、気迫負けしていた。頷くことしか、出来なかった。心の中では馬鹿馬鹿しいと鼻白んでいながらも、耳を傾ける他ない。溺れる者は藁をも掴む。そして、彼の周りを漂う藁は、あまりにも少なすぎた。取捨選択の余地など皆無。僅かな可能性であろうと、貪欲に縋り付くしかなかった。「その……不思議な能力って、なんなんだ?」彼の問いに、薔薇水晶は眼を細め、艶麗に口の両端を吊り上げた。ヒミツを共有すれば、それだけ親密になれる。密かに想いを寄せていた彼を、手玉に取っている爽快感に、薔薇水晶は酔いしれた。薔薇水晶の妖しく濡れた右眼がジュンを射抜き、彼の脊髄に電気を走らせる。「夢の中で、遺失物を探すチカラ―― そう……喩えるなら、道具を使わないダウジングみたいなものかな」「はあ? なんなんだよ、その与太話は」「ホントだよ? 話しても信じてもらえないから、黙っていただけ」ジュンは一笑に付そうとしたが、薔薇水晶の真摯な態度に、続く言葉を呑み込んだ。決まり悪そうに眼鏡のフレームを指で上げ、顎をしゃくって、話の先を促す。薔薇水晶は口を開く代わりに足を踏み出して、ジュンの胸に飛び込んだ。そのまま、狼狽える彼の背に両腕を回して……そっと身体を寄せる。ジュンのワイシャツと、薔薇水晶のネグリジェは、すぐに互いの体温を伝えてきた。「ねえ、ジュン。貴方に、私の鼓動は……伝わってる?」「あ……うん。とっても……ドキドキしてるんだな」「ヒミツを打ち明けるんだもん。ドキドキしちゃうのは……当たり前。 ジュンの心臓も、私と同じくらい早く脈打ってるのが、分かるよ」それは、薄い生地二枚を隔てた向こうにある、ふくよかな感触に興奮を抑えきれないからだ。想像していた以上に柔らかいのに……確かな弾力で、彼の貧弱な胸板を、押し返してくる。巴に寄せるジュンの想いが、どれだけ強く、どれほど純粋だったとしても、年頃の男の子の身体は、悲しいことに反応してしまう。気持ちが上擦って、喉が渇き、思うように声が出せない。密着する部分が、汗ばんできた。「あのね……私の能力って、その時の気持ちに、左右されてしまうの。 強い願望とか、衝動とか……心の昂りによって、感受性を強めることが出来るの」抱き合ったまま囁かれる声が、ジュンの耳をくすぐった。薔薇水晶の体温が熱くなった様に感じるのは、多分、気のせいではない。「こうしているだけでも…………どんどん、感覚が研ぎ澄まされていくわ」「そ、そうなのか」「うん。だ か ら ね」直後、ジュンは頬に、ぬらりとした感触を覚えた。薔薇水晶に舌で舐められたのだと悟ったときには、耳朶を甘噛みされていた。ゾクゾクと身体を震えて、足元から力が抜けていき、かくんと膝が折れる。抱き留められていなかったら、だらしなく腰が砕けて、崩れ落ちていただろう。そして、更なる薔薇水晶の囁きが、彼の脳をシビレさせた。「私と一緒に、寝て欲しいの。素肌で触れ合って、極限まで感受性を高めれば―― お姉ちゃんと巴ちゃんの居場所を、きっと突き止められるわ。 二人を見付けるためならば……私の初めて…………あげてもいい」「お、お、お前なあ。自分が何を言ってるのか、解――」「解ってるから、貴方にお願いしてるの。 こんなこと……ジュンにしか、頼めないよ?」 貴方にしか頼めない。なんと強烈な殺し文句だろうか。薔薇水晶みたいにキュートな女の子に使われたら、男は断れっこない。トランプで言うなら差詰め、ジョーカーのカード。若輩ながら、辛い過去を乗り越えて、精神的に強く成長したジュンですら、それに抗うだけの術を持ち合わせてはいなかった。気付けば、条件反射的に、頚を縦に振ろうとしていた。――が、それより僅かに早く、飄々とした男の声が、二人の間に割り込んだ。「これはまた……随分と、興味深いお話をしておられますねえ」「うおっ?!」「きゃっ!! し、白崎さんっ!?」弾かれるように分かれる二人。壁に背を預けていた執事の青年は、柄にもなく茶目っ気たっぷりにウインクして、部屋の扉に親指を向けた。「そろそろ、お茶のおかわりをお持ちしようと来てみましたら、 ドアが半開きになっていたものでして――失礼ながら、立ち聞きを。 邪魔するわけにもいかず、引き返そうとしたのですがね、 漏れ聞こえたお嬢様の話に、興味をそそられてしまいました」「……どういう事だ?」羞恥のあまり茫然としている薔薇水晶に代わって、ジュンが訊ねた。途端、薄ら笑っていた白崎は口元を引き締め、切れ長の双眸を薔薇水晶に向ける。「なぁに、ちょっとした因縁……と言いましょうか」「因縁? 私に?」てっきり、自分の虚言を揶揄されるものとばかり思っていたのに、白崎の口から仰々しい単語が飛び出したものだから、薔薇水晶はパチクリと眼を瞬かせた。一体、どういうことなのだろう。訳が分からず、彼女はジュンと顔を見合わせてから、執事へと向き直った。白崎は鼻の頭に載せていた眼鏡をかけ直し、ジュンと薔薇水晶にソファを勧めた。そして一礼すると、三人分のティーカップに、持参したハーブティーを注ぐ。焦らしているかのように、ゆっくりとした仕種で。「ねえ、白崎さん。因縁って言うのは、なんなの?」ハーブティーを煎れ終えたのを見計らって、薔薇水晶が白崎を急き立てた。なにやら、自分が槍玉にあげられたみたいで、落ち着かなかったのだ。そわそわと身体を揺する彼女に向けて、白崎は兄のごとく、穏やかに笑いかけた。「そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。怪談の類では、ありませんから。 まあ……そうですね。昔話と思って、聞いて下さい」一旦、白崎はティーカップに口を付け、喉を湿らせた。「お嬢様は―― ご自分の先祖が、明治の頃まで占術を生業としてきたことを、ご存じですか?」薔薇水晶は、即座に首を振った。正しく、寝耳に水。父は一度だって、そんな話をしたことが無かった。あるいは、父ですら知らなかったのか。白崎は、ヒミツを握った人間にありがちな、得意満面の笑みを見せて続けた。「僕は偶然にも、その事実を書き記した文献を、屋敷の書庫で見付けましてね。 詳しく調べてみると、室町時代くらいまで遡れる事が判明したのですよ。 最初は驚きました。自分が仕える主は、そんなにも古い家柄だったのか、とね」「キーワードは……占術師の系統ってところか」ジュンの瞳が、メガネの奥で鋭く光った。口を挟まれても、白崎は不快な表情を浮かべるどころか「ほう?」と、感心したように眉を上げた。「若いだけあって、なかなか察しが良い。僕が因縁と言ったのは、 お嬢様が、不思議な能力について語っていらしたからなのですよ。 件の文献でも、その点に触れているのです」「どんな……風に?」恐る恐るという感じで問う薔薇水晶を、白崎の冷ややかな視線が射竦める。 言い知れない圧迫感に怯えた彼女は、腕を伸ばし、隣に座るジュンの手を握った。「代々、この家の女性は、特異な能力を受け継ぐと記されていました。 その証として、様々な先天性の身体的特徴が現れる、とも。 たとえば、痣があったり、精神的な障害……妄想癖などですね。 雪華綺晶様や、お嬢様の眼も、その証ではないでしょうか?」白崎とジュンの視線が、薔薇水晶に集まった。正確には、彼女の左眼に。薔薇水晶にしてみれば、驚愕以外の何物でもない。ジュンを引き留める為のウソが、蓋を開ければ、真相を当てていたなんて。けれど、単なる思いつきで吐いた嘘でもなかった。学校の屋上や、その後の保健室などで見た奇妙な夢をヒントに、考え出したのだ。あの夢が、真実を映し出していたのだとすると……。「もしかして……あの夢が?!」突如、ハッと息を呑み、両手で鼻と口元を包み込む薔薇水晶。彼女の変化に、ただならぬ雰囲気を感じたジュンが、一斉に身を乗り出した。「何か、思い当たる節でもあるのか、薔薇水晶」「えと……確証はないんだけど……それらしい夢を見た憶えがあったの」「どんなっ!? 思い出せる範囲で構わないから、聞かせてくれ!」意気込んで詰め寄るジュンを、脇から伸ばされた白崎の腕が遮る。「まあまあ、桜田くん。そんなに急かしたら、却って思い出せなくなりますよ」気勢を殺がれて、ジュンは身を引いて、ソファに身を沈めた。代わって、白崎が洗練された優雅な手振りで、薔薇水晶に続きを促す。薔薇水晶は顎に指を当てて、訥々と話し始めた。「えっとね、私が夢で見たのは……どこだか解らない、真っ暗な部屋だったわ。 窓一つなくて息が詰まりそうな、狭い部屋よ。 最初の夢だと、そこで白い長髪の女性が、護摩壇の前で祈祷していたっけ。 それから……次に見た夢は……やっぱり暗い部屋の中だった。 そこで、ベッドみたいな台の上に、女の子が横たわっているのを見たのよ」「女の子だって?! 柏葉だったか!?」「ハッキリとは解らなかったけど…………特徴は、巴ちゃんぽかったかも」「その場所は、どこにあるんだ! よく思い出してくれっ!」「そんなこと言われても……解らないよぉ」鬼気迫る形相で詰め寄るジュンに怯えて、薔薇水晶は涙ぐんで頭を振った。「その場所――」それまで二人のやりとりを黙って話に聞き入っていた白崎が、眼光鋭く、ジュンと薔薇水晶を見回した。「意外と、すぐ近くにあるかも知れませんよ」「白崎さん! まさか、心当たりがあるの?」「ええ。これも、先に述べた文献に記されていたことなのですがね。 この屋敷の地下には、占術のために造られた小部屋が現存するらしいのです」疑わしげな目つきで問い返すジュンに、白崎は理由を説明した。この屋敷が明治の初期に建てられたこと。戦災を免れ、木造部分を僅かに補修しただけで、地下空間が手つかずのまま残されていること。「その小部屋は窓一つなく、通気口もない部屋でしてね。 火を焚けば忽ち、一酸化炭素が充満する仕掛けになっていたのですよ」「それって、一歩間違えたら、死亡事故に繋がるじゃないか!」「ええ。そういう事故も、何度か起きていたらしいですね」「どうして……ご先祖様は、そんな危険を冒したのかしら?」「占いとは、神託。祈祷師がトランス状態に陥って口走る意味不明な言葉を、 神のお告げとして伝える作業です。その小部屋は、一酸化炭素中毒によって、 トランス状態を作り出す舞台装置だった訳ですよ」そう話す白崎の表情には、興奮の色が伺えた。勿論、ジュンも薔薇水晶も、色めき立っている。灯台もと暗しの諺ではないが、もしかしたら――と、期待せずにはいられない。偶然、地下室を見付けてしまった彼女たちが、不慮の事故で閉じこめられた可能性もある。「警察が家宅捜索した時って、地下室は調べなかったわよね、白崎さん」「そもそも、地下の存在に気付いていなかった様子でしたねえ」「っ?! その地下室への入り口って、どこに在るんだっ!」頭に血が上って冷静さを失ったジュンは、白崎の胸ぐらに掴みかかった。焦る彼に、白崎は顔色ひとつ変えずに、淡々と応じた。「残念ながら、僕にも解らないのです」「くそっ! ここまで来て、諦めきれるかっ。三人で手分けして、探そう!」「落ち着いて下さい、桜田くん。焦りは判断を狂わせます。 それに……全くの手懸かりなしじゃあ、ありませんよ。 もし、雪華綺晶様が柏葉さんを連れて地下へ降りたのだとしたら、 彼女は入り口を見付けたことになる。もしくは、最初から知っていたか――」「だとすると……」ジュンは腕組みして、白崎に言った。「この家の女性にしか見破れない仕掛けが、施されているって事も?」「確証はありませんがね」と頷き、白崎は薔薇水晶へと、話を振った。「お嬢様ならば、隠された扉を、発見できるかも知れません」「少しでも可能性があるなら、やってみよう。薔薇水晶っ。頼む! 力を貸してくれっ!」自分に、それだけの力が有るのだろうか? 薔薇水晶は迷った。迷ったが……雪華綺晶を見付けたかったし、ジュンの役にも立ちたかった。だから、彼女は決断して、力強く頷いた。「解った。私――――やってみるっ!」小さな光源が、暗闇の一角を、仄かに明るく照らし出している。時代の移り変わりを物語る、薄汚れた壁の漆喰。その前に、茶褐色の汚れがこびり付いたドレスを纏って立つ娘が、ひとり。窶れた相貌で虚空を見つめる、雪華綺晶だった。「完成しましたわ――」呟いた彼女の左手から滑り落ちた絵筆が、ぴちゃっ……と床に絵の具を飛び散らせる。けれど、雪華綺晶は拾おうともせず、壁に見入っていた。自らの体内に取り込み、苦痛と共に産み出した、女神の姿に。「…………なんて美しいのでしょう」天職を成就した歓喜で、彼女は身を震わせ、金色の瞳から涙を溢れさせていた。人の姿に身を窶した、巴という名の堕天使は、いま――雪華綺晶という名の使徒によって新たな翼を取り戻し、神として再生を果たした。その神々しいまでの美しさは、永遠不滅。最早、時間という略奪者ですら、その輝きを奪うことなど出来ない。老いも、腐敗も、人間が背負わされた如何なる業も、彼女は超越した。巴は正しく、至高の少女へと、変貌を遂げたのである。不意に、唯一の光源だった携帯電話から、電子音が発せられた。もうすぐ、バッテリーが切れる合図。時間ギリギリで、間に合った訳だ。そして、訪れる――――真の闇。人間が本能的に怖れる暗黒も、今の彼女には母の胎内のごとく、心安らかな場所に思えていた。こんなにも穏やかな気持ちになれたのは、久しぶり。いや……もしかしたら、この世に産まれ落ちて、初めての事かも知れなかった。雪華綺晶は、ひゅうひゅうと笑いながら、闇の中を手探りで進んでいく。目指す場所は、簡易ベッド。そこには、彼女の大切な人形が、眠っている。やっと辿り着いた寝床に、彼女は重い身体を、億劫そうに横たえた。この時すでに、雪華綺晶もまた巴と同じく、二酸化炭素にその身を蝕まれつつあった。全身の筋肉が弛緩してゆく。寝返りを打つことすら、気怠い。「少し…………疲れましたわ。一緒に、眠りましょうね……トモエ」言って、雪華綺晶は丸みを帯びた物体を、両腕で抱きかかえる。瞼を閉じて微睡みながら、慈しみを込めて、愛おしんだ。「ふふっ。トモエぇ…………私の、大切なお人形さん。 ……いい子いい子ぉ」 ~第十七回に続く~
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