川の流れは絶えずして
★そして、僕らは交際を始めた。「実はさ、いま、とっても後悔してるんだ」「……何を?」「どうして僕は、もっと早くに、気持ちを伝えなかったんだろうって」「うふふ……そうだね~。ジュンってば奥手なんだもん」――でもね。と、彼女は僕の左胸を、細くしなやかな人差し指でつついた。「それが、あなたの良いところだよっ♪」「……ばか」(こういうのって、なんか照れるな)「えへへっ。私はね、いま……世界で一番、幸せよ」バカップルって呼ばれてもいい。僕は、薔薇水晶が大好きだ。世界中の、誰よりも。★一年後:僕らの幸せに、怪しい影が落ちた。「具合、どうなんだ」「今は平気。ごめんね……心配かけちゃって。ただの……貧血だと思う」「……そっか。この頃、忙しかったもんな。出産の支度とか、いろいろ。 僕がもっとシッカリしてれば、君の苦労を減らしてあげられたのに……ゴメン」「……謝らないで。私なら、大丈夫。きっと……元気な赤ちゃんを産むから」「ありがとう――」こんな時、気の利いた台詞を言えない自分に腹が立った。もうすぐ父親になるっていうのに、僕は――――相変わらず、ダメな奴だ。★三年後:僕らの間に産まれた太陽でも、怪しい影を消せはしなかった。「ママー!!」「こらこら、雪華綺晶。病室では、静かにしなきゃダメだって」「ふふっ。お見舞いに来てくれたの? ありがとね、雪華綺晶」僕と彼女の娘、雪華綺晶は、やたらとママに懐いている。僕の方が、一緒にいる時間はずっと長いのに……なんでだよ?娘の面倒を彼女に任せて、僕は主治医の元に向かった。病状は、思わしくない。彼は、そう宣告した。妻の退院は、まだ先延ばしになりそうだ。ちょっとだけ……寂しい。★五年後:影は徐々に大きくなっていく。「おはよう、薔薇水晶」「おはよ。あれ……雪華綺晶は?」「幼稚園だよ。それより、調子はどうだい?」「いつもよりは…………ちょっとだけ、マシ」「そっか。安心した」「今日は、一緒に居られる?」「ゴメン……これから仕事なんで、もう行かなきゃいけないんだ」「そう――――ガンバってね」寂しげに微笑む彼女に見送られて、僕は病室を後にした。本当は、僕だって彼女の側に居たい。彼女を蝕んでいるのは、脳の病気。だんだんと記憶を失っていくのだと言う。★八年後:僕らは闇に閉ざされていた。「おはよう」「……」「今日も、いい天気だよ」「……」「雪華綺晶も、小学生になったんだ。結構、成績が良いんだぜ。君に似たのかもな」「……」『最後まで、ジュンのこと忘れないから』その約束どおり、薔薇水晶は最後に僕の名を呟いて、記憶を失い尽くした。今の彼女は、ただ呼吸しているだけの、温かい人形。薔薇水晶の澄んだ瞳に、僕の顔が映っている。ははは……なんだよ、間抜けな面してるなあ。僕の頬を伝い落ちた涙が、彼女の頬を打つ。だけど、薔薇水晶は反応してくれない。★十年後:疲れた。僕はもう、生きることに疲れ切っていた。ひと気のない病室で、僕は――「……薔薇水晶。今…………楽にしてあげるよ」そして、お互い、楽になろう。痩せ細った彼女の首に、ロープを巻き付けた。ゆっくり……ゆっくり……締め上げていく。「…………」彼女は顔色ひとつ変えずに、黙って、僕のなすが儘になっている。違うっ! 僕は、こんなコトをしたいんじゃない!これじゃあ、自分が救われたいばかりに、厄介払いしてるだけじゃないか。 あんなに、愛していたのに――堪えきれず、僕はロープを手放し、頭を抱えて泣き喚いた。★十年後の翌日:僕は決断した。「長い間、お世話になりました」車椅子に座らせた薔薇水晶を伴い、僕は病院を後にした。いままで、間違っていたんだ、僕は。大好きな彼女のことを、他人任せにしてきた自分が、信じられない。結婚の約束をした、あの日――僕は、誓ったじゃないか。 ――どんな時でも、一緒に居ると。彼女の看病をするため、僕は会社を辞め、自宅で出来る仕事を始めた。暫くは経済的にキツかったけれど、友人達の協力もあり、なんとか暮らしている。苦しいけれど…………今は家族三人で、幸せだ。★十一年後:この歳になって、初めて気付いた。明けない夜はないってことに。「おはよう、薔薇水晶」「お母様、おはよう。今朝は、私がご飯つくったのよ」僕らが、にこやかに話しかける先で――「……ホン……ト? お……いし……そうね」彼女は、ぎこちなく微笑む。まだ、身体を思い通りには動かせないみたいだ。でも、僕の愛妻は、ゆっくりとだけど記憶を取り戻し始めている。そもそも、記憶って失われないものらしい。脳内の神経ネットワークの繋がりかた次第で、ド忘れしたり、思い出したりするんだってさ。もしかしたら、本当に薔薇水晶を蝕んでいたのは、彼女の寂しさだったのかも知れない。それを癒せる特効薬は、僕だけが持っている。「今日も綺麗だよ、薔薇水晶」娘の前だろうと構わずに、僕は彼女にキスをした。だから、いつも雪華綺晶にからかわれている。でも、愛してる気持ちは…………止められないから。「愛してる」「……アイ……シテル」魔法の言葉を唱えあって、僕たちは再び、唇を重ねる。さあ! 今日も、幸せな一日を始めよう。
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。