『甘い恋より 苦い恋』
『甘い恋より 苦い恋』 あなたが好きなの。とある水曜日。彼と彼女は二人っきりで、放課後の教室に居た。グラウンドで行われている野球部の練習を、彼らは並んで見下ろしていた。何も話さず、ただ……デッサン用の石膏像みたいに。長い長い沈黙を破ったのは、彼女の、硬い声。振り向くと、彼女の銀髪と思い詰めた表情が、黄昏色に染め上げられていた。昼が終わる寸前。夜が始まる瞬間。丁度、あの一瞬の美しさを、一点に凝縮したような――キュッと引き締められていた彼女の唇が、いま一度、言葉を紡ぐ。 私と――――付き合って下さい。普段の猫撫で声とは打って代わって、決然とした口振り。彼は眼鏡の奥で、意外そうに瞼を見開いてから、静かにかぶりを振った。喉にこみ上げてくる苦い汁を、懸命に呑み込みながら。潤んだ紅い瞳が揺らぎ、どうして……と訴えかけている。肩を戦慄かせ、当惑している。ごめんな、とだけ告げて、彼は彼女に背を向けた。泣き顔など見たくない。教室のドアを閉めると同時に、椅子を蹴り、机をひっくり返す音が聞こえたけれど――彼は振り返りもせずに、教室から遠ざかった。彼女は、恋愛の対象ではないのだから。
ある朝、彼の下駄箱の中に、手紙が入っていた。ハート型のシールで封をされた、明らかにソレと判る代物だった。今時、こんな古風な真似をする娘に心当たりがあった彼は、ちょっとだけ周囲に目を配り、人気の無いのを確かめて、封を開ける。淡いピンク色の便箋に、几帳面そうな文字が綴られていた。文章を走り読みして、彼は……ひとつ頷く。やはり、彼女だ。あの、楽器の演奏が大好きな、可愛らしい女の子。 あなたが大好きです。私の彼氏になってほしいかしら。勝負球は、見事なまでのストレート。策士を自称する彼女にしては、珍しい。実は今も、どこかから様子を覗き見ているのかも知れない。彼は便箋を折り目正しく畳んで、封筒に入れた。そして、差出人の下駄箱に、そっと投函する。気持ちは嬉しい。だが、受け取れない想いもあるのが、現実。だから――――これが、残酷な返答。拒絶の証明。彼女もまた、彼にとって恋愛の対象にはなり得ない。
また、ある晴れた土曜の午後。毎週の行動パターンを忠実になぞって、彼は公園のベンチに座り、コンビニで買った菓子パンを囓っていた。姉が部活で不在なので、土曜の昼食は専ら、外食に頼っている。ふと、隣に人の気配。目だけ動かして見ると、長い髪の女の子が両手を後ろに組んで、佇んでいた。緋翠の瞳が美しい、クラスメートの彼女。今日は、双子の妹を従えていない。そのせいか、なんだか所在なさげに、モジモジしていた。 あああ……あの、ですね…………もし良かったら――どもりながら、彼女が声を発したのは、それからタップリ20分は経った頃だった。菓子パンを食べ終えた彼が、ベンチを立って去ろうとした直後のこと。彼女はトマトみたいに赤面しながら、ナプキンで包んだ弁当箱を差し出した。一人分にしては量が多い。一緒に食べないかというお誘いなのだろう。菓子パン程度では腹の足しにならなかったので、彼はありがたく誘いを受けた。 なんなら、毎週つくってやってもいいですよ?食べ終えて、美味かったよと一応のお世辞を告げた彼に、彼女は照れながら言った。けれど、親切の押し売りを嫌う彼は――好きにすりゃいいさ。ぶっきらぼうに答え、彼女を置き去りにした。背後で、悲しそうに目を伏せた娘のことなど、お構いなしに。
たまたま。そう――彼女との遭遇は、本当の偶然だった。放課後、空が茜色に染まる頃。誰も居ないだろうと思って、学校の中庭を通り抜けようとしたとき、庭木の中から出てきた彼女に鉢合わせたのだ。多分、根元の雑草を抜いていたから、草の陰に隠れて見えなかったのだろう。 珍しいね。キミが、こんなところに来るなんて。彼女は、双子の姉とは逆様のオッドアイに笑みを湛えながら、彼に話しかけた。この学校で、彼女を知らぬ者は居ない。器量よしの娘だ。彼女とクラスメートであることを羨む輩もいるが、彼には関係なかった。だって、彼女は同級生。それ以上でも、それ以下でもない。 あのさ……たまには、一緒に帰らない? もうすぐ終わるからさ。土で汚れた手を背に隠し、何かを期待する眼差しで見つめてくる彼女。何故、彼女がそんなにも熱っぽい目で自分を見るのか、彼には解らなかった。理解不能。返答に窮して、ふと下げられた視線の先には――ボタンひとつ分、開かれているブラウスの胸元から、ちらりと見える下着。他の男子生徒ならば、眼の色を変えて凝視するだろう、扇情的な景色だった。暑いから、そうしたのだろうが、多分、彼女は気付いていないのだろう。見えていることに。悪いな。はしたない格好の娘とは、一緒に歩きたくないんだ。言い訳がましく悪態を吐いて、彼は彼女の脇をすり抜け、その場を去った。呼び止めようと伸ばされた彼女の腕に、気付かないまま。
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。