―葉月の頃 その3―
翠×雛の『マターリ歳時記』―葉月の頃 その3― 【8月13日 混家】後編作者名を、じぃ……っと眺めていた蒼星石の唇が、物思わしげに動く。「これって――」そこは、ジュンと巴と、翠星石の時が止まった世界。三人が三人とも、塑像のように固まったまま、続く蒼星石の言葉を待っていた。さながら、裁判長の判決を待つ、被告人といったところか。本心では聞きたくないと思いながらも、彼らは現実逃避――耳を塞ぎもせず、逃げ出しもしなかった。カラーコピーの表紙を眺めながら、蒼星石が口にしたのは――「外人さんが書いたマンガなんだね」途端、硬直していた三人が、詰めていた息を吐き捨て肩を落とす。翠星石は引きつった笑みを貼り付かせつつ、蒼星石の手から冊子をかっさらった。「そそ、そうですぅ。きっと、ジュン達は……えぇっと、そう! 雛苺の参考になればと思って、持ってきたですよ。そ う で す よ ね?」「お?! お、おう」「え? ええ、ええ。勿論、そうよ」いきなり話を振られたにも拘わらず、ジュンも巴も、コクコクと頚を縦に振った。かなり不自然な態度だったのだが、蒼星石は不審に思った風もなく、得心して頷く。雛苺だけが、訳が分からず『?』という顔をしていた。長話をしてボロが出る前に、場所をかえるのが得策というものだろう。翠星石は、コピー本を巴に返すと同時に、雛苺の本を一部ずつと、ジュンのマスコット人形全種もヒョイヒョイと手にして、渡した。「これだけ買っといてやるですぅ。受け取ったら、そろそろ行くですよ、蒼星石。 あんまり商売の邪魔しちゃー悪いですしぃ」「うん、そうだね。いい加減、オディールも探してあげないと」巴が商品を袋に詰めている間に、翠星石はジュンに紙幣を差し出した。お釣りと商品を受け取って、雛苺たちに別れを告げ、その場を後にする。そして、歩くこと数分――蒼星石が、翠星石の肩を掴んで、力強く引っ張った。「あ……姉さん! あそこに金髪の女の子がいるよ」「あれ、オディールですか? 人垣に邪魔されて、後頭部しか見えねぇですぅ」「行ってみれば判るでしょ」「それも、そうです。じゃあ――こうして行くですよ」翠星石は、すっ……と手を伸ばして、蒼星石の手を握った。返事の代わりに、キュッと握り返される手は、温かく、柔らかい。会場の熱気も手伝って、掌は直ぐに汗ばんだけれど、二人は、手を離そうとしなかった。寧ろ、互いの汗がひとつに混ざり合うことに、喜びすら感じていた。前後左右から押し寄せてくる人の流れをかいくぐり、やっと思いで、金髪娘の元まで到達した彼女たちが目にしたのは――「…………セーラームーンのコスプレイヤーさんだったね」(;゚д゚)「…………しかも、男が女装してやがったですぅ」(゚д゚;)この世界は底知れぬカオスなのだと、認識を改めた双子姉妹だった。その後も東館を隈なく回ってみたものの、それらしい人物を発見できなかった。蒼星石いわく、オディールは大人しそうな外見に似合わず行動的との事なので、もう別の場所に移動しているのかも知れない。二人は行き交う人々の中に彼女を捜しつつ、連絡通路を経て、正面ゲートまで戻ってきた。周囲の日陰には、大勢の人間が座り込んでいる。眠っている者。買い漁った同人誌を読んでいる者。携帯電話を耳に当てている者。種々雑多、思い思いの行動を採っているものの、共通して疲労困憊の色が見える。「うわぁ……みんな、疲れ切った顔してるなぁ」「死屍累々ってヤツですかね。この暑さじゃ、無理もねぇですぅ」「そうだよね。ボク達も、ちょっと外で涼んでいこうよ。 館内は蒸し暑くって、汗かいちゃった」「それじゃあ、冷たいジュースでも飲んで、一服するですよ」カフェテリアやラウンジは幾つかあるが、この調子では、どこも満席だろう。だったら、自販機で買った方が早い。照りつける陽光を避けるように日陰を渡り歩き、やっと見付けた自販機で、翠星石がジュースを買おうとした矢先、それは耳に飛び込んできた。「ああ、喉乾いたわねえ。貴女は、なに飲む?」……と、どこか聞き覚えのある声。自販機の陰から、ひょいと顔を覗かせた翠星石の瞳に映ったのは、女性二人組。一人は大学でいろいろと世話になっている講師。そして、彼女の後ろには――探していた人物までが立っていた。「みっちゃんに、オディールっ!?」「あら、翠星石ちゃんも来てたのね。おっ? そっちの彼女が、蒼星石ちゃんね」みっちゃんは自販機から取り出した缶をふたつ、ほいほいとオディールに放り投げ、やおら頸に下げてあったデジカメを手にして、翠星石たちに向けた。「まずは、双子ゲッチュ♪」コスプレ会場は、華やいだ衣装に身を包んだプレイヤー達で溢れ返っていた。現実離れした世界。日常から、かけ離れた幻想空間。片隅に陣取った4人は、賑々しい雰囲気を眺めつつ、ジュースの缶を口元に運ぶ。どれほどか経って……最初に口を開いたのは、蒼星石だった。「……なんて言えば良いのかな。 陳腐な表現しか思い浮かばないけど……ボクね、今とっても感激してる」蒼星石の隣に座っていたみっちゃんが、眼鏡の奥で、興味深そうに瞳を輝かせた。「ふぅん? そりゃまた、どうして」「だってさ、みんな、すごく情熱を傾けている。心から楽しんでるんだもの。 会場全体が、創造する喜びとか、熱意に満ちあふれてる。凄いと思うよ。 こんな風に感じるのは、初めてコミケに来たからなんだろうね」「それは違うなぁ。足を運んだ回数なんて、関係ないわ。 あたしなんか毎回来てるけど、その度に感激してるもの」みっちゃんは一旦、言葉を切って、コスチューム・プレイヤーたちを見遣った。ここを、神々が集いし巨大な社と見るなら、彼ら彼女らは、晴れ着を纏った神官であり、巫女。心の奥底に刷り込まれている原始的な自然信仰の記憶が、心を躍らせるのかも知れない。しかし、その祭典も――――もうすぐ幕を下ろす。翠星石の瞳に映った彼女の眼差しは、どこか夢見るようであり、どこか寂しげでもあった。……が、すぐに気を取り直し、手をひらひらさせながら、気恥ずかしそうに微笑んだ。「まあ、とにかく……お祭りの雰囲気って、ステキよね。 こんなにも胸が躍ることなんて、普段の生活じゃあ、そうそうないから」「あったらあったで、困りもんですぅ。 四六時中、心臓バクバクいわせてたら早死にしちまうですよ」にべもない翠星石の返事に、他の三人は一斉に苦笑した。そんな空気を払拭するかのように、今度はオディールが口を開いた。「実を言うと、私……ちょっと馬鹿にしてたの。ただHな本を売ってるだけでしょって。 でも、違った。それだけじゃあ、ないのよね。 暑苦しくて、汗まみれの腕がくっついたりして気持ち悪くなったりもしたけど、 今ではね……来て良かったって、思ってる」言って、彼女は清々しく笑った。丁度、今日のような青く晴れ渡った空のように。「そよ風が立てる漣に揺られて微睡むのも良いけれど、 時には、津波や渦潮みたいな刺激を嗜むのもいいわ」穏やかな日常と、祭りの華やぎ。ケ(褻)と、ハレ(晴れ)。それは、人類が文明に目覚めた日から連綿と受け継いできた、魂の営み。この雰囲気に身を任せ、一時でも現実を忘れるのが、ある意味、自然な行為だろう。オディールも、祭りを楽しめたようだと解って、蒼星石が安堵の息を吐いた。みっちゃんはジュースを飲み終えると、デジカメに手を遣って、撮影した画像をディスプレイで確かめながら、誰にともなく語り始めた。「あたし……ね。今でこそ大学の講師なんて仕事に就いてるけど、 学生の頃まで服飾関係の方に、すっごく興味もってたのよ。 友達のコスプレ衣装とか、何着か縫ってあげたりもしたっけなぁ」「それで、今でも、こうして?」オディールの問いに、みっちゃんは頚を縦に振る。「詮無いこととは解ってるんだけどねぇ……ついつい、ここに足を運んで、 あの頃の夢を思い返すのよ。服飾関係に進んでたら、今頃どうなってたかなぁって。 そんなパラレルワールドの自分に、想いを馳せてみたり――ね」そう告げたときに、みっちゃんが垣間見せた遠い眼差しは、さっき翠星石が見た、あの寂しげに夢を見つめるような目だった。あの時、ああしていれば――なんて、考えるだけ無駄。実際、そうかも知れない。過去に戻って、人生をやり直すことなど、出来はしないのだから。だが、翠星石は、必ずしも無駄だなんて思わなかった。過去を振り返る……それは、得られた結果に対する考察。それが、これからの人生を、より良く生きていくための指針となる。「みっちゃん。生きるって事は、常に実験の連続なのだと、私は思うです。 一つの動作に、一つの考察。 人は、試行錯誤を繰り返しながら、成長していくですよ。 だから……夢を見つめなおす事は、決して詮無いことじゃねぇです」それを教えてくれたのは、蒼星石だ。彼女が目の前から去り、独りにさせられて、翠星石は色々と考えさせられた。結果、あの頃の自分よりも、色々と変われたと思う。寂しがって泣いてばかりじゃないし、友人達との付き合いも、頻繁になった。ただ単に『慣れ』なのかも知れない。けれど『慣れ』もまた『成長』の証なのだ。「人生の成否なんて、死ぬ寸前にならなきゃ分からねぇですぅ。 記憶のアルバムをひっくり返して、最後に舞い落ちた写真が幸せな思い出だったなら、 きっと、人生という実験に成功したってコトなのですよ」「……ふぅん? なかなか面白い発想ね。レポートだったら最高点を付けてたかも。 あーあ。教え子に諭されるなんて、あたしも年寄りってコトなのかしらん」みっちゃんは溜息を吐きながらも、屈託なく笑って、翠星石の頭を、ぽふぽふと叩いた。「さってと、休憩おーわり。閉会まで、ラストスパートいくわよぉ!」「ええっ? まだ見て回るですか?」「勿論! いろんな衣装を撮影したいしね~」呆れ顔で訊いた翠星石に、みっちゃんは陽気なウインクを返した。「今日は、貴女たちと話が出来てよかった。結構、有意義な時間だったわ。 オディールちゃんにコスプレさせられなかったのが、唯一の心残りだけどぉ」「……それなら、ボクたち三人の集合写真を、撮ってもらえない? オディールのコミケ来場記念に、ね」「なるほど、蒼星石ちゃんナイスアイディア。それじゃあねぇ―― オディールちゃんが真ん中にしゃがんで、二人は後ろに並んで中腰になって。 ……そう、そんな感じ。じゃあ、一枚目いくわよー」足を揃えて腰を降ろしたオディールが、スカートの裾を整え、翠星石と蒼星石は、膝に手を衝いて、肩を寄せ合う。全ての準備が終わったところで、シャッターが切られた。三人が一斉に、ホッ……と、詰めていた息を吐く。「みんな、表情かたいなぁ。もうちょっと笑って。もう一枚いくわよー」みっちゃんの合図で、再び同じポーズをとる。今度は、ちょっとだけ、微笑んで。そして、シャッターが切られる寸前――翠星石の頬に触れる、柔らかな感触。蒼星石にイタズラでキスされたのだと理解するまでに、翠星石は暫しの時間を要した。理解すると、今度は言葉が思い浮かんでこなくなった。耳まで朱に染めて、馬鹿みたいに、口をパクパクさせるだけ。「な、なな……なにしやがるですかっ!」「いいじゃない、記念なんだしさ」やっとの思いで放った声に返される、素っ気ない台詞。その言葉を紡ぎだした唇の主も、頬を上気させて、はにかんでいた。自分の頭上で何が行われたのか判らず、不思議そうに二人を見上げるオディール。そして、みっちゃんは…………デジカメを構えたまま、鼻血を噴き出していた。帰りの電車は、幸いにして空いていた。翠星石を真ん中にして、三人はシートに座った。蒼星石とオディールを隣り合わせにさせない為だったが、そのオディールは、程なく翠星石の肩にもたれ掛かって、寝息を立て始めた。慣れない人混みに揉まれて、疲れたのだろう。かく言う翠星石も、気が緩んで、ウトウトし始めた。と、そこへ――蒼星石の囁きが。「今日は、来て良かったよ。思いがけない収穫もあったし♪」「? それって、雛苺の本のことです? それとも、ジュンの?」「……あのコピー本ってさぁ」「っ?!?! そ、蒼星石……お前、まさか――」「ボクが気付かなかったとでも、思ってたの? うふふ……姉さんの弱み、握っちゃった。みんなにバラしちゃおうかな」「あううぅ――――そ、それだけはぁ――」羞恥のあまり紅潮して、涙ぐんだ姉の顔を、蒼星石は上目遣いに覗き込む。そして、ニッコリと笑いかけた。「じゃあ、当分の間、ボクの頼みを聞いてくれるよね……姉さん♪」「…………好きに……しやがれです」「ふふっ。今度の旅行が楽しみだなぁ」蒼星石は幸せそうに微笑みながら、姉の肩に、頭を預けた。
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