粉雪の舞う、この空の下で……
『粉雪の舞う、この空の下で……』 【一日目】学園の研修寮は、人里離れた山奥の湖畔に建てられていた。周囲五キロほどの湖だが、その全てが学園の敷地なのだから驚かされる。毎年、夏場には運動部の合宿で賑わうらしい。けれど、冬休み真っ最中の今は、スキー教室に参加した生徒以外に人影は無かった。 「よっ……と、ととっ! うぉあっ!」 ズザァ――っ!!ゲレンデの隅でスノボの練習をしていたジュンは、豪快に顔面着地した。想像していたよりも難しい。でも、スキーは去年やったし、どうせならこの機会に体験しておこうと思ったのだ。 「大丈夫ぅ、ジュン?」練習に付き合っていた水銀燈が差し伸べた手を、ジュンは苦笑混じりに握った。空いた手でゴーグルに付いた雪を払い除けると、彼女の黒いスキーウェアが視界に飛び込んできた。黒は女性を美しく見せると何かで聞いた憶えがあるが、実際、水銀燈には黒がよく似合う。 「平気平気。転ぶのは巧くなったし……って、あんま威張れる事じゃないな」 「そぅお? 捻挫とかしてなぁい?」 「ホントに大丈夫だって。持久力が無いだけで、運動神経は鈍くないから」言って、ジュンは少し離れたところでスキーの練習をしている翠星石に目を向けた。蒼星石が付きっ切りで指導しているが、上達の兆しは一向に見られない。転ぶ度に「もう帰るです~」と泣きが入り、蒼星石に宥められては、立ち上がって練習再開。そしてまた真横にスライディングの繰り返しだった。 「それにさ、真紅の滑りを見せられたら、誰だって気が引けるよ」 「確かに、優雅よねぇ。スノボなら私の勝ちなんだけど」ゲレンデの上級者コースを振り仰ぐと、銀世界に一際目立つ赤いウェアの少女が華麗なターンを描いて降りてくるのが見えた。カッコ良すぎる。生半可な力量で併走したら、惨めな晒し物にされるは目に見えていた。その真紅と競う様に併走する、もう一人の上級者……柏葉巴だ。真紅を『剛』とするなら、巴は『柔』彼女もまた、思わず見惚れてしまうほど蠱惑的な滑りを披露していた。その脇を、頂上から直滑降してきたソリが猛然と通過していく。雛苺と金糸雀のタンデムだ。ひょっとして、ボブスレーのつもりか?暴走特急の進路上にはベジータが居た。だが彼は全く気付いていないらしく、避けようとする素振りが見られなかった。 「へっ! 見せつけてくれるじゃねえか、紅嬢。だが、ここからが本当の……」 「の――っ! 金糸雀の傘で空力ブレーキなの――!」 「間に合わないわー! こういう時は、も、モルスァ!! かしらーー!」どごおっ! 「地獄おくりかあぁぁ…………」暴走特急にはねられたベジータは、謎の絶叫を残しゲレンデの彼方へと消えた。雛苺と金糸雀のソリは尚も暴走し、不遇な子羊たちを次々と巻き込んでいく。 「お……鬼か、あいつら。こっちに居て正解だったな」 「そうねぇ。HG先生、今日は商売大繁盛だわぁ」 「歩合じゃないから儲からないけどな。あれ? そう言えば、薔薇水晶は?」ジュンはゲレンデに紫のウェアを探したが、どこにも見当たらなかった。もしや、既に雛苺と金糸雀の処刑列車で、地獄送りに……。大変だ。慌ててゲレンデに走り出そうとしたジュンの肩を、水銀燈の手が引き留めた。 「慌てない慌てなぁい。あの子なら湖に居るからぁ」 「湖? なんで?」 「スケートの方が良いって、行っちゃったのよ」 「独りでかよ? それに、スケートの道具なんか用意してあったっけ?」 湖には対岸まで歩いて渡れるほど分厚い氷が張っているから、氷が割れて冷水に落ちる心配は無いだろう。けれど、あの儚げな薔薇水晶を独りぼっちにさせておくのは、どうにも不安だった。 「やっぱ気掛かりだな。水銀燈、様子……見に行かないか」 「んふふ……優しいのねぇ、ジュンは」水銀燈は、端から心配していないのだろう。普段どおりに落ち着き払っている。考えてみれば、彼女が狼狽えている姿を目にした事は、一度として無かった。それ故に、心強さと頼もしさを感じる。異性は元より同性にも人気があるのは、水銀燈の纏っているお姉さん然とした雰囲気が依存心をくすぐるからだろう。しかし、安堵を覚えたのも束の間。湖上に紫のウェアが見当たらず、ジュンは表情を強張らせた。 「居ないじゃないか。まさか! 氷が割れて湖に落ちたんじゃあ」 「それは無いと思うけどぉ……あ、見ぃ付けたぁ」 「ホントかよ、水銀燈。何処に居るんだ?」 「あれよぉ、見えるでしょう?」水銀燈が指差す先には、小振りな『かまくら』が拵えてあった。あそこに薔薇水晶が? 行ってみるしかないだろう。 「居るのか、薔薇水晶?」氷上に積もった雪に残る足跡を踏みしめて『かまくら』に辿り着いたジュンは、そう呼びかけて中を覗き込んだ。そこには、火鉢に練炭をくべて暖を取りつつ、氷に開けた穴に釣り糸を垂らす薔薇水晶が居た。彼女はジュンに目を向けて、素っ気なく呟いた。 「…………釣れますか?」 「釣ってんのは薔薇水晶だろ! 大体、なんでスキー教室でワカサギ釣ってんだよ! スケートじゃなかったのか」 「……道具なかったから(orz)…………じゃ、釣ってきます」 「あらぁ、楽しそうねぇ薔薇しー」ジュンの肩越しに水銀燈が顔を覗かせた途端、薔薇水晶は何故か頬を染めた。そして、何処から取り出したのか道具一式を二人に差し出した。 「…………いっぺん……釣ってみる?」 「用意がいいのねぇ、薔薇水晶は。お利口ぅさん」 「いや、僕は――」本音を言えば、水銀燈と一緒に居たい。でも、今は特訓を続けようと思った。最終日までに、ゲレンデを転ばずに降りられるようになって、水銀燈と滑りを楽しもうと決めていたから。それに、実際問題、薔薇水晶の視線が先程から刺さって、いたたまれなくなっていた。早く、どっか行け。そんな眼をしている。 「折角だけど。水銀燈は暫く、こっちに居て良いよ。練習なら独りでも出来るしさ」 「そぅお? じゃあ、そうするわぁ。怪我に気を付けてねぇ、ジュン」 「……………………魚を釣らば穴二つ」(氷上に、水銀燈の為の穴を開けている)半ば薔薇水晶に追い払われる形で、ジュンはゲレンデに戻った。ワカサギの天麩羅が一品増えた夜食を終え、温泉を引き込んだ風呂で疲れをほぐした乙女達は、真冬の夜のアバンチュールを愉しんでいた。 「……って、なんで部屋の中にロウソク百本も立ててやがるですか!」 「あらぁ、旅に火遊びは必須でしょぉ? 翠ちゃんってば、お馬ぁ鹿さん」 「心配ないよ、姉さん。ちゃんと消化器も用意してあるから」 「これで…………明るくなったらぅ?【百円札】」 「ば、バカ水晶! なに放火してやがるです! 布団を敷いて寝るですから、 さっさとロウソクをどけやがれですぅ!」 「うるさいわよ、貴女たち。読書に集中できないのだわ、まったく。 大体、冬に百物語だなんて馬鹿げてると思わないのかしら?」 「そうでもないわよぉ。アイスクリームは冬に食べてもおいしいもの。 それに、雪女の伝説は、やはり冬場でないとリアリティないじゃなぁい?」 「水銀燈、それって……寮の管理人さんが教えてくれたヤツかい?」 「ええ。真紅も参加しなさいよ。怖いなら、雛苺や金糸雀と一緒に押入で寝てても良いわよぉ?」 「(#^^)いいわ……くだらないけど、特別に付き合って上げるのだわ」 「ふふ、良い子ね。翠ちゃんは、どうするぅ?」 「うぅ…………そ、蒼星石が心配だから、もう少しだけ起きててやるです!」 「よく出来ましたぁ。それじゃあ、そろそろ始めましょうか。私が最初ねぇ」菓子と飲み物は、一晩語り明かしても充分なくらいの量を確保してある。皆が緊張の面持ちで固唾を呑む中、部屋の照明が消された。 (さぁて。思う存分、震え上がってもらうわよ。怖がりさぁん)水銀燈は景気付けにヤクルトをイッキ飲みして、艶っぽく唇を舐めた。 「たとえば――こんな光景を思い浮かべてみて下さい」 「いひぃ――――っ!!」 「ちょっと、姉さん。キミの悲鳴の方が怖いよ」水銀燈は独り、湯船に優麗な肢体を浸していた。時刻は深夜、草木も眠る丑三つ時。風呂の使用時間は、とっくに過ぎている。けれども、水銀燈には皆と一緒に入浴できない理由があった。真紅たちは今、布団に潜り込んでガクブル状態だ。風呂まで来る心配はないだろう。打撲や痣の治癒に効果覿面と謳う鉱泉の中で、水銀燈は自らの腹部をそっと撫でた。幼い頃に負った傷に、痛みはもう無い。けれど、引き裂かれた心は、如何なる治療を施そうとも決して癒されなかった。 「――めぐ」微かな水音しか流れてこない世界で、水銀燈の囁きは意外なほど大きく聞こえた。めぐ――私の幼なじみ。彼女はもう、この世に居ない。私が、彼女を殺してしまったのだから。 「この傷を抱き続ける事は、きっと……貴女への贖罪なのね」私が奪ってしまった彼女の未来。この傷を見る度に、それが否応なく思い起こされる。あの子は私に訴えかけているのだ。私を忘れないで……と。水銀燈は重くなった気分を振り払う様に、勢い良く立ち上がった。鎖骨の窪みから零れた水滴が、玉となって彼女の肌を流れ、豊かな胸の尖端から落ちる。浴室を出て、更衣室の鏡の前に立ち、水銀燈は鏡像の腹部に視線を注いだ。刻み込まれた傷と手術痕は赤黒く盛り上がり――或いは窪んで――紋様を描きつつある。まるで、人の顔みたい。見詰めていると、めぐの声が聞こえる気がした。 (ワ タ シ ヲ ワ ス レ ナ イ デ) 「忘れる訳ないじゃない、おばかさぁん。貴女はいつも、私と共に生きているわ」淋しげな笑みを口の端に浮かべながら、水銀燈は腹部の傷を何度も撫でていた。風呂上がりのヤクルトを飲みながら部屋に戻る途中で、水銀燈は何気なく外を見遣った。雪が降っていた。湿気たボタ雪ではなく、はらはらと舞う細雪(ささめゆき)だ。この分なら、明日の朝は最高のコンディションで滑れるだろう。ジュンの技量も確実に上がっているし、明日はゲレンデに誘ってみようかしら。 「あらぁ? あれは――」湖の畔に立つ人影がひとつ。目を凝らすまでもなく、水銀燈にはそれがジュンだと分かった。水銀燈はパジャマの上に丹前を羽織り、外に出た。 「頑張っているのね、ジュン」 「水銀燈! ひょっとして、起こしちゃった?」 「いいえ。でも、感心しないわぁ。夜更かしなんて」 「それがさ、ベジータの奴、寝相悪いし歯軋りうるさいしで寝てらんないんだよ。 寝言で『ギャリック・フォォー』とか叫ばれてみな、刺したくなるから」 「最近、テンション高いわよね、彼。蒼星石に告白するとか言ってたしぃ」 「まぁね。だけど、巧くなりたいって思ったのも本音だな。転ばない様になって、 早くゲレンデを滑りたかったんだ。水銀燈と……一緒に」私も同じ事を望んでいた。喉元まで出かけた台詞を、水銀燈は呑み込んだ。想いが通じ合って嬉しい筈なのに、一方で幸福を拒絶する自分が居る。 「もう休んだ方が良いわ。無理して風邪を引いたら、折角の努力も水の泡よ」 「うん。なんとか、眠る努力をしてみるよ」ジュンが言い終えるが早いか、水銀燈は立て続けに二度、くしゃみをした。よく見れば、彼女の美しい髪はしっとりと濡れている。風呂上がりだったのだ。ジュンは水銀燈の肩に積もった雪を払い除けて「戻ろう」と彼女の背を優しく押した。【二日目】朝方の雪は、午後になると吹雪へと代わった。異変に気付いていなかった訳ではない。山の気候を、都会の天気と同じ感覚で捉えていただけだ。その甘えが、二人に遭難という現実を突き付けていた。四方八方、雪と針葉樹林しか見えない。ここは本当に日本かと疑いたくなった。 「参ったな。すっかり方向を見失った」 「ジュン、提案があるのだけど――」発したばかりの言葉は瞬く間に吹き荒ぶ風に押し流されて、会話も繋がらない。水銀燈は焦れて、ジュンの腕を引き寄せた。ボードで風を遮り、彼の耳元で怒鳴る。 「これ以上、下手に動かない方が良いわ。ビバークしましょう」 「ビ、ビバーク?」その言葉を耳にした事は有ったが、では具体的に何をすれば良いのかと訊かれたら、咄嗟に返事が思い浮かばなかった。それでも、現状が最悪に近い事は疑いの余地が無い。ジュンは頷いて、水銀燈と同じ作業に就いた。ボードを利用して積もった雪を掘り下げ、余った雪を周囲に積み上げていく。そんな事を暫く繰り返す内に、二人が入れるだけの窮屈なドームが完成した。ともかく、風さえ凌げれば体感温度はグッと上がる。風下に設けた穴を潜り、ボードを戸板の代わりにした。風避けと目印を兼ねている。二人は膝を抱えて、肩を寄せ合った。だいぶ上達したジュンは昨夜の約束通り、水銀燈を誘ってゲレンデに出た。リフトで上がり、滑り始めは順調だった。だが途中で体勢を崩し、コースアウト。転べば直ぐに止まると思いきや全く減速せず、こんな森の奥まで滑落していた。そして水銀燈も、ジュンを見失うまいと集中するあまり、何処をどう滑ってきたのか判らなくなっていた。 「ごめん。僕が調子に乗ったせいで、こんな事に――」 「気にすることないわぁ。日没までには時間があるし、 吹雪さえ収まれば、みんなも探しに来てくれるわよぉ」 「うん…………そうだね」 「お喋りしながら、気長に待つとしましょう」雑談しながら吹雪の止むのを待っていたが、事態は全く変わらなかった。森の中は既に暗い。照明替わりに点灯させ続けている携帯電話のバックライトで腕時計を確認する。時刻は午後八時を回っていた。さっき、たまたま持っていたチョコレートを水銀燈と分けて食べたので、空腹感はない。喉の渇きも、雪を口にすることで凌いでいた。けれども、寒さだけはどうにもならない。日が暮れて、気温は下がる一方だった。心労のためか、水銀燈も先程から黙り込むことが多くなっている。 「辺りの様子を見てくるよ。この時間なら、部屋の明かりが見えるかも知れない」 「だ、駄目よ! 体力が失われているのに、吹雪の中で迷ったら致命的だわ」薄明かりの中、決然と立ち上がったジュンの手を、水銀燈が力強く握り締めた。流石に剣道部だけあって、握力が強い。それは、どうあってもジュンを引き留めようとする彼女の必死さの表れでもあった。ジュンは笑顔を作って、水銀燈の手を優しく握り返した。 「心配すんなよ。水銀燈を置いて、そんなに遠くまで行かないって」 「駄目よ! 絶対に行っちゃダメ!!」 「我が侭を言うなよ! このままじゃ埒があかないじゃないかっ!」思わずジュンが声を荒げた途端、水銀燈はビクリと肩を震わせた。怯えさせてしまった。ジュンは自分の軽率さを嫌悪した。心細いのは誰だって同じ。水銀燈だって、懸命に堪えているのだ。この状況に彼女を巻き込んだのは自分だというのに、怯える彼女を勇気づけるどころか更に不安がらせてしまうなんて。 (最低な野郎だ、僕は)ジュンは力無く項垂れた。 「ごめん、大声出したりして。だけど僕は、水銀燈を護りたいんだ」 「それなら――」水銀燈は縋るような眼差しを、ジュンに向けていた。救いを求めて鳴き続ける迷子の子犬の様な、儚げな瞳を……。 「私の側に居て。どこにも、いかないで」それで水銀燈の心細さが少しでも和らぐのであれば、幾らでも願うとおりにしよう。ジュンは水銀燈の隣に腰を降ろし、彼女の肩を抱き寄せた。 「私ねぇ…………人を殺したことがあるの」水銀燈が衝撃的な発言をしたのは、ジュンが肩を抱き寄せてから少し経った頃だった。こんな時に、なんで悪い冗談なんか言うのだろう。いや……こんな時だからこそ、か。意識が朦朧として、妄想を生み出しているのかも知れない。だが、喋っている内は眠らずに済む。水銀燈を眠らせない為にも、ジュンは肩を抱く腕に力を込め、耳元に囁いた。 「それって、何時のこと?」 「小学生の頃。めぐって子よ。私とは幼なじみで、大の仲良しだったわ」 「……もし良ければ、続きを聞かせてくれないか」そうね、と水銀燈は弱々しく微笑んだ。学園ではいつも冷静沈着で、誰よりも大人びて見えた女性が、今はとても小さく見える。背だって、彼女の方が高いのに。 「あの時、私達はいつもみたいに……一緒に遊んでいたわ」ふざけ合う子供達は視野狭窄だ。水銀燈とめぐもまた、周りが見えていなかった。いつも渡る横断歩道。信号が赤だと気付かないまま、水銀燈は道路に駆け出していた。急な下り坂を、かなりのスピードで登ってくる乗用車が一台。ドライバーには路面とボンネットが死角となって、小さな二人が見えていなかった。一瞬早く気付いたメグが、水銀燈を庇おうとして道路に飛び出した。 「めぐと私は、車にはねられたわ。そして、私は病院のベッドで彼女の死を 聞かされたのよ。あの子…………即死だったって」水銀燈の頬を、一滴の涙が零れ落ちた。 「そんなの、事故じゃないか。水銀燈が殺した訳じゃない」 「同じよ。私が注意していれば、あの子は轢かれなくて済んだんだもの。 私は、めぐを、単なる肉片に変えてしまった。私なんか……一緒に死ぬべきだったのよ。 ううん、もしかしたら本当は一度、死んだのかも。だって、内臓が破裂していたんだから」 「バカ言うなよ。水銀燈は生きてるじゃないか。めぐって子が庇ってくれたから。 その子が水銀燈に生きていて欲しいと願ったから、奇跡が起きたんだろ?」 「奇跡? ……そう、確かに奇跡ね」涙の跡を残したまま、水銀燈は服の上から傷跡に手を当て、愛おしげに撫でた。 「こうして……移植された、あの子の臓器が、拒絶反応もなく私の内で生きてるなんてね」 「…………」(これは妄想なのか? それとも――) 「んふふ……嘘だと思ってるのね、ジュン」僅かな沈黙からジュンの動揺を見抜いた水銀燈は、徐に立ち上がり―― 「これが……証拠よ」恥じらう様に顔を背けて、自らの腹部に刻み込まれた傷を露わにした。更に人の顔に似てきた不気味な傷が、ジュンを見ていた。成長する傷跡。水銀燈は拒絶反応が無いと言っていたけれど、これこそが拒絶反応ではないのか?めぐの臓器が、水銀燈の外へ出たがっているのだとしたら――そんな事は有り得ない! ジュンは直ぐに、頭に浮かんだ想像を打ち消した。水銀燈を助けようと反射的に飛び出したメグが、そんな事を望む訳がない……と。傷跡の顔が泣いているように見えた。ジュンは立ち上がり、すすり泣く水銀燈を力強く抱き締めた。水銀燈は満ち足りた気持ちで、ジュンの穏やかな寝顔を眺めていた。この男の子は、何故こうも私を癒してくれるのだろう。初めて出会った時から、一緒に居るだけで心地よさを感じていた。日だまりで昼寝をしている様な、温かい感覚。真紅や薔薇水晶との語らいとはまた違う、身体の芯から温かくなる心地よさだった。――それでも僕は、水銀燈を護る。先程のジュンの言葉を思い出して、水銀燈の耳は熱くなった。どうせ死ぬなら、彼には秘密を打ち明けておこう。そんな投げ遣りな気持ちだったのに、今では後悔に変わっていた。もっと早くに話しておくべきだった……と。もしも、全ての人々が失われた自分の半身を探し求める為に、日々を生きているのだとしたら――水銀燈は正に、それを見付けた事になる。何億という砂粒に紛れている、小さな小さなダイヤモンド。今なら、水銀燈は微塵も迷わず言い切る自信があった。――世界で一番、愛してる。水銀燈は、あどけなさの残る少年の頭を――起こさないように気遣いながら――そっと抱き、頬を寄せた。髪の鼻を埋め、ジュンの匂いを胸一杯に吸い込む。たったそれだけの事なのに、胸が張り裂けそうなほどの愛しさが募った。 「好きよ――ジュン♥」囁いて、水銀燈はジュンと――初めて異性と唇を重ねた。少しだけ、チョコレートの味がした。外に何らかの気配を感じて、水銀燈は戦慄が走った。時刻は午後十時。 「ジュン、起きて。何か、物音がするわ」ジュンを揺り起こし、水銀燈は閉ざしたボードの隙間から外の様子を窺った。いつの間にか、吹雪が止んでいる。雪も降っていない。しかし、誰の姿も無かった。 (木の枝から、雪が落ちた音だったのかしらぁ?)不意に、水銀燈は『吹雪の止んだ後には雪女が出る』という、寮の管理人の怪談を思い出した。もしかして、今の物音は――ずぼおっ!!いきなり天井から何かが飛び出してきて、ジュンと水銀燈は思わず絶叫を上げて互いの身体にしがみついた。なんなんだ、一体?まずは深呼吸。そして、冷静になってよく見たら、天井からぶら下がっているのは人の両脚だと判った。二人で脚を引っ張ってみると、続いて全身が落ちてきた。薔薇水晶だった。右手には黒い藁人形が握られている。 「………………呼んだでしょ?」 「呼んでない呼んでない」ジュンと水銀燈は、掌と頚を一斉に、横に振った。薔薇水晶の話では、吹雪が止んだのを見計らって、皆で二人の捜索をしていたのだという。ともあれ、今は生還できる事を素直に喜ぶ二人だった。因みに、薔薇水晶が持っていた藁人形は、銀ちゃんレーダーだと言う。ジュンを探す気は、最初から無かったらしい。【三日目】スキー教室も、今日で最終日。朝から、はらはらと雪が舞う寒い日だった。ジュンは昨日の遭難さわぎで自室謹慎処分となっていたが、独りで部屋にいるのも退屈だったので、大浴場の広い湯船に身体を沈めていた。不意に、扉が開けられる音がした。浴室の掃除だろうか。だとしても、注意されてから上がればいいと思っていたジュンは、聞き覚えのある声に話しかけられて、あまりの意外さに心臓が止まるほど驚いた。 「あぁら、ジュンも入りにきてたのぉ?」そう言うと、水銀燈はジュンに背を向けて、蛇口の前の腰掛けに座った。流れる水音が、浴室に反響している。水銀燈が湯を浴びている。ジュンは誘惑に耐えかねて、そぉ~っと頚を巡らした。だが、近視と湯煙のせいで、よく見えない。水銀燈の肌の白さだけが、ジュンの網膜に焼き付いた。やがて、身体を洗い終えた水銀燈は、臆面もなくジュンの隣に身を沈めた。こう言う場合、女の子の方が大胆なのは何故だろう。水銀燈の唇から流れ出た艶めかしい吐息が、ジュンをドギマギさせた。もしかして、からかわれているのか? 「朝風呂も気持ちいいものねぇ、ジュン?」 「あ、ああ……そうだな」辛うじて、ジュンは掠れた声を発した。何を緊張してるんだよ、僕は。水銀燈の肌なら、昨夜にも見たじゃないか。あの傷跡だって――気まずい沈黙。ジュンは、水銀燈の横顔をチラと見て、口を開いた。 「なあ……この温泉って、あの傷に効き目あるのか?」水銀燈も、ジュンの横顔を一瞥した。二人の視線が、ちょっとだけ触れ合う。 「やっぱり、気になる?」 「水銀燈のことで、気にならない事なんか無いよ」 「即答ねぇ。もう少し、考え込んだりしなさいよ。つまんなぁい」と言いつつも、水銀燈は満更でもなさそうだった。メガネが無くても、この距離なら僅かな表情の変化も判る。水銀燈の頬は上気していた。 「傷が有ろうと無かろうと、僕は構わない。だけど、その傷が 水銀燈を苦しめ続けているなら――」 「いるなら?」 「僕が、思い出に変えてみせるよ。 君が笑って話せるようになるまで、支え続けて見せる」 「…………ジュン♥」水銀燈は嬉しそうに目を細めた。 「護ってくれるならぁ、ずっと側に居てくれなきゃダメよぉ」一理ある。だったら、いつも隣に居る為に、何をすべきだろう?悩むまでもない。実に簡単な事だ。ジュンは決然と顔を上げると、水銀燈の紅い瞳を真っ直ぐに見詰めた。水銀燈も、揺るぎない眼差しでジュンの視線を受け止める。期待している様な彼女の瞳に力を得て、ジュンは勇気を振り絞った。 「水銀燈。僕と、付き合って欲しい!」近視と湯煙のせいで、水銀燈の表情の、細やかな変化は判らない。水銀燈は黙ったまま、ジュンと視線を絡ませるだけだった。長い沈黙…………水銀燈は人を焦らすのが巧い。そして、物事の落とし所を完璧に見抜く目を持っている。くすっ……と、水銀燈は小さく笑った。 「素顔の貴方もステキよぉ、ジュン♥」 「はぁ? それって、どういう意……」ジュンの言葉は、水銀燈の柔らかな唇に塞がれた。相変わらず、しんしんと雪が降り続けていた。湯上がりのヤクルトを飲みながら、俺は、並んで歩く彼女に提案した。 「水銀燈。少し、外に出てみないか?」 「そうね。玄関先くらいなら、梅岡先生もうるさいこと言わないでしょ」長湯が過ぎて、のぼせ気味だった。でも、脚がふらつく理由は……それだけじゃない。幸せ過ぎて、舞い上がっていたからだ。これからは、もっともっと水銀燈と一緒の時間を作りたい。気丈に振る舞う彼女が挫けそうになった時、いつでも支えてあげられるように。水銀燈を護って命を落とした、めぐ。彼女の呪縛は、今も水銀燈の体内で生き続けている。だけど、死者の影は月日と共に薄くなっていくものだ。辛いけど、それが自然の摂理。――めぐ…………俺は水銀燈と共に、君を思い出に変えてみせる。 「あははっ……涼しくて気持ち良いわねぇ」 「ああ。ホントに」両腕を広げて、降りしきる雪の中をくるくると踊る水銀燈。ジュンは、新雪へ仰向けにダイブして大の字にメリ込んだ。のぼせた頬に、冷たい雪の感触が心地よい。突然、胸に鈍い衝撃。水銀燈がふざけて、俺の上に飛び込んできたのだ。さらり……。肩から流れ落ちた彼女の銀髪が、ジュンの頬を撫でた。 (実は、とっても情熱的なんだよな)愛おしさに突き動かされて、ジュンは彼女の華奢な身体を抱き寄せ……。ヤクルト味の口付けを交わした。 粉雪の舞う、この空の下で……ジュンは誓った。 もう絶対に、君を離さない。 終わり
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