―葉月の頃―
翠×雛の『マターリ歳時記』―葉月の頃― 【8月8日 立秋】蒼星石がオディールを連れて帰宅してからは、あっと言う間の二週間だった。祖父は、もうずっと浮かれ気味で、はっちゃけた日々を送っている。娘たちと一緒に料理をする祖母の顔にも、幸せそうな笑みが浮かぶ。今まで口にしなかっただけで、本当は、祖父母も寂しかったのだろう。「若い娘が三人も一緒に暮らしていると、ついハッスルしてしまうのう」「あらあら、お爺さんたら……ほどほどにね」朝食の席で、今日も張り切りモード全開の祖父、元治。翠星石は、穏やかな口調で窘める祖母の額に、ビキビキと筋が浮かんだのを見逃さなかった。隣に座るオディールは、祖父母の会話に耳を傾けながら、翠星石に小声で話しかけた。「楽しいお祖父様たちね。とても賑やかで、素敵な家族だわ」「……年甲斐もなく、はしゃいでるだけですよ。 今夜あたり、血の雨が降りそうですから、レインコートを用意しとくと良いですぅ」この二週間、一緒に暮らしてみて、翠星石のオディールに対する拒否反応にも、免疫が出来つつあった。人見知りの気が強い彼女にしては、早く慣れた方だ。普段なら、臆病な猫のように物陰に隠れて、そぉっと様子を窺う日々が続くのだが、やはり言葉が通じると、女性同士、気心も知れやすいのだろう。幼少の頃は日本に住んでいたと言うだけあって、オディールは日本語が堪能だった。柴崎家に、すんなり打ち解けたのも、言葉の壁が低かったからだ。そもそも性格の悪い娘ではないし、なによりも、蒼星石を慕う気持ちにおいては、柴崎家の面々と相通じるところがある。蒼星石にベッタリなのは相変わらずだが、その点さえ我慢すれば、翠星石としても嫌う理由はなかった。問題があるのは、寧ろ、蒼星石の方だ。帰宅してからと言うもの、何かにつけて他人行儀な振る舞いが目についていた。「さぁて。ハッスルおじじは放っといて、食事を済ませちまうです。 早くしねぇと、雛苺が来ちまうですよ」「えっと……確か、9時の約束だったよね、姉さん」「大変。あと一時間もないじゃない。急がないと」翠星石に促されて、蒼星石とオディールは、炊き立てのご飯を頬張った。朝からお騒がせな娘たちに向ける祖父母の眼差しは、温かく、優しい。約束の時間の五分前に、玄関のチャイムが鳴る。その頃には、三人の娘たちも出発の準備を整えて、玄関前に待機していた。翠星石がドアを開けると、麦わら帽子をかぶった雛苺が、額に汗を浮かべ、立っていた。籐製の小さなバッグを肩に掛けている。「みんな、おはようなの。今日は、すっごく暑いのよ~」「言われなくとも解るです。屋内に居ても、汗が滲み出てくるですから」「翠ちゃんは髪が長すぎるのよ。蒼ちゃんみたいに、バッサリ短くしたら良いのに」「やーですよー。髪は女のイノチ。人形は顔がイノキですぅ」「……姉さん。寒いギャグなんか言ってないで、早く出発しようよ。 車に乗っちゃえば、エアコンが効くから涼しくなるって」蒼星石の冷淡な一言に一刀両断された翠星石は、シュン……と項垂れながら、ガレージのシャッターを開け始めた。乗り込んだ彼女たちを待っていたのは、炎熱地獄。アクリルの屋根で覆われただけのガレージなので、締め切った車内には、真夏の熱気が閉じ込められていたのだ。今日は立秋。暦の上では秋に変わるけれど、暑さは今が真っ盛りである。「熱っ……フロントガラスに断熱シートを広げておかなかったから、 ハンドルが焼けてるですよ。とても握れたもんじゃねぇです」運転席に座った翠星石が「アチチ・アチ」と、郷ひろみの歌の振り付けをする。アシストシートの蒼星石は、苦笑しながら、お茶目な姉に濡れタオルを差し出した。「エアコンが効いてくるまで、暫くは、これを巻いておきなよ」「ありがとですぅ♪ それじゃ、出発するですよ」翠星石はサングラスをかけると、イグニッションキーを回した。一発でエンジンが呻り、送風口から、生暖かい風が吐き出されてくる。走り始めると、薄く開けた窓からも、勢いよく風が吹き込んできた。談笑する双子姉妹のやりとりを、後部座席から眩しげに眺めていたオディールは、「やっぱり仲が良いわね」と、隣に座る雛苺に囁きかけた。「私には姉妹とか兄弟って居ないから、とても羨ましい」「……ヒナも一人っ子なの」窓からの風で涼んでいた雛苺が、オディールの方に頸を巡らす。「だから……なのかな。なんとなぁく、お姉さん然とした人に憧れちゃうのよ」「そうなの? 私は逆ね。しっかり者の妹が欲しかったわ」言って、蒼星石を見つめるオディールの視線は、妙に熱を帯びていた。翠星石の荒っぽい運転に戦々恐々としながら、やっと辿り着いたのは、海――――の側の、プールだった。浜辺のイモを洗う状態を、翠星石が嫌った為である。しかし、プールと言っても、その辺の小学校のプールとは訳が違う。幾つものアトラクションに分かれた、大型レジャープールだった。駐車場に車を置き、受付を通って更衣室に向かう、道すがら――「お爺さんが特別招待券を持ってて、本当にラッキーだったよね」「まったくです。おじじも、たまには役に立つですぅ」「……あんまり、お爺さんのことを悪く言うもんじゃないよ、姉さん」翠星石の毒舌に反応して、蒼星石は表情を固くした。そんな妹の変化に、翠星石が意地の悪い笑みを浮かべる。「へぇ~。随分と、おじじを擁護するですねぇ、蒼星石は」「蒼ちゃんは昔っから、おじいちゃん子だったのよねー」「そうそう。中学生になっても、おじじと一緒にお風呂はいってやがったです。 蒼星石には、乙女の恥じらいってヤツが、足りねぇですよ」「ちょっと! なに言い出すのさ! いい加減にしてよね」蒼星石は顔を真っ赤にして怒鳴ると、ポカ~ンとしている翠星石を余所に、オディールの手を掴んで、足早に歩き始めた。「行こう、オディール」「え……ええ? あの――」二人が去った通路で、翠星石は呆気にとられたまま、ハニワのように立ち尽くすのみだった。水着に着替えて、プールサイドに置かれたデッキチェアに俯せる翠星石は、誰が見ても不機嫌だと解る顔をしていた。ビキニ姿が眩しい彼女をナンパしようと、若い男が何人か近付いたものの、翠星石のひと睨みで、悉くが退散していく。彼女の視線が辿る先には、楽しそうに遊んでいる蒼星石と、オディールの姿。すぐ隣のデッキチェアでは、雛苺がストローでトロピカルジュースを吸い上げつつ、翠星石の様子を見守っている。癇癪を起こしたら、即座に止めるためだ。「うぅ~。蒼星石ったら、なんであんなに怒るですか」雛苺は溜息を吐いて、翠星石の背中に声を掛けた。「さっきのは、翠ちゃんが悪いのよ。調子に乗って、余計なこと言うんだもの」「あんなの、ただの冗談じゃねぇですかっ! 目くじら立てるコトでもねぇですぅ!」翠星石は、ガバッと身体を起こして居住まいを正すと、雛苺に詰め寄……るかと思いきや、膝の上で拳を握って、俯いてしまった。「きっと……蒼星石は、留学して人が変わっちまったのです」「うよ? そんなコトないと思うのよ」「雛苺には分かんねぇです! 家での態度だって、どこか余所余所しくって―― オディールと仲良くなったから、私のことなんか、もうどーでも良くなったのです」「…………あのね、翠ちゃん」 雛苺は身を乗り出して、小刻みに震える翠星石の肩を、優しく叩いた。元気づけるように、そっと――「近くに居すぎるから、盲点になるコトもあるのよ?」目に涙を浮かべ、黙って話を聞いている翠星石に、雛苺は言葉を続けた。「例えば、マンガを目の前まで近付けたら、何が描いてあるのか解らないし、 台詞も読めないでしょ? ヒナはね、人間関係も同じだと思うの。 少し距離を置いて初めて、真実の姿って見えてくるものじゃないかなって」「じ……じゃあ、また離ればなれになれって……言うですか?」指の背で目元を拭う翠星石に、雛苺は「そうじゃないの」と微笑みかけた。少し情緒が不安定になっている彼女を落ち着かせようと、温かい手で、長い髪と……背中を――――滑らかな素肌を撫でる。そして、頃合いを見計らって、穏やかに話しかけた。「距離なら、もう充分に置いたでしょ? その時、翠ちゃんは、どう思ったの? 蒼ちゃんが居なくなって、清々した?」「そっ、そんなワケねぇですっ! どうしようもなく、会いたかったですよ! 空を飛んでいきたいって、何度も思って、何度も……そんな夢を見たですっ」「だったらね……蒼ちゃんも、きっと同じなのよ。 ホントは翠ちゃんに会いたかったし、甘えたいの。 だけど、照れくさいから――変なところで突っ張ってるのよ」雛苺の言葉は、不思議な余韻を伴って、翠星石の胸に染み込んできた。よくよく思い返してみると、余所余所しく見えていた仕草も、裏を返せば、照れくささの現れだったように思えてくる。翠星石は、曇天に一筋の光明を見た気がした。「それが真相なら、私は一体、どうすれば――」「簡単なの。翠ちゃんの想ってることを、言葉にするだけで良いのよ。 人の想いってね、心で温めてるだけじゃ伝わらないの。 だから、人類は文字や言語を産み出し、活用して、理解を深めてきたのよ」「……でもぉ」「大丈夫! 翠ちゃんと蒼ちゃんの想いは、きっと同じなのっ!」元気だすのよっ! と、雛苺は、渋る翠星石の背中をビタンと叩いた。時期的に早すぎる紅葉が、ひとつ……彼女の白い肌に舞い落ちる。「あ痛ぁ……何しやがるです、おバカ苺っ!」「景気付けなのよ。あいとォ!」「いっぱーつっ! ……って、何をやらせるですか」「いいからいいから。頑張って、蒼ちゃんと仲直りしてくるのー」雛苺に背中を押され、気合いを入れてもらったお陰で、翠星石は目が覚めた。悄気て、ウジウジと腐っていては、本当に嫌われてしまう。そんなのはイヤ。だったら、すべき事は、ひとつだけ。でも、どうやって近付けば良いのだろう? 蒼星石は意外に強情っぱりだから、普通に近寄っても、素っ気なく遠ざかる筈だ。どうしたものかと思案しながら歩いていた翠星石は、ウォータースライダーで遊ぶ、オディールと蒼星石の姿を見かけた。「!? この手があったですぅ」これだったら、滑り出してしまえば、否応なく終点で顔を合わせることになる。寸分の躊躇いもなく、翠星石はウォータースライダーの階段を登り始めた。いつもなら、途中で足が竦んで引き返してしまうところだが、今の彼女は怯まない。最愛の妹と絶交状態になってしまう怖れに比べれば、他の事など毛ほども怖くなかった。頂上に立った時でさえ、膝は震えていなかった。「蒼星石……いま、会いにゆくです」一足先に蒼星石が滑り降りていったのを見届け、ぺたりと腰を降ろして、直滑降。――が、予想以上の降下速度に、翠星石は堪らず、悲鳴を上げた。「ひいぃぃぃ――っ!? そそ、蒼星石ぃ――っ!! …………ふぇぇ」「ん? いま、姉さんが――って、えぇっ!」着水直前、翠星石の声を聞いた気がして、蒼星石は水面に頭を出した。彼女の眼に飛び込んできたのは、もの凄いスピードで滑り落ちてくる姉の姿。しかも、どうやら失神しているらしく、身じろぎひとつしない。彼女は即座に、人の間を縫って、翠星石の着水場所まで泳いでいった。豪快に上がった水飛沫とは対照的に、力無く沈んでいく翠星石。水中で姉の身体を抱きかかえると、蒼星石は近くのプールサイドに泳ぎ着いた。そこには既に、バスタオルを手に、雛苺が待ちかまえていた。雛苺の手を借りて、デッキチェアまで運んだものの、翠星石が目を覚ます気配はない。「ど……どうしよう。着水の衝撃で、後頭部とか打ってるんじゃあ――」「落ち着くのよ、蒼ちゃん。こういう時は、アレしかないのっ!」「アレって、なに? 電気ショックとか?」「またまたぁ、ご冗談を。こんな場合には、人工呼吸しかないのよ?」「じっ…………じ ん こ う こ き ゅ う?! ボクがぁ?」「他に誰がするの? ガッツだぜっ、なの!」「…………わ、解ったよ」(ファースト・キスなのに……)蒼星石は、顔ばかりか全身を紅潮させながら、小さく頷いた。まず、頭を仰け反らせて、気道を確保。そして、翠星石の鼻を摘んで……重ねられる、唇。雛苺は、にへら……と笑いながら、二人の様子を、携帯電話のデジカメで撮影していた。程なく、翠星石は何事もなかったかのように目を覚ました。そして、すぐ隣で頬を上気させ、モジモジしている妹の姿を認めると――少し躊躇した後、半身を起こし、意を決して話しかけた。「蒼星石…………さっきは悪かったです。私……ホントは、すごく不安だった。 最近、蒼星石の態度が余所余所しく思えて、とっても寂しかったのです。 それで……構って欲しくて、あんなコトを――」「姉さんは、昔っから寂しがり屋さんだったからね」言って、蒼星石は姉の肩に両腕を回して、ギュッ! としがみついた。「でも――知ってた? ボクも、姉さんに負けないくらい、寂しがりなんだよ。 本当は、弱虫で……そんな自分を変えたくって、外の世界に飛び出したけれど、 やっぱり、ボクは――」「……蒼星石」「ねえ。もう少し、このままで…………居させて?」「ふふっ……とんだ甘えんぼですね、蒼星石は」翠星石は慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、妹の、生乾きの髪を撫でた。「いいですよ。好きなだけ、居ればいいです」「うん。温かいね……姉さんって」居心地よさげに目を細め、蒼星石は幸せな夢想に身を委ねた。やがて、安堵しきった彼女が、健やかな寝息を立て始めるまで、翠星石は溢れる愛情で、ちょっぴり意地っ張りな、鏡写しの自分を包み込んでいた。――あらためて、お帰りなさいです。蒼星石…………大好きですよ。
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