『貴女のとりこ』 第十四回
『貴女のとりこ』 第十四回――どうしたら、巴の美しさを護れるの?――どうすれば、この忌々しい黒い斑紋を、消し去ることが出来るの?雪華綺晶は、親指の爪を前歯で噛みながら、思案に明け暮れた。だが、時の流れに抗う術など、そう簡単に閃くものではない。まして、この質素な空間に在っては……。何らかの防腐処理を施そうにも、それだけの設備や機材すら無いし、有ったとしても、容器に納めてしまっては気軽に触れられない。それは嫌だった。最優先すべきは、穢れの進行を食い止めること。それは解っている。しかし、腐敗を止めるには、どうすれば良いのか。最も安易な発想は、凍らせてしまうこと。でも、冷凍庫など無い。ホルムアルデヒドの溶液に漬ける手もあるが、巴を納める容器は勿論、そんな薬剤すら無い。密閉容器に入れて、窒素ガスを充填する? はっきり言って、ナンセンス。そう……何もかもが、実現不可能な白昼夢。では、どうすれば?このままでは、遠からず…………巴が醜い姿になってしまう。穢れの斑紋が、隙間なく巴の白い肌を埋め尽くして、どす黒く変色させてしまう。内臓の腐敗によって生じたガスが、しなやかな肢体を、ぶよぶよに膨れさせてしまう。「やだっ……ヤダヤダヤダッ!! 巴は、ずっと綺麗なままで居るのっ! 未来永劫、美しいままで存在し続けなきゃダメなのっ!」雪華綺晶は激しく頭を振って、子供のように喚き散らした。けれど、どれだけ駄々を捏ねようとも『時』は止まらない。現実を拒絶する彼女を嘲笑いながら、巴の身体を犯し、蝕み続けている。雪華綺晶の隻眼から溢れた痛恨の涙が、巴の肌を濡らした。もう、どうしようもないの?雪華綺晶に出来そうなことと言えば、現実から目を背けること――つまり、光を捨てて、腐りゆく巴を見ないで生きることだけだった。雪華綺晶は、左眼に、自らの指を宛った。「光を…………捨てる」言い換えれば、視力の放棄。爪で、瞳を……角膜を傷つけてしまえばいい。より確実に、眼球を抉りだしたっていい。この目さえ見えなければ、綺麗な巴の姿は、いつまでも色褪せることなく、美しい記憶として生き続けるのだから。穢れた現実を眼にして、これから負い続けなければならない心の痛みに比べれば、身体の痛みなど、きっと一時的で、瑣末なものでしかない。「巴の美しさを護るためには……それしかないですわ」徐に、指が近付けられる。瞼に触れて、一旦、止まった。けれど、不思議と怖くはない。胸にあるのは、自虐的な性的興奮と、精神的苦痛から逃れられる安堵と歓喜。知らず知らずの内に、彼女の唇は歪んだ笑みを浮かべ、荒い呼吸を放っていた。この目さえ!この目さえ!!この目さえ!!!失ってしまえば!!!!全てが解決すると、勝手に思い込んでいた。目を閉ざしても、腐敗臭は如何ともし難い。醜い現実は終わらない。そもそも、携帯電話の照明さえ切ってしまえば一寸先も見えない闇に包まれて、わざわざ眼を潰す必要など無いというのに――「これしか…………ないっ!」――心身共に疲労困憊した彼女の思考は、完全に硬直していた。再び動き出す、腕と指。先を尖らせた爪が、瞬きを忘れた眼に近付き、瞳に迫る。あと、1センチ…………あと、5ミリ…………。柔らかい角膜に、爪が食い込むまで、あと数ミリ……というところで、やおら発せられた小さな物音が、雪華綺晶の動きを止めた。それは、彼女の臓器が生み出した音。腹の虫と呼ばれる音だった。久しぶりに身体を起こしたことで、胃が刺激を受けたのだろう。雪華綺晶は、締め付けられる様な胃痛と、猛烈な空腹感を覚えていた。(ああ…………また、お水を飲んでこなくっちゃ)眼を潰すのは、それからにしよう。元通りに巴を寝かしつけると、雪華綺晶は携帯電話を手にして、洗面所に赴いた。至る所に錆が浮いた鏡の前の棚に、光源を置く。そして、鉄の味がする生温い水を一口だけ飲み下してから、汗と涙で汚れた顔を洗った。たったそれだけの所作でも、目が覚めて、気分もスッキリした。ふと……雪華綺晶は顔を上げて、古ぼけた鏡を覗き込んだ。下方から照らし出されて、不気味に輝くガラスの向こうに、若い娘が居た。けれど、それは窶れて暗い顔つきの、隻眼の娘ではなく――鏡の中から、こちらの世界を真っ直ぐに覗き込んでいる、無表情の娘。それは紛れもなく、人形と化した巴の顔だった。……ふうぅ……ふうぅ。心なしか、自分の呼吸が、巴の呼吸のように感じられる。急激な脱力感。目が回るような錯覚。膝が折れそうになるのを、あわやと言うところで、洗面台を掴んで耐えた。これは、灰色の脳が見せた幻視? それとも本当に、巴の亡霊?鏡とは本来、祭儀的かつ、呪術的な代物。二枚の鏡を向かい合わせにすると、そこが異界への入り口になると言う。一枚は、目の前の鏡。もう一枚は、自らの瞳。この合わせ鏡が、巴の魂を呼び寄せたのかも知れない。だが、雪華綺晶は、ちっとも怖くなかった。だって…………愛しい巴が、こんなにも近くに居てくれるのだから。「あは…………あはは…………と、もえぇ~♪」雪華綺晶は右腕で身体を支えながら、震える左腕を、鏡に向けて伸ばし始めた。鏡の中で、巴は青ざめた唇を蠢かせて、禍言を囁き始めた。 ねえ、きらきーさん。 わたしのこと、今も愛してくれているわよね? どんな事からも、わたしを護ってくれるのよね?「ええ! ええ! 勿論ですわ。その為ならば、どんな事でも――」雪華綺晶が嬉々として頷くと、鏡の中の巴は、鋭い眼差しで睨み付けてきた。その瞳に宿るは、有無を言わせぬ、魔性の輝き。見る者全ての腕を粟立たせ、射竦め、凍てつかせる、吹雪のような眼光。雪華綺晶は固唾を呑んで、ただただ立ち竦むことしか出来なかった。巴の囁きは、尚も雪華綺晶の鼓膜を掻き分け、脳に食い込んでくる。 だったら、どうして助けてくれないの? 時間という理性の欠片もない存在の手が、わたしの身体をまさぐっている。 わたし、今も陵辱され続けているのよ。 ああ――そっか。 所詮、貴女は口ばかりで、いざとなったら見て見ぬフリしかしない卑怯者なのね。「ち、違いますわっ! 私だって、何とかしたいっ! 巴の美しさを護りたいのよ! でも……どうしても腐敗を止める手段が、思い付かないのですわ!」 そう…………だったら――――鏡の中で、巴がニタリと嗤った。そして、三度、欲望という名の呪詛が囁かれる。巴の幻詞は、エデンの園で善悪の知識の実を食べるようイブを唆した蛇の様に、雪華綺晶の心に巻き付いて、惑わそうとしていた。 貴女に、ヒントをあげるね。「ヒント?」 ええ、そう――貴女を悩ませている難問を解く、決定的なヒントよ。 貴女は難しく考えすぎるから、物事の本質が見えなくなっているだけ。 本当は、と て も 単純で、簡単なことなの。「そ、それは、なんなのっ? 焦らさないで、早く教えてっ!」 雪華綺晶は必死の形相で、鏡に縋り付いた。一刻も早く解答を見出さなければ、巴はガラクタになってしまう。至高の存在が。美しい人形が。ジャンクになってしまう。そうなれば、雪華綺晶の精神もまた、呆気なく崩壊してしまう。「お願い……お願いですからぁ……」わなわなと震える唇から漏れる哀願。巴が、ケタケタと笑う。 言ったでしょ? 難しく考える必要なんて、無いの。 腐ってしまう前に、食べてしまえばいいじゃない。
事も無げに、あっさりと――目眩がするほどの衝撃を受けて、雪華綺晶は言葉を失った。眼を見開き、瞬きすら忘れ、巴の言葉を反芻する。何度も。何度でも。 ねえ…………わたしを食べて?そして、トドメの一言。雪華綺晶は、辛抱堪らず、噴き出した。自らの迂闊さが滑稽すぎたから、笑った。自らの発想の乏しさを思い知らされて、自嘲するしかなかった。「あはははっ! なぁんだ…………こんなにも、簡単な事だったのですね。 問題と呼ぶことすら、烏滸がましいくらいに」腐る前に食べる。実に正論。だけでなく、雪華綺晶にとって、これは聖体拝領に等しかった。それは原始宗教において人身供儀で捧げられた生け贄――即ち、神餐――を、皆で分け合い食らう、血腥い儀式的贄宴。今や、死を以て人身から昇華した巴の聖体は、比類無き聖餐だった。この食物を体内に取り込むことで、霊的に神聖な魂を育む事ができる。巴を食べてしまえば腐敗を止められる。そして、巴の美しさもまた、雪華綺晶の内に宿る。雪華綺晶の中で、巴の記憶は色褪せるどころか、更に美化され続けて、永遠不滅の美神として再生を果たすのだ。有限なる肉体を捨て、俗世との繋がりを絶つことで得られる、究極のカタチ。その聖なる作業を手伝える者は、自分しか居ないのだ。優越感と、喜悦。これに勝る光栄は、他に……無い。いつしか、鏡の中の巴は、雪華綺晶の写し身に戻っていた。或いは、最初から巴など写っていなかったのかも知れない。空腹と衰弱のあまり、幻覚を視ただけ。禁断の果実を食する口実を、探していただけ。大脳基底核で脳の中のワニが目を覚まし、空腹を満たすべく、食欲を刺激する。僅かに残っていた雪華綺晶の理性も、最早、ワニの顎に呑み込まれていた。空腹を満たす術は知っている。ふらり……ふらりと……。巴の亡骸に歩み寄る。そして、彼女の右腕を、両手で捧げ持ち――雪華綺晶は、巴の柔肌に歯を立てた。容赦なく二の腕に噛み付き、弾力を失いつつある皮膚と、筋肉の繊維を食いちぎる。破れた血管から、いまだ凝固していなかった血液が、どろりと流れ出した。咀嚼。口の中に、じゅわり……と、肉汁が溢れ出す。咀嚼。柔らかく、噛むほどに解れていく筋繊維。咀嚼。最初は血の味しか、しなかったのに――ごきゅり……と呑み込む時には、確かな旨味を感じていた。「…………あはぁ♪ んまぁ――い」陶酔と、恍惚。そして、官能。雪華綺晶は舌なめずりをして、巴の肉体に、かぶりついた。人体は、体重の50~60%が水分で、それ以外の30~40%がタンパク質で構成されている。タンパク質は、20種類のアミノ酸が数十~数千個も重合してできた高分子化合物で、炭水化物や脂肪と並ぶ三大栄養素である。体内で合成できる11種のアミノ酸は『可欠アミノ酸』と呼ばれ、体内で合成できない9種類のアミノ酸が『必須アミノ酸』と分類される。このアミノ酸の中に、昆布の旨味成分であるグルタミン酸が含まれているのだ。また、死後硬直に入った時から、アデノシン2リン酸(ATP)が分解した時に発生するイノシン酸(鰹節の旨味成分)も、少しずつ増え始める。俗に、腐りかけの肉が旨いと言われる所以である。故に、雪華綺晶が旨味を感じたのも、決して不自然なことではなかった。しかも、空腹が最高のスパイスとなって、雪華綺晶の本能を衝き動かす。もっと食べたい。もっと食べたい。もっと! もっともっと……!!「あはははははははっ! 巴、ウマーっ! たまんなぁい♪」夢中で、巴を貪る。身も心も満たされていく。なんて幸せな気分。なんて至福のひととき。夢心地。ただ、その一言に尽きた。雪華綺晶を魅了し、虜にしていた巴は、今や雪華綺晶に取り込まれて、彼女の虜となりつつあった。白崎に連れられて帰宅するなり、薬を飲んで眠っていた薔薇水晶は、枕元に置いてあった携帯電話の着信音で目を覚ました。放っておけば、すぐに切れるだろうと無視していたが、コールが五回を越えても、電話は鳴り止まなかった。これでは、おちおち眠っても居られない。留守録設定をしておけば良かったと、つくづく後悔した。「……んもぅ。誰……なの?」折り畳んだ電話機を開くと、ディスプレイには普段から気に掛けている男子生徒の名前。薔薇水晶は慌ててベッドの上に正座すると、通話ボタンを押して、電話を耳に押し当てた。「も……もしもし…………ジュン?」「よう。どんな具合だ、調子は」「……ちょっとだけ、アタマ痛い。でも、だいぶ良くなったよ」「そっか。じゃあ、明日には学校に来られそうだな」嬉しそうな彼の声を聞いて、薔薇水晶の胸が、チクリと痛んだ。本当は、学校なんて行きたくない。明日も、仮病を使って休もうかと思っていたくらいだ。白崎に家庭教師を頼めば、勉強くらい自習できるし。(今の内に、明日も休むことを伝えちゃおう)だが、僅かに早く発せられたジュンの声が、薔薇水晶を遮った。「翠星石たちも、かなり心配してたからさ」「…………あ……う、ん」ジュンの口から他の娘の名が囁かれると、薔薇水晶は何となく、不愉快になった。なんだか、面白くない。イライラしてくる。自分が居ない学校で、ジュンと他の娘たちが仲良くしている様を思い浮かべると、胸がキュウキュウと締め付けられて……。「ね、ねえ…………ジュン。明日、私の家に来てくれない?」「え? ああ。朝、迎えに行けばいいのか?」「そうじゃなくて――――学校を休んで、来て欲しいの」「何いってんだ! そんな事、出来っこないだろ?」ジュンの語気が強まった。バカを言うなと、怒っている。でも、構わない。「あのね、ジュン。実は――」ジュンを独占するためならば……。「お姉ちゃんと、巴ちゃんの手懸かりが、掴めるかも知れないの」ウソだって吐いてやる。「本当なのか、薔薇水晶っ?! だったら、みんなにも教え――」「ううん。そこまでしたら、大騒ぎになっちゃう。取材スタッフとか、ウロウロしてるし。 だからね、誰か一人に手伝って貰おうと思って。 そうしたら、やっぱり男の子の方が、力仕事とか頼めて便利でしょ?」「お前なぁ……僕は雑用係じゃないぞ。でも、まあ、話は解ったよ。 明日の朝、お前ん家に行くからな」「…………ありがと。待ってるから」通話を切って、暫し……薔薇水晶は歓喜に打ち震えていた。(やった。明日は彼が来てくれる。私に会いに来てくれるっ)明日が待ち遠しい。頬が緩み、口元のニヤけを抑えられない。開きっぱなしだった携帯電話は省電力モードに切り替わって、ディスプレイが真っ暗になっていた。そこに写る薔薇水晶の表情は、雪華綺晶の笑顔に瓜二つだった。 ~第15回に続く~
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