―文月の頃 その2―
翠×雛の『マターリ歳時記』―文月の頃 その2― 【7月7日 小暑】暦の上で小暑を迎えて、本格的な暑さに見舞われる時期が訪れたものの、今年の梅雨は未だに明けず、連日、曇天が続いていた。世間では小暑よりも、五節句のひとつ、七夕と呼ぶ方が一般的である。駅構内や、駅ビルの地下街、ショッピング・モールも、七夕一色となっていた。週末の金曜日という事もあって、道行く人の足取りは軽く、どこか楽しげだ。翠星石と雛苺も、午後三時には早々に大学の研究室を後にして、街に繰り出していた。駅前の商店街では毎年、市の協賛で、七夕祭りが盛大に開催されるのである。二人が到着した時には多くの露店が営業を始めており、おいしそうな匂いが風に乗って、彼女たちの鼻先をくすぐっていった。「今年も、様々なイベントが行われてて、活況を呈してるですね」「ヒナはね、子供の頃から、七夕祭りに来ると不死屋のチョコ苺を食べるのが習わしなの」「そう言えば……いっつも買い食いしてやがったです」チョコバナナならぬチョコ苺とは、文字通り、大粒の苺を三つほど串に刺して、カラフルなチョコにダボ漬けした激甘な一品である。駅前商店街の不死屋で、七夕にのみ販売される、レアな菓子だった。「蒼星石は、割と気に入ってやがるですけど、私の口には合わねぇです」味は悪くないが、食べた後に必ず喉が渇くので、翠星石は苦手だった。言いながら、喉に絡み付く甘さを思い出してしまったらしく、うえっ……と舌を出して見せる翠星石。渋面を浮かべる彼女に、雛苺は人差し指を立てて、チッチッと横に振った。「翠ちゃんは子供なのねー。チョコ苺は、違いの解る女のゴールドブレンドなのよ?」「……ワケ解んねぇです。あんな物を、ありがたがって食べる方が子供の証拠ですぅ」翠星石が、雛苺に流し目をくれて、ふふん……と、鼻先で笑う。それを受けて、雛苺もカチンと表情を強張らせ、可愛らしく頬を膨らませた。「ひっどーい。そうやって、すぐヒナのこと子供扱いするんだから!」「怒るのは、図星だからですぅ?」「違うのっ! 大体、翠ちゃんだって毎年、冥路屋のすもも飴を食べてるでしょ!」「チョコ苺ごときと一緒にすんなです。あれは大人の『すうぃーつ』ってヤツです。 水飴の甘さと、すももの酸味が複雑玄妙な味わいを醸し出して……。 そう…………例えるなら、ファーストキスみたいな甘酸っぱさですぅ」頬に手を当てて、はふぅ、と熱っぽく吐息した翠星石をジットリと睨め付けながら、雛苺が小声で「ただの色ボケなのっ」と口走ったから、さあ大変。忽ち、雛苺の頭は翠星石の握り拳に、真横からガッチリと挟み込まれてしまった。雛苺は四肢を振り回して暴れたが、グリグリと締め上げてくるので、逃れられない。「もう遅い! 脱出不可能よッ! 無駄無駄無駄無駄無駄ァ――ッ、ですぅ」「痛たたたたっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいなのぉっ」「謝っても遅ぇです。今日という今日は、きっちり教育してやるですよ」「ひえぇ――ん」徐々に増え始めた人混みを気遣いもせず、じゃれ合う二人。彼女たちの背に呆れた声が掛けられたのは、その直後の事だった。「……お前ら、なにやってんだよ。通行の邪魔になるだろ?」聞き慣れた声に、彼女たちが振り返ると、そこにはジュンと、浴衣姿の巴が立っていた。二人もデートがてら、七夕見物に来たのだろう。巴は、どこかの出店で買った綿菓子を手に、彼女たちの仲良しぶりを見て微笑んでいる。幸せそうな巴をちょっとだけ羨ましく思いつつ、翠星石は渋々と雛苺を解放した。「しゃーねぇです。ジュンと巴に免じて、おバカ苺の教育は、またの機会にしてやるです」「余計なお世話なのっ。翠ちゃんこそ、その性格を叩き直してもらった方が良いのよ?」「ぬなっ! こぉんの……」「きゃあっ。トモエ、助けてなのー」「ダメよ、二人とも。こんな混雑してる所で喧嘩しちゃあ」雛苺が素早く巴とジュンの背後に隠れると、巴は彼女を庇って、翠星石を宥めた。巴の言い分は至極当然のことなので、翠星石も怒りを堪えるしかない。押し黙った彼女に、巴の穏やかな口調が届く。「それに……今日は、一年に一度、織姫と彦星が出会える日なんだもの。 喧嘩なんか似合わないでしょう?」翠星石は、織姫と彦星を、自分と蒼星石に置き換えてみて、少し、反省した。感動の再会を喜んでいる脇で、喧嘩なんかされたら興醒めしてしまう。「そうですね。今日みたいな曇り空でも、二人の再会を楽しく祝ってやらねぇと呪われるです」「やっぱり、お祭りは楽しまないとね。折角だから、イベントにも参加してみない?」「? 何のイベントです?」翠星石が頚を傾げると、巴は「これなんだけど」と、帯に挟んでいた団扇を差し出した。その団扇は、駅前で祭りの実行委員が配っていたものだ。手に取ってみると、七夕恒例ベストカップルコンテストなる印字が……。「実はね、わたしと桜田くんも参加するの。二人でパフォーマンスを披露するのよ」さり気なく二人の仲を自慢しているのかと穿った解釈をしながら、参加賞の欄を走り読みしていた翠星石の目が、一点で止まった。 優勝 『国内旅行ペアチケット』たまには祖父母に、感謝の気持ちを贈りたいなと考えていた翠星石にとって、コレは、なかなか魅力的な言葉だった。祖父母も、国内旅行なら気楽に行けるだろう。それに、ジュンと巴に、これ以上の良い目を見させるのも癪に障った。飛び入りで優勝をかっさらい、彼らの悔しがる顔を見るのも、また一興だ。「雛苺っ! 私たちも、コンテストに参加するですよ」「うよ? でも、女の子同士じゃ出られないと思うのよ?」「お前が男装すればいいです。髪を後ろで束ねれば、ちったぁ凛々しく見えるですよ。 胸にサラシ巻いて、顔もメイクで誤魔化して、 上背の低さは下駄でも履いて底上げすりゃバッチリですぅ」「なるほど、その手が有るか。どうせ舞台の上だし、遠目には判らないかもな」「宝塚っぽくて面白いかも知れないわね。雛苺、やってみれば?」翠星石の案に、ジュンと巴も興味を示して煽ったため、雛苺は孤立無援となり、男装せざるを得なくなってしまった。「で、でもぉ……男の子の格好しても、声は変えられないのよー」「へーきです。声でバレるなら、喋らなきゃ良い道理ですよ。 受け答えは、私に任しとけですぅ」最後の抵抗も、翠星石がアッサリと粉砕した。エントリーを済ませ、貸衣装で変装も完璧――かどうかは兎も角。準備万端の二人は、ステージの後ろで待機していた。意外に、参加者が多い。「どいつもこいつも、優勝賞品に釣られた『クマー!!』な連中ばっかりですぅ」「……翠ちゃんだって他人のコト言えないの」「なんとでも言えです。参加した以上は、絶対に優勝してやるですよ」「ここまで来たら、ヒナも覚悟を決めたのっ。でも、どうやって会話なしで話を進めるの?」「サイレント映画みてぇに、身振り手振り、表情の変化で、感情を表現するです。 そもそも、天の川なんて幅の広い川の両岸に立ってたら、声なんて届きっこねぇですよ。 そんなワケで、雛苺の演技力が試されるです。 私もフォローするですから、一世一代の大芝居を演じやがれです」「……出資者は無理難題を仰る、なの」大まかな打ち合わせをしている内に、審査は進んでいき、遂に二人の番となった。互いの瞳を見詰め、力強く頷き合うと、勢い良くステージに駆け出していく。そして、バックスクリーンに描かれた天の川が二人を隔てて見える位置に着いて、翠星石の扮する織姫が、対岸の彦星に祈りを捧げる場面からパフォーマンスが始まった。祈りを終えた翠星石は、歓喜の笑みを満面に湛えながら、頭上で右腕を大きく振る。対岸に立つ雛苺も、それに答えて両腕を振って見せた。だが、天の川を渡ろうと、雛苺が一歩を踏み込むや、流れに足を取られて転倒。二度目の挑戦では、腰まで水に浸かった所で下流に流され、あわや溺れそうになった。その様子を、対岸でハラハラしながら見詰める翠星石は、痺れを切らして手旗信号で応援メッセージを送る始末だ。彼女たちのコミカルな演技に、観客席がドッと湧いた。彦星に成りきった雛苺は、どうやって川を渡ろうかと、腕組みして頚を傾げたり、結跏趺坐の姿勢で瞑想を始めたり、いきなり三点倒立して思案に明け暮れた。そして、閃いた。なんと! 雛苺は徐に取り出した木の板をサーフボード代わりにして、天の川に飛び込み、パドリングを始めたではないか。観客席から「おおっ!」というどよめきが発せられた。対岸に陣取る翠星石も、雛苺に息を合わせて、在る筈のないロープを必死に引っ張る仕種をする。『あいとー!』『一発ぅ~!』的なノリで、観客席に向けて鷲のマークの栄養ドリンクを突き出す演技も忘れない。全てアドリブのパフォーマンスだけに、よほど気の合ったコンビでなければ、こうはいかなかった。いつしか湧き起こっていた観客の応援に後押しされて、二人は遂に再会を果たした。互いの手を取り合い、見つめ合う。長かった一年間。どんなに、この瞬間を待ちわびたことか……。静かに、二人の距離が縮まり、抱擁が交わされ――――ると思いきや、やおら雛苺が腕時計に目を落とし『ごめん。もう帰る時間だから。また来年~』と、笑顔で手を振り、帰りだしたではないか。見事なまでのダメ男っぷりに、観客席からも「おいおい……」と呆れた声が飛んできた。流石に、これで終わっては元も子もない。翠星石は、どこからかタライを持ち出してきて、パドリングで去って行く雛苺を追いかけ始めた。だが、天の川の真ん中でタライがひっくり返り、溺れかける翠星石。観客たちも「彦星ー! うしろうしろ!」と野次を飛ばす。彼女の大ピンチに気付いて、取って返した雛苺に助けられ、二人は一緒に彦星の家がある岸に上陸した。『死ぬかと思ったです。もう、この川を渡りたくねぇですぅ』『じゃあ、所帯を持って、一緒に暮らそうなのっ』『この甲斐性なし、やっとプロポーズしてくれたです』『これってつまり、美人局もなのねー』『それを言うなら押し掛け女房ですぅ!』『うよ? でも、嬉しいの♪ ふつつか者ですが、宜しくなのよ』と、仕種だけで、一言も喋らずに掛け合いを表現してゆく。そして、恥じらいながらも抱擁を交わしてラストを飾った。観客の盛大な拍手に、両手を振って応えながら、二人はステージを降りた。「どーなるかと思ったですけど、なんとか纏まって良かったですぅ。 雛苺も意外に演技派ですね」「ヒナもビックリしてるの。きっと、翠ちゃんが相方さんだったから出来たのよ」「……私も、同じかも知れねぇです。雛苺だからこそ、アドリブで演じ切れたのかも」普段、なんとなく一緒に居る理由も、気心が知れて安心できるからなのだろう。「無理矢理、付き合わせたワケだし、御礼はしなきゃいけねぇですね。 審査結果が発表されるまで、まだ時間があるし……なにか食べに行くです。 チョコ苺くらい、好きなだけ奢ってやるですよ」「ホントに?! あ……でも、この格好で行くの? ちょっと胸がキツイのよー」「うるせーです。どーせ、結果発表の時にはステージに並ばなきゃいけねぇですから、 いちいち着替えるのも面倒臭ぇです。ささ、素早く行って来るですぅ」翠星石は、渋る雛苺の背中を乱暴に突き飛ばして、賑わう雑踏の中に飛び出していった。――――そして。コンテストの結果は、審査員の全員一致で、翠星石たちの優勝に決まった。参加ペアの中で唯一、コメディ風のパフォーマンスだったことも、印象を深くしたらしい。翠星石は優勝賞品を受け取ると、帰り道で雛苺に、どうしてチケットを欲しがったのか、理由を話した。すると、雛苺は笑って、「ヒナは、お祭りを楽しめただけで満足なの。チケットは翠ちゃんにあげるのよ」と、快く譲ってくれたのだった。喜び勇んで帰宅した翠星石は、早速、祖父母に旅行のチケットを手渡した。「偶然、手に入ったですけど、私は予定が合わなくて行けねぇから譲ってやるですぅ」「はっはっは。ありがとうの、翠星石。マツや、何処行きのチケットなのじゃ?」「下北半島・恐山の旅だそうですよ、お爺さん」「…………天の川の代わりに、三途の川を見に行くのも一興かもしれんのぉ」今年の七夕は、例年になく平穏だったそうな。
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