【薔薇水晶とジュン】終わった話と、始まった話。
4.それは、記憶の霞むような昔。でも、それはつい最近のことで。想い出は色あせることの証明のようで、イヤだと、心のどこかで思った。『……ねえ、ジュン』銀色の髪の彼女。彼女の好きな黒い服とのコントラストが、僕はとても好きだった。『私は――』……これは、夢。終わった夢。過去。変えられない、結末のわかっている物語。
『私は、あなたのことが、大好きよ』
その、涙ながらの告白に、僕は、何と答えたのだったか――。
だから、これは、記憶の霞むような昔の話。霞んで、忘れてしまったと思うような昔。
――終わった物語。
「……あー」朝。目が覚める。何か夢を見ていた気がして――すごく、体がだるかった。「起きなきゃ……」僕は、起きて薔薇水晶を起こさなければならない。薔薇水晶はねぼすけだから、僕が起こさなければ、それこそ一日中寝てるのだ。そのかわり、僕が起こせば素直に起きてくれるけど。 「あ、れ……?」ぐらり、と世界が揺れる。「何で……天井が前に?」おかしい、思考が鈍い。目が霞む。まるで、今朝見ていた夢のようだ。夢と、現が交じり合って――どっちが夢なのか、わからなくなってしまうような。夢を、現実だと期待してしまいそうな、気分。「――“ ”」彼女の名前を呼んだ。最愛の彼女。銀色の髪で、眼帯をした――?あれ、違う? 銀色の髪。だけど、眼帯なんて、してたっけ? 確か、彼女は、黒い服を好んで着て。それがまるで、天使のようで――
意識がにぶくなっていくにつれ、世界が遠くなっていく。そんな時。僕は、彼女の幻影を見た。
「――ジュンッ!?」
ああ――来てくれたのか。
「すい、ぎん、……とう」
フェード・アウト。
それは、日常だった。「ほらぁ、ジュン、朝よぉ」「……んあ?」「もう、だらしないわぁ。今さら幻滅なんてしないけど、他の女の子の前でしたらドン引きよぉ?」「こんなの、水銀橙の前でしかしない……」「あらぁ、嬉しいこと言ってくれるじゃなぁい」本当に、嬉しそうに優しく微笑んでくれる彼女。幼なじみだった。異性の幼なじみで、こんなに付き合いが長いのは奇跡だと、思う。しかも、毎朝起こしに来てくれるなんて。 「僕は、恵まれてるなぁ」「そうよぉ? こんなかわいい女の子がいつも一緒に居てくれるんだもの。もっとありがたみを感じなさいよねぇ?」「うわー、自分でかわいいとか言ってるよ」「何よぅ。かわいく、ないの?」そんなはずはない。いつもいつも、何度見たって彼女の顔を見飽きたことなんてない。「……かわいい」だけど、恋人でもない僕は、それをぶっきらぼうに言うしかない。愛をささやくなんて、照れくさくてできない。「……ありがとう」それに、彼女も恥ずかしがりやだった。学校のみんなは気付いてないけど。彼女は、見た目よりずっとシャイなのだ。「見た目よりって、何よぉ?」「心を読んだっ!?」「うるさいわねぇ。――もうこんな時間じゃなぁい。まったく、ジュンが朝から私を口説くからぁ」「誰も口説いてません」「あらそうなの? ざんねぇん……」時々、わからなくなる。彼女の本心が。幼なじみとしてそばに居てくれるのか――あるいは、女の子として、そばに居てくれるのか。
それが、僕にはわからないのだって、日常。いつもと、なんら変わりの無い、日常だった。
「…………?」朝。目を、開く。「ジュン……?」いつも起こしに来てくれるジュンが居なかった。……おかしいな、と思う。私の方が先に目覚めたのなんて、ただの一度もないのに。そうなのだ。ジュンったら、少しは寝顔を見せてくれてもいいと思うのだ。いつもいつも私ばかり寝顔を見られるのは、不公平だと思う。たまに一緒に寝た時だって、ずっと私の顔を見てるみたいだし―― 「……あれ?」ふと、部屋に飾ってあるジュンの写真を見る。それだけなのに、胸騒ぎがした。時計を見ると、もう学校には遅刻の時間。ジュンも、寝坊? それとも、何か用事があるって言ってたっけ? 「ジュ、ン?」無意識に問いかけていた。大好きな人。一番大好きで、絶対失いたくない人。その人のことで、胸騒ぎがするなんて――「――ジュンっ」そして、私は走り出した。胸に、よくない種類の予感を抱えながら。
いつから、日常が変わったのだろう。「ジュン、帰りましょう?」「ああ、わかった」ふと気付けば、自然に二人が寄り添っていた。どんな時だって。でもそれは、気付いただけで。気付く前からそうだった。僕の隣には当たり前に水銀橙が居たし、水銀橙の隣には、当たり前に僕が居たのだ。それが当たり前だったから、意識しなかっただけのこと。意識したきっかけは、何だっただろう。きっかけすらも覚えてないが、でも、今の変わった日常が好きだった。前と、同じ距離。だけど、きっと違う距離。「……ねえ、ジュン、変なこと聞いていい?」「うん?」「――ジュンって、好きな子とか居るの?」でも、その距離は、曖昧な距離で。名前がついていない距離だった。後一歩で、名前がつくのに。僕たちの関係に、名前がつく。それを、僕はしなかった。別に、このままでもいいと思ったから。……嘘だ。勇気がなかった。もし、壊れてしまったらどうしようか、と思っていた。こんなにも近くに居るのに、そんなことさえ自信を持てなかった。 だから、僕は彼女の緊張した顔を見て、愛しく思う。だって、彼女だって怖いに違いないと思うから。それなのに、踏み出そうとしてくれたことを、嬉しく思う。なら、僕の答えは、もう決まっていた。「……えっと、水銀橙」「え?」「アレだ。こういうのは、やっぱり、男から言うべきで――」本当は、もうちょっとちゃんとした場面で言いたかったな、なんて乙女チックなことを思いながら、僕は、万感の想いを込めて言う。「君のことが、好きです。僕と、付き合ってください」「……嘘」「嘘じゃないけど」「だって、唐突すぎ……」「それは、そうだけど」あれ? もしかして、言うタイミング、ミスった……?そう、僕が不安になった時。「水銀――うわっ!?」「……ホントなのね!?」その言葉と共に、僕は、強く、抱きしめられた。ふわっと、彼女の良い匂いが鼻腔をくすぐった。かぎなれた匂い。だけど、こんなにも近くで感じたことなんて、ない。 「ホントに、私のこと好き!?」「も、もちろん好きだ!」「……よかったぁ」脱力。そのまま、水銀橙は僕に寄りかかってきた。「本当に、どんなにアプローチしても無反応なんですもの……。なんとも思われてないんじゃないかって、不安になったわぁ」「いや、アプローチって、あれに反応するとなんだかすごいえっちな人間に思われると思って」「なぁに? ……くすくす。そんなこと気にしてたのぉ?」「普通、気にする」「……これからは、別に、えっちでもいいけどね? もちろん、私限定でよぉ?」「あー……うん」すごい、気恥ずかしかった。このままの勢いで、死ねる。穴があったら入りたい。本当にそんな気持ちになるとは、思わなかった。「そうだ。私、返事してなかったわよね」そして、水銀橙は僕の顔を見る。抱きしめられたままだから、すごい近い距離。思わず、目をそらしたくなるような。「だぁめ。目をそらさないで」制された。本当に何でもお見通しだ。「……私、水銀橙は」それは、今まで見たどんな笑顔よりも眩しくて――「あなたのことが、大好きです」自然と、僕はその笑顔に唇を重ねていた。
……そして。僕たちは、恋人になった。
「……んっ。ジュンっ」「う、ん……」……ひどく、体が重かった。頭の中も、ごちゃごちゃしているような気がした。「あれ……僕」「ジュン、大丈夫……?」そう心配そうに聞くのは、誰だろう? ――長い、銀色の髪。ああ、彼女か。今、夢に見ていた。「……今、君の夢を見ていた」「え? ……私?」「うん、恋人同士になった時の夢」「……素敵な、夢だね」彼女の柔らかい指が、僕の髪を梳く。とても、気持ちがよかった。「このまま、寝てもいい?」「もちろん。隣に、居るからね」「うん、ありがとう――」そして、僕は名前を呼んだ。愛しい彼女の名前。
「ありがとう、水銀橙」
――え?
「……ジュン?」私は、名前を呼ぶ。だけど、返事は返ってこない。「違う……」でも、私はそれでも言わなければならなかった。……もしかしたら、何かの間違いかもしれない。熱があるみたいだから、そのせいで勘違いしたのかもしれない。だけど、だけど、私は言わなければならなかったのだ。彼は、もしかして、私の長い髪を見て、間違えたのではないか、なんて、信じられないような考えが、頭の中に浮かんだから。 それは、もしかして、もしかして――彼が、“あの人”のこと、を?「――違うよ! ジュン! 私は、薔薇水晶だよ!」だけど、返事は返ってこない。苦しそうな寝息が、返ってくるだけ。そうだ。だから、落ち着け。違う。彼は、私をあの人と、勘違いしただけ。風邪でベッドで寝ているから、頭がぼーっとしているだけなんだ。「……お願いだから、そうだと言って……っ」怖かった。どうしようもなく怖かった。すがるように言う私に、彼が反応してくれないのが怖かった。私は、一人でこの世界に放り出されてしまったのではないか。だから、彼が反応しない。彼が反応するのは、“あの人”だけ――。「い、やだ……いやだよぅ」涙が出てきた。……いつもなら、彼が抱きしめて慰めてくれる。心のどこかで。それを期待していた。だって、いつも彼は優しかったから。
だけど――
「すい、ぎんとう」
やっと返ってきた言葉は、待ち望んだ言葉ではなく。――ただただ、残酷な言葉だった。
「薔薇水晶? 大丈夫?」あれからしばらくして、銀姉さまが来てくれた。「……ごめんなさい」「いいわよぉ。かわいい妹の頼みだもの。それに、もともと来るつもりだったしね」「……そう、なんだ?」「ええ、朝来てみたら、ジュンが倒れているんですもの。びっくりしたわぁ」銀姉さまは、よく朝ジュンを起こしに来るらしい。……そんなこと、私は全然知らなかった。つらかった。ジュンは、何で教えてくれなかったのか。そしたら、私だって、早起きするように頑張ったのに。ジュンのためならば、どんなことだって出来ると思うのに。 「……大丈夫よぉ。そんなつらい顔しないでぇ。かわいそうに。ずっと泣いていたのねぇ」銀姉さまが、優しく抱きしめてくれる。でも、違うんです。銀姉さま。私の憧れの人。小さいころから、ずっと憧れてた人。理想の人。そんな銀姉さまだからこそ、私は、泣いていたんです。勝てないから。私では、あなたに勝つなんて、できないから。そう思ってしまう自分が悲しかった。ジュンを、誰にも譲りたくないのに。それなのに、ただ私は怯えることしかできない。……そんな私を、銀姉さまは強く抱きしめてくれる。きっと、心の底から私を心配して。ジュンが大変な時に、こんな醜いことを考える私を。「さあ、看病してあげましょう。こぉんなかわいい恋人が看病してくれるんだもの。すぐによくなるわぁ」「……あ、の、銀姉、さま」私は、醜い。だけど、それでも、確かめさせて。それで、安心できるかもしれないから。……それで、ますます不安になってしまうかもしれないけど。「銀姉さまは、ジュンのこと、好きですか?」「えぇ? なぁに、突然」驚いた顔をしていたが、私の真剣の顔を見て、ちゃんと答えてくれた。そんな、気配りができるところも、すごく、素敵だと思う。「んー、そりゃあ、好きよ? 幼なじみだしね」それは、本当に、幼なじみとして――? 私は、本当は、そう聞きたかった。だけど。聞けなかった。だって。「じゃあ……もし、ジュンが、銀姉さまのことを、好きだと言ったら、どうしますか?」「――え?」だって、私がそう言ったとき、一瞬だけ銀姉さまの瞳に映った期待の色を、私は見つけてしまったから。「……おかしな、子ね。そんなこと、ジュンが言うはずないじゃなぁい……」それは、私に言うというより、自分に言い聞かせている感じだった。……こんなに狼狽している銀姉さまを見るのは、初めてだった。「あなたも、疲れてるのよ。少し、休みなさいな」もちろん、銀姉さまは、私のことを心配してその言葉を言ってくれたんだろう。だけど、私が思ったのは、とてもひどいことで。
私が居ない間に、ジュンを奪ってしまう気なのではないですか――?
それは、とても、最低なことだ。……ひどく、悲しかった。私は、自分がこんなにも醜い人間だとは知らなかった。私は、幸せな場所に居たと思ったのに。温かい、温かい場所。それは、私の勘違いだったのだろうか。こんなにもあっさりと崩れ去るものだったのだろうか。私は――迷子になってしまった。だから、お願いです。心の底から思う。他に、何もいらないから、どうか、この願いだけは叶えて欲しい。
――お願いだから、もう一度その優しい声で、愛を囁いて。
あれから一週間が経った。「…………はぁ」私とジュンは、気まずい空気になっていた。正確には、私だけだけど。私に勇気がないから。ジュンは、必死に私に話しかけてくれる。そのたびに、大した反応も出来ないのが、つらい。傷つけてしまっている。私のせいで。だけど――あの言葉が、頭から離れないのだ。『すい、ぎんとう』ジュンが、熱にうなされた時求めたのは、私じゃなくて。私の憧れの、あの人で――。「どうしたら、いいのかなぁ?」「……薔薇水晶?」「蒼星石……」見れば、蒼星石が居た。そうか、中庭は、園芸部が管理してたのか。「……手伝おうか?」「いいよ。……それより、元気がないね。何かあった?」「……うん。ちょっと、」「ジュンくんと、喧嘩でもした?」「……蒼星石ぃ」「え、え、ちょっと……泣かないで? 僕でよかったら聞くから」……私は、蒼星石に話した。
「……ジュンくんと、水銀橙かぁ」「私、わからない……。ごめんね……しっかりするって、言ったのに」「ああ、それは、いいよ。……あの二人はさ、特別なんだ」え? 私が聞き返すと、蒼星石は教えてくれた。「阿吽の呼吸ってあるでしょう? あ、だけで、うん、と言える。言葉の要らない関係。それが、あの二人の関係なんだよ」「ジュンと――銀姉さまが?」「そうだよ。あの二人は、幼なじみでしょう? だからってこともないだろうけど、ジュンくんは、水銀橙が今何をしたいのかすぐにわかるし、水銀橙も、ジュンくんのことがわかる。僕は、それがすごく羨ましかったなぁ」 そんなこと、私は知らない。まったく、知らない。「……それなのに、どうしてか、あの二人は別れちゃったんだ。誰よりも、幸せなカップルだったのに。それは、僕もどうしてか知らない」「――え?」イマ、ソウセイセキハ、ナンテイッタノカ。「仲睦まじい、理想的な恋人同士だったよ。ああ、いや、薔薇水晶とジュンくんが理想的じゃないという意味ではなくてね?」「……ジュンと、銀姉さまは、付き合ってた、の?」「え? あ、そうか。あれは、中学の頃だから、薔薇水晶は知らないんだね。――うん、付き合ってたよ」蒼星石の言葉が、胸をえぐる。どうして、教えてくれなかったの?いや、銀姉さまは言っていた。とても、好きな人が居るって。……そして、大好きだから、別れてしまったって。それって、それって――銀姉さまは、今でも、ジュンのことが。「薔薇水晶?」「……ねえ、二人が、何で別れたか知っている人は、いる?」「理由を? そうだな――」蒼星石は、少し悩んで言った。
「知っているとすれば、あの二人の幼なじみの、真紅くらいだろうね」
「……はぁ」どうも、最近薔薇水晶の態度がおかしかった。僕が、風邪で休んでからだ。その間の記憶が曖昧で、何があったかわからない。謝ろうにも、そもそも自分が何をしたのかわからなかった。 「あらぁ……元気ないわね。どうしたのぉ?」「水銀橙……」「悩み事? 相談のるわよぉ」そうだ、薔薇水晶と仲のいい、水銀橙なら知っているかもしれない。それに、水銀橙なら余計な気遣いもいらないだろう。素直に、話せる。「――薔薇水晶の、ことなんだ」「……ああ、そうねぇ。ちょっと、最近おかしいわねぇ」「僕のことで、何か聞いてない?」「ごめんなさぁい。私も、避けられてるっぽいのよねぇ」……そうなのか。でも、真紅とか翠星石とかとは普通に話しているように思える。「じゃあ、僕と、水銀橙だけ?」「そうみたい、ねぇ」二人で、ため息をつく。何で、この二人なんだろう?「僕が風邪ひいていたとき、何かあった?」
「……あ」水銀橙がひらめいたように言った。「心当たりが、ないわけでもないわぁ」「何?」「……とりあえず、家に帰りましょう。あんまり二人で居られるのを見たら、まずいでしょう?」「そうだな……そうしよっか」水銀橙は、目立つ。学内でも、ファンクラブがあるくらいだ。そんな彼女が、放課後、男と二人っきりで居たら噂もたつだろう。今この状況でそれはまずい。「ふふ……」「どうかしたか?」「別にぃ。ジュンと二人で帰るのも、久しぶりだなぁって思っただけよ」「……ああ、確かにな」でも、それは、……しょうがないこと、なんだろうに。「……ごめんなさい。そういう意味で言ったのではないの。気にしないでぇ」「……ああ、わかってる」わかってるから、そんな悲しそうな顔を、しないでくれ――。
蒼星石に言われたとおり、真紅を探す。真紅は、もう帰ってしまっただろうか。「あ、真紅!」「……薔薇水晶? 珍しいわね、貴女が息を切らしているなんて」真紅は、ちょうど帰り支度をしている時だった。「それで? 何か私に用かしら?」「ジュンと、銀姉さまのことで、聞きたいことがあるの」「――あら、変なことを聞くのね」今、真紅は嘘をついた。私から、視線をそらした。何か、知っている。「どうして、あの二人は――」「じゃあ、聞くけど、薔薇水晶。貴女はそれを知って、どうするつもりなのかしら?」「え?」「貴女は、今が幸せではないの? ジュンと恋人で、水銀橙と姉妹のように仲が良くて。これ以上、何を望むのかしら?」真紅は、怒っている。いや、……私を、気遣っている?「……知りたい。私は、それでも知りたいの」「貴女の望むような答えはないとしても?」「私は、何を望んでいるのかすら、今わからないから……だから、お願い、真紅」「……そうね。貴女が知りたいというのなら、教えてあげるわ」真紅は、目を閉じて、慈しむように言った。何を思っているのだろう。……わからない。「さあ、薔薇水晶。貴女は何を知りたいの?」「……ジュンと、銀姉さまは、何故別れたのか」「――そう。そうよね。当然、知りたがるはずね」真紅の声は、ただ、辛そうだった。「何から話せばいいのかしら。――そうね。私たち、三人の話からになるのかしら。私たちは、いつも一緒に行動していたわ。私と水銀橙が喧嘩をして、それをジュンが宥めて。それで、バランスが取れていた。三人が、永遠に続く幸せだと信じていた。 ……だけど、バランスは崩れたわ。ジュンと水銀橙は、付き合いだした。私を、独り残してね。……いいの。それは、もう、いいのよ。もちろん、私は祝福したわ。内心、複雑な心境だったけれど。私のプライドと、水銀橙になら、と思う心があったから。それからの二人は、幸せそうだった。前にも増して、息がぴったりで。一心同体なのかもしれないと、思うほど。だから――誰も気付かなかったの。水銀橙の、危うさ。誰も知らなかったの。私だから、水銀橙は大丈夫だった。三人で居られるのは、私だったからなの。水銀橙が、心を許していた、私。 つまり、水銀橙は壊れていた。ジュンを、好きになりすぎて。その好きの方向が、人とは違う好きだった。……ただ、独占したいと思ってしまう。存在の全てを、独占したい。そう、水銀橙は思ってしまう。 よくよく考えれば、すぐにわかることだったわ。水銀橙は、私以外の女がジュンに近づくことを、ひどく拒んだわ。世界の終わりのような、拒否。それに気付いた時には、もう遅かった。 水銀橙は、もうあと一歩で戻れないところまで来ていた。……ジュンを、独り占めしようとして、監禁しようとした」
「……それ、で? 銀姉さまは?」「ジュンは、それを受け入れたの。水銀橙が望むのであれば、と。……それが、終わり。水銀橙は、気付いた。ジュンを、傷つけてしまう。それは、水銀橙にとって、何よりも恐ろしいことだったのでしょう。もう、ジュンなしでは生きていけないと言ってもいいくらいだったのに。ジュンのために、手放した。 それだけよ。……どこから、歯車が狂ったのかはわからない。きっと、今でも水銀橙は、ジュンのことを好きよ。間違いない。今でこそあんなだけど、当時はひどかったわ。 自惚れでなく、私が居なければ自殺していたかもしれない。……そのくらい、水銀橙はジュンを好き。いえ、愛しているのよ」……それは、あんまりといえばあんまりな話で。「……だけどね、薔薇水晶。これだけは覚えておいて。ジュンが今好きなのは、私でも、水銀橙でもなく――あなたなの」そんな強い想いを聞かされて、私に、何が出来るというのだろう――。
「それで、心当たりっていうのは?」「……これは、他意はないの。だけど、答えてね。ジュン、最近私とのことを、薔薇水晶に話した? あるいは、私とのことを、独り言で言ったとか」「水銀橙との、こと?」それはつまり、あの時の、こと。「……夢なら、見た。寝込んでいるときに」「それかしらねぇ。ジュンが、私のことを好きって言ったらどうする、ですって。薔薇水晶が言ってたわぁ……」「……もしかして、水銀橙。二回目起こしてくれたのは」「私は、起こしてないわ」……なんて、ことだ。それは、どんなに傷つく言葉だろう。自分の好きな人に、自分ではない名前を、呼ばれる。「何て、謝ればいいんだ……」「あはは……ジュンも、ダメねえ。まるで、私に未練あるみたいじゃなぁい?」その時、僕は気付かなかった。水銀橙の、声の質が変わっている事に。それは、忘れもしない。あの、壊れた、水銀橙の声で――。だから、僕は言ってしまった。嘘ではなくて。本当に、そう思っていたから。「……そうかもしれない。もしかしたら、本当にそうなのかもしれないなぁ」「へぇ――そうなんだ」……かちり、とどこかで音がした。それは、鍵を閉める音。水銀橙が、ドアの鍵を閉めた音。「すいぎん、とう?」「ねえ、ジュン。ねえ、ジュン。私ねぇ。私ね? あなたのことが――」
「あなたのことが、大好きよ」
「……はぁ」こんなにも寂しい帰り道は、今まであっただろうか。きっとない。どんな時だって、ジュンは一緒に居てくれた。……ひとりで泣いていた私と、一緒に。『だから、言ったのに。ジュンに、期待なんてしなければいいって』うるさい。……心のどこかが、本当にうるさいことを言う。『まあ、なんでもいいけど。あは……じゃあ、引っ込むよ。ああ、可哀想な薔薇水晶。可哀想、可哀想――』……それは欠片だった。私が泣いていた時の、欠片。ジュンが居れば、決して出てくることのない。イメージは、白い。何もない、空間。私は、それに負けるわけにはいかない。負けたくないのだ。私が好きになった人は、そんな人ではない。同情で、私と一緒に居てくれたわけではない。まだ、不安はある。銀姉さまのことが、未だに好きなのではないかと、思う心が、ある。
だけど。それよりも、何よりも。私の中には、ジュンを愛しく想う気持ちが、ある。
ジュンを信じ、想う。私の大好きな人。ちょっといじわるで、鈍感で。みんなに優しい、ジュン。だから、私はもう、迷子にならない。ただ、ジュンを目指してみせる。……絶対。何があっても。
私は、ジュンの家に向かった。
「落ち着け、水銀燈」「何がぁ? 私は、落ち着いてるわぁ」じりじりと、水銀燈が迫ってくる。何故か、狩猟者の目を連想した。追い詰められる。獲物は――僕か?「何で、鍵を閉めたんだ?」「えぇ? 別に、意味はないわよ。だって、すぐ開けられるじゃない」意味がないのに、閉めた? それは、おかしい。矛盾している発言だ。……ダメだダメだ。この空気はダメだ。再現。別れの日の、再現だ。このままじゃ、また、水銀燈が――傷ついてしまう。「ジュン」なのに。そうわかっているのに。身体が、動かなかった。逃げなければいけないのに。水銀燈の、匂い。懐かしい、初恋の人の、匂い。「……だぁい好き」唇が、重ねられた。なんて、甘い、キス。頭の芯が、とろけてしまいそうだった。……ダメだ。だから、それはダメだ。僕は、君のことが好きだけど。だけど、ダメだ。「水銀燈――僕は」「あは、ダメよ、ジュン。もう――逃がしてあげなぁい」そして。僕は捕まってしまった。黒い、天使に。
「ジュン」私は、呟きながら、キスをする。身体のいたるところに。首筋、頬、目、唇。胸。ジュンの身体がべたべたになってもやめない。とても、楽しい。とても、幸せ。ジュンが、私のそばに居る。……なんで、私は離れてしまったんだっけ。思い出せない。とても、バカなことをしたものだ、と思う。こんなにも愛しいのに。こんなにも大好きなのに。心も身体も、全て捧げたのに。「ジュン」ジュンの存在を犯したい。全て犯して、私のものにしてしまいたい。誰も見ないように。私のことだけを、愛してくれるように。「……水銀燈」「そうよぉ。私の名前は水銀燈。ねえ、もっと名前を呼んでよ。ジュン、ジュン。ジュン。大好きよ。愛してる」「……水銀、燈」どうして、泣くんだろう。どうして、私のことを想って泣くんだろう。ジュンの想いが伝わる。……どうしてだろう。本当に、わからない。「ねえ、一つになりましょう。一緒に居ましょう。ずっと。ジュンと一緒なら、きっと幸せだと思うわぁ」「僕は――」「あなたを、犯したいの。愛したい。それに、あなたに犯されたいし、愛されたい。めちゃめちゃにしてほしいと思うし、大事にしてほしいと思う。そうしないと、ダメなの。私は、あなたを……壊してしまいそう」 だからお願いよ、ジュン抱きしめて。私を強く。痛いくらい、それこそ、壊れてしまうくらい。「――水銀燈」そして――ジュンは、私を抱きしめてくれた。「あは、……嬉しいわぁ」ジュンの身体は、温かかった。思わず、涙が溢れてしまうほどに。「……ねえ、水銀燈。どうしてあの時、別れようって言ったんだ?」あの時……? ああ、あの日。私が、壊れて。ジュンのことが愛しくて愛しくてどうしようもなくて。ただただ、ジュンを自分のものにしようとした時。『私は、あなたのことが、大好きです。……だから、お願い。もう、終わりにして。私のことを見ないで。こんな、壊れた私を、ジュンに見て欲しくないから――』そう、確か、そう言った。心の底からイヤだった。私のせいで、ジュンが壊れちゃうなんて。どんなことよりも、イヤだった。「あの時、僕は頷くしか出来なかったけど――」ジュンは抱きしめた身体を離し、私の瞳を見て、言った。「君は、壊れない。壊れてなんか、いない」「――え?」……あはは、ジュンは、何を言ってるのかしら。おバカさぁん。だって、今の状況、考えてみればいいのに。私が、陵辱したのも同然なのに。
なのに――ジュンは、私のことを、想ってくれている。
「今なら言える。壊れている? 違う、それなら、どうして、僕のために別れるなんて言えるんだ。――それは、水銀燈が、僕のことを想ってくれたからだろう!? なあ、だから、頼むよ。水銀燈、思い出してくれよ。僕は、君のことが好きだ。初恋だった。今でも、そうかもしれない。……そんなことを言う資格はないけど。でも、思い出してくれ。君の、選択を。つらい、だけど、どんな選択よりも綺麗な選択を!」
「……ジュン」「大丈夫なんだ。自分を信じられないなら、僕を信じてくれ。水銀燈が好きになってくれた、僕を信じて。絶対、どんなことがあっても――君は、壊れない」……あ、はは。「……やぁだ。そんなこと、言わないでよ」「…………」「そんな優しいこと言われたら――何も出来なくなっちゃうじゃない。ジュンのこと、壊してやろうと思ったのに。私なしでは、生きられなくしてやろうと思ったのに」 本当に、どうして、ジュンはそんなに私を想ってくれるんだろう。それは、まるで奇跡のような、それは、まるで幻のような、信じられない優しさ。「そんなの――水銀燈が大事だからに決まっているだろう」「あはは……心を、読まないでよ」……どこで、歯車が狂ったんだろう。私は、ジュンのことが好きで、どうしようもなく、好きで。「……ねえ、ジュン。これだけは信じてね?」「うん」
「私はね、ジュンのことが、誰よりも、好きよ。これからも、ずっと、ずっとね――」
そして、私は、泣いた。ジュンの胸の中で。ただ、赤子のように。ジュンに包まれて――。
「……ごく」つばを飲み込む。少し、勇気が居る。ジュンは私の家によく来るけど、私はあまり来たことがない。私は結構人見知りする性質だから、まだ、ジュンのお姉さんには、慣れていない。ちょっと、苦手かもしれない。「でも、頑張らなきゃ――」「あれ……? 薔薇水晶」「…………むぅ」人が、意気込んでる時に、誰――「――ジュンっ!?」「あはは……珍しいな、薔薇水晶が家に来るなんて」「……ジュン?」ジュンの様子が、いつもと違う。元気がない。……もしかして、私のことを怒っているのだろうか。愛想を、つかしてしまったのだろうか。いや――これはきっと、「泣いているの?」「……ああ、うん、泣いてる」悲しくて、悲しくて、涙を流しているんだろうと、想った。「……悲しいことがあったんだね」「ああ、……なあ、薔薇水晶」「うん」ジュンに近づいて、頭を抱えるように抱きしめる。それは、ジュンがいつも私にしてくれること。私を癒してくれる、ジュンの魔法。「僕は、……ひどいヤツだな」「……違うよ。ジュン」それは、違う。何があったのか知らないけど――「私は、ジュンほど優しい人を、知らないよ」
「私がひとりで泣いているとき、そばに居てくれた。私が抱きしめて欲しいとき、抱きしめてくれた。私が孤独を感じたとき、癒してくれた」それに、どれだけ助けられただろう。それを、どれだけ嬉しく想っただろう。目を閉じるだけで思い浮かべることが出来る。ジュンと出逢ったこと。ジュンと初めて手を繋いだこと。ジュンが、初めてキスをくれたこと。全てが、私の心を潤す宝物だった。「そんなジュンが、私は大好きなの。ジュンだから、好きなんだよ。ジュンはひどい人なんかじゃないよ。それにね、ジュン。私は、ジュンがひどい人でも、ずっと、ずっと、好きだよ」 心からの想いだった。これだけは、譲れない想い。……どうしても、伝わって欲しい想い。「ねえ、薔薇水晶?」「うん、なぁに?」「少しだけ、泣かせてほしい。……そしたら、頑張る。僕は、あいつの想いを、背負うから。だから、少し、胸を貸してくれ……」「いいよ。……私と一緒に泣こう。きっと、悲しみは、半分になるよ」「ありがとう――」そして、私たちは二人で泣いた。何が悲しいのか、私にはわからなかったけど。だけど、それはきっととても悲しいことで。だから、私はジュンのために泣いた。あと――どこかの、見知らぬ誰かのためにも、泣いた。
エピローグ:サイド【水銀燈と真紅】
「水銀燈」「……あらぁ、真紅ぅ。どうしたのぉ?」薔薇水晶の話を聞き、私は水銀燈の部屋を訪れた。「――ちょっと、言い忘れたことがあったの」部屋の様子で、わかった。まるで、あの日と同じだった。……だから、私は、あの日に伝えられなかったことを、伝えようと思う。「なぁに?」「あなたは――壊れた子(ジャンク)なんかじゃ、ないわ」「…………」きょとん、とした、水銀燈の顔。「な、何よ、その顔は。そんなリアクションをされると、恥ずかしくなるのだわ」「……あ、あははははっ。なぁに、真紅。あなた――」そう言った水銀燈の瞳からは――「あなた、私を泣かせに来たわけぇ?」――綺麗な、涙が零れていた。「……ええ、それもいいわね。水銀燈を泣かせたなんて、後でからかいのネタに出来るものね」「おあいにくさまぁ。でも、そうね。――泣いてみるのも、いいのかもしれないわね」私は、水銀燈に近づき、何も言わずに抱きしめる。ひとりじゃないと、伝えたくて。「――ありがとうね、真紅」「うるさいのだわ。喧嘩の相手が居ないのは、退屈なだけよ。……早く、元気になりなさい」きっと、大丈夫。
「ええ、……あはは、大好きよぅ、二人とも」
そう、笑うことが出来たのなら、もう水銀燈は、大丈夫だ。
エピローグ:サイド【薔薇水晶とジュン】
「……もう、大丈夫だ」「えー」「そこで何で不満そうな顔をするんだ……」だって。ジュンがあたしに甘えてくるなんて、滅多にないのに。「もっと、一緒に居たい」「……僕も」「というわけで、えっちしよ」「……はい?」唐突に思った。そうだ、そうしよう。今すぐ、ひとつになりたい。「本気?」「うん。ジュンと、ひとつになりたい。愛しくて、恋しくて。本当に心の底から想ったの」「あー……」何故かジュンは空を見上げ、これはないだろ、反則だ、とかぶつぶつ言った。……ジュンもいろいろ大変なんだろう。「……えっと、薔薇水晶」「うん?」「よろしく」「――こちらこそ、よろしく」きっと、大丈夫。そう、きっと大丈夫だ。ジュンと私なら、乗り越えられる。それを信じさせてくれるジュンの笑顔。「ねえ、ジュン」「ん? ……何だよ、今すごい緊張してるんだけど」「大好き」「……あーもー。ホント、僕も、大好きだよ」
そんな私たち。なんて――幸せな二人。
end
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