トーモーエー!
時間通りに玄関を開けて、家を出る。そこへ、いつものように無邪気に駆けて来る姿があった。「トーモーエー!」叫び声が凄い勢いで近づいてきたかと思うと、雛苺は両手を大の字に開いて飛び込んできた。ぽふっ難なく受け止めて、自分の腕の中に飛び込んできた雛苺の顔を見る。「トモエー、おはようなのー」自分を見つめてくる瞳は、声も高らかにそう言った。「おはよう、雛苺。」巴も、にっこりと笑って、挨拶を交わす。「あのねー、ともえー、今日はねー、はなまるだったのよー」目をキラキラとさせてまっすぐに見つめて来る雛苺は、巴の腕の中で手足をバタバタとさせながら、今朝あった事を嬉しそうに話しはじめた。「そう、よかったわね。」「巴、雛苺、こんなところで話し込んでいては遅刻するわよ。」少し間があって、真紅が二人の前に現れた。「おはよう、真紅。」「おはよう、巴。」いつもこうして一日が始まる。巴と真紅、雛苺は幼馴染で、昔からよく遊んでいた。親同士の付き合いもあり、特に仲が良かった。今の学園に入学してから、真紅と雛苺は巴の家から程近い所に部屋を借りてルームシェアをはじめた。それから、毎日こんな風な朝を繰り返している。雛苺も真紅も同じ学年だったが、雛苺は二人に比べて何故か幼くて、真紅や巴を姉のように慕っていた。特に昔から、巴への甘えようは、まるで本当の姉妹以上にも見える事もあった。「さ、雛苺。行きましょう?」「うん!」雛苺と巴は手をつないで歩き始めた。その隣で歩いている真紅の手を、雛苺はもう片方の手で握る。「えへへー、しんくもなのー」「こ、こら雛苺。歩きづらいのだわ。離しなさい。」真紅は離せといいながらも、まんざらではなさそうだった。そして、3人は手を携えたまま学校へ歩いていった。
予鈴がなるまで、まだ相当時間があった。巴はいつも剣道部の朝練のために予鈴がなる2時間ほど前には学校へつくように家を出る。雛苺と真紅はそれにあわせるようにして毎日その時間に巴の家の前に出るように登校してくれていた。それは巴にとっては嬉しい事ではあったが、しかし、自分に合わせてくれている、と言う事にいくら幼馴染とはいえ、少々引け目を感じていた。「私に合わせると、大変じゃない?いつも朝早いから…無理してない?」ある日の朝、二人にそう尋ねた事がある。「ヒナはいつも早起きなのー!むりじゃないのよー」雛苺は満面の笑みで答えた。「別に…私は朝の学校は好きだわ。誰も居ない教室で静かに紅茶を飲む。今度朝練がないときにいらっしゃい?ご馳走するわ。」真紅はそう言って微かに笑った。「そう…ありがとう。」二人の気持ちが嬉しかったから、巴は自分に出来る最高の笑顔を二人に返した。
確かに朝の学校は静かだ。一部の運動部が朝練をしている事を除けば、教室には人影があまり見当たらない。通学の都合で早く登校する者もいたが、それもまばらだった。正門のところで、二人と別れて校舎内の一室にある剣道場に向かう。まだ誰も着ていない。一礼して道場に入ると、全ての窓を開ける。新鮮な空気が吸い込まれるように入ってきて、巴は一度深呼吸した。更衣室で、白い胴着と紺の袴に着替えると、一気に気が引き締まる思いがした。誰も居ない道場の中央に静かに正座する巴。目を閉じて、そこに座っているだけなのに、道場内は凛と張り詰めた空気と、糸をピンと張ったような緊張感が支配した。目を開いてすっと立ち上がる。そこから、巴の朝練が始まる。
朝練が終われば、朝のHRが始まるまで間はない。急いで着替えて教室に戻ると、そこには真紅の言っていたような静かな空間は既にない。大方の生徒がすでに登校していて、がやがやと賑やかだった。入り口のところで、真紅や雛苺と同じく幼馴染の少年、ジュンと出くわす。「あ、おはよう、桜田君。」「おはよう、柏葉。」会話はそれだけで終わり、それ以外は何も言葉を交わすこともなくそれぞれ自分の席へと向かった。いつからだろう、彼が巴の事を苗字で呼ぶようになったのは。同様に自分も彼の事を苗字で呼んでいる。いつの頃からか、幼馴染だったはずの二人は、何がきっかけかわからずに距離を置くようになっていた。「トモエー、おつかれさまなのー」席についたところへ、雛苺がとてとてと寄って来た。「ん、ありがとう、雛苺。」雛苺の頭を何気なくなでてやると、目を閉じて身を任せてくる。まるで子犬のようだ、と巴は一瞬思った。程なくして予鈴がなり、騒がしかった教室は段々と静かになっていく。そこで担任教師が入ってきて朝のHRがはじまった。
「トッモッエー!」本日最後の授業が終わるや否や、雛苺が巴に向かってタックルを仕掛けてくる。勿論巴はそれを、ぽふっと受け止める。「きょうもぶかつなの?」巴を見つめる雛苺の目からは、遊んで光線が惜しみなくにじみ出ている。「そうなの。ごめんね、雛苺…」本当に申し訳なさそうに雛苺の頭をなでてやる。「うゆ…きょうはともえと遊びたかったの…」「雛苺、あんまり巴を困らせるものではないのだわ。」唇を尖がらせ始めた雛苺、そこへ真紅が助け船を入れる。「帰りに苺大福を奢ってあげる。だから、巴を困らせるのはやめなさい。」「ほんと?しんく~?」「ほんとよ。だから、ほら。」「わぁーい!うにゅうなの~」目を輝かせる雛苺。大好物の苺大福とあれば、言う事に従わないわけには行かなかった。「ごめんね、今度のお休みの日に遊ぼうね?」苺大福の事で大歓喜中の雛苺の頭をもう一度ぽんぽんとなでると、「うん!ぜったいなの!」雛苺が嬉しそうな顔をしたので、それにほっとして、部活へ行く準備を始めた。「ありがとう、真紅。」「礼には及ばないのだわ。大会も近いのでしょう?頑張りなさい。」「うん!」真紅と笑顔を交わして、巴は教室を出た。
「巴、いる?ちょっと来て!」稽古の途中、道場の扉が勢い良く放たれたかと思うと、血相を変えた真紅が飛び込んできた。「真紅…?」普段から平静さ、冷静さを失わない真紅が酷く狼狽して、巴の姿を探している。「あぁ、巴…雛苺が!」「え…?」「お腹が救急車で立ってられなくて…ええと、そうじゃないわ!」「お、落ち着いて?真紅。」「と、とにかく一緒に来て!雛苺が大変なのよ!」真紅の慌てぶりから察するに、何か大変な事が雛苺の身に起きているらしい。居てもたっても居られなくなった巴だったが、しかし、今は大会を控えた部活中。主将や部員の目もある。「ともえー、いいから行ってきなさい。」主将と思しき人物が、真紅の慌てぶりと、巴の動揺をみて、ただ事でない事を察したのだろう。「あ、ありがとうございます!…真紅!」「え、えぇ、さっき保健室に連れて行って、先生が救急車を呼んでくれているらしいわ。」遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。こちらへ向かっている救急車なのだろうか。保健室へと飛び込んだ二人は、雛苺が寝かされているベッドへと向かった。「う…うにゅう…食べたいの…ともえと…あそぶの…」雛苺はお腹を抑えながらうわ言のように何事か言っている。「雛苺!」「と…も…え?だ、だいじょうぶ…なの…こんなの…すぐなおる…の…だか…ら…ぜったい…あそぶの…」脂汗さえ浮かべている雛苺だったが、巴の顔をみるや、必死に笑顔を作った。「今、お医者さんが来るから、頑張って…!」巴は雛苺がお腹を抑えている手に、自分の手を添えて、さすってあげたり、励ましたりしている。
「来たわ!」「わかった!」真紅の合図で巴は、雛苺の肩と膝の下から手を入れて抱き上げると、真紅の導きで救急車が着けられた昇降口へと向かった。その間も雛苺は苦しそうに肩で息をして小さいうめきをもらしている。(大丈夫、大丈夫だから!)祈るような思いで、雛苺を救急車の担架に載せる。「巴、後は私に任せるのだわ!」雛苺の乗せられた担架と共に救急車へ乗り込む真紅。「わ、私も!」「あなたは、自分のすべき事をしなさい!約束したのでしょう?雛苺と!」雛苺との約束。
「今度のお休みの日に、遊ぼうね?」
大会まで間もない今は、休日も返上で稽古をすることになる。大会が終われば休日も大丈夫だろう、そんな軽い気持ちで雛苺とした約束。雛苺は、軽い気持ちで言った巴の一言を、とても大事にしていた。雛苺のうわ言と、真紅の厳しいほどの真剣な目がそれを物語っている。「わかった…真紅!」「まかせなさい。雛苺は大丈夫だわ」真紅が頷くのと救急車のドアが閉められるのは同時だった。(雛苺…)それでも巴は、一抹の不安を拭い去る事は出来なかった。
「もう…心配したんだから…」あくる日の午後、巴と真紅は病室にいた。巴はりんごを丁寧にむきながら、一切れ一切れ丁寧に皿に並べていく。「ともえ、うさぎさん、うさぎさんつくってなのー」「はいはい…」雛苺の要求に、巴はクスリと笑って器用に皮をむいていく。一つ、また一つと皮で耳を象ったウサギの形のリンゴが並べられていく度に、雛苺は目をキラキラとさせる。「うさぎさん、うさぎさんなのよー」「まったく…慌てて損したのだわ…」ウサギの形のリンゴにはしゃいでいる雛苺の姿をみながら、巴の隣にいた真紅がため息をついた。「ふふっ…いいじゃない。盲腸くらいで済んで…」「ふぅ…私は紅茶を買ってくるわ。」楽しそうにリンゴを剥いて行く巴にもあきれた様子で、真紅は病室を出て行った。「真紅、凄く心配してたのよ?ほんとに、雛苺に何もなくてよかった…」「トモエは?トモエはー?」真剣な眼差しで、巴の顔を見つめる雛苺。「私も、凄く心配したかな…」「うゆ…ごめんなの、ともえ…しんぱいかけたの…でも、うれしいのー。」「真紅にも言ってあげてね。普段からじゃ想像できないくらいうろたえていたんだもの。」「うん、しんくにもおれいをいうのー。おれいまいりなのー」「雛苺、それちょっと違うよ…」「うゆ…とにかく、しんくにも、ともえにもヒナはかんしゃしてるの。ありがとうなのー!」「ふふっ、どういたしまして!」剥き終わったリンゴを皿に綺麗に並べて、雛苺の手の届くところに置く。雛苺は満面の笑みで、そのリンゴを手にとって頬張った。
「ふぅ…缶の紅茶なんて私が飲むには役不足なのだわ…ないよりはましだけれど…」自動販売機で買った紅茶を待合室でゆっくりと飲む。今ごろ二人は話に花を咲かせているのだろうか。巴の剣道の大会は日一日と迫っているのだから、本来放課後こうして雛苺のお見舞いに来る暇などないはずだった。巴の話によれば、剣道部の主将が機転を利かせてくれたらしい。思えば、高等部にあがってからというもの剣道部に入部した巴とは、授業の合間の休み時間くらいしか話す暇がなかった。雛苺も時々さびしそうに、部屋で一人ぼーっとしてることが増えた。見かねて、雛苺に朝の登校を提案したとき、心底嬉しそうに「ヒナ、はやおきするのー!」と、部屋を駆け回っていた事を思い出す。 雛苺は、まっすぐに感情をぶつけてくる娘だったが、ここのところずっと我慢をしていた。巴のためになら。雛苺は雛苺なりにそう考えて、極力巴に迷惑をかけないよう頑張っていたのだろう。だからこそ、こんな事でもないと一緒に居られない巴と雛苺の時間を、真紅は邪魔したくなかった。巴と雛苺の間には、同じ時間を過ごしてきた真紅にすら入り込めない、何か強い絆なのような物を感じていた。だからといって、自分が蚊帳の外ではない事くらいは承知している。雛苺は巴にするのと同じように真紅を求めて、巴も雛苺にそうするように真紅に笑顔をみせてくる。真紅は二人が大好きだった。だからこそ、二人の間を大事にしていたし、同時にちょっぴり嫉妬も覚えたこともあった。「真紅?」紅茶の缶を持ったまま、思いふけっていた真紅のすぐ傍で巴の声がする。「巴?雛苺は?」「寝ちゃった。昨日の今日だから、疲れてたんだと思う。」「そう…」
巴が真紅の隣に座る。凛とした姿勢、巴の放つ気配は、周りの空気をも飲み込んで、真紅に病院の喧騒さえ忘れさせる。会話はない。だが、真紅と巴は、お互いがそこにあるべきものとして、無意識にお互いの存在を取り込む。対話がなくても、そのしぐさ、その気配で、相手が何を思っているかなんとなくわかってしまう。そして、それは真紅にとっても巴にとってもとても心地の良いもののはずだった。「巴。」それを打ち破ってまで、真紅が巴に声をかける。「うん…」ほんの僅かな違和感。それが真紅に声を掛けさせた。「悩んでいるの?」「うん…そうね、悩んでいるのかもしれない。」「話して。」「今は…だめ。」「そう…」病院の喧騒が俄かによみがえる。隣に座っていたはずの巴がいつのまにかいなくなっていた。飲みかけの紅茶を、ぐっと喉に流し込んだ。(巴、バカな事を考えなければいいのだけれど…)
翌朝、いつもの時間に真紅は巴の家の前を通りかかる。同時に、いってきますの声が聞こえて、巴が姿を現す。「おはよう、巴。」「おはよう。」雛苺がいないだけで、どこかにぽっかり穴が開いたような、そんな不自然さを覚える。「雛苺、早く治るといいね。」「そうね。」いつもの通学路。だが雛苺は居ない。それだけで――それだけで、朝の通学路は静かで、長くて…雛苺がいないだけだというのに。「巴、昨日の事…」「そうだね…私、今度の大会が終わったら剣道部を辞めようと思っているの。」「そう…」真紅があまり驚かない事は、巴にとって少々予想外のことであった。「剣道部を辞めれば、今までより雛苺と遊べる時間もできるし、ちょっと気が早いかもしれないけど、受験勉強のこともあるし…それに、元々は父の言いつけで始めた事だから…」「そう…残念だわ。あなたの姿勢、とても好きだったから…」真紅は否定も肯定もしなかった。ただ、残念だ、そうとだけ言った。真紅はいつもそうだった。誰かが岐路に立ったとき、決して安い助言などせず、何も言わずに見守る。ただ、それは巴にとっての防波堤でもあった。ともすれば流されてしまいそうな自分を、真紅はその岐路の中央に立つことで食い止めてくれる。そして、彼女は自分で決めた事ならば決して否定はしなかった。こんな真紅だからこそ、巴は彼女を信頼し、そして今まで付き合ってこられたのだとそう思う。「巴、大分先送りになったけれど、紅茶をご馳走するからいらっしゃい。」いつもは黙って送り出す真紅が、正門のところで、少々強引に巴の腕を捕まえた。「え…でも…」「たまには休息も必要なのだわ。」
なすがままに教室へ連れてこられた巴。動揺している巴にはお構いなしに真紅は持参のティーセットを机の上に広げる。「ほら、座りなさい。」「あ、う、うん」巴が席につくと、すぐにティーカップに紅茶が注がれる。「どうぞ。」「いただきます。」茶葉の種類なんかは巴にはよくわからなかったが、とても芳しい匂いが、巴の鼻腔をつつく。「あ、美味しい…」思わずそう漏らす。それほどに、真紅の入れた紅茶は美味しかった。その紅茶からは、真紅の細やかな気遣いや、何より真紅の気持ちが感じられて、巴は少し嬉しくなった。「私が淹れた紅茶よ、まずいわけがないのだわ。」そんな巴の表情に、少し照れたような真紅。自分のティーカップにも紅茶を淹れて、飲み始めた。「巴…私はあなたが決めた事なら、否定はしない。むしろ応援したいと思っているわ。」「うん…」「あなたは今悩んでいるようだけど――」コトリそんな音を立てて、真紅がティーカップを置いた。「どの道を選んでも、扉は開いているわ。そして、その扉に飛び込むことも、引き返す事も、あなた次第。大事なのは、決意する事。決意は決して人の目にも、自分の目にも見えないものだけど…見える物全てが真実ではなければ、感じた事はすべてあなたにとっての真実なのだわ。だから、これだけは言わせて。」真剣な眼差しを巴に向ける真紅。吸い込まれそうな瞳、もしかしたらもう既に吸い込まれていたのかもしれない。綺麗な真紅の瞳に、自分が移っているのが見えた。「恐れないで――」
その日の放課後、部活を早退した巴は足早に病院へ向かっていた。「早いのね。」病室のドアをあけると、既にそこに真紅がいて、雛苺の様子をじっと見ていた。「今日も、巴が来るかも、ってさっきまで起きていたのだけれど…」真紅が指差す。雛苺は、枕を抱きしめたままスゥスゥと寝息を立てていた。「……じゃあ、私はまた紅茶を買いに行くのだわ。」一瞬巴をじっと見つめた真紅だったが、すぐにそういい残して病室を後にした。狭い室内に雛苺の寝息だけが聞こえる。巴はベッドのすぐ傍にある長いすに腰掛けて、雛苺の様子をじっと見つめていた。(私…どうするのが一番いいのかな…雛苺…)「ううん…トモエ…負けちゃだめー…なの…」眉間に薄くしわを寄せて、雛苺がつぶやく。どんな夢をみているのだろうか。雛苺の寝言は、巴をはっとさせた。(そうだよね…雛苺…負けちゃダメだよね…!)涙が溢れてくる。それを拭うこともせずに、雛苺の頭をなでる。「うん…ともえ…だいすきなのー…」雛苺の顔が穏やかな寝顔に戻っていく。今朝真紅に言われた事を思い出した。扉は開かれている。けれど自分は分かれ道でその道の先を危惧するばかりで、道に踏み出そうとすらしていなかった事に気付いた。(うん…雛苺…私、もう負けないから…)日差しが強く部屋を照らして、巴の瞳を白く照らした。涙で滲んだ巴の目は、けれど迷いのない真っ直ぐな目で、窓の外を見つめていた。
~fin~
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