父と子
趣味。恐らく人の生涯においてかなり重要なポジションにある事柄。大抵の場合、その趣味はその人の得意なこと。勿論、不得意なことが趣味の人もいるけど。特技、と言い換えたほうがいいだろうか?それが一般的な、もしくはイメージに合ったものなら何も問題はない。だけど、もしそれがイメージと違っていたら、その人を待つのは周囲からの酷評。特に周囲が幼いほど、遠慮がない辛辣なものになる。あー、ちなみに、僕は問題があるパターンだ。察しのいい人なら、昔に何があったか、大体分かるだろう?「……あれ?」その時、僕は本日最後の授業の準備をしていた。移動教室でみんながぞろぞろと教室から出て行こうとしている中、足元に薄い紫色のハンカチが落ちているのに気が付いた。拾い上げてよく見てみる。紫陽花の刺繍が入った、手作りらしきハンカチ。「僕の、なわけないしなあ。」どう見ても女の子の物だ。とりあえず周りの席の人に尋ねてみようと思ったが、もう教室の中にはいないらしい。「桜田ぁー、次化学だろ?早くしないとやばいぞー。」「うん、今行く。」間延びした友人の声に呼ばれて、僕はひとまず実験室に向かった。……授業は散々だった。いや、単に授業内容がよく分からなかっただけだけど。他の学校はどうなのか知らないが、この学校は基本的に終礼がない。つまり、最後の授業が終わった瞬間急にみんなが開放的になるのだ。授業を終えてわざわざ教室で担任を待っていた中学とは大違いである。授業に集中できなかったのは…多分、ポケットの中のさっきのハンカチのせいだろう。持ち主を探すことを忘れないようにずっと意識していたからだ。間違いない。さっさと先生に預ければよかったかな、と思いつつ帰りの支度をしている右隣の席の人に話しかける。「薔薇水晶さん。」左目に眼帯を着けたロングヘアの少女がこちらを向く。薔薇水晶。何というか、不思議な子だ。そんな印象しかないのは僕が彼女と関わることがほとんどないから、詳しいことをよく知らないだけなのだろう。「……何?桜田君。」薔薇水晶の首を傾げる動きに合わせてさらりとした髪が揺れる。どことなく、ふわりとしていた。彼女の髪もそうだけど、何よりも彼女の持つ雰囲気が。そう感じたのは、何故なのだろうか。気が付けば琥珀色の瞳がこちらをじっと見つめている。あの眼帯の下にも同じ色をした瞳があるのだろう。「あのさ、このハンカチ誰のか、分かる?」意識を手元に戻して彼女に尋ねた。「……それ、私の……」ジャストでしたか。一発目で持ち主が分かる、というか遭遇するとは思わなかった。「はい、これ。」ハンカチを本来の持ち主に手渡す。僕の差し出した手に合わせて薔薇水晶の手も前に出る。淡い紫の地に紫陽花がくっきりと浮かんでいた。紫色のハンカチが手に戻ると、薔薇水晶はそれを握り締めて。「……ありがとう。」微笑んで、とても嬉しそうにそう言ったのだった。僕たちは、その日から互いに言葉を交わすようになっていた。あの時に、契機が訪れたのだと思う。僕は今の今まで女の子とまともに向き合ったことなんてほとんどなかった。そんな僕が朝薔薇水晶に挨拶をし、他愛も無いことを喋り、帰り道に笑いあうようになったのだ。まあ、いつも一緒にいる、というわけではないけれど、前より格段に僕たちは親しくなった。別に互いに友情を求めたわけじゃなかった。仲良くなりたいから仲良くなったというわけでもなかった。何というか、自分で言うのもどうかと思うけれど、僕たちは純粋な関係なのだと思う。家が何処にあるのかも分からないような関係だけど。それは、彼女がとても純粋だからなのかもしれない。ある日の夕方。橙赤色の、僕たち以外誰もいない教室。ホームルームは毎日自習室として開放されている。利用者がテスト前にならないと増えないのは最早お約束だろう。人が少なくて静かだ、というわけで僕と薔薇水晶は毎日残って教室を使わせてもらっていた。時計を見ると短針が真下を指そうとしていたので、僕たちは帰る支度を始めた。「あ、薔薇水晶さん、袖のボタンが取れかかってる。」ふと薔薇水晶のブレザーのカフスボタンがぷらぷらと揺れていることに気付く。金色のボタンは一本の黒い糸に結ばれて辛うじて落ちずにいた。「うん……帰ったら、直そうと思って……」袖を顔の前に寄せて、彼女はそう言った。同時にぷらん、とボタンが揺れる。かなり、不安定だ。見ていてやきもきするような、宙ぶらりん。……あ。「そうだ、ちょっと待ってて。」僕はカバンを机の上において廊下に飛び出した。薔薇水晶が、不思議そうな顔をしていた。備え付けてあるロッカーを開けて、家庭科の授業で使っている裁縫セットを取り出す。僕は席について、手早く針と彼女の制服とボタンを繋げているのと同じ色の糸を取り出した。細い糸を適当に取り、噛み切り、指に巻きつけてヨリを作って、そこから玉を作る。「薔薇水晶さん、手、出して。」針に糸を通して僕は薔薇水晶にそう言った。はさみで糸を切って、中途半端にくっついていた袖のボタンを外す。僕は彼女の二の腕を手にとって、しゅっ、しゅっ、と手際よく、ブレザーにボタンを縫い付けていった。「終わったよ。」この程度のことなら5分もかからない。彼女の手から自分の手を離して針をケースに戻した。「すごい……桜田君、こんな特技があったんだ……」「うん。……あまり人には知られたくないんだけどね。」悲しい気もするが、事実だ。小学生の時にあの抜けた姉にこのことを漏らされて、何度女男と呼ばれたことか……でも、それだけならまだ良い方だったのかもしれない。何せ中学の時は――「あのね、桜田君。」声を掛けられて思考を中断する。僕たちは、向かい合っていた。光の反射で埃が中空に浮かび上がって見える。それすらも、幻想的だった。「何?」「あのね……あのね……」少しだけ、言いよどんでいる。窓から見える夕焼けが彼女の顔を照らしていた。だから、いつも白く透き通っていた薔薇水晶の顔は綺麗なオレンジ色をしていて――「……ありがとう。」――その言葉が、前に聞いたありがとうより美しく、聞こえた。そして、可愛い、と思ったのだ。彼女のことを。薔薇水晶という一人の女の子のことを。「……どう、いたしまして。」少しだけ、言葉が詰まる。――ああ、きっと。この時に桜田ジュンはきっと。きっと、薔薇水晶のことを好きになってしまったのだ――「じゃあ……帰ろ?」「……うん。」僕たちは微笑んで、歩き出した。明日も晴れるといいね、と言った彼女の言葉に、僕がそうだなぁ、と返す。こんなに綺麗な夕焼けが出てるんだから、きっと晴れるよ。薔薇水晶。口に出して、それから二人で空を見上げた。広くて、澄んだ、橙色の空を、二人で。そして、さよならを言わずに、僕たちは別れた。―――夢を、見ている。孤独な夢。こいつの趣味を知ってるか、と誰かが笑う。お前は気持ち悪い、と誰かが言う。誰かが、哀れむような、嘲笑うような、どちらかはっきりしない眼で僕を見る。――ああ、うるさい。お前たちが僕の何を知ってるってんだ。お前たちの趣味は人のを嘲られるほど高尚だってのか。うまく、過ごしていけるはずだったのに。毎日に絶望せずに、生きていけると思っていたのに。確かに、希望が、あったのに。「おい!女装趣味がこっちに来るぞ!」「アハハ、内股で歩いてんのを誤魔化してんじゃね?」「桜田くーん、次に作るドレス、僕にも見せてよー。」「っていうかあいつ、ホモ?」「あるある!みんな、後を守れーっ!」「あはははははははははははははははははははははははははははは」「気持ちわりぃ」「ははははははははははははははははははははははははははは」「寄るんじゃねぇよ」「はははははははははははははははははははははははははははははははははははは」ぶち壊したのは、誰だ?―――そんな、苦しい夢だった。「……最悪、だ。」どろり、と頭の中に血が重く流れる感覚。時計はすでに9と24という数字を示している。――ああ、今日は日曜日だったっけ。掌で額の汗を拭う。べとり、と指と指の間に絡みついた。今週は良い週だと思ったのに、なぁ。最後の最後にこれか。僕の脳は、余程僕のことが嫌いらしい。汗だくだったので、とりあえずシャワーを浴びた。冷水で身が軋む。ついでに眠気も覚めた。汗が流れ落ちた身体をからからに乾いたタオルでふき取った。タオルの生地はやけに肌に馴染まなかった。何故か、なんて考えない。さっぱりしている筈なのに、まだどこかに靄が纏わりついている。バスルームから出て、ふと鏡に映った自分の顔が見えた。――ああ、やっぱり酷い顔だ。別に眼の下に隈があるわけじゃない。顔色が悪いわけでも、頬が痩せこけているわけでもなかった。それなのに、『やっぱり』と思う。この矛盾に違和感を感じないのは多分僕だけだ。しーん、と何も音がしない居間。そのドアを開けると同時にお腹が鳴った。姉は部活の合宿で今は家にいない。しかも、僕に料理はほとんどできない。したがって、朝ごはんはトーストとベーコンエッグなんていう極々シンプルなものになる。あ、あとトマトでも付けてみようか。油を敷いたフライパンを暖めて、ベーコンを設置。頃合を見計らって卵を落とす。正しい調理法を僕は知らない。今やってることは全部フィーリングだ。ベーコンを覆ってフライパンの上に落ちた蛋白質がじりじりと固まりだした。半熟に、できるといいなぁ。……どろどろだった。黄身が。朝食を終えて、時計を見ると現在時刻は10時15分。どうせテレビはつまらないのか平日の番組の再放送だろうと踏んで、とりあえず自室に戻った。それからしばらくして。ぴりりりりりり。携帯電話の、メール着信音が鳴る音。机の上の充電器から本体を取り外さずに画面を開く。「……薔薇水晶さん、か。」思わず声に出た。今までにも彼女からメールが来たことはあったが、今までよりもどこか嬉しい。というよりも、わくわくする。かち、かち、とボタンを押して内容を見た。「――桜田君……私の家に来るの初めてでしょ……?」「……これが初めてだなぁ。女の子の家に行くことなんて。」昼過ぎ。いつも朝僕が登校する際に通る道を二人で歩いている。始めて見たよ。私服の薔薇水晶なんて。「ごめんね……急に課題を一緒にやろうなんてメールして……」薔薇水晶がどこか申し訳なさそうに顔を伏せた。「いや、気にしないで。……僕なんか課題の存在すら忘れてたんだ。むしろお礼が言いたいぐらい。」「……桜田君、結構危なかったんだね……」「……確かに。」くすくすと彼女が笑う。朝の憂鬱な気分なんてどこにも無い。自分の内側がとても澄み切っているように感じた。ふっくらとした雲が、いくつか蒼穹に浮かんでいる。ただ、感覚のズれたカラスが一羽だけ、くけけぇと鳴いていた。
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