第二回
『貴女のとりこ』 第二回日を追う毎に、雪華綺晶の常軌を逸した行動は、酷くなっていく。平日は、通学時間から巴に寄り添い、巴の部活動が終わるまで、待っていたりもした。常に、清純な乙女であること。そんな勝手極まりない理想を、巴に強要し始めたのである。日常生活の中の、ちょっとした態度でも、だらしないと見なせば、すぐに注意が飛んだ。――しなさい。――すべき。――は止しなさい。人前でも平然と注意を促し、会話できない状況では、携帯電話でメールを送って来る。最初の内は、雪華綺晶の老婆心なのだろうと思っていた巴も、だんだんとエスカレートしていく彼女の行為に、不気味なものを感じ始めていた。僅かでも不信感を抱いてしまうと、そこから更なる不信が生まれる。不信が悪い想像を誘発し、より多くの不信感を抱かせてしまう。ネズミ算式に増えていく負の連鎖だ。やがて……巴の抱いた不信感は、目に見える形となって彼女を苛み始める。雪華綺晶の監視は、学校だけに留まらなくなっていった。日曜日、珍しくジュンが映画に誘ってくれた時のこと。彼と並んで歩く、嬉しくて楽しいひとときを、巴の携帯電話が邪魔をする。「あ、メールの着信。桜田くん、ちょっと待って」差出人は…………雪華綺晶。巴の表情が強張った。ここ最近、彼女から頻繁に、メールが届いている。それらは、仕種や心得など、些細なことを諫める内容だった。何処かから見張っているとしか思えないほど、細部に渡って書かれていた。普通の者ならば、気味悪くなって縁を切ろうとするだろう。或いは、携帯のメアドを変更したり、着信拒否の設定をするなど、それとなく、拒絶の意志表示をしてみたりするものだ。けれど、巴もは、それをしなかった。正確には、出来なかった。何故ならば、怖れていたから。雪華綺晶は学校中の人たちに慕われている。彼女を怒らせたら、彼女を泣かせたら、彼女を拒絶したら……。次は、自分が周囲の人々に拒絶される番かも知れない。周囲の人々に白い目で見られて、口も利いてもらえなくなるかも。同年代の男女が、一カ所に集められる特殊な場所――――学校。そこは、広い世界の、ほんの一角でしかない。そんな小さな世界で孤立してしまうかも知れないと思う事は、巴にとって非常に恐ろしく、寂しいことだった。携帯のディスプレイを見つめたまま、青ざめている巴の様子に気付いて、ジュンは極力、穏やかな口調で問いかけた。「どうしたんだ、柏葉? もしかして、急用でも出来たのか」「っ!」ビクッ! と身体を震わせる巴の態度は、誰が見ても妙だった。ジュンは眉を顰めて、巴の横顔を覗き込んだ。「おい、柏葉。急に、どうしたんだよ。メールを見てから様子が変だぞ」「え、と……あの……ごめんなさい」あまり、言いたいことを口に出来ない巴。けれど、こうまで粘着質で押し付けがましい事をされると、嫌気が差してくる。流石の巴も、雪華綺晶を疎ましく思い始めていた。このままでは、いけない。自分にとっても、彼女にとっても、今の関係を続ける事は耐えがたい不幸だ。では、どうする? どうすれば良い?(桜田くんなら、信頼できるし…………相談してみよう)巴は「これ、見て?」と、ジュンに自分の携帯を差し出した。怪訝な顔をする、ジュン。だが、巴の真剣な表情に気圧されて、躊躇いがちに、彼女の携帯を手に取った。そして、少し読み進めるなり、言葉を詰まらせた。【こんにちは、柏葉さん。雪華綺晶です。 今日は、ジュンさんとデートですのね。羨ましいですわ。 でも…………くれぐれも、油断無きように。 彼は紳士ですけれど、暗い映画館の中では、何が起きるか分かりませんから。 まあ、危ない気配が漂ったら、私が阻止しますけどね。 貴女を護るのは、私の務め。貴女の美しさは、誰にも汚させませんわ。 それでは、また後ほど……】読み終えて、一分ほどが経ってから、ジュンは重い溜息を吐いた。明らかに、尾行しながら書いている内容だ。しかも、巴を護るのが自分の務めなどと、奇妙な事も口走っている。尾行をするくらいなのだから、質の悪い冗談ではないだろう。「何なんだよ、これ? なあ、柏葉。ひょっとして、こんなメールが頻繁に届いてるのか?」先程の豹変ぶりを思い出して、ジュンは鎌をかけてみた。案の定、巴はこくりと頷き、ジュンの手から携帯を取り返すと、着信履歴を表示して見せた。間隔はマチマチだが、受信したメールは、かなりの数に上っている。「最近になって、更に回数が増えたの。真夜中に届くこともあって……。 わたし、なんだか怖い」「これってもう、ストーカーだぞ。着信拒否とか、した方が良いんじゃないか?」「……だ、だけど……きらきーさんも、悪気があっての事じゃないし」「悪気がないから、余計に質が悪いんだよ」相手に迷惑をかけている自覚が無いから、悪質な行為でも平然と行える。それを続けることに何の疑いも持たないから、歯止めが利かないのだ。「柏葉が言い難いんだったら、僕がハッキリと話してやるよ。こんな行為は止めさせなきゃ」ジュンの力強い台詞を受けて、巴は心に勇気が湧いてくるのを感じた。彼の言うとおりだ。こんな事は、断固として止めさせなければならない。それも、自分の口から、ハッキリと雪華綺晶に言わなければ。「ありがとう、桜田くん。やっぱり、貴方に話してみて良かった」「それじゃあ――」「うん。わたし、これから彼女に言ってくるわ。こんな事は、もう止めてって」「僕も着いていくよ」「……ありがとう、桜田くん」巴は頬を染めて、嬉しそうに微笑んだ。本当は、とっても怖かった。独りで向かっていたら、途中で引き返してしまっただろう。でも、ジュンが居てくれるなら勇気百倍。どんな事でも、出来そうな気がした。「これから話がしたいって、連絡しといた方が良いな」「そうね。ちょっとメールを送ってみる」雪華綺晶は、その辺りに潜んで、こちらの動きを観察しているだろう。適当に歩いていれば、かち合う可能性が高い。だが、偶然の出会いを待っているほど、悠長には構えていられなかった。巴がメールを送ってから、三分で返信が届いた。【お話の件、しかと賜りました。場所は、私の家でいかがですか?】取り敢えず、場所は何処でもいい。話の内容こそが肝心なのだ。「行くか、柏葉」「…………桜田くん。あのぅ」「? なんだよ」「手を……繋いでも、良いかな?」やはり、不安なのだろう。ジュンは優しい笑みを浮かべて、返事の代わりに、巴の手を握った。驚いて、引っ込められた巴の手を、元の位置に引っ張って戻す。「繋ごうって言い出したのは、柏葉だろ」「あ……ごめんなさい」「別に、謝らなくてもいいよ。それより、早く行って、さっさと済ませよう。 映画の上映時間が終わっちゃうからさ」「うんっ!」巴は、ジュンの手を、そっと握り返した。彼の掌の温かさが、手首を伝って、昇ってくる。それは肘を越え、肩を通り過ぎて、巴の心に染み込んでいった。頼もしさと、安らぎで胸が満たされ、とても心地よい。この想いを表現するなら――些か、陳腐だけれど――幸せ、の一言に尽きる。(この人を、好きになって良かった。もっと、この時間が欲しい。二人だけの時間が)きっと、直ぐに終わらせよう。ジュンと巴は、意気込んで雪華綺晶の家へと向かった。その頃、雪華綺晶は握り潰しそうな勢いで携帯を掴みながら、自宅へと走っていた。(彼と彼女は、私に何を話そうとしているのかしら)形式的に自問したものの、答えは既に、解っていた。だから、こうして携帯電話を握り締めているのだ。やり場のない憤りを、一手に集めて。だから、こうして無我夢中で走り続けているのだ。戸惑い迷走する心を、持て余す様に。――もう、付きまとわないで。巴は、それを言いに来る。彼女は、私の善意を歪んで解釈している。私のことを、粘着質で、押し付けがましい女だと、誤解している。「何故ですの? 私は、貴女の虜。私の心は、貴女のものですのに」ただただ、巴のために、良かれと思って注意しただけなのに。「何故、貴女は私から逃げるの? どうして、私の気持ちを解ってくれないの? ううん……きっと解っている。 なのに、私の方を振り向いてくれないのは、きっとジュンさんが居るから」彼が……邪魔をしているの? 巴に、私の悪口を吹き込んでいるの?ならば、排除を…………いいえ、それだけは、ダメ。愛する妹、薔薇水晶は、彼を愛している。妹から、彼を奪うわけにはいかない。突如として、雪華綺晶の脳に、天啓が閃いた。(そうですわ! それなら、巴を私の手元に置いてしまえば良いじゃありませんか)何も悩む事なんて無かった。どうして今まで、思い付かなかったんだろう。答えは、こんなにも簡単なことなのに。彼女を、私の手元に繋いでおけば良いの。そうすれば、毎日でも美しい彼女を愛でていられる。朝な夕な、綺麗な彼女と、添い寝を楽しめる。――私だけの、お人形。――大事に大事に、しまい込んで。――誰にも、見せない。誰にも、触らせない。――彼女は、私だけの……綺麗な綺麗な、お人形さん。「くくっ……うふふふふふふふっ。あはははっははっはははっあははは!!」雪華綺晶は哄笑しながら、嬉々として帰路を急いだ。二人が来るまでに、準備を済ませてしまわないと……。 ~第三回に続く~
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