~第三十六章~
~第三十六章~ 室内に、どぉん! と大音響が轟いた。誰もが動きを止め、音源の正体を確かめるべく、ちらと目を向ける。そこには、俯せに倒れている、のりの姿。もっと卵が潰れるような生々しい音を想像していた金糸雀の予想に反して、それは意外なほど、おとなしい落着音だった。 「のりさんっ!」水銀燈と鍔迫り合いを演じていためぐが、悲鳴に似た声で、彼女の名を叫んだ。のりは二度、三度と痙攣を繰り返していたが、めぐの呼びかけに応えるかのように正気づいて、微かに呻き声を上げた。氷鹿蹟の角で穿たれた傷口からは、真っ黒な液体が、勢いよく湧きだしている。瀕死の重傷である事は、誰の目にも明らかだった。ぽっかりと開いた傷口から、蛍ほどの小さく赤い瞬きが、ふわり……ふわり……。それは徐々に数を増して、遂に、のりの体表を仄かに照らし出すまでになった。赤い群を離れて、金糸雀の方へ飛んでくる光が、ひとつ。直感的に、金糸雀は、それが彼女だと解った。短筒を捨てて、両の掌で赤い光を包み込むと、彼女が頭の中に話しかけてきた。 (本当に、ありがとう。これでやっと、呪縛から解き放たれたわ) 「みっちゃん……ごめんなさい。カナには、こんな事しか出来ないかしら。 人の生命を救うのが医者の務めなのに……死なせてあげる事しか――」あまりにも無力な自分が情けなくて、悔しくて――金糸雀は唇を噛み締めて、ぽろぽろと涙の滴を降らせた。一粒の滴が、赤い光を叩き、砕け散る。みっちゃんの魂は、まるで雨に濡れた犬が身震いするみたいに、小刻みに揺れ動いた。 (誰だって、万能じゃないわ。 神様にしか出来ないことは、人が代行しなくてもいいの。 それに……カナは立派に務めを果たしたじゃないの。 ほら、ご覧なさいな)赤い光が、金糸雀の視線を誘導するように、ふわりと舞い上がる。その軌跡を辿って顔を上げた金糸雀は、部屋中を乱舞する命の瞬きを目にして、思わず息を呑んだ。こんなにも美しく、幻想的な光景を見たのは、多分、人生で初めての事だった。 (ね? みんな、あんなに自由気侭に飛び回っているでしょう。 あの煌めきは全て、カナが解き放った生命の輝きなのよ) 「みんな……カナが殺してしまったのね」 (どんな方法であれ、みんなを救った事に変わりはないわ。 言った筈よ。神様の所業を、人が兼ねる必要は無い……って。 だから、ね。カナが気に病むことなんてなーいの)みっちゃんは、ふわりふわりと天井へと昇っていく。その様子を、金糸雀は濡れた頬を拭いもせず、胸の前で両手を組んで見送っていた。さながら、祈りを捧げるように。 (それじゃあ、もう行くわね) 「みっちゃん……カナは――」 (生まれ変わっても、まだ縁が繋がっていたら……会いましょう) 「カナは、みっちゃんの事が――」 (……さようなら…………金糸雀) 「大好き……だったかしら」赤い光の群は、竜巻のようにくるくると回りながら、徐に消えていった。最後の言葉が彼女に届いたかは、解らない。だが、金糸雀は「きっと聞いてくれたよね」と呟き、涙を流した。薄暗い室内の、重苦しい静寂を、のりの呻き声が破る。のりは、ぎくしゃくと顔を上げて、めぐを見つめた。右眼は銃弾に穿たれ、頭の随所が損壊している。緩く波打つ髪が、墨汁を浴びたように、黒く、べったりと肌に張り付いていた。のりの唇が、戦慄きながらも、言葉を紡ぎ出す。 「……め……ぐ」めぐに向けて差し出した左腕は、火傷と裂傷によって、醜く腫れ上がっていた。震える腕は、五秒と経たずに床に落ちて、再び宙へと差し伸べられる。ほんの僅かな間でさえ、保持していられないのだろう。縋るような眼差しを自分に向け、幾度も腕を伸ばす彼女の必死さに、めぐは胸を締め付けられた。いたたまれなくなって、鍔迫り合いを続けていた水銀燈の太刀を押し返すと、めぐは、のりの元へと駆け寄った。「のりさんっ!」あの娘が走ってくる。お姉ちゃんの名前を呼んでくれている。のりは弱々しく微笑んで、今一度、床に落ちた左腕を伸ばした。もう一度……たった一度だけで良いから、めぐに手を握って欲しかった。彼女の体温を、自分の掌で感じ取りたかった。それが、最後に望むこと。不思議なことに、逢いたいと願っていた弟、ジュンの事は思い出さなかった。 「めぐ…………お姉ちゃん……もう……ダメみたい」 「そんなっ! 何を弱気になっているの?! 大丈夫よ、その程度の怪我。 御前様なら、きっと治して下さるわ」叫んで、めぐも走りながら、左腕を伸ばした。しっかりと手を繋いで、のりを勇気づけるために。けれど、それだけが目的ではない。鈴鹿御前の御魂を宿す自分と手を繋ぐことで、のりの気力が漲る事を期待していた。 「ふふっ……優しい娘ね……めぐは」滑り込むように、のりの元に座り込んで、めぐは懸命に手を握ろうとした。 「大丈夫よ! きっと、大丈夫だからっ!」 「……ありがと、ね…………めぐ」握ろうとしたのに、のりの左腕は、めぐの指が触れる寸前、砂となって崩れ落ちた。手首から、肘。肘から肩へと、砂と化した身体が、音を立てて崩れゆく。 「あぁ……そんな……ダメよ! 死な……ないでよぉ。こんなの、イヤぁ!」 「泣かないの。めぐは、まだ……闘……い続……け」左肩から、頚、そして――のりは自らの全てを砂の山に変えて、事切れた。めぐは歯を食いしばって嗚咽を堪えながら、数秒前まで彼女だった砂を握り締めた。掌の中で、砂が鳴く。それは、のりの泣き声だったのか。はたまた、のりに食われた者の慟哭だったのか。幾ら考えたところで、当事者ではないから、よく解らない。ただひとつ確かなことは、のりが死んだ……ということだけだった。 「これが――」両肩を震わせながら、めぐは憤怒の形相で、金糸雀を睨みつけた。指の関節が白くなるくらいに左手を握り締めて、鼻の頭に皺を寄せている。双眸から流れ落ちる涙を止めようともせず、金糸雀の眼を凝視していた。 「これが医者のやることなのっ!? 医者のクセに、人を殺すなんて!」 「医者だからよっ! 貴女になんか、この辛さが解る筈ないかしら! 助かる命を救うために、助からない命を見捨てなければならない辛さが!」 「ふざけたことを! のりさんだって、生きていたのよ?」 「いいえ! 少なくとも、彼女はもう生きてはいなかったかしら。 鈴鹿御前に仮初めの命を与えられた、操り人形に過ぎなかったのよ!」金糸雀は、めぐと同様に涙を流しながら、売り言葉に買い言葉とばかりに反論した。だが、決して感情的に喚き散らしていた訳ではない。真っ直ぐにめぐの眼を見詰め返す金糸雀の瞳に、狂気や動揺の色は微塵もなかった。めぐは激昂のあまり、わなわなと身を震わせた。短い間だったが、のりは雪華綺晶と共に、新参である自分の面倒をよく見てくれた。妹のようにさえ、可愛がってくれたのだ。尊敬の念すら抱いていた女性を、よりにもよって、大嫌いな医者に愚弄される事は、彼女にとって耐え難い屈辱だった。 「黙れっ! やっぱり、医者なんてっ」めぐは立ち上がり、金糸雀を斬り捨てるべく、走り出した。しかし、彼女の脚は、数歩先で止まる。正確には、止められた。彼女と金糸雀の間に割り込んだ、水銀燈によって。 「この娘たちには、手出しさせないと言った筈よ、めぐ」 「あくまで立ち塞がると言うのね。それなら貴女か、ら斬……!」不意に、心臓の痛みを覚えて、めぐは言葉を詰まらせた。鈴鹿御前の元で働くようになってからは、一度として起きなかった痛みが、なぜ今頃になって、突然に襲ってきたのだろうか。興奮しすぎたところで、急に立ち上がり、走り出したから?そう考えて、めぐは傍目に気づかないほど微かに、頭を振った。これまでにも、今以上に激しい動きで、心臓に負担をかけたことは多々ある。しかし、いつだって、こんな発作は起きなかった。完全に治ったものだと……御前様が治してくれたのだと、信じて疑わなかった。それなのに、これは一体、どういう事なのだろうか。 (まさか……私の命も……仮初め、の?)そんな筈はない。めぐは、ふと湧き起こった愚考を、即座に否定した。この命は、御前様の御魂なのだ。後から取って付けたような代物ではない。心臓が痛むのは、一時的なことだろう。興奮が冷めれば、きっと症状も収まる。 「? めぐ……貴女、ひょっとして胸が痛――」 「近寄らないでっ!」左手で胸を押さえたまま表情を曇らせためぐを、水銀燈が気遣う。だが、近づこうとした彼女に対して、めぐは龍剣『緋后』を振り回して遠ざけた。 「貴女とは敵同士なのよ。馴れ馴れしく、私に触らないで!」今、水銀燈に触れてしまったら、心臓の動きが余計に狂ってしまう。不規則に打ち鳴らされる脈拍は、迫り来る死神の足音のようで、めぐの恐怖を煽った。折角、思いどおりに動き回れるようになったのに。水銀燈と、思う存分、遊び回れる身体になったのに。今更、全てが儚い幻想だったなんて、思いたくない。信じたくない。気付けば、めぐは胸中で、鈴鹿御前に問い掛けていた。 (御前様……これは、どういうことなのですか? 答えてください! 病魔に蝕まれていた私の身体は、完治していたのでは、ないのですか?)――めぐ。わたしの話を聞くがよい。めぐの頭の中に、直接、優しい声が話しかけてきた。母親が、我が子に寝物語を囁くような、穏やかな声色。けれど、語られた言葉は、凍てつく湖に沈められるかの如くに、冷酷なものだった。――お前は、未練を捨てつつある。現世への執着を失いつつある。 (だから、胸が痛み始めたと言うの? 私の病気を治してくれたんじゃなかったの?)――病は気からと言うであろう。最初から、治ってなどいなかったのだよ。 わたしが力を取り戻すために、お前の激情を利用させてもらっただけ。 (そんな…………そんなの酷い……酷すぎるわ)――妄執を忘れ、現世への執着が薄らいだお前は、もはや用済みやも知――尚も鈴鹿御前は語りかけてきたが、めぐは全く耳を貸さなかった。そんな余裕が……無かった。酷い。酷い。酷い。その単語だけが、めぐの頭の中で渦巻いていた。自分の醜い感情を利用された件に関しては、まあ良い。だが、それと引き替えに病気を治してくれるのでは、なかったのか?その場しのぎで症状の進行を止めただけなんて……これでは、枷を掛けられた家畜と同じだ。あの頃と――薬で病気を抑えていた日々と、なにも変わらないではないか。めぐの頭に、さっきの金糸雀の言葉が甦る。――鈴鹿御前に仮初めの命を与えられた、操り人形に過ぎなかったのよ!本当に、そのとおりだった。不意に、めぐの唇から笑みが漏れた。 「私もまた、仮初めの命を与えられて、躍らされていたお人形さん……か」そんな私でも、まだ生きている証は、残っているだろうか?この世への執着が……生きたいという想いが、この身に宿っているだろうか?水銀燈と再会して、思いっ切り遊びたいという願望が果たされた以上、もう思い残すことなど―― 「……いいえ、あったわ。まだ、私には切望することが残っている」呟いて、めぐはいきなり、走り出した。その眼は、ひたと金糸雀を捉えている。 「のりさんの仇、討たせてもらうわよ!」 「させないって言ってるでしょ! もう諦めなさい、めぐっ!」めぐの進路を塞いで、水銀燈は太刀を突いて牽制した。それで、めぐは脚を止めるか、無理に躱そうとして、体勢を崩すと考えていた。 「はああぁぁ――っ!」気合いの雄叫びを上げつつ、めぐは剣を大上段に構えて、突進してくる。そして彼女は――水銀燈の太刀に、自らの身体を飛び込ませていった。 手に伝わってくる、生々しい感触。甲冑を貫き、肉体を突き通す手応え。水銀燈は「え?」と呟いたまま、目の前の光景を、茫然と眺めていた。自分が握っている太刀に、めぐが、刺し貫かれている。 「くぁ……ふ…………思ってた以上に、痛いね……これ」 「ちょっ、めぐっ! なんて事をしてるのよぉっ!」水銀燈が慌てて剣を引き抜くと、刺した箇所から鮮血が迸った。のりの時とは違って、めぐの血はまだ、鮮やかな緋色だった。水銀燈は太刀を放り投げて、崩れ落ちるめぐの身体を抱きかかえた。静かに横たえて、めぐの頭を膝まくらしてあげると……彼女は水銀燈に向けて、弱々しく微笑み掛けてきた。 「お馬鹿さんっ! なんで、こんな――」 「だって……これが、私の望みだったんだもの。 貴女の手で、殺して欲しかった。私にとって特別な存在の、貴女に――」困惑して、頭を振り続ける水銀燈の頬を、めぐの指が優しく撫でる。彼女の瞳が、水銀燈の右腕に巻かれた草色の布に注がれた。 「……それ、まだ巻いていたの? もう、必要ないじゃない」 「私にとっては、大切な物なのよ。肌身離さず、持ち歩くくらいにねぇ」 「そう……なんだ?」めぐは大儀そうに瞼を閉じて、大きく息を吐いた。頬や額に落ちてきた水滴に驚き、目を開くと、水銀燈の泣き顔が近くにあった。 「めぐぅ…………こんなの……酷いわよぉ」 「泣かないでよ。言ったでしょう? これは、私の望みだった……って」 「でもっ…………でもぉっ……」めぐは人差し指の背で、水銀燈の頬を一度だけ拭って、続けた。 「私はね、ずっと……この時を待っていたのよ。 この瞬間の為に、生き長らえてきたの。 水銀燈の腕の中で、水銀燈に看取られながら……死にたかったから。 だから、貴女が村を出て行った時、とても悲しかったわ。とても辛かった。 貴女を追い掛けられない自分の身体が、恨めしくて…… 目を覚ませば、泣いてばかりだった」 「ごめん……なさい。めぐに、辛い想いをさせてしまったのね。 でも、私……めぐを助けたかった。 ずっと一緒に居たかったから……貴女の病気を治したかったのよぉ」 「……うん。今なら、解るよ。最初は、凄ぉく恨んでたんだけどね」戯けた仕種で話すめぐの顔色が、徐々に、血の気を失っていく。出血は止まらない。水銀燈の服に、めぐの血液が染み込んでいた。 「ねえ、水銀燈。私のお願い……聞いてくれる?」 「なぁに? 私で、出来ることなら」 「簡単なことよ。私の為に、歌って欲しいの……あの歌を……昔みたいに」水銀燈は、こくりと頷き、ひとつ、咳払いをした。 「……からたちの……花が……咲…………うぅっ。ダメ……歌えなぁい。 声が詰まって……巧く歌えないわぁ」泣き笑う水銀燈に、めぐは、昔のままの笑顔で応じた。 「下手でも良いから……歌ってよ。 貴女の歌を、聴いていたいの……終わりの時まで」 「……解ったわ。じゃあ、歌うから。めぐの為だけに、歌うからぁ」 「ふふ……嬉しいわ。だから好きよ……水、銀……とぉ」篝火の爆ぜる音しか聞こえない空間に、水銀燈の歌声が、途切れ途切れに流れ続ける。めぐは穏やかな笑みを浮かべながら、一筋……涙の跡を残して――永久の眠りに就いた。 =第三十七章につづく=
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