―如月の頃 その3―
翠×雛の『マターリ歳時記』―如月の頃 その3― 【2月4日 立春】空は、スッキリと晴れ渡っている。大気が澄んでいるせいか、遠くに連なる山々の稜線まで、ハッキリと見えた。けれど、眼下に見おろす街並みは灰色で、どこか暗く、寒々としていた。暦の上では春となったものの、季節はまだ冬なのだと思い知らされる。翠星石は、病室のベッドで半身を起こして、窓の外に広がる景色を眺めていた。(はぁ……検査入院なんて、退屈ですぅ)病室は四階なので、眺望なら悪くない。口の悪い人間は『バカと煙は高い所が好き』だなんて言うけれど、翠星石は、見晴らしの良い場所が大好きだった。山の頂や、東京都庁の展望台、レインボーブリッジを歩いて渡ってみたり――思えば、色々な場所に行ったものだ。蒼星石と一緒に行けば、どんな所でも楽しかった。同じ景色を見て、同じように感じて、心を動かした日々……。今となっては、それも美しい思い出。二度と取り戻せない、青春の1ページ。翠星石は、ベッドの脇に置いてある小物机に腕を伸ばし、引き出しを開いた。そこには事故当時の所持品がしまってある。財布に携帯電話など、大した物は持っていなかったけれど、どれも肌身離さず持ち歩くほどの貴重品だ。殊に、携帯のストラップは蒼星石の手作りで、翠星石にとって一番の宝物だった。衝突の際に落としたのだろう、携帯電話は擦り傷だらけだった。指にザラつく外装に触れて、手に持った瞬間、翠星石に戦慄が走った。思わず、喉が音を立てるくらいに、息を呑んだ。(無いっ! 蒼星石から貰った、あのストラップが無いですっ!!)落とした弾みで、千切れてしまったのか。そうとしか考えられない。翠星石の視線が、窓の外に向けられた。けれど、いくら見晴らしが良くたって、事故現場まで見える筈がない。いま直ぐにでも探しに行きたい! しかし、それは叶わぬ願いだった。入院中に居なくなれば、また、祖父母に心配を掛けてしまう。ならば、祖父母に探して来てと頼めば良いのだが、生憎と、二人は居ない。昨夜から付きっきりだった祖父母には、一旦、家に帰って貰ったのだ。あの歳で、夜明かしは体力的に辛いだろう。自分の検査入院に付き合わせた挙げ句に、過労で倒れでもしたら元も子もないと言って、今朝早くに、渋る祖父母を説得したのだった。(どうしよう……ちょっと、雛苺に頼んでみようかですぅ)二つに折り畳まれた携帯電話を開いてみたが、ディスプレイは真っ暗。電源が入る様子も無かった。壊れてしまったらしい。電話帳のデータは無事なのだろうかと心配しつつ、携帯電話を折り畳んだ。(病院内の公衆電話から、かけてみるです)ついでに、喫茶室で何か飲んでこようと思った。病室は、四人部屋と言うこともあり、どうにも居心地が悪い。元々、人見知りの強い性分である。いきなり見ず知らずの人達の中に放り込まれて、かなり神経質になっていた。(おじじも、おばばも、午後にならないと来ないし……。 貴重品だけ持ち歩いてれば、留守にしたって平気ですよね)どうせ、見舞客も来ないだろう。深夜の事故だったし、知り合いにはまだ、連絡が行っていない筈だ。今日は土曜日だからバイトも休みだし、雛苺の耳にも入っていないと思えた。エレベーターで一階のロビーに降りて、喫茶室に向かう。土曜日の午前九時を少し過ぎた時間だというのに、どこもかしこも混雑していた。患者にとっては日常茶飯の風景なのだろうが、翠星石の様に、病院に縁の薄い者から見たら、一種異様な眺めである。(あまりジロジロ見るのも失礼ですから、さっさと通り過ぎちまうです)足早にロビーの前を通過していると、後ろから肩を叩かれた。誰だろうか? 病院で出会うような知り合いは、居ない筈だけれど。翠星石が立ち止まって振り返ると、そこには、瞳を潤ませた娘が立っていた。「あれぇ、雛苺? 偶然ですぅ。今、電話しようと思ってたですよ。 でも、どうしたです? こんな時間に、病院に来るなんて。 身内の誰かが、入院してるですか?」「……違うの。ヒナは……ヒナはね、翠ちゃんのお見舞いに来たのよ」「はあ? なんで知ってるです?」「お爺さんに聞いたの。そしたら――」雛苺は、いきなりポロポロと涙を零し始めた。こんな人の多い場所で泣かれたら、弥が上にも目立ってしまう。「あぁ……まずは落ち着くです。こっち来いですぅ」翠星石は雛苺の手を引っ張って、喫茶室に入った。ここは、まだ空いている。喫茶室が混み始めるのは、昼の前後なのだが、昨夜遅くに入院した翠星石が、そんな事を知っている筈など無かった。「ともかく、お見舞いに来てくれて嬉しいです。ちょっと待ってろですぅ」雛苺を席に着かせると、翠星石は二つの湯飲みにセルフサービスの麦茶を煎れて、二人掛けのテーブルに持っていった。その動作に、不自然な感じは全く無い。事故の後遺症などは、心配なさそうだった。「ほれ、麦茶ですぅ。何か、軽い物でも食べるですか?」「……ううん。ヒナは、家で済ませてきたの」「そうですか。私は、タヌキ蕎麦を注文するですよ。 病院食って味薄いわ、量が少ないわで、最低最悪ですぅ」翠星石は食券を購入して、カウンターに出してくると、再び席に戻った。「それだけ食欲が有るなら、もう大丈夫なのね」「うん。もう全然、問題なしです。月曜日には、バイトに復帰できるですよ」「よかったぁ。安心したのー」雛苺が、普段どおりの笑顔を取り戻した矢先、カウンターから、タヌキ蕎麦が出来た事を告げる声が二人の元に届いた。喫茶室で少し話し込んだ後、雛苺は病院を出て、翠星石は病室に戻った。何をするでもなく、ベッドに横たわり、天井を見詰める。プリペイドカード方式のテレビは標準装備だが、画面が小さくて目が疲れるし、なにより、見たいと思える番組が無かった。それに、今はテレビよりも重要な悩み事が有る。昨夜の事故で紛失してしまった大切な物の事で、頭が一杯だった。(雛苺に頼んでみたですけど……見付かるですかねぇ)見付けて欲しい。出来ることならば。けれど、時間も経っているし、誰かに拾われてしまったかも知れない。犬や猫が、持っていってしまったら、もう見付からないだろう。(ゴメンです、蒼星石。私は――)窓の外は、俄に曇り始めていた。まるで、翠星石の心を写す鏡のように。午後になり、祖父母が来てくれた事で、翠星石は緊張の糸が緩むのを感じた。幾つかの精密検査を挟んで、翠星石は夕刻まで、祖父母とおしゃべりを愉しんだ。他愛ない話題だけれど、こんなにも話し合ったのは久しぶりだった。夏至に向かって、徐々に日が伸びているとは言え、午後六時を過ぎると、辺りはすっかり暗くなっていた。それに、風は身を切るような冷たさだ。帰宅する祖父母を一階のロビーで見送り、翠星石はエレベーターに向かった。病室に近付くにつれて、足取りが重くなっていく。病室に戻り、例によって薄味少量の夕食を摂り終えて、何をするでもなくボ~っとしていた翠星石は、ふと、雛苺の事を思い出した。窓の外は真っ暗。幾ら何でも、もう探すのを諦めて帰っただろう。「でもまぁ……確認だけ取っておくです」雛苺の携帯に電話をかけるべく、翠星石は病室を出た。エレベーター前の小ホールにも電話が据え付けられている。行ってみると、ホールには誰も居なかった。最近では滅多に使わなくなったテレホンカードを挿入して、十一桁の番号を押す。十回、コールを繰り返したが、雛苺は電話に出なかった。「お風呂か晩御飯かで、手元に置いてないのかも知れねぇです」仕方なく受話器を下ろして、テレホンカードを抜き取った。なんとなく、このまま病室に戻る気がしなくて、小ホールの窓辺に近付く。昼間は灰色だった街並みも、今は煌びやかに輝いている。チカチカと瞬いているのは、パチンコ屋のネオン看板だろう。遠く、岬の方では、灯台の明かりが規則的に回転していた。「百万ドルの夜景――には、ほど遠いですねぇ」誰も居ないのを良いことに、翠星石は、心に浮かんだ言葉を口にしてみた。そして、何気なく――本当に無意識の内に――病院の門構えに視線を降ろした。黒い影が、小走りに門柱の間を潜り抜け、ロータリーを小走りに横切ってくる。急患? しかし、その影は、誰かを背負っている様には見えなかった。こんな時間に面会というのも有り得ない。不意に、影を見つめていた翠星石の胸が、ドキリと脈打った。ある可能性が、頭をよぎる。その可能性が、無い訳ではなかった。「まさか、雛苺っ?!」あの走り方……背格好は……彼女に似ている。そう思うと、一挙手一投足、全ての動作が雛苺に見えてくるから不思議だ。翠星石は小ホールを飛び出して、エレベーターに駆け寄った。下に行くボタンを、何度も連打する。それでエレベーターが早く来る訳はないのだが、そうせずには居られなかった。漸く来たエレベーターに乗り込み、一階へ……。緩い浮遊感の後、到着を告げる電子音が響く。ゆっくりと、扉が開いていく。早く! 早く! 早く!扉が開ききる前に、翠星石は一歩を踏み出していた。彼女の身体に、軽い衝撃。小さな悲鳴が聞こえた。それは、聞き慣れた声。「やっぱり、雛苺だったですね。そんな感じがしたです」「す…………翠ちゃん……これ」ずっと走ってきたのだろうか。雛苺は、息も絶え絶えに言って、コートのポケットから、小さなマスコット人形を取り出し、差し出した。それは、ところどころ擦り切れ、泥まみれになってしまっていたけれど、紛れもなく、蒼星石がくれた物だった。翠星石の、大切な大切な宝物。緋翠の瞳から、止めどなく涙が溢れた。見付かった感激と、見付けてくれた雛苺への感謝が、綯い交ぜになった涙が。「事故の現場には無かったの。野良猫さんが持ってっちゃってたのよー。 ヒナ、あの辺の野良猫さんの事は、よく知ってるの。 それで、隈無く探してたら……こんな時間になっちゃったのー」幾らか呼吸も落ち着いたようで、雛苺は一息で、それまでの経緯を語った。「汚れちゃってるけど、これで間違いなぁい?」「……うん。間違いねぇです。世界でたった一つしかない、私の宝物です」翠星石が両手で包み込んだ雛苺の手は、氷のように冷たかった。こんなになるまで、探してくれてたなんて――翠星石は、震える声で、精一杯の感謝を伝えようとした。「まあ、おバカ苺にしては大手柄ですぅ」けれど、口を衝いて出たのは、いつもの憎まれ口で――「翠ちゃんの宝物だって聞いてたから……少しでも早く渡したかったの」雛苺の屈託ない笑顔に、あっさりと心の壁を突き崩されて――「……うん。ありがと……ですぅ」翠星石は、冷え切った雛苺を、しっかりと抱き締めた。――少しだけ、素直になれた気がする。そして、季節は冬から春へ――
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