~第四十二章~
~第四十二章~ 鈴鹿御前は、白皙の裸体を真紅たちに見せ付けながら、石棺の縁を跨いだ。そして、一歩一歩……彼女たちの方へと歩み寄ってくる。鈴鹿御前の素足が、びちゃり、びちゃりと血溜まりを踏みしだく音が、虚ろな空間に、不気味な反響を生み出していた。 「お前たちには、感謝せねばならぬな。めぐや巴を殺してくれたのだから」圧倒的な威圧感に竦み上がる三人を一瞥して、鈴鹿御前は嘲笑を浴びせた。 「お陰で、わたしの御魂は再び、ひとつに集まることが出来た。 損壊していた肉体も――ほれ、このとおり、完全に蘇生したわ」 「くっ! どういうつもり?! 私に姿を似せるなんて」 「きっと、私たちの戦意喪失を狙いやがったですよ。あざとい奴ですぅ」 「おやおや……お前は忘れてしまったの、房姫?」 「私は、房姫じゃないわ。私の名は、真紅よ!」 「ふん……名前など」――どうでも良い。鈴鹿御前の侮蔑的な表情が、途切れた言葉の続きを雄弁に語っていた。そもそも、忘れてしまった……とは、何について言っているのか。訳が解らず言葉を失う三人の前で、鈴鹿御前の足元に広がる血液が、ふつふつと沸騰し始めた。立ち上った緋色の蒸気が、鈴鹿御前の全身を包み込む。それは極めて短い時間のことであり、真紅たちは、ただ見守ることしか出来なかった。赤い霧が晴れたとき、鈴鹿御前は深紅の鎧を纏い、背中に降ろした金髪を頚の後ろで束ねて、鳥烏帽子を頭に戴いていた。 「転生したとは言え、所詮は細切れになった房姫の残滓か。哀れなものよ」 「……試してみる? 果たして、本当に残滓かどうか」 「落ち着いて、真紅。気安く挑発に乗るもんじゃないよ」 「分かっているわ、蒼星石」真紅と蒼星石、翠星石の三人が、油断なく得物を構える。だが、当の鈴鹿御前は、一向に動じた様子を見せない。 「ふふっ。お前たち如きに、小細工を弄する必要など無いわ」言うや、鈴鹿御前の背中に、鮮血に染まったかの様な赤い翼が生じた。真紅たちの目の前で、鈴鹿御前は軽く、地面を蹴る。そして、忽ち飛翔して大奥の間の天井を突き破り、三人の頭上を飛び越した。余りにも俊敏で、身のこなしでは八犬士中で一番の翠星石ですら、眼で追うのがやっと、という有様だった。驚愕する三人の様子を愉快そうに眺めながら、鈴鹿御前は何度か羽ばたき、巴の亡骸の脇に着地した。やや前屈みになって、巴の身体を貫いた皇剣『霊蝕』の柄を握ると、その細腕からは想像もできない膂力で、剣ごと巴の亡骸を持ち上げた。 「今まで、よく働いてくれたわね、巴。でも――」軽々と腕を振り抜くと、巴の亡骸は剣から抜けて宙を舞い、玉座を飛び越え、階段を転げ落ちていった。 「壊れた玩具なんて、もう必要ないわ」 「っ! 貴女はっ!」真紅の髪が、怒りにざわめく。御魂を分けた存在に対して、余りにも無慈悲すぎる。しかし、真紅が怒りに任せて斬り込むより先に動いたのは、蒼星石の方だった。ジュンを想い、奪い合いもした二人だからこそ、気づかぬ内に友情の様なものが芽生え始めていたのだろう。 「よくもおっ!!」蒼星石の鋭い斬撃が、鈴鹿御前の細頚を断ち切るべく襲いかかる。空を斬る、するどい音。目にも留まらぬ速さ……とは、正に、このこと。けれど、真に恐るべきは鈴鹿御前の反応速度だった。 「ふ……この程度? 蟷螂の斧、という諺を知らぬとみえる」蒼星石ですら捉えられなかった動きで、鈴鹿御前は皇剣『霊蝕』を構えて、斬撃を受け止めていたのだ。充分に体重を乗せた一撃を、片腕だけで。鈴鹿御前の青い瞳が、妖しい輝きを増した。 「そんなに死にたいなら、お前から先に――」 「させないですっ! 離れて、蒼星石っ!」 「先走らないで、翠星石。同時に攻撃するのよ!」翠星石が、鈴鹿御前の左真横から斬りかかる。そして、真紅も翠星石と呼吸を合わせて、鈴鹿御前の右側面に突進した。蒼星石の剣を受け止めている今、鈴鹿御前に避ける余裕は無い。致命的とはいかないまでも、確実に手傷を負わせられる筈だ。三人は、そう信じていた。 「これはこれは……清々しいくらいの悪あがきね」ただ一人、鈴鹿御前だけは違った。背中に畳まれていた赤い両翼が天に伸びた直後、真紅と翠星石は、凄まじい風圧によって吹き飛ばされていた。押し戻される――なんて、生半可な勢いではない。文字通り、床から足が離れ、宙に飛ばされていたのだ。翠星石は猫の様に身を捩って、難なく着地した。が、真紅は、そうもいかない。右肩から落着して、あわや、自らの神剣で頸動脈を斬るところだった。――何やってんのよぉ! 貴女一人の身体じゃないのよ、真紅ぅ! ボサッとしてるんじゃないわよっ。いきなり、真紅の頭の中に、水銀燈の罵声が響いた……気がした。考えてみれば、その言い分は至極当然で、反論の余地がない。今や真紅は、水銀燈と薔薇水晶、雛苺の三人に対して責任を負わねばならないのだ。自分だけの命と驕って軽はずみな行動に出るのは、控えるべきことだった。 「どうした? 威勢が良いのは口ばかりで、わたしに近づくことも出来ぬか」 「くっ! ボクが、こんな奴に力負けするなんて」 「無茶しないで、蒼星石っ! 一旦、離れなさいっ」立ち上がった真紅が、巴との戦いで使わずにいた縁辺流を起動する。聖なる光球が、鈴鹿御前の横っ面を直撃した。どうせ大した損傷は与えていないだろうが、蒼星石が離脱する為の目眩ましには成った筈だ。少なくとも、真紅は、そう確信していた。けれど、真正面から一部始終を見ていた蒼星石は焦り、戦慄していた。縁辺流の直撃を受けたにも拘わらず、鈴鹿御前の顔は、全くの無傷である。鍔迫り合いも、徒に蒼星石の腕力を消耗するだけだった。このままでは力で押し切られて、蒼星石が殺されてしまう。真紅は即座に、神剣を触媒として、冥鳴を起動した。あの巴ですら受けきれなかった一撃である。これには流石に、鈴鹿御前も回避行動を取るだろうと予測していた。 「ほぅ……殺る気満々と言ったところか。それが可能だと信じているの? それとも、圧倒的な力量差を本能的に悟ってなお、 死中に活を求めようとしているのか……。 理由はどうあれ、暗愚であること疑いない」喋りながらも、鈴鹿御前は赤い翼を広げて、冥鳴の射線上に掲げていた。あんなに薄っぺらな翼を遮蔽板にしたって、受け止められはしないだろう。それは、余りにも非現実的な行動に思えた。巨大な黒い塊となった冥鳴が、赤い翼に食らいつく。きっと、冥鳴は全ての羽を毟り取って、鈴鹿御前の翼をもぎ取る筈だ。真紅、翠星石、そして蒼星石も、いつしか予想を確信に変えていた。 「……やれやれ。この程度で、わたしを封滅しようなどとは。 ほとほと見くびられたものよな」三人が落胆してゆく様を愉しむかのように、鈴鹿御前は暫くの間、翼で冥鳴を止めたままでいた。冥鳴はぐいぐいと圧しているのだが、翼を引きちぎるどころか、赤い羽根の一枚すらも毟り取れないでいる。 「なんて事なの?! 冥鳴の威力は強化されているのにっ!」 「簡単な理由よ。お前が、房姫の欠片を寄せ集めた存在でしかないからだ」嘲って、鈴鹿御前は翼を力強く羽ばたかせた。凄まじい風圧が生じる。翼に食らい付いていた冥鳴が、振り払われて、床に叩き付けられた。生じた風圧で、真紅と翠星石は勿論のこと、鍔迫り合いを演じていた蒼星石もまた、後方へと吹き飛ばされてしまった。体勢を崩すことなく着地する蒼星石。だが、踏み止まった足が血溜まりで滑り、転倒してしまった。 その隙を、鈴鹿御前が見逃してくれる筈もなく、忽ちの内に蒼星石との間合いを詰めていた。恐ろしく速い。脚力に加えて、翼力も使っているからだろう。蒼星石も剣を構えて応戦を試みたが、鈴鹿御前の横薙ぎで、敢えなく、剣を奪われていた。少し離れた場所で、愛剣『月華豹神』が甲高い金属音を発した。 鈴鹿御前の左手が、蒼星石の頚を鷲掴みにして、頸動脈をじわじわと圧迫する。鬼の力は強大。その気になれば、人間の身体など易々と引きちぎってしまう。 「くっ……は、あ……」 「くくくくっ。良いね、その苦悶に歪んだ表情。わたし好みよ」苦痛に喘ぐ蒼星石を、濡れた瞳で眺めながら、鈴鹿御前は、ねっとりと唇を舐めた。 「この後は、なにをして遊ぼうか? わたしの可愛いお人形さん」 「ふざけるなですっ! この外道っ! 蒼星石を放しやがれですぅっ!」いつの間にやら弾き飛ばされた『月華豹神』を拾っていた翠星石が、腰溜めに剣を構えて突進していく。それを待っていたように、鈴鹿御前は蒼星石を、翠星石の方へ放り投げた。このままでは、構えた剣で蒼星石を串刺しにしてしまう。翠星石は「はわわわっ!」と慌てた声を上げて、咄嗟に切っ先を脇に逸らした。投げ飛ばされた蒼星石の身体が直撃して、翠星石たちは、折り重なり、激しく吹っ飛ばされていた。二人が、苦痛に呻く。傷は浅いようだが、暫く動けそうになかった。 「さぁて……邪魔者は排除したわ。最初に殺すのは、お前でなければね……真紅」 「随分と計算高いのね」 「鬼とは、そういう者よ。 時には力任せに、そして、時には影から人心を惑わせ、破滅へと導く。 全ては、糧を得るため。 お前たちとて、生存するために動植物を家畜栽培するであろう。それと同じこと」 「それは認めるわ。でも、貴女のしてきたことは、断じて許せない。 人の心を散々に弄び、用済みになれば切り捨てるなんて、冷酷な所業は!」 「人の心だと?」やおら噴き出すと、鈴鹿御前は謁見の間の隅々に響き渡るほど哄笑した。 「なんとまあ、愚かしい。お前は今まで、何を見てきたのだ?」 「……なんですって?」 「鬼が、いつの世にも存在するのは、何故だと思う? 虐げられ、駆逐されながらも、日陰で細々と生き延びてきたとでも? まったく解っていないのだな」鈴鹿御前は不意に笑いを止めて、手にした剣を、ひた……と真紅に向けた。その瞳には最早、憎悪の色しか浮かんでいない。 「鬼を生むのは人の心。真に軽蔑し、敵視すべきは浅ましき人間どもではないか。 転生して、忘れたのならば教えてやろう。 わたしが、どうして生まれ出たのか……その理由を、な」剣で真紅を牽制したまま、鈴鹿御前は遠い目をして、静かに語りだした。 「かつて、わたしは熊襲や蝦夷のような、地方豪族集団を纏めていた。 一族の繁栄を願い、わたしは日々、邁進していたのだよ。 山を切り開き、田畑を広げ、周辺の部族との交流にも心を砕いていた。 しかし、朝廷はそれを、反抗の兆しと見たのだろう。 わたし達は朝廷に対して、一度として反旗を翻したことなど無かったのに、 朝廷は軍勢を遣わして、わたし達を征伐しようとしたのだ」 「その時の指揮官が、征夷大将軍、坂上田村麻呂なのね」 「……少しは、憶えているようだな」 「いいえ。他人からの受け売りよ」件の話は、金糸雀に聞いたことである。当の真紅は、房姫だった頃の記憶は疎か、そんな伝承すら知らなかった。真紅の返答を適当に聞き流して、鈴鹿御前は回想を続ける。 「朝廷軍との戦いは、地の利を得た、わたし達の大勝利だった。 敵将、坂上田村麻呂を生け捕りにもした。 一族の中からは処刑しろとの声も揚がっていたのだが、 そんな事をすれば、もう全面衝突は避けられなくなる。それに――」 「貴女は、坂上田村麻呂に恋をしてしまった……と?」 真紅が、なんとなく思い浮かんだ考えを口にすると、鈴鹿御前は自嘲した。若気の至り、だったのだろうか。浅はかで幼稚な、甘い考えだったのだろうか。恋は盲目と言うように、鈴鹿御前は族長の権限を以て、坂上田村麻呂の助命を決めた。当時の鈴鹿御前はまだ、重責を担っていただけの、普通の女の子だったのだ。しかし、夢のような甘い時間は、いつまでも続かなかった。 「わたしは、彼を伴侶に迎えることで、朝廷への叛意が無い宣誓として、 周辺部族と、わたしの一族の安全を図る考えだった。 一部の反対意見はあったが、概ね、理解を示してくれたわ。 彼自身、わたしを妻に迎えることを、快く承諾してくれた」 「安泰じゃないの。貴女が鬼となる理由など無いのだわ」 「その通りに、事が運べば……の話よ。実際には、そうならなかった」 「まさか、貴女は異論を唱える一族の者の手で、亡き者にされたの?」そういった裏切り話は、古今東西、いつの時代にもある。意見の食い違いによる誤解。言葉の足り無さによる語弊。身勝手な思い込み。それらが、人を容易く変える。言い知れぬ殺意へと導いてゆく。利己主義に走る事が人の業であるなら、余りにも罪深く、悲しいことであった。けれど、鈴鹿御前は真紅の言葉に、ぎりりっ……と歯軋りした。 「それならば、まだ救いがある! わたしの人徳が足りなかっただけと諦められる! 思い出せ! わたしを裏切り、殺した者は、誰だったのかを! 他でもない、将来を誓い合った筈の男だったではないか!」 「ま、さか……でも、そんなっ!?」 「嘘ではないぞ。奴は――坂上田村麻呂は結局、朝廷の命令に抗えずに、 都まで同行したわたしを捕らえ、帝の前で斬首の刑に処したのだ。 その後、わたしの一族郎党は皆殺しにされ、歴史から抹消されたのだよ」 「そんな……そんな酷い事が……」 「歴史の中では、常に行われてきた事よ。 書物には、わたしが朝廷に帰順したと記されているがな。 はん! そんな物は、勝者によって都合良く書き換えられたお伽話に過ぎぬわ」鈴鹿御前の鋭い蒼眸が、驚愕に圧し固まった真紅を射抜いた。 「お前は、まだ思い出せないのか? 心より信じていた男に裏切られた惨めさが! 一心を賭して護ると心に決めていた者達を、惨殺された悔しさが! わたし達の存在を抹殺しておきながら、 のうのうと生き続けている厚顔無恥な連中に対する憤怒が! 憎悪が! 怨念が!」 「そんな事、私には関係ないのだわっ!」 「いいや、有るのだよ! 坂上田村麻呂によって処刑された時、わたしは怨念によって鬼と化し、 その際に、不必要な物を……ちっぽけな良心を切り捨てたのだ」 「い……いや……」それ以上、聞いてはいけない気がした。けれど、鈴鹿御前の眼光に射竦められて、真紅は聞かざるを得なかった。 「その良心こそが、房姫の正体! お前の前世なのだよ、真紅っ!」 「イヤああぁぁぁ――――っ!!!」真紅は神剣を取り落として、しゃがみ込むと、両手で耳を塞いだ。なぜ、そうしたのかは真紅自身も解らない。ただ無意識の内に、そうしていた。まるで、彼女ではない誰かが、身体を動かしたかの様に。もしかすると、それは真紅の人格に縫い込まれた、房姫の潜在意識だったのかも知れない。彼女の唇から、血を吐くような苦悶が溢れ出す。 「いやよ……もう聞きたくない……もう……思い出させないでっ」 「そうはいかない。十八年前の戦いで、わたしも悟ったのだよ。 魂の一部が欠落したままでは、力不足だ――とな」 「わ……私は…………私はっ」それまでの激情とは打って変わって、鈴鹿御前は穏やかな猫撫で声で、現実から逃避しつつある真紅に話しかけた。 「わたしには、お前が……お前たちの力が必要なのだよ。 再び一体とならなくとも良い。わたしの元に、帰ってきてはくれぬか? そうすれば、お前の仲間たちも生き返らせてあげよう」 「…………」 「そして、わたし達を虐げた者どもに思い知らせてやろうではないか。 この世の隅々まで劫火で焼き尽くし、穢れ果てた世界を構築するのだ。 そこには飢餓も貧困も無い。死という唯一無二の価値観によって、 衆生は平等な生活を約束される。どう? 素晴らしいとは思わない?」 「…………確かに、素晴らしいかも知れないわね」 「ふふ。物分かりのいい娘ね。賢い賢い」嘲りとも取れる鈴鹿御前の褒め言葉に、真紅は目の前の神剣を手にして、彼女が向けていた皇剣『霊蝕』を薙ぎ払った。 「だけど、私たちは絶対に、貴女には従わないっ! 鬼畜生の心に支配され、大逆無道の振る舞いをしてきた貴女を祓い、 救済するのが、私の役目よ。 房姫によって悲願を託された、私にしか出来ないことなのだわ!」 「……あくまで抗うか。だが、それでこそ、と思えるから不思議なものよ」鈴鹿御前は、さも愉快そうに哄笑して、皇剣『霊蝕』を構え直した。肉厚の剣身や刃が、黒々とした穢れによって包み込まれる。それは、燃え盛る炎のように、ゆらゆらと揺らめいていた。 「良かろう。今度こそ、お前たちを滅殺してくれるわ。 無窮の彼方に消え去るがいい!」 =第四十三章につづく=
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