~第十二章~
~第十二章~ ぎゃおぅっ! 身の毛もよだつ絶叫が、部屋の空気を震わせる。氷鹿蹟の角による直撃を受けた猫又は、戸板をブチ破って、外まで飛ばされた。金糸雀は素早く廃莢して弾を込め、氷鹿蹟と共に猫又を追う。鉛の弾が通用しなくても、音で威嚇するくらいは出来るだろう。戸口で、一旦停止。左右、上下の確認をする。待ち伏せの無いことを確かめ、外に出た時にはもう、猫又の姿は無かった。周囲に血痕を探したが、それも無い。どうやら、泡を食って逃げたようだ。斃せるかどうかも判らなかったから、正直、戦わずに済んでホッとしていた。そうしている内に、丘の上からベジータが血相を変えて走ってきた。 「おい! 何があった!?」 「あら、ベジータ。今は、お勤め中じゃなかったかしら?」 「そうだがよ、いきなり銃声が連発したから、心配になって来てみたのさ」 「ありがとう、ベジータ。でも、平気かしら」 「……そっか。まあ、なんだ。無事だったなら良いさ」また早合点をしたと思ったのか、ベジータは鼻の頭を掻いて、語尾を濁した。腰に手を当てつつ、踵を返して引き返そうとするベジータを、金糸雀が呼び止めた。 「ちょっと待つかしら。折角だし、力を貸して欲しいんだけど」 「なんだよ? 話の内容によっちゃあ、協力は出来ないぜ」 「それは大丈夫。至って簡単な、単純労働かしら」 「……早い話が雑用か。ああ、解ったよ。何だって手伝ってやるさ」どうせ、ここまで来たついでだ。ベジータは肩を竦めて了承した。小屋の中に入るなり、「ひでぇな」と、ベジータは呟いた。様々な物が散乱している。診察台の下には、昨日、川上から流されてきた娘が倒れていた。その口には何故か、今朝もってきた豊藷が詰め込まれている。何が有ったのかとベジータが訊くより先に、金糸雀は指示を出した。 「まず、あの娘を診察台に寝かせてくれないかしら」 「お安いご用だ。その後は、部屋の片付けをすれば良いのか?」 「ううん。それは、カナがするわ。ベジータには扉を修理して欲しいの」 「なるほど。戸板が粉々だ。どうすれば、こんな風に壊れるんだよ?」ベジータの疑問には答えず、金糸雀は娘の口からイモを取り除き、診察を始める。そしてベジータも、彼女の邪魔をしないように、黙って小屋を出た。親密すぎず、と言って疎遠すぎず……二人の間に開いている、微妙な距離。その距離を保てているからこそ、一緒に居られるのかも知れなかった。 「暴れた割には、傷も開いてないし……容態も安定したかしら」心配なのは、また眠り続けられることだ。取り憑いていた化け猫を追い出しても、昏睡状態になっては元の木阿弥。今こそ、気付け薬を使う時だった。 「えぇ……っと。気付けは――」金糸雀は薬棚から、瀬戸焼きの小さな小瓶を持ってきて、蓋を開けた。親指と人差し指で小瓶を摘み、自分の鼻先に近付け、ちょっとだけ臭いを嗅ぐ。――大丈夫。久しく使っていなかったが、効能は薄れていない。鼻の頭に皺を寄せながら、金糸雀は娘の鼻先に、小瓶を差し出した。二秒と経たずに、反応が現れる。効果覿面。娘は急に咳き込み、跳ね起きると、ひいひい言って鼻に手を当てた。 「気がついたかしら?」声を掛けた途端、娘は涙を浮かべた緋翠の瞳で、金糸雀を睨み付けた。 「お前が、変なモノを嗅がせやがったですかっ!」 「命の恩人を『お前』呼ばわりは失礼かしら」 「ふぇ? あ……れ。そう言えば、ここ……どこ……ですぅ?」 「カナの診療所かしら。あなたは瀕死の重傷で、ここに運び込まれたの」 「重傷……私が、ですか?」金糸雀が微笑みながら頷いてみせると、娘は僅かに表情を和らげた。少しだけ、緊張が解けたらしい。 「あなたの名前を教えてくれないかしら。【悌】の犬士さん?」 「え? ああ……あの、私は――」言いかけて、娘は眉間に皺を寄せた。 「あれ? 私…………名前……分から……ねぇですぅ」 「ちょっと! それ、悪い冗談じゃないわよね? 真面目に答えるかしら」 「分かんねぇです! どうして、自分の名前が思い出せねぇですかっ!」両手で髪を掻き乱しながら、娘は激しく頭を振った。そんな彼女を、金糸雀は愕然と見詰めることしか出来なかった。人生万事塞翁が馬……と言うが、なぜ、この娘には悪いことばかり重なるのだろう。不憫に思いつつも、金糸雀は医者の本分を果たすことにした。頭部を強打すると、一時的な記憶障害に陥ることがあるのは知っていた。渓流を流れ落ちてきた彼女なら、岩に頭を打ち付けていても不思議はない。だが、どれほど念入りに調べても、娘の頭部に打撲の痕跡を見出すことは出来なかった。もしかしたら、内因性の問題かも知れない。この娘は穢れの者に憑かれていた。その課程で、記憶を探られる様な事態に陥り、自己の防衛本能が働いたのではなかろうか。――記憶の遮断。それは、誰もが持っている本能。だが、普段の生活において機能する場面は、まず無い。なぜならば、自分の存在をも否定し得る、諸刃の刃なのだから。記憶を閉ざせば、耐え難い苦悩から逃れることも出来よう。けれども、それは同時に、過去の自分を引き出しの奥に閉じ込める事でもあった。ある意味、精神面の自殺に等しいだろう。こればかりは、金糸雀にも――歴史上で名医と謳われたどの人物だって、治せないだろう。彼女の記憶を取り戻せるのは、彼女にしか出来ない事なのだから。 (でも、きっかけを作る事なら、カナにも出来るかしら)この娘の足跡を辿れば、きっと手懸かりが掴める。たとえ、それが過酷な……思い出すべきではない凄惨な記憶だったとしても、現実を直視させるのだ。このまま生ける屍に成り果てるくらいなら、いっそ激情を喚び醒まして、自己解決を促すべきと思えた。金糸雀は、診察台の上で蹲っている娘の頭を、そっ……と抱き寄せた。 「あなたの体力が回復したら、カナと一緒に、旅に出るかしら」徐に告げた金糸雀の腕に抱かれながら、娘は身を捩らせた。拒絶の意志表示か? それとも、金糸雀の思惑を鋭く察知して怯えたのか?金糸雀は腕を解き、娘に話しかけた。 「イヤ……かしら?」 「そんな事は、ねぇです。でも、どこへ……」 「当ては無いけれど、とりあえず、川を遡ってみるかしら」今のところ、それが最も妥当な線だ。谷川を遡上しつつ、山道に入って峠を越えれば、すぐに桜田藩の領内である。ちょっと大きな町も有るので、そこで何らかの情報を得られるだろう。 「何はさておき、傷の治癒と体力回復が先ね。これを飲んでおくかしら」 「なんです、この肌色のモノは?」 「薬流湯。良薬が必ずしも苦いとは限らないって典型かしら。 飲んだら、大人しく寝てることね」差し出された乳鉢を両手で受け取り、娘は一息に飲み干した。金糸雀の言葉どおり、苦くない。寧ろ、甘みと酸味が効いていて、美味しかった。飲み終えると、娘は言われたとおりに、あちこち痛む身体を横たえた。そして、緋翠の瞳で金糸雀の顔を見上げ、呟く。 「何故、一緒に旅をしてくれるですか?」 「医者としての義務……かしら」 「命なら、もう助けてもらったですぅ」金糸雀は口元を綻ばせて、小さく頭を振った。 「医者ってね、怪我を治して、命を救うだけじゃ駄目だと、カナは思うの。 傷つくのは身体だけじゃないもの。心も癒してあげなければ、片手落ちかしら」医者は、半分趣味でやってるんだけどね……と戯けた金糸雀につられて、娘は苦笑した。それで良いのだろうか。正直、よく解らない。けれども、金糸雀を信じてみようという気持ちは、娘の中で確かに芽生えていた。 「傷、痛むかしら? なんだったら鎮痛剤も服用しておく?」 「……平気です。もう、眠るですぅ」 「そう。じゃあ、寝冷えしないように、これでも掛けておくかしら」金糸雀は衝立に引っかけてあった丹前を、娘の身体に掛けた。娘は「ありがとですぅ」と応じて、丹前の中でもぞもぞと身じろぎした。 (さて……次は、部屋の片付けをするかしら~)あまり騒がしくならないように、散乱した材料や機材を拾い集める。――と、外から大工仕事の音が聞こえだした。ベジータが炭焼き小屋から道具を持ってきて、扉の修繕を始めたのだろう。 (ベジータにも、旅に出ることを伝えておかないとね) ひと通りの片付けを終えると、金糸雀は二つの湯飲みに焙じ茶を煎れた。小振りな盆に載せ、外に向かう。 「お疲れさま、ベジータ。少し、休憩するかしら」 「おっ、悪いな」 「はい、どうぞ。お茶請けは無いけどね」 「構わねぇよ、別に。あんまり腹も減ってないからな」ベジータは仕事の手を止め、湯飲みを受け取った。ひと口ふた口と啜ったところで、思い出したように、懐から麻の袋を取り出す。なにそれ? と言わんばかりの金糸雀に、彼は袋を手渡しながら言った。 「河原に落ちてたんだ。あの娘の持ち物じゃないかと思ってな」 「クナイに、短刀……こっちのは、発動型特殊攻撃精霊ね。 今は精霊が宿っていないけれど」 「あの娘って、実は、抜け忍とかじゃないか?」 「それは無いかしら」金糸雀は即答した。確かに、彼女の筋肉は敏捷性に優れた部分が発達していた。しかし、本格的な修行を積んだにしては、未発達な部分もあったし、修行の過程で出来るだろう傷跡も少なかった。 「心配しなくても平気よ。どのみち、明後日くらいには、ここを出立するから。 この集落に、迷惑が及ぶ事は無いかしら」 「あの娘が、出ていくって言ったのか?」 「ううん。カナと一緒に、旅に出るの」 「なんだよ、そりゃ。あの娘の素性を調べるつもりか?」 「それも有るけど……それだけじゃないわ。 まあ、拒否することが許されない使命かしら」任務と聞いて、ベジータは以前、金糸雀が話してくれた事を思い出した。――七人の同志と共に、この世を覆い尽くそうとする穢れを討ち果たす役目を担っている。金糸雀は、そう言っていた。勿論、最初は壮大な作り話だと思って、笑い飛ばした。彼女の左手に刻まれた痣を見せられても、刺青だろう……くらいにしか思っていなかった。今だって、本当は信じていない。信じたくない。けれど、ベジータを見つめ返す金糸雀の瞳は、真剣そのものだった。平然とウソを吐けるような眼差しではない。 「……唐突だな。どうして、今なんだ?」 「あの娘が、カナの同志だからよ」同行するのは医者の義務――あの娘にはそう言ったが、本当は彼女を媒介として、他の同志に会える事を期待していた。【智】の御魂を持つ者として、早く同志たちに、自分が集めた知識を教えたかったから。穢れの者どもは日増しに力を強めているのだ。急がなければならなかった。 「使命、か。主の定めたもうた運命……ってヤツだな」 「珍しく、伴天連の宣教師っぽい言葉を耳にしたかしら」 「まあ、たまには……な」ベジータは鼻で笑った。そして、金糸雀も、つられて微笑む。付かず離れずの二人。それが、出会ってから、ずっと繰り返されてきた関係だった。 「ねえ、ベジータ。ちょっと、頼みを聞いてくれないかしら」 「いいのかよ。俺に依頼すると、高くつくぜ?」 「宣教師なんだから、無償の奉仕活動は当然かしら」ベジータの冗談をすげなく受け流して、金糸雀は自分が暮らしてきた小屋を振り仰いだ。ここは、義父と暮らした思い出が、いっぱい詰まった場所。孤児だった自分を育てて、教育も施してくれた義父は、一昨年の大飢饉で逝去した。数々の難病に打ち勝ってきた名医も、飢えには勝てなかったのだ。以来ずっと、この小屋は金糸雀が護ってきた。この集落に暮らす人々の手助けを受けながら、ずっと―― 「あのね、ベジータ。カナが留守の間、この家を護ってくれないかしら?」ベジータは湯飲みに残る、冷めた焙じ茶を一口で飲み干し、徐に話し始めた。 「その程度なら、頼まれるまでもねえさ。任せておけよ」 「本当に良いの?」 「頼んだクセして、なに躊躇ってんだよ。おかしな奴だな」 「だって……幾ら何でも、図々しいかと気後れしたかしら」 「今更だな。さんざん、俺をコキ使っておきながら、よく言うぜ」 「それについては、感謝してるかしら。ええ、そりゃ勿論!」誤魔化し笑いを浮かべる金糸雀に、ベジータは苦笑ではなく、真顔で応じた。 「とにかくだ。絶対、無事に帰って来いよ。でなきゃ承知しねえぞ」金糸雀は「そんなの当然かしら!」と断言して、ビシッ! と小屋を指差した。 「カナの家は、此処にしか無いんだから!」 ――二日後。金糸雀は、幾らか傷の癒えた娘と連れ立って、住み慣れた小屋を後にした。火薬や医薬品、弾丸や空薬莢を詰め込んだ行李を背負っているので、歩く速度は遅い。けれど、娘の傷が塞がり切っていない以上、応急処置の用意は必要不可欠だ。賊に襲われる心配もあるから、武器の類も携行せねばならなかった。 「ベジータの奴、見送りにも来ねえなんて、冷たい奴ですぅ」 「構わないかしら。彼だって遙々、外国から遊びに来ている訳じゃないし」さも不服そうに呟く娘に、金糸雀は、そう切り返した。理解ある大人なら、きっと、こう対応する筈だ……と。けれど、本心は違う。気心が知れた仲だけに、来てくれないのは寂しかった。――でも、却って良かったのかも知れない。見送りになんて来られたら、決意が揺らいでしまっただろう。ベジータは多分、そこまで気を遣ってくれたのだ。金糸雀には、何となく、それが解った。 「これから、どういう経路を辿るです?」 「川を遡って、山道を抜け、桜田藩に入るかしら」 「そこで、私の記憶を取り戻すきっかけが、見つかるかも知れねぇですか」 「そう言うこと。大きな町だし、期待は出来るかしら」言って、金糸雀はなんとなく――本当に何気なく、後ろを振り返った。そこからは、集落が一望できる。無意識の内に、丘の上の炭焼き小屋に目を走らせていた。小屋の前には、こちらを見送るベジータの姿。なんだかんだ言っても、結局は心配してくれるのね……あなたは。金糸雀は胸の中で再会を誓い、踵を返して、二度と振り返らなかった。 =第十三章につづく=
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