~第六章~
~第六章~ 巴の案内で訪れた湯治場は、とても小さな、隠し湯と呼ぶべきものだった。ジュンと巴の他に、湯治客は居ない。見張りを引き受けてくれた巴に感謝しながら、ジュンが鉱泉に身を沈めていると、岩影から物静かな声が投げかけられた。 「桜田さま。お湯加減は、いかがですか?」 「少し熱めだけど、このくらいが丁度いいかな。それとさ、僕の事はジュンでいいよ」 「でも、お武家様に、そんな無礼は――」 「今の僕は、武士でもなんでもない。明日の糧にも困る、ただの浪人さ」 「あの……じゃあ、ジュン?」 「なんだい、柏葉さん」 「それだったら、わたしの事も、巴……って、呼んで欲しいな」命の恩人の頼みだ。聞き入れない訳にはいかない。ジュンは「わかった」と返事をして、今後の事を思案し始めた。なんと言っても重要な問題は、路銀である。幾らかの持ち合わせは有れど、実入りが無ければ、いずれ食い潰してしまう。蒼星石を追いかける事ばかりに気を取られていたが、これからは収入を得る方法も、真剣に考えなければならなかった。 (にしても、僕に何が出来るだろう?)誰かの用心棒? 自慢じゃないが、剣の腕には大して自信がない。大道芸? 宴席の余興として見ることはあっても、自分で演じた事など無かった。では、何が得意なのか……と考えれば、裁縫くらいしか思いつかない。 「待てよ……便利屋って言うのは、どうだろう?」幸いにして、教養はあるつもりだ。腕力も、剣を振り回せるくらいだから、まあ強い方である。些か、器用貧乏な感が無きにしも非ずだが、気にしたら負けだろう。とりあえず、便利屋と銘打っておけば、男が針仕事をしても違和感なさそうだった。 「うん。これは、いけるかもな」 「なにが、いけるの?」不意に、側で話しかけられて、ジュンは口から心臓が飛び出すかと思うくらいに驚いた。見れば、隣には、手拭いで胸元を隠した巴の姿。いつの間に入っていたのだろう。考えに没頭していたせいか、全く気が付いていなかった。返す言葉が見つからず、鯉のように口をパクパクさせるジュンの様子がおかしかったのか、巴は控えめな微笑みを浮かべた。 「なぁに? そんなにビックリしたの?」 「あ、当たり前だろうが。大して親しくも無いのに、こんな――」 「ごめんなさい……。もしかして、迷惑?」悲しげに、目を伏せる巴。――ずるい。そんな顔をされたら、文句を言う気も失せてしまう。ジュンは気まずそうに頭を掻きながら、上気した頬を隠すように、そっぽを向いた。 「ま、まあ、なんだ。迷惑だなんて、思わないって」 「ホントに?」 「本当だよ。巴みたいに大人しげな娘が、こんな大胆な事をするから、驚いただけさ」 「……良かった。嫌われちゃったかと思ったわ」そう呟くと、巴はジュンの背後に回り、彼の背中を優しく撫でた。外気に冷やされた濡れ手の、ひんやりした感触が、火照った肌には心地よい。ジュンの背筋に、ゾクゾクッと震えが走った。 「落馬したとき、かなり酷く打ち付けたのね」 「よく判るね。医学の心得でも有るのかい?」 「気が乱れすぎてるから、直ぐに判るのよ。これは、完治まで少し時間がかかるわ」 「一見すると、二、三日も休めば治りそうだけど?」 「安易に考えない方がいいよ。見た目で判らない症状って、とても怖いの」それは、なんとなく解る。目に見えないから、知識のない素人は程度を軽く判断しがちなのだ。完治まで時間が必要と巴は言ったが、果たしてどの程度だろう。訊ねようとしたジュンの機先を制して、巴が口を開いた。 「背中、流してあげましょうか?」 「えっ? なんだよ、いきなり――」 「肩が痛むでしょう? それに、気を込めながら擦れば、少しは治りが早まると思うよ」そう聞かされては、ジュンに拒絶する理由は無かった。一刻も早く健康な身体を取り戻して、蒼星石を追いかけなければならないのだから。 「それじゃあ……よろしく頼むよ」 「うふふ……任せて。心を静めて、気持ちを楽にしてね」 (この状況じゃあ、それは難しいかも)心の中で苦笑しつつ、ジュンは巴に背中を預けた。これが、蒼星石だったら良かったのに……と、思いながら。 ――同じ頃、五人の犬士は、とある場所を目指して歩いていた。 「ちょっと待って……この辺で、休憩するのだわ」他の四人から少し遅れていた真紅が、弱々しい声を出した。彼女の膝はガクガクと震えて、かなり疲労しているのが見て取れた。戦士である他の四人と比べれば、術士の真紅が体力的に劣るのも無理はない。脇の草むらに、へたへたと座り込む真紅を見て、蒼星石は眉を顰めた。 「大丈夫かい、真紅。ゴメン、気が付いてあげられなくて」 「確かに、朝から歩き詰めだったわねぇ。みんな、少し休みましょぉ」 「しゃ~ねぇです。非力な退魔師さんの為に、水でも汲んできてやるです」 「じゃあ……私は、その辺で疲労回復の薬草を……」翠星石と薔薇水晶が連れ立って姿を消すと、水銀燈は真紅の隣に腰を下ろして、懐から小さな瓢箪を取り出した。くぴ……っと呷って、真紅に差し出す。 「飲むぅ?」 「それって……滋養強壮薬の?」 「そう。薬流湯」 「…………頂くのだわ」真紅は瓢箪を受け取って、水銀燈と同じように、ぐいっと呷った。甘酸っぱい液体が、するりと喉に流れ込んでくる。口当たりも悪くない。 「あら……割とイケるじゃない。優しい味だわ」言って、真紅は残りの薬流湯を、グビグビと飲み干してしまった。 「ああっ! ちょっとぉ! 全部、飲んで良いなんて言ってないでしょぉ!」 「あ、ごめんなさい。美味しかったから、つい」 「あうぅ……お風呂上がりに、飲もうと思ってたのにぃ」真紅たちは、蒼星石の案内で、打ち身に効くという温泉に向かっている途中だった。このところの激戦で、真紅の身体は、かなり痛めつけられている。その治療のため――というのが表向きの理由だが、各々の思惑は違っていた。わけても、蒼星石には特別な意味があった。昨夜、桜田家の草の者が、蒼星石に一通の文を届けてくれたのだ。内容は、ジュンが予定されていた祝言を蹴って、蒼星石の元に向かっているというものだった。それを読んだ途端、蒼星石の胸にしまい込まれていた感情が、抑えようもなく溢れてきた。もう一度だけ、ジュンに会いたい。会って、きちんと話をしたい……と。だからこそ、真紅の不調に託けて、湯治場に行こうと、話を切りだしたのだ。 「どうしたです? 元気ないですぅ」いつの間にか、翠星石が水を汲み終えて、戻ってきていた。 「ん? 別に、どうもしないよ。いつもどおりだってば」曖昧な微笑みを浮かべる蒼星石に「ふぅん」と呟いて、翠星石は清水を入れた竹筒を、真紅に手渡しに行った。だが、直ぐに戻って来るなり、蒼星石の頬を両手で押さえて、彼女の瞳を覗き込んだ。今まで一緒に暮らしてきた翠星石には、どんな小さな変化も鋭く見抜ける。その理由も、大方の予想は付いていた。 「草の者が来たことぐらい、忍びである私には分かってるです」 「……やっぱり、気付いてたんだね」 「ジュンのこと、考えてやがったですね?」矢継ぎ早に放たれる姉の質問に、蒼星石は「うん」とだけ答えた。 「それで、あの湯治場へ行こう――と?」距離的に見れば、丁度、湯治場の辺りで落ち合える筈だ。翠星石は妹の頬を手放すと、ぽんと肩を叩いて、にんまりと微笑んだ。 「やっと、決心を固めたですね。私は嬉しいですぅ。 蒼星石とジュンは、きっと幸せになれると信じてたです」桜田家に仕えていた時から、翠星石は、ジュンと蒼星石を応援し続けていた。周囲の戯言など気にするな。身分の違いなんて、世間体に過ぎない。好き合っているなら、駆け落ちしてでも添い遂げろ……とまで言った事もある。だから、蒼星石がジュンに別れも告げず桜田家を飛び出した時は、我が事のように癇癪を起こしたし、悲嘆に暮れたものだった。けれども、喜ぶ翠星石に対して蒼星石が放ったのは、思わず耳を疑いたくなる言葉だった。 「違うんだよ。ボクは、彼に決別の意思を伝えに行くんだ」 「え? な、なに言ってるですか、蒼星石。ジュンは、蒼星石を追い掛けて――」 「そんな事をされても、ボクは嬉しくない。彼は、そんな事をしちゃいけないんだ」 「そんな……ウソですよね? 蒼星石だって、ジュンの事を……」 「ボクはもう、彼のことなんか何とも思ってない。寧ろ、付き纏われると迷惑だよ」 「蒼星石っ!」翠星石が妹の頬を撲った音で、みんなが一斉に振り向く。彼女の緋翠の瞳からは、ぼろぼろと悔し涙が溢れていた。 「ちょっとぉ……どうしたのよぅ?」見かねて、水銀燈が二人の間に割って入る。翠星石は涙を堪えようともせず、蒼星石に罵声を浴びせた。 「馬鹿! バカ、ばかっ! 蒼星石は大馬鹿やろうですっ! お前なんか、もう妹でも何でもねぇですっ!」 「なに熱くなってんのよ。蒼ちゃんも、何とか言ったらぁ?」 「別に……言うことなんて無いよ」 「――っ!!」翠星石は踵を返すと、脱兎の如く走り去った。忍びである彼女を追い掛け、引き留める事は、誰にも出来なかった。 「何があったの、蒼星石? 答えなさい」 「本当に、大した事じゃないんだよ。暫く経てば、けろりとした顔で戻ってくるさ」 「私…………ちょっと様子を見てくる」 「それなら、ほらっ! 貴女も、一緒に行きなさいよぉ」水銀燈は蒼星石の背を押して、薔薇水晶と共に、翠星石の行方を追わせた。 だが、忍びの足に追いつくのは、容易ではない。暫くすると、全く足取りが掴めなくなってしまった。 「参ったな。姉さんったら、どこへ?」 「蒼ちゃん……あの吊り橋の上を走ってるのは……翠ちゃんじゃない?」薔薇水晶の指差す方を見た蒼星石は、谷に架かる吊り橋を渡っていく翠星石の姿を捉えた。 その時、翠星石は唇をキュッと噛み締め、泣きながら走り続けていた。バカだ。蒼星石は、本当にバカだ。ジュンの事を今でも愛しているクセに、こんな時まで公私の区別を付けようとしている。どうして、自分ばかり犠牲になろうとするのか。翠星石には、そんな妹の不器用さが歯痒くて、口惜しかった。少し、静かな場所で頭を冷やしてから、戻った方が良いだろう。そう思って、翠星石は細い吊り橋を渡り、対岸へと辿り着いていた。噎び泣きながら走ったせいか、息が苦しい。翠星石は側に在った適当な大きさの岩に腰を降ろして、深い溜息を吐いた。 「バカなのは、私の方かも知れねぇですね」頭に血が上ったからと言って、こんな所まで突っ走って来るなんて。蒼星石とジュンの気持ちが未だ通じ合っているというのも、実は、自分の勝手な思い込みかも知れないのに。すっかり落ち込む翠星石に声が掛けられたのは、その時だった。 「どおしたのぉ? 泣いたりして」 「誰ですっ!」翠星石は、反射的に声のした方と反対側に飛び退き、油断なく身構えた。クナイを取り出し、狙いを定めた相手は、いつか宿で見た蛇娘だった。 「お前っ……確か、のり……って」 「あらまあ、憶えててくれたのね。お姉ちゃん、感激で涙でそうよぅ」 「くっ! なんで、こんな所に――っ!」突如、背後に強烈な殺気を感じて、翠星石は咄嗟に真横に飛んだ。くるりと地面を転がり、片膝を突いて止まる。先程まで自分が居た場所を見遣ると、そこには緋色の鎧を纏う娘が立っていた。その手には、禍々しい妖気を放つ刀が握られている。 「初めまして。私は四天王が一人、めぐ。あなたの命、貰い受けるわ」 「冗談じゃねぇです。お前らなんかに、くれてやる命はねぇです!」叫ぶと同時に、クナイを投じる。しかし、めぐは予想を遙かに超える速さで移動して、翠星石の目の前に飛び込んできた。 「遅いわ、あなた。まるで、止まっているみたい」 「なっ!!」慌てて飛び退いた翠星石だったが、腹部に灼けるような痛みを覚えて、小さく呻いた。なんて速さだろう。刀を振り抜く動作が、ちっとも見えなかった。このままでは拙い。たった独りで、四天王の二人を相手にするなんて、無謀以外の何物でもない。翠星石は、発動型特殊攻撃精霊を起動した。 「睡鳥夢ぅっ!」一瞬にして地面から生えた植物が、のりと、めぐの身体を縛り上げた。この間に、出来る限り遠くまで逃げなければならない。が、走り出した翠星石の耳元で、希望を粉々に打ち砕く言葉が囁かれた。 「だから……遅いんだってば」 「ふぇっ――――」自分の胸から飛び出した刀の切っ先を、翠星石は茫然と眺めていた。これは、悪い夢だろうか?まるで他人事の様に思えた光景は、刀が引き抜かれると共に、現実に変わった。堪え難い激痛と、多量の喀血。右の肺を潰されて、呼吸が苦しい。 「く! こ、こん……な」よろよろと、吊り橋に向けて、歩を進める。見れば、橋の対岸に、薔薇水晶と蒼星石の姿があった。 「蒼星石…………追い掛けて……来てくれた……ですね」 「あらあら~、助っ人の登場みたいよ。どうするぅ?」 「あの二人も、誘き寄せて斃すだけよ。折角、罠を張ったんだもの。 労力に見合った報酬は、頂かないとね」背後から届くめぐと、のりの嘲笑が、翠星石の意識を喚び醒ました。彼女たちを、こっちに来させてはいけない。翠星石は息苦しさを我慢して、声を張り上げた。 「お前たちっ! 来るなですっ!」 「なに言ってるんだ、姉さんっ! 早く、こっちへ走ってくるんだ!」 「待っていて、今……助けにいくから」薔薇水晶が、腰の左右に吊した小太刀を引き抜き、橋を渡ろうとしている。蒼星石も、その後ろに続こうとしていた。 「ダメですっ! 来るな……ですうっ!」翠星石の叫びを聞いた直後、蒼星石は信じられない光景を、目の当たりにした。対岸にいた翠星石が、吊り橋を斬り落としたのだ。丁度、橋に踏み出そうとしていた薔薇水晶は、わあっと声を上げて尻餅を付いた。 「そんなっ! 姉さん、何のつもり――」 「うるせぇです! お前なんか……妹じゃねぇですっ!」 「こんな時まで、何を言ってるんだっ! 姉さんがどう思おうと、ボク達は姉妹だ。 一緒に、そうやって生きてきたじゃないか! 姉さんが居なければ、ボクはっ!」苛立ちに語気を強めた蒼星石に、翠星石は、にこっ……と微笑みかけた。 「普段から、そうやって本音をさらけ出せば……良いです。 ジュンとの事も……世間体だの周囲の眼だの……気にする事ないです」 「解ったよ! 解ったから――」 「じゃあ……ジュンに、本当の気持ちを伝えるですよ。 それと、さっきは……撲ったりして、悪かったです」それだけ伝えると、翠星石はめぐと、のりに向き直った。せめて、どちらか一方だけでも斃さなければ。刺し違える覚悟は出来ていた。 「ふ……友情だの愛情だのと……そんな欺瞞には、虫酸が走るわ」めぐの妖刀が煌めく。その切っ先は、寸分の狂いなく、翠星石の腹を刺し貫いていた。 「あぁ……そ……蒼……せ…………き」刀が引き抜かれると、翠星石の身体は仰向けに傾いでいき、谷間へと墜ちていった。 「ね…………姉さぁ――――んっ!!」深い渓谷に、蒼星石の絶叫が、いつまでも響き渡っていた。 =第七章につづく=
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