或る夏の嵐の日に
ごおおおおおおお、と大気がさわぐ。ひきもきらずに打ち寄せる突風は、我が家の雨戸をあまねく乱暴に叩いて過ぎ行く。閉め切った6畳間を白く照らし出す蛍光灯のヒモが、心なしか僅かに揺れているようだ。それほどに、接近しつつあるこの台風の威力は容赦ないらしい。「風、つよいね…。」押入れの中に納められた布団の間におさまり、窓の向こうの重い雨戸が風に弄ばれているのを見るともなしに見ている私と妹。妹のぽつりと呟いた一言に、私はゆっくりと肯んじた。「ええ…そうですわね。」夏休みに入ったものの、私も妹も特にすることもなく、ただ日々冷房の効いた部屋の中から青空に浮かぶとめどない入道雲を見ていただけだった。少し前にインドネシア沖で発生したという熱帯低気圧はいつの間にか台風に成長し、また知らぬ間に沖縄や九州を抜けて、私達の住むこの街にまで足を進めてきたのである。
前兆はあった。昨日の夕暮れは、なんと表現したら言いのだろう、自然な…ナチュラルな色彩ではない不気味なというか、人の気持ちをざわつかせるような薄い血の色のような空が、夜の八時ごろまで広がっていたのである。ベランダに出て見上げていた私の身体を心なしか強く打っていく風は、低く流れゆく雲をものすごい速度で東へと押し流していた。不気味な空を眺めていた私は、不意にすべてを破壊してしまうかも知れない圧倒的な力の訪れを感じ、なぜか子供のように胸をドキドキと走らせてしまっている私自身に気づいた…。そして、バタバタと打ち付ける風の音に目覚めたのが今日の夜明け。横で寝ていた妹を起こしたのちにテレビを点けると、時折ヒビが入ってざわめく画面の中で、骨組みしか残っていないビニール傘の柄を握り締めてマイクに叫ぶ、近所の薄暮の漁港に立って職務を全うしようとしている健気な男性アナウンサーがよろめいていた。「すごいね、風…。」「ええ…。」私の妹は寡黙だ。だが別に私と仲が悪いなんて事はない。自分で言うのもなんだが、良すぎるほどだ。しかし、その寡黙さが、今の妹が何を感じているのかを測るのを少し難しくさせた。会話は続く事もなく、私達はそれぞれにケータイを開き、近所のお友達にメールで今の様子を聞いてみたりしてみる。真紅も水銀燈は、何も出来ず暇すぎて死にそうだという。翠星石と蒼星石は柴崎時計店の瓦が飛んだとかで大わらわで、金糸雀と雛苺はみっちゃんと三人でトランプ大会に興じているようだ。私と妹は身体を寄せ合い、二人で互いのメール画面を見せ合いながら、笑みを交し合ったりしていた。
・・・・・・・・・・「それにしても、本当に何もする事がありませんわね。」そう言ったのは、ケータイ画面が11時を示した頃だった。「うん…。」「テレビで何かおもしろい番組でもやっていないものでしょうか。」「今あってるのはどこも台風関連のニュースばっかだかろうから、おもしろくないよ…。」「ですわよね…。」「…洋画のDVDか何か、今から借りに行く…?」「…!!」ぼそりと言った妹の口元が、悪戯っぽく笑っていたのを私は見逃さなかった。外はあんなお天気なのに…?そう答えようとした私は、妹が相変わらず笑みを浮かべているのを見て悟った。今の妹の言葉は私への挑戦だ。外の大風を盾にして、常識的な反応で妹の申し出を納めさせるのはあまりにもつまらない。もしかしたら、この嵐の日に、妹が感じていることって…!
「ええ、行きましょうか…!」そういった私も先ほどの妹と同じ表情を浮かべていたであろうことは、一瞬の驚きののちに返ってきた妹のそれが雄弁に物語っていた。思えば、私も妹も、何か尋常ならざる事を…嵐の訪れた時から待っていたのかも知れない。・・・・・・・・・・果たして外は、普段の様相をほとんどかなぐり捨てていた。生暖かい空気の激流が道路を走り、身をかがめて歩き行く私達の足に粘っこく絡みつく。空っぽのアルミ缶が甲高く間抜けな音を立てて私達の後ろへと流されていった。薄暗い空を見ると、どす黒く積もった雲々までもが、行き足をはやる大気に運ばれて飛んでいく。雨は降っていない。私も妹も、雨がっぱと長ぐつ姿で、長く伸ばした髪をたなびかせて、重い足を必死に動かしていた。大通りに出た。人影はおろか、走っている車もまったくない。居並ぶどの家も、雨戸を固く閉じている。はるか遠くに唯一開いているコンビニの、ガラス窓から漏れる蛍光灯の白い光を見て、私はなぜか頼もしさの混じったような嬉しさがこみ上げてくるのを感じた。その時だった。
「あっはっはぁ、見ろぉ、人がゴミのようだぁあああああ!!」唐突に響いた大声が、存外に近くから発せられた。挑みかかるような笑い声を上げている妹が、私の視線に顔を赤くして照れている。「ばらしーちゃん?」「…てへへ?」「人がゴミって…この辺りには、私達のほかには誰一人いませんわよ?確かにゴミは吹き飛んでますけど…。」我ながら無骨な突っ込みだ。「うん…だから、こんな時だから…誰はばかりなく叫んでみたくなったんだ…。」
「…ええ!!その気持ち、お姉ちゃんは良く分かりますわ!!」「うん!!」「君の瞳に、乾杯!!ですわ!!」「私の肝臓が、心配!!だよ!!」「ジャック!!お願い、死なないで!!」「ろーず…せめて、かわりばんこに木切れにのせてくれよ…がぼがぼ」「じゃあああああっく!!」色々な映画の物まねをしながら、無邪気な私と妹はレンタルビデオ屋へと歩き続けた。…本当に、貴女はどこまでいっても私の妹なんですのね…。嬉しさがこみ上げて仕方なかった。
・・・・・・・・・・・「あっ!見てみてお姉ちゃん、ここだよ、ここ!!落ちていくガレキの中に、私の大好きな大佐さまが…!!」「あらあら、うふふ!」結局、ビデオ屋では妹お気に入りのアニメ映画を借りてきた。プラズマテレビの画面の、ほんの小さな一箇所を一生懸命に指差し、興奮して叫ぶ妹の様子を、私はほほえましく見ている。ああ、本当に幸せな時間だな…。「じゃあじゃあ!次はどれ見る!?」「『真紅の豚丼』なんてどうでしょう?」「さんせー!!」「そうそう、さっきコンビニで買ったお菓子、まだありますわよ?」「うん、食べよ食べよ!」
妹はハイだ。ものすごくハイだ。私も心が躍る。よく言われたものだ。私達双子は、まるで鏡合わせの様だと。その通りだ。しかし、それだけではない。外面だけではなく、その内面、尊い感性までもが…。「うふふ…」「あはは…」外では大風。だのに、ここは天国。荒れ狂うゆえに隔絶された小さな空間では、二人だけの愉しい時間がゆっくりと過ぎていく。…こんな時間も、たまには良いかも、ですわね。おわり
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