「蒼空のシュヴァリエ」最終話
かつて日本に併合されていた朝鮮は、第二次大戦後はその独立の機会を内紛などのために失って分裂していた。そこに大国がつけこみ…1950年の夏、北緯38度線以北にあった北朝鮮軍が南へ向けて砲撃を開始…義勇軍と称して正規軍を送り込んだ中国共産党とソ連の支援を受け、怒涛のようになだれ込んだ。朝鮮戦争の始まりだった。自立の気概無きまま、朝鮮はそれまでと変わることなく大国に翻弄され続けるることとなった。
水銀燈は、防戦一方だった韓国・連合国側の一員として、P-51ムスダンク戦闘機に乗り、待ちに待った戦争を戦っていた。1950年11月、2ヶ月前には朝鮮半島の南端に追いやられていた韓国軍は、支援に入った連合国軍の上陸を機に大規模な反攻を開始し、今度は北朝鮮軍を半島の北端に追い詰めていた。北朝鮮軍に航空戦力は皆無と言って良かった。空中戦闘はほとんどなく、水銀燈は沖縄から朝鮮に爆撃に向かうB-29爆撃機隊の護衛を勤めていた。…が、そんな水銀燈達に、突如“あれ”が襲い掛かってきた時から…半島上空は死闘の舞台と化す。
韓国軍の反攻がはじまってしばらく経ったときの事。すぐそばを堂々と飛行するB-29の生み出す気流に巻き込まれないようにしながら、水銀燈はもう慣れっこになった護衛任務に一息つく。北緯38度線を越えて空爆を行った彼らは、一路福岡の板付飛行場や沖縄の嘉手納飛行場へ向け帰還していた。マンネリ化した爆撃行に、周囲への警戒が緩んでいたのは事実だった。突如無線が伝える悲鳴に振り返ると、味方のP-51一機が火を噴いて堕ちていく。『敵はどこ!?』このとき既に護衛戦闘機隊の指揮官となっていた水銀燈が叫ぶ。“それ”をみた時、水銀燈は愕然とした。恐ろしく高速で飛ぶ“それ”は本当に飛行機なのか、彼女には最初全く分からなかったほどだった。葉巻のようにずんぐりした機体からやけに後方に伸びた主翼…そして、プロペラ無し。飛行機の常識というものを完全に覆したさまを機体で体現した“それ”は、異質なエンジン音を響かせ、超高速を生かして米軍の編隊に次々襲い掛かり、潰していく。スロットルを大きく緩め、レシプロエンジン機の小回りを生かして敵の一機からの機銃弾をあわや避けた水銀燈。彼女が空の上でここまで追い詰められ、狼狽せざるを得なくなったのはここ数年なかったことで…『回避!散開して敵の後方へ回り込みなさい!』しかし、その無線を聞いている味方戦闘機はもうただの一機もいなかった。うるさい戦闘機隊の邪魔が無くなった敵の狙いが裸同然のB-29に向かうのは当然の事で、鈍重な爆撃機隊は縦横に飛び回る敵の格好の目標となり、面白いように次々堕ちていく。……自分自身が危ないのに、もうこれ以上護衛任務を遂行できるわけないわ!悲鳴やメーデーを連発している爆撃機隊を見捨てて、堕ちていった味方機から立ち昇る黒煙に沿って急降下した水銀燈は、それこそ地を這うように…一瞬にして地獄となった空から逃げおおせた。敵をどうにかまいた彼女は、気づけば全身が汗まみれとなっていた。
…ソ連製のジェット戦闘機、ミグ15の戦場デビューだった。
東京。朝鮮戦争の開戦以来、日本は朝鮮特需と呼ばれる好景気に救われ、復興の足取りを加速させていた。焼け野原は整備され、道を行く人々の足取りも表情も活気を取り戻していた。こうなるとそろそろ占領軍も日本から撤退するんじゃないかという噂が立ち始めた頃。
……孤児院を作る。そう決めていた蒼星石は、繕い物の内職をやめて東京・丸ノ内GHQ総司令部での通訳のアルバイトを始め、資金を貯めたりしていた。薔薇水晶と雪華綺晶は鉄工所をやめ、蒼星石のツテで米軍払い下げの2トントラックやジープを購入し、小さくはあるが運送業を始めて利益をあげていた。やがて運送業は数名の従業員を雇うまでになり、その収益は蒼星石達の生活を賄うには十分すぎる程で、孤児院の設立資金は見る見るうちに増えていった。
資金がある程度貯まったある日、蒼星石は顔見知りのGHQ将校に、混血孤児のための孤児院建設を考えていることを話し、便宜を図ってくれるように頼んだ。ところが、その反応は蒼星石の予想もしていないものだった。GHQは孤児院建設に協力をしてくれないどころか、「進駐軍に対するあてつけだ」として妨害の構えすら見せてきたのだ。混血児を集めて育てる事に対する日本人からの中傷は予想していた彼女でも、この事はひどくショックだった。……仕方がない、GHQを頼るのはやめよう。そう思った彼女は、運送業に精を出す二人からオートバイを借り、現在唯一頼れる人のところへ向かった。
長野県・松代。戦時中に大本営の移転計画のあった山あいに広がる小さな農村に、蒼星石の父・ローゼンベルクはいた。昭和18年に東京から疎開して以来、彼はその農村のはずれにある知己の別荘に住んでいたのである。あまりに大きい別荘なので、ローゼンベルクは彼の後にやって来た友人のフランス大使父娘とともに日々の生活を送っていた。…祖国・ナチスドイツの崩壊。熱狂的に信仰していた対象の呆気ない最期は、ローゼンベルクに落胆…いや、それ以上のものを与えていた。ヒトラー総統の功罪は大きい。いったんはドイツを救い、その後に滅ぼしたのだから。…もう国際政治には関わりたくない。それが、戦争中に双子の娘の一方を失ったローゼンベルクの、今の偽らざる心境だった。同居しているフランス大使の友人も同じようで、彼は東京大空襲を幼い娘と共に身を以って体験し、外交の延長に過ぎないとされている戦争の馬鹿らしさに嫌気が差していたようだった。現在のドイツもフランスも、戦争の終わりを迎えて混乱の極みにあった。ここ日本の田舎で落ち着いて過ごしたい、それが彼らの望みだったのだ。
そんな父の元へ、蒼星石は向かったのである。旧軍の放出品オートバイ“陸王”を駆る蒼星石が見た父の住む村は、山に囲まれ、清流が流れる自然豊かな場所。広い水田や小さな祠、石段の向こうにある神社。それらが後方へと流れ去ってすぐの場所に…結菱別荘はあった。大正時代ごろに建設されたのであろうその洋風の建物の前でエンジンを切った彼女の元に、玄関の大きな扉から10歳くらいの少女がもの珍しそうにやって来る。雛「お客さんなの?」蒼「うん、そうだよ。ローゼンベルクって人はいるかな?」雛「今お部屋でお父様とお話してるの!案内してあげるの~」蒼「ありがとう」白系で金髪の元気な少女に連れられていく蒼星石は、この子が父と同居しているという元在日フランス大使の娘なんだろうなと考えていた。
娘を迎えたローゼンベルクの喜びようは一方ならぬものだった。父の顔を見て安堵した様子の蒼星石は、別荘の応接間の椅子に腰かけた。蒼「お父様、お久しぶりです」ロ「おお蒼星石、東京での暮らしに不自由は無いか?」蒼「ええ、ありがとうございます。お父様は?」ロ「足腰が弱ってきたくらいだ。今は外交官の友人と共にここで過ごしているよ。先ほど挨拶したろう」蒼「ええ」ロ「…それで?いつものように手紙ではなく直に来てくれたようだが…何かあったのか?」蒼「はい、お父様。お願いがあるのです。随分ご無沙汰していた身で、いきなり頼みごとをするのも勝手ですが…」ロ「何だね?」蒼星石は、自分の考えを父に話した。蒼「お父様の人脈で、孤児院を開けるような建物を提供してくれる方を探していただけないでしょうか…」ロ「ふふふ…」蒼「お父様?」ロ「いやなに、前にもこんな事があったじゃないか。お前がどうしても日本海軍に入りたいと言った時の事だ」蒼「あの時も、本当にお世話になりました」ロ「…お前は言い出したら聞かない娘だ。良いだろう、友人に心当たりがあるから、話してみよう」蒼「ありがとうございます!お父様」ロ「なに、お前はかつて私と交わした約束を守ってくれたからね。そのご褒美だ」蒼「…?」ゆっくりと立ち上がったローゼンベルクは、部屋の一角にある机に向かい、そこにある写真立てを手に取る。セピア色の写真には、東京師範学校に入学した時の翠星石と蒼星石が二人並んで写っていたロ「『翠星石のように、お前まで私より早く天に召されぬように』とな。…今まで、お前はよく戦ったよ」蒼「お父様…」ロ「召された翠星石も、お前が生き残った事、そしてお前がしようとする事を喜んでいるだろう。 我々も…出来る事をして生きていこう」蒼「はい…!」振り返った笑顔の父に、蒼星石も明るく答えた。
数ヵ月後、沖縄…水銀燈の疲労は限界に達しつつあった。ソ連の新鋭ジェット戦闘機とレシプロ機で戦いつづけている彼女。堕天使と呼ばれている彼女でも、あの銀色の悪魔を撃墜する事はいまだ叶わない。米軍側の損害は増え続け、今や朝鮮半島の制空権はほぼ北に握られてしまっている。限界なのは自分だけではなく、米軍がP-51で戦い続けなければならない事そのものだということを上申するために、水銀燈はカデナ基地に来ていた、かつての日本本土空爆責任者であるカーチス・ルメイに接見した。銀「…我が戦闘機隊及び爆撃機隊は、半島に出撃するそばから敵新鋭機の餌食と化しております。 爆撃作戦の中止及び縮小をお考えいただけませんか」上官とは言え他人に頭を下げるのが苦手な水銀燈だったが、この期に及んでそんなことは言っていられなかった。飛行場を見渡せる管制塔の一室で葉巻に火をつけながら、ルメイは答える。ル「駄目だ。北への爆撃は続けねばならん。不断の爆撃こそが、合衆国に勝利をもたらすのだ。 かつてジャップとの戦いで我々がそうしたように」にべもなく言うルメイに、水銀燈は落胆した。銀「ですが、これではいくらパイロットを新たに養成しても焼け石に水です…」なおも食い下がろうとする水銀燈に、ルメイはやれやれといった様子で語る。ル「君には教えておいてやろう。ここだけの話、マッカーサー元帥閣下は朝鮮半島において原子爆弾を 使用されるおつもりだ」銀「…原爆を使うですって!?」あの夏の夜、一式陸攻の寂しい出撃の様子を彼女は思い浮かべていた。ル「何を驚いているんだ。いいか、我々は勝利し続けねばならんのだ。合衆国に永遠の繁栄をもたらし、世界に最強国家 として君臨するために。そのためにはいかなる犠牲も厭うべきではない」銀「しかし、原爆は人道的に…」ル「人道…?原爆が非人道だというのかね?」苦笑というならまさにこれだというような笑いがルメイからこぼれた。ル「ジャップとの戦いのときに使用された事を言っているのなら、むしろあれは人道的だ。 本土決戦を叫び、カミカゼを送り込んでくるジャップを完膚なきまでに叩き、我が兵士の犠牲を最小限に抑え、 人になりきれない哀れな黄色い猿どもの魂を解放してやったのだからな。 それとも何だ?君はジャップの捕虜になっていたと聞くが、まさかジャップに情が移ったのではあるまいな?」銀「…まさか」探るようなルメイの視線に、水銀燈は俯いてそう答えるしかなかった。ル「もう少しの辛抱だ。原子爆弾の使用が命令されれば、戦況は一気にこちらに傾いてくれる。 ミグだろうが何だろうが、忌々しいスターリンの小鳥共を地上で基地ごと蒸発させられるのだ。 そうなれば君は英雄だぞ。レシプロ機で戦い続け、またも最後まで生き残ったエンジェルとしてな」銀「…」ル「原爆の犠牲は当然だ。それは我が国を勝利に導き、君の階級を押し上げる。期待していいぞ、もうすぐ君を 少佐に昇進させてやるからな。堕天使の名も上がるというものだ。ははは…」退出した水銀燈。……あの男はナチスと何ら変わりない。……だけど、彼の言った事に甘んじようとしている私も同罪よね。……でも分かっていたはずよ、いずれにせよ私はここでしか生きられない事を。かつては戦いを待ち望んでいたはずの水銀燈は、最早今はその中で翻弄される一つの部品として自分を認識し、痛覚を麻痺させるしかなかった。
ローゼンベルクは、財界の友人であり現在の住家の所有者でもある事業家の結菱久葉という男に相談した。しばらく何か考えていた結菱だが、ややあって彼は適当な地所を思い当てた。結「この近くですよ。灯台下暗し、でした」ロ「近く…ですか?」結「結菱財閥が出資して建てた結核療養所が、別荘の近くにあるのですよ。今は閉鎖されていますが、 手を入れれば十分使用に耐えるはずです。あとで散歩がてらご案内しましょう」ロ「それを…娘に貸していただけるのですか?」結「お役に立てていただければ、幸いです。必要なら、幾ばくか出資もさせて頂きたい」ロ「ありがとうございます…!財閥解体などで大変な時に、申し訳ありません」結「かつて無能な憲政会を支援していたがために日本をシナ事変の泥沼へと導く片棒を担いでしまった 我が結菱にも、現在の混血孤児についての責任が無いとは言えませんからな…」
東京に戻った蒼星石。しばらくして、手紙でローゼンベルクから建物そして出資の提供の報せを聞いたときの蒼星石らの喜びはひとしおだった。雪「やりましたわね、本当に嬉しいですわ!」薔「良かった…」蒼「ありがとう、二人とも」薔薇水晶と雪華綺晶が経営する運送会社の小さな事務所で小躍りする三人。雪「これから、色々と本格的に計画を立てていかねばなりませんわね。役所への届けも必要でしょうし…」蒼「そうだね…」薔「…届けのことなら、一応キリスト教とかの孤児院として届けるのがいいと思う…」雪「確かに、そちらのほうが受けが良いというか、そんな気がしますわね」蒼「そしたら、名前はどうしようか…」薔「…薔薇十字孤児院なんてどうかな?」雪「薔薇十字?」蒼「なるほど…薔薇も十字も、原始キリスト教のシンボルだもんね」ひとたび物事が順調に走り出すと、全てが快調に進むようになる。
…こうして、松代の療養所の改築が開始された。器の準備は始まったが、今度はそこに暮らす混血孤児を集めねばならない。蒼星石や、経営者となって自由な時間が増えた薔薇水晶や雪華綺晶は孤児集めに奔走した。東京の警察署・国鉄・病院などに協力を依頼し、棄てられた混血孤児がいたら保護してほしいと…そして東京近郊での活動は二人に任せ、蒼星石は再び遠方へと旅立った。
蒼星石が向かったのは、本土からの渡航が可能となったばかりの沖縄だった。その当時、沖縄はまだ米軍占領下にあり、上陸にはパスポートが必要な状態にあった。…蒼星石の予想通り、終戦の前から占領地となっていた沖縄にも、多数の混血児が棄てられていた。沖縄戦を戦った米軍部隊と入れ替わりに入ってきた部隊の心無い兵士の仕業である。米軍基地周辺の日本人女性が、基地から外出した兵士から乱暴される事件が多発していたが、日本の警察はこれに介入できなかった。兵士らが基地に逃げ込んでしまえば米軍に引き渡し義務は生じなかったのである。強姦の現場を止めようとした日本の警察官が米兵に射殺される事件すら起きていた。…これは現在も同じ状況の沖縄だけでなく、占領下にあった当時の日本全国どこでもそうだった。
沖縄に上陸して数日、地理に不慣れな蒼星石は一人で夜道を歩いていた。すると、反対側から二人の米軍兵士がやってくるのが見えた。無難にすれ違おうとした蒼星石だったが、米兵らはいきなり彼女の腕を引っ張り、暗い路地裏へ連れ込んだ。声をあげようとしたが、彼女の口は米兵に抑えられてしまって助けを求められない。もう一方の米兵が蒼星石の服を剥ごうとしたその時。まばゆい光とエンジン音が路地裏に入り込んできた。それを見るや、蒼星石を押さえ込んでいた米兵らは彼女を放し、オートバイにまたがる誰かに敬礼を投げる。米兵の影でその姿さえはっきり見えない蒼星石だったが…アイドリングしたまま降りてきたその誰かが何かを手に取り、思い切り振り上げたのは見えた。次の瞬間には米兵の1人が悲鳴を上げ、頭を抑えて倒れる。もう一人もすぐに同じ目に遭った。米軍将校服を着、右手に拳銃を逆さに握るその誰かは、倒れこんだ二人に容赦をするつもりはないらしく、一連の出来事に震える蒼星石の目の前で、何度も何度も二人の米兵を銃のグリップで執拗に殴打している。うめき声が上がり、血が飛び散った。蒼『もういいんです、止めてください!』我に返った蒼星石が、慌ててその将校を後ろから羽交い絞めにする。獣のように息を荒げていた将校が、自分を拘束している者に振り返る。蒼星石はその将校の顔を…狂気に血走った眼を見て、思わず背筋を凍らせ…驚愕した。水銀燈だった。
日本の警察にならず者二人を突き出した水銀燈と蒼星石。自身の野蛮をかつての知己に見られた水銀燈は、蒼星石との再会を喜ぶ様子もなく、居心地も悪げに口を開かない。とりあえず、蒼星石はどこか一緒に話が出来るところを探そうとした。……結局、しぶしぶといった感じの水銀燈に連れられて米軍基地近くの酒場に入った蒼星石。カウンターに座り、黙ってグラスを空けていく水銀燈。その飲みっぷりは尋常ではなく、ただ憂さを晴らすだけのために、強い酒が火消し水のように放り込まれていく。蒼『あの…久しぶりだね。助けてくれてありがとう…』銀『…たまたま通りかかったところにいた合衆国軍の恥さらしが許せなかっただけよ』つっけんどんに答える水銀燈に、蒼星石は戸惑った。……本当にそうなんだろうか。荒れたかっただけじゃないのかい?蒼『まさか沖縄にいるなんて思っても無かったよ…』銀『朝鮮戦争でね…今はソ連のミグ戦闘機と戦ってるのよ』蒼『えっ…ソ連…?』銀『私達が戦っているのは北朝鮮軍じゃないわ。朝鮮戦争は、合衆国と中ソの戦いよ。それが現実』別に驚く事でもないと言った感じの水銀燈。蒼『疲れてるようだね…』あおるように強い酒を流し込む理由が分かったような気がした蒼星石。銀『それはね。ミグ相手じゃあ、命がいくつあっても足らないわ。私以外の隊員の顔ぶれなんて何度も入れ変わってる。 だから、生き残ってる私はスピード昇級したわけよ、ふん』自身の襟章に目をやり、水銀燈は自嘲を込めて言った。蒼『ミグ戦闘機って…』銀『ジェットエンジンで飛ぶ戦闘機。ナチスドイツの遺産よ。私達米軍にも最近やっとジェット戦闘機が配備されたわ。 これからも忙しくなるわね。ナチス様様…』蒼星石へあてつけるかのように言った水銀燈。聞いた蒼星石は思わず身を硬くした。同時に…どこか温度を失ってしまったような水銀燈の様子に、彼女は驚いていた。……あの時、昭和20年の夏はこんな娘じゃなかったのに、どうして…銀『言って無かったわね。親友が…死んだのよ。私の“戦死”の報せが出て間もなくね』蒼『そう…だったんだ』銀『結局、私あの時…本当に戦死してたのよね。今の私は、ただの魔女よ』……どうしてそんな悲しいことを?蒼『水銀燈…そんなこと言うなよ』しかし水銀燈の答えは急激に荒々しくなった。銀『聞こえなかった?私は既に死んでるのよ!貴女に撃たれて堕ちたあの時から!』蒼『!!…』銀『…正確じゃないわね。私は生きているわ。死にながらね』蒼『そんな事を言うのは止めなよ。もしそうだとしても、これから…』銀『なら私を殺して!』水銀燈は目にも留まらない速さで、グリップに血痕の残るコルト・ブローニング拳銃をカウンターに叩き付けた。それまで騒がしかった酒場の空気が、ぴしゃりと凍った。蒼星石に向き直った水銀燈はなおもまくし立てる。銀『貴女には分からないでしょう…!大切な人を失った私の心の欠落が!何も、何も無くなってしまったのよ!? それでどうやって“本当に生きて”いけばいいの!?』蒼『水銀燈…』まくし立てて肩を上下させている水銀燈に、蒼星石が答える。蒼『僕も…君に黙っていた事があった。どうして、僕は戦闘機乗りになったのかを』銀『何よ』蒼『姉さんが…死んでしまったんだ。1942年のドゥーリットル空襲で…』銀『…なるほど。ってことは復讐、ねぇ?』そう言われて、蒼星石は何も言えなかった。……そうだ。その時の僕は君と同じだった。欠けた何かを埋めるために、復讐も大義も飲み込んで…銀『その点、私と“対等の立場”ってわけね。ふぅん!』不敵に微笑を歪める水銀燈。蒼『水銀燈…僕は別にそんな意味で』銀『…じゃあ尚の事、私を撃ちなさいよ。合衆国軍パイロットである私はお姉さんの仇よ?』蒼『水銀燈!』たしなめるように叫ぶ蒼星石に、水銀燈は自身の拳銃を放った。銀『撃ち方は分かるわよね…?だって貴女、一度私を撃ったことがあるんだから…』蒼『…』銀『どうしたのぉ?一度は私を撃ったくせに!私がお姉さんの仇だったから、そうでしょう!?』挑発的な瞳の奥に、寂しさが揺らめいているのを蒼星石は見た。銀『…それともこんなのはどぉ?貴女はお姉さんを殺された。私は親友を殺された。大事な人を殺された者同士、 決着をつけることにしない?』そう言うや、水銀燈は自身の半長靴からまた一丁の小型拳銃を取り出し、西部劇でも真似るかのように手の上で弄びだした。それを哀しい目で見つめる蒼星石。……そうか。僕は業を背負っているんだ。だったら…ブローニングを受け取った手を、蒼星石はそのまま下ろす。蒼『水銀燈…むしろ僕の方こそ君に撃ってほしい。かつて僕は君を撃った。それは事実だ』銀『は…?』蒼『君の…言うとおりだ。完全な悪意でやった事ではないとは言え、僕は君を撃ち、君の身体を傷つけ、 結果的に…君の親友を殺し、更に君の心をも壊してしまった。僕は報いを受けなくちゃいけないようだね…』銀『…』
レイプされそうになっている女性を助けてみれば…かつての敵、そして想いを寄せていた蒼星石との突然の再会に、水銀燈は戸惑っていた。何をしに沖縄まで来たのかは知る良しも無いが、もう会えまいと思っていた蒼星石に、今の自分はまともに対面できるような心境ではない。結局、原爆投下のなされないままのこの戦争に疲れた自分…さりとてそのまま別れるわけにもいかず、この酒場に彼女を連れてきたのだが…所詮、酒で自分を誤魔化そうと思ったのが間違いだった。酔えない水銀燈は、いつしか貯まりこんでいた自分の中のどす黒いものを…自分を慮ってくれているのであろう蒼星石にぶつけてしまっていた。思ってもいない酷い事をぶつけ、拳銃まで出してわめいて…気づけば「殺して」。見たくもない自分と、それを見せたくない蒼星石…それだけに、蒼星石がむしろ自分を撃ってほしい、報いを受けなくちゃいけないといったときには…思わず心の中で、違う!と叫んでいた。しかし蒼星石は続ける。蒼『…と言っても、今は駄目だ。僕は今、長野の松代に孤児院を作るために動き回っている。薔薇水晶と雪華綺晶、 他にも色々な人たちの応援を受けて、祝福されず生まれてきた混血孤児のための家庭をね…』銀『…』混血孤児…いわゆるGIベイビーのことを水銀燈は知っていたし、ここ沖縄で目の当たりにしてもいた。蒼『孤児院が軌道に乗り、僕がいなくても子供達が元気にそこで過ごせるまでになったら… 僕はもう生きている必要は無い。だったら、最期は君の手で迎えさせてもらいたい』
水銀燈はこの時、意外にも親友メグのことを思い出している自分に驚いた。日系二世の彼女はやはり混血の子供で、排日運動華やかなりし頃は特に、周囲の子供・大人から軽蔑されていた。…それゆえに、群れるのを好まない水銀燈はメグと仲良くなれたという事もあった。…それゆえに、蒼星石がしようとしている事の大切さが良く分かった。
蒼『それまで、生きていて欲しい。僕は待っている。“薔薇十字孤児院”で…君が来てくれるのをね』銀『待ってるですって…こんな私を…』蒼『…どうして自分を否定するんだい。自分じゃ自分が分からないからかい?』銀『…!!』……人は鏡よ。ただ、皆それに気づかないでいるの…。亡き親友の言葉が、不意に水銀燈の中に浮かび上がり、蒼星石の向こうにメグの顔もぼやけて浮かぶ。蒼『自分を否定しちゃ駄目だ。それは結局…』銀『私は“堕天使”なの!!戦いの中でしか生きられない魔女なのよぉ!?』蒼『僕もそうだった。でも、今次第で未来は変えられるんだよ!?』銀『貴女はそうでしょう!元々の貴女は優しくて…戦闘機に乗る必要なんかなかった!でも私は!』蒼『戦闘機乗りとしてでしか生きられない…?嘘だ!君は天使だ。堕ちてなんかいないよ、だって君は、 優しい心を持っているんだから…!』銀『…違うっ!』蒼『覚えているだろう!?昔、捕虜となった君が桜田少佐に電話でそう言われたことを…僕はちゃんと聞いていた! もう…止めにしよう!確かに、平和を維持するために兵器が欠かせないのは事実だ!だけど…だけど、 君も僕も…普通の女の子が戦闘機に乗って戦う…もうそんな必要は無いんじゃないのか!?』銀『でも…私はっ!』蒼『今なら言える!僕が戦闘機乗りになって良かった事は、君に出会えたことだ!君に会うために… 姉さんが僕を君と引き合わせてくれたんじゃないかと思うことすらある!だから一緒に… 僕と一緒に、薔薇十字孤児院で、子供達の母親となってくれないか!?優しい心を持っている君なら、必ず…!』銀『っ…』思わず涙を零す水銀燈。蒼『僕達は責任を負っているんだ!桜田少佐が、彼らが身をもって守ったこの平和な世界で、 みんな楽しく笑って生きられるように…と!君も…ある意味、桜田少佐に身代わりになってもらったお陰で、 『キティホーク』と運命を共にせずに済んだ…。だから君にも…使命があるんだ…!!だから生かされているんだ…!』銀『生かされて…』蒼『君は雪華綺晶に首を絞められているときは抵抗しなかったくせに、その後は桜田少佐とのデートが楽しみと言ったり… 生きたいけど死にたい、死にたいけど生きたい、内面の君は二つに裂かれて苦しんでたんだよ!? 自分さえも愛さなければ、人を愛せないし、愛される事も出来ないんだ!!』銀『あああああああああ!メグぅ!!』
頭を抱えて膝を突き、嗚咽を上げる水銀燈。
目の前に居るのが実は蒼星石ではなく、メグではないかとすら思えていた。
…私は、自分を愛せる事が出来るのだろうか。「私の天使さん。貴女なら出来るわよ」
…私は、人を愛せる事が出来るのだろうか。「もちろんよ。だって貴女、私の事を愛してくれたじゃない」
…私は、幸せになってもいいのだろうか。「決まってるじゃない」
…メグ、貴女は私を赦してくれる?「自分を赦してあげて、水銀燈。私は貴女を責めたりなんかしない。 貴女とお友達になれて、私は本当に嬉しかったわ。 …だからもう、あとは貴女は幸せになるしかないのよ。したいことをして… これからは、目の前に居るお友達と、支えあって生きていくのよ。 それが、貴女の本当に望む事でしょう?」
…メグ、本当に良いの?「私、行ってみたいな…お母さんの生まれた国、日本に。 薔薇科の綺麗な花が春になると咲き誇り、 十字の紋章を持つ武家が、明治の近代化を成し遂げた、 精霊の息吹きが人々を包み込んでるっていう、あの国に…」
…メグ、ありがとう。「いいえ。また、会いましょう」
号泣する水銀燈を、蒼星石は優しく抱いた。銀『…ねぇ蒼星石』蒼『なんだい?』銀『…私も、貴女と一緒に行っても良い?“薔薇十字孤児院”へ…』蒼『…もちろんさ。嬉しいよ。薔薇水晶も雪華綺晶も喜ぶよ…』銀『…ねぇ蒼星石』蒼『今度はなんだい?』銀『…キス、してもいい?前に一度やったみたいに…』蒼『…うん』
二人の顔が重なる。どこまでが自分で、どこからが自分か分からなくなる至福の瞬間。その温かさに、凍っていた何かが溶けていくのが分かった水銀燈。銀『(私は、貴女の事が好きだった…)』蒼『(僕もさ。水銀燈…)』……ああ、私は私を赦せたのかもしれない。人目も憚らず、二人はしばし溶け合っていた。
米軍を辞めた水銀燈を迎えて、薔薇十字孤児院は正式に落成された。朝鮮戦争が終わった年のことだった。自然豊かな村の孤児院に、全国から集められた混血孤児たちが生活を始める。言葉を教え、マナーを教え、勉強を教え…手探りで動き出した蒼星石たちは、白い肌の子供も黒い肌の子供もいずれは立派に社会に出て生きていけるように、という思いでひた走っていた。やがて、水銀燈が祖国から真紅を呼び、二人で日本の永住資格を取得し、薔薇十字で共に働くことになったり、蒼星石の父と同居していたフランス大使の娘の雛苺…この頃には立派な少女となっていた彼女も一緒に働き始めたりで、孤児院は賑やかになっていった。もちろん楽しいことばかりではなく、村の外に孤児達を連れて出かけたりすると、心無い人々からの蔑みの目や言葉に晒される事もあったし、成長した孤児らの中には非行に走る者もいた。警察署に孤児の身柄を引き受けに行くことが、蒼星石ら“母親”の最も辛いことだった。それでも、“母親”たちの厳しさも兼ねそろえた優しさや、村の人達の理解、結菱重工業での孤児達への技術教育支援もあって、孤児達は立派に育ち、日本や海外の社会へと次々旅立っていく。
生きている。そんな実感を得ながら、蒼星石も水銀燈も、他の皆も、薔薇十字孤児院で汗だらけになって働いていた。東京オリンピック開催、二度の石油ショックを経ても、完全に無くならない米軍基地を有する日本には、数こそ減少しているものの、混血孤児の姿は無くならない。蒼星石たちの使命も、彼ら・彼女らが居る限り、続いていく。
戦後が40年目を数えようとしていたある日、孤児の数がめっきり少なくなった薔薇十字の敷地内を、蒼星石と水銀燈が仲良く日向ぼっこに歩いていた。すると…「何を見ているの?」そう聞いた二人の視線の先に、1人の小さな白系の女の子が、庭にある畑の畝に座り込んでいた。「おそら」二人を見て嬉しそうに振り返った女の子が、小さな手を上げて指をさしている。
抜けるような蒼い空が、どこまでもどこまでも広がっていた。
~エピローグ~
1991年、8月。昭和の時代も少し前に終わり、街も人も変わった日本。……結局、この国に骨を埋めることになりそうだな。東京・九段の道をタクシーに揺られながら、戦時中の飛行服姿の蒼星石はそんなことを思っていた。
父や結菱はもちろん、一緒に薔薇十字を運営していた人々は既にこの世を去り、1人になった蒼星石は、少し前に薔薇十字孤児院を閉鎖した。戦後すぐの頃と比較して混血児がほぼ日本では見られなくなったことも理由の一つだが、何より運営に携わっていた蒼星石の歳が、彼女に閉鎖を迫ったのである。
核の脅威に支えられ、冷戦を終えてなお不気味な平和に守られている世界。かつて佐々木という名の女パイロットから聞かされていたことが実現していた。国とは何か、それを守るということは何か、ということを徹底して無視し続けてきた戦後日本。半世紀近くの間、なぜ自分達が平和のうちに在り続けてきたのか分かって居ない人々。そうでなくとも、この国は進むべき道すら見出せていない。
…予想通りというべきか、蒼星石が足を踏み入れた靖国神社の本殿近くでは、終戦記念日の今日も騒がしい拡声器の声が響いていた。
喧騒を避けるように蒼星石が入った、神社の敷地内にある建物。遊就館という名のそれは、館内が日清・日露・大東亜の諸戦争の展示物を並べる博物館となっている。入場して全てを見てまわるのは流石に骨が折れると思った蒼星石は、玄関ホールの展示物だけを眺める事にした。深緑に彩られた零戦21型の機体が、真っ先に彼女の目に入る。……戦闘機の機体って、こんなに大きかったっけ。少し歩くと、巨大な蒸気機関車の傍らに、今度は二門の大砲があった。89式15糎加農砲、96式15糎榴弾砲と案内板記されたそれらの砲は、沖縄戦を戦って最近まで土に埋もれていたらしい。保護用の塗装が新たに施されたからか、長年土の下にあったにもかかわらず砲身は綺麗だったが、砲手が汗だくになって砲弾の装填・照準・発射をしていたのであろう砲尾部分を中心に、機銃弾の破片によって出来たらしい弾痕が生々しく残っていた…「あなた、陸軍…?」突然声を掛けられた蒼星石。自分に対してのものだと気づいて振り向くと、陸軍の将官服を着た、年老いた女性と男性…女性は大尉、男性は中尉の襟章をつけていた…がいた。恐らく、夫婦なのだろう。「いえ、僕は海軍で…」「そう…」白いものが混じっているものの豊かな髪に黄色いカチューシャをつけた女性が、15センチカノン砲に目を向ける。「第五砲兵団のものでしょうね…よく原形をとどめて残っていたわね」「もしかして、沖縄戦に?」問うた蒼星石に、カチューシャの大尉が頷く。「私は涼宮ハルヒ。当時24歳、沖縄第32軍24師団揮下の大隊長だったわ。こいつはその時私の副官で…今は夫よ」男は、すみませんね…おいハルヒ、知らない人に馴れ馴れしいぞ、と言った。「うっさいわねキョン…ところで、あなたの部隊はどこだったの?」「本土です。四国近くの小島にある航空隊にいました…」そう、と返事した大尉は、すぐに「ごめんなさいね」と呟いた。「えっ…?」「私達が沖縄でもっとしっかり踏みとどまっていれば…本土空襲も激化することはなかったのにね…」「そんな…ただでさえ全体的に劣勢だったんでしょう?戦いが進めば進むほど特に…」「まあ…ね。5月下旬の時点では、私の隊でも3人に1人しか銃を持ってない状況だったわ」それを聞いた彼女は、聞きにくいことではあったが、沖縄で実際に戦った二人に聞きたいことがあった。沖縄返還後に叫ばれるようになり、ノーベル賞作家までもがヒステリックに糾弾している、とある事件について。「…沖縄の日本軍は、本当に地元住民に壕追い出しや自決を強要したんですか?」刹那、二人の表情が明瞭に曇るのが分かった蒼星石は、聞いた事を後悔した。「…元々、私達32軍が構築していた陣地に、敵が上陸してから南に逃げていた住民達が入り込んでいたことがあったわ。 その時は…仕方なく出てもらったわ。ここから敵を南に行かせなければいい話だ、と自分を納得させてね…。 他の部隊でも同じような事、もしかしたらそれ以上のことをしていたかも知れないわね。分からないけど…」「…」「自決については…首里撤退が開始されてから、南部で逃げ惑う住民達が、武器が欲しいと頼み込んできた事があったわ。 鉄の暴風や機銃掃射に追いまくられて、恐怖と戦いつつ逃げていた住民達は着の身着のままだった…。 さっきも言ったとおり、私達すら銃は極端に不足していたし、とにかく満足に武器も持ってない状況だった。 あなたたちに渡せるような銃の余裕はない、第一訓練も受けてないのに撃てるわけが無いじゃないの、 と言って聞かせたわ。そしたら、『手榴弾でもいいから下さい』って…。 『手榴弾なら紐を引っ張って発火させ投げればいい話でしょう、アメリカーの兵隊を手榴弾で殺したというオバァも いると聞いてます、どうかお願いです…』ってせがまれて…。 手榴弾には少し余裕があったから、私、渡しちゃったの。そしたら…」大尉の声は震えだし、涙交じりのものになった。その肩を優しく抑えたキョンという名の中尉が重々しく後を続けた。…住民達と別れた二人は、しばらくして爆発音を聞いた。慌てて戻ってみると、車座になった住民らが、その中心で 手榴弾を爆発させて息絶えていたと…。「大本営や32軍司令部が、住民に自決を強要するような命令は出したという事は有り得ない。 司令部に至っては知念半島の非武装化と米軍に対し住民保護を打診していたという位だからな… 少なくとも、俺達は自決命令など聞いてもいない…。 自決しなきゃいけないのは…『生きて虜囚の辱めを受けず』の戦陣訓の対象は、あくまで俺達皇軍兵士だけのはずだ。 でも無論…住民を死に追いやった部隊もあっただろうな…」住民を多数犠牲にした沖縄で戦った日本兵の生き残りとしての憚りをもって生きてきた人間の苦しげな口調で、二人は語った…。「本土からの特攻隊の英霊にも申し訳ないわ。結局、沖縄は米軍の手に落ちてしまったものね…」重々しく聞いていた蒼星石だったが、特攻隊と聞いて…突如思い出したことがあった。それは他の記憶の呼び水ともなり…「佐々木…という陸軍のパイロットをご存知ありませんか!?」息せき切ったように言った蒼星石の言葉に、二人がはっと彼女を見た。「ええ…知ってるわ。陸大の同期で、私達と仲が良かった…。でも、どうして彼女の名を?」……言ってしまうべきか。目の前の二人が、あの菊水特攻作戦に参加するために鵜来島にやって来た佐々木の知己である ことにもう疑いはない。……それでも、佐々木が、沖縄で戦う彼らのために散って逝った事を言ってしまえば、いたずらに二人を悲しませてしまう だけの結果を招くかも知れない…。葛藤する蒼星石。しかしそんな彼女は、心の中に「教えてあげて欲しいな」という、あの懐かしい声を聞いた気がした。「…僕の基地に、沖縄の特攻作戦に向かう途中の、…佐々木という名前の陸軍の女性パイロットが一晩だけ やって来た事がありました。彼女は、沖縄で戦う幼馴染…友人の盾になりたいために、特攻を志願したと言ってたんです。 佐々木さんは…翌日の朝、“飛燕”戦闘機でただ一機、出撃していきました。5月上旬のことでした…」「飛燕で…単機…5月上旬だと…?」「そんな…」「何かご存知なんですか!?」…二人は語った。沖縄32軍の中で、反攻作戦を唯一成功させた二人の大隊は、しかし他の部隊の反攻が失敗して敵のただ中に孤立してしまったために撤退命令を受け、歩けるものだけで後退を開始したものの、敵の火砲に阻まれて身動きが取れなくなった。そんな中、突如現れた一機の飛燕が、まるで大隊に別れの挨拶でもするかのように旋回した後、米軍の火砲の中に体当たりして…遊就館の玄関ホールに、二つの慟哭が響く。自分達の命をいまここに在らせている理由を知った老夫婦。蒼星石も、思わず涙を拭わずにはいられなかった。……やっと、真実の糸が繋がったよ、佐々木さん。
「佐々木さんに、ちゃんとお礼を言いに行かなくちゃね」涼宮という大尉が言って、三人は、遊就館を後にして本殿に向かう。そのわずかな途上、キョンという中尉が蒼星石に言った。「俺は、東京大空襲でお袋とまだ幼い妹を失ってしまったよ…今でも二人が、火の雨が降る中を震え怯えて逃げ惑う夢を 見てしまうことがあるんだ…」「そうだったんですか…実は僕も空襲で姉を…」「…やっぱり、平和が…一番だよな」「ええ…」戦争を身をもってくぐりぬけた人間の、実感を伴う重い一言だった。
「首相の靖国参拝、断固反対!!」「軍国主義の象徴、A級戦犯合祀の靖国を取り壊せ!」「日本政府はアジア諸国に謝罪と賠償しろ!!」
日差しの照りつける中、あちこちで姦しいシュプレヒコールが響き、右翼団体と左翼団体がもみ合いになっている。スーツ姿の政治家達、それを囲む報道陣。分け入るようにして歩く、旧陸軍将校服を着た二人、そして海軍航空服を着た蒼星石。明らかに21世紀の日本には異質な昭和の軍服に身を包んだ三人の老人が、騒音には耳を貸さず本殿に向かう。威圧しているのでもなければ、見せびらかしているわけで軍服を着て来たのではない。ただ、不幸な時代であっても、あの時代が自分達の若い青春時代とともにあったことを再確認したいだけ…。やがて…本殿前にたどり着いた蒼星石は、他の参拝者に混じり、背筋を伸ばした。彼女は、靖国にいるかつて親しかった人々を心の中で呼ぶ。
第443航空隊の皆…僕のために作られた部隊で、僕だけが最後まで生き残ってしまいました。だけど…僕は、その代わりと言っては何ですが、十分頑張って生きましたよね?
しばらく、蒼星石は直立不動のまま敬礼を止めなかった。涙が溢れて止まなかった。足を翻して人垣を抜け、九段坂に出て振り向くと、皆が手を振ってくれているような気がした。
それから少し経ち、まだ夏の日差しも厳しいある日…蒼星石は息を引き取った。
気が付くと、彼女は烈風戦闘機で空を飛んでいた。
操縦席は、あの時とほとんど同じだった。
ただ違ったのは、スロットルに付いていた機銃の発射杷抦も、翼の機銃そのものも、どちらも無かった事だった。
そして、狭いはずの操縦席の後ろにちょこんと座っている、愛しいあの人の姿を蒼星石は見た。
姉さん…君の姿は昭和17年のあの日のままだね…。僕は一人でこんなお婆ちゃんになってしまったよ。
何言ってやがるですか蒼星石、今のおめーも若々しいじゃねーですかっ。翠星石と同じですよ?
本当だ…どう?姉さん、僕の飛行服は似合ってるかい?
良く似合ってるですよ…蒼星石にはやっぱりズボンが合うです。
ふふふ…ありがとう。
こっからは翠星石が道案内してやるですよ。しっかり操縦しろですぅ。おめーの友達も知り合いもみんな、待ってるですよ!
うん!…姉さん?
何です?蒼星石…
…これからも一緒だよ?
もちろんですぅ。
命は、いつか消える。しかし、この空に。
タ マ シ イ ハ 、 メ グ ル 。
蒼空のシュヴァリエ 完
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