1´ 雪華綺晶
眠るでも醒めるでもない、まどろみだけが続く私の眠り。私はガラスの城のお姫様。誰かが見つけてくれるのを待っている。私は寂しがり屋のお姫様。誰かが私を連れ去ってくれる日を夢見ている。夢と現実の境目ですら曖昧な、濃い霧で覆われたような私の眠り。時計の針が6時を指した時点で、私はベッドから身を起こした。全身に残る倦怠感を振り払うように、おおきく伸びをする。それからキッチンへ向かい、水をコップに一杯飲む。半分ほどに減ったコップの中の水に映るのは、自分の姿。抉れた右目の跡を隠す為に付けた、真っ白な薔薇飾り。私は薔薇飾りを撫でながら、物思いにふける。この目を失ってから、どれだけの月日が流れたのだろう。だというのに、白馬の王子様はまだ私を見つけてくださらない。『白馬の王子様』その単語を選んだ事に、思わず自分でも笑ってしまった。もう、夢見る少女のような時代はとうに過ぎた。なのに、私は未だに夢を見続けていた。 そして、『少女』という単語は、さらに私の思考を飛躍させた。隣の部屋に住む、少女の面影を消しきれない、私の事を姉のように慕ってくれる人物。薔薇水晶。いつもなら、壁を通り越してアラームの音がそろそろ漏れ聞こえてくる筈なのだが……「今日はお休みなのでしょうか」時計の針が7時を指そうとしているのを確認しながら、私は小さく呟いた。思えば、彼女も変わった子だ。初めて見かけたのはマンションのエレベーターの中。その時の彼女はコンビニ製の、食品とはとても言えないパンもどきが申し訳程度に入った袋を持っていた。まるで私とは逆の常軌を逸した食生活に、私は内心とても驚いたのを覚えている。初めて会話したのもエレベーターの中。会釈程度の関係だったが、相変わらず彼女が持っているパンもどきが気になって、つい声をかけてしまった。思えば、彼女も不思議な子だ。この私が、何と言うのか…庇護欲のようなものを感じてしまう。『庇護欲』という単語は、さらに私の考えを飛躍させる。もう顔すら忘れてしまった母親。顔も名も知らぬ父親。私は深く息を吐きながら、静かに目を瞑った。まるで終わらない連想ゲーム。こんな事をして何になるというのか。もう一杯水を飲んで、とりとめも無く広がり続ける意識をシャットダウン。冷蔵庫を空け、朝食のメニューを考える事だけに脳を費やす事にした。 食事と言うのは、とっても不思議。1年、365日。たまに抜く日があったとしても、年間1000回以上。なのに飽きるどころか、いつまで経っても食事の魅力は損なわれない。冷蔵庫から取り出したレタスを切り、皿に盛り付け、彩りにプチトマトを置く。ドレッシングにはビネガーとオリーブオイルで以前作った物を。焼けたトーストにはバターをたっぷり塗り、オレンジジュースをコップに注いだら朝食の完成。コチコチと鳴る時計の秒針をBGMに、私の朝食は始まった。キツネ色のトーストに齧りつき、音を立てずに咀嚼する。新鮮なサラダの食感は、シャキシャキしていて心地良い。フォークで取り上げたプチトマトを口の中でゆっくりと潰すと、僅かな酸味と甘味が広がった。ゆっくりと、時間をかけて、私は目の前にあるお皿の中身を減らしていく。一口一口を味わいながら、私は静かに食事を続ける。最後にコップの中のオレンジジュースで体を潤して、今日の朝食は終了。時計の針に視線を向けると、7時を少し過ぎたところだった。使い終わった食器をキッチンまで運び、顔が映りこむまで洗う。それから窓を開けて、部屋に散った見えない埃も掃除する。深呼吸をすると、都会特有の薄汚れた空気の匂いが僅かに部屋の中に流れ込んできていた。それでも、部屋の中で淀み続ける空気よりはずっとましだろうと、私は窓を開けたままにしておいた。掃除が終わると、今度はテーブルの上にノートパソコンを置いて電源を入れる。新着メールは0件。どうやら、急ぎの仕事は無いらしい。お陰で私は、すっかり時間を持て余してしまった。 フリーライターの仕事と言うのは、自由な時間を持っていられる所は長所だが、かといって自由な時間が長すぎたら、それはそれで不安にもなる。かと言って鬱々気分になっても仕方が無い事なので、私は風呂場に向かい、浴槽にお湯を張る。お風呂の準備が出来るまで、コーヒーでも淹れる事にした。待つ時間というものは、とても長く感じる。私は静かに目を瞑りながら、ただ時が訪れるのだけを待っていた。―※―※―※―※―お風呂から上がった私は、体に付いた水滴を残さず拭き取っていた。ドライヤーで髪の水分を完全に乾かすと、いつものようにふわふわと柔らかい私の髪が戻ってくる。時計を見ると、いつのまにか時刻はすでに11時前。「そろそろ、お昼ご飯の時間ですわね……」一日やることが無くなった私にとって、今日の楽しみは食事くらい。どうせなら美味しいレストランでも探して外食を。そう思ったとき、ふと隣室の薔薇水晶の事を思い出した。彼女の事だから、せっかくの休日だろうとお構い無しにパンもどきを食べるつもりだろう。そう思うと、何だか私まで寂しい気分になってしまう。薔薇水晶を昼食に誘う事を考えながら、クローゼットの中から服を選び始めた。簡素な作りだが上質な生地でこさえてあるワンピース。その上に、簡単なジャケットを羽織る。鏡の前に立ち、自分の姿を確認。問題無さそう。 私は近所に散歩にでも行くような軽い足取りで玄関へと向かい、マンションの廊下に出る。そして、自分の部屋の隣の扉…薔薇水晶の部屋のインターホンを押した。待つ事、数秒。パタパタと足音が聞こえてから扉がゆっくりと開いた。「……おはよう……」薔薇水晶は扉の隙間から顔を覗かせながら、私にそう挨拶をしてくる。おはよう、と言うには少々遅い時間ではないかしら。どうやら休日なのを良い事に、ゆっくり、ぐっすりと洒落込んでいたようだ。でも、そのマイペースさも彼女の可愛らしい所。「ええ。おはようございます、ばらしーちゃん。 せっかくの休日ですし、もし良かったら、一緒に昼食でも食べに行きませんこと?」私は微笑みながら、予定通りに彼女を昼食に誘ってみた。薔薇水晶はちょっと首を傾げた後「準備する、上がって」と言って扉を開いてくれる。その拍子に、さっきまで扉に隠れていた薔薇水晶の全身が見えた。胸元までボタンが外れたパジャマ姿。当然、寝間着なのだから下着は付けてない。薔薇水晶はそんなラフな服装のまま、少しだけ眠そうに目をしぱしぱさせている。いくら同性とはいえ、それは無防備過ぎなのでは?そんな考えも無いわけではなかったが、それだけ心を許してくれている事だろうと思うと逆に嬉しくもなる。「それでは、お言葉に甘えてお邪魔しますわ」そう言いながら、私は薔薇水晶の部屋に足を踏み入れた。 部屋自体の間取りは同じ。違うのは、家具と住人だけ。私は薔薇水晶に通されたリビングの椅子に座りながら、彼女が用意してくれたコーヒーのカップを眺めていた。コーヒーとは言っても、淹れたての香味豊かな物でもなければ、おざなりのインスタントですらない。昨日淹れたみたいな、何の風味も感じられない色つき水。そこからさらに視線をずらすと、彼女の主食であるパンもどきがテーブルの中心に鎮座していた。洗面所で顔を洗っている薔薇水晶が戻ってくるのを待つ間やる事も無いので、私はパンもどきへと手を伸ばした。どうして彼女は、こんな壊滅的に悲惨な食生活に何の疑問も抱いてないのだろう。指先でパンもどきを袋ごとつまみ上げ、眺めてみる。栄養価、バランス、共に最悪。これを買うのと同じ金額を持ってスーパーにでも行けば、ずっとマシな食べ物が得られるというのに。と、そんな事をしている内に薔薇水晶が洗面所から帰ってきた。早速、彼女にはお説教をしてあげる。家族ごっこをしているみたいで、どこか楽しんでいる自分にも気が付いた。『家族』その単語は、いつかと同じように私の思考を飛躍させかける。駄目。無意味な連想ゲームをした所で、何も良い事なんて無い。私は自分にそう言い聞かせ、目の前の家族ごっこに興じるようにした。「この様子だと、今日のランチは美味しいお野菜が食べられる所にした方が良さそうですわね」大げさに首を振りながら、お説教を締めくくる。多少の演技臭さは有ったかもしれないが、『ごっこ遊び』にはこれ位が良い。 薔薇水晶は私の提案に言葉少なく賛同してから、外出の為に服を選び始める。私はその後姿を見ながら、蛇口から絞りたての水道水にも劣るコーヒーもどきを口元に運ぼうとして……不意に、テーブルの一画から電子音が鳴り響いた。いや、よく見ると携帯電話が鳴っているだけ。私はテーブルの上でブルブルと暴れている携帯電話を捕まえると、薔薇水晶へと手渡した。それから再びテーブルに着き、そのつもりは無くとも聞こえてくる電話での会話を聞きながらカップを傾ける。テーブルの一画、先ほど携帯電話が有った場所には、吹き溜まりのように色んな物が散らばっていた。こちらも、嫌でも目に付く。彼女が仕事の時に使っているという眼帯。『桜田商事』と書かれた名刺。飲みかけのペットボトル。私はそんな物を、見るともなしに眺めていた。視界の端では薔薇水晶が困ったような表情を浮べてこちらを見ている。詳しくは知らないが、商社というのは大変な所らしい。きっと休日返上の仕事が出来た、といった所だろう。「美味しいお野菜はまた今度ですわね……」ため息と共に小さく呟いてから、薔薇水晶に視線を合わせ『構わない』という意味を込めて首を横に振る。薔薇水晶は私のそんな仕草に気付き、ごめんとでも言うかのように顔の前で手を合わせてみせる。そんな彼女の可愛らしさに、私は姉のような寛大な心で許してあげる事にした。「……ごめん……晩御飯……誘うから……」通話を終えてから、薔薇水晶は申し訳無さそうに小さな声で私にそう告げてくる。本当なら休みが無くなってとても悲しいはずなのに、彼女は健気にも私の事を気にかけてくれているのだ。そう思うと、何とかして慰めてあげたいという感情が込み上げてきた。「それなら、私の部屋でにしましょう?腕によりをかけてお待ちしておりますわ」出来るだけ明るい表情で、私は思い切ってそう提案してみた。 ほんの少しだけだけれど表情を明るくした薔薇水晶の髪を撫で、優しく声をかけてから、これ以上彼女の邪魔をしないようにと私は自分の部屋へと引き上げて行った。―※―※―※―※―薔薇水晶の破滅的な食事は、どこか幼い頃の私を思い起こさせる。その反動か、私は部屋に戻ってから十分に時間をかけてしっかりと作った昼食を、十分に時間をかけて味わった。それからは、ベッドにもたれ掛かりながら本でも読む。本と言っても『都会で働く20代の女性のライフスタイル』がテーマの雑誌。私は表紙から順に、猫が皿のミルクを名残惜しむようにゆっくり、ページをめくる。レイアウトや内容はもちろん、使っている紙の質から写真の明度まで、ゆっくりと調べるように指を動かす。そうしてたっぷりの時間を費やして読むうち、私の目は目当てのページを見つけ当てた。ちょうど、雑誌全体の中ほどにある見開きのページ。私が書いたページだ。とくに目新しい事も無い、ありふれた内容。隠れた名店と称して、一つの店舗にスポットを当てて紹介するだけ。それでも、私自身が日々の糧を手に入れる為の大切な手段の一つ。私は自分が書いたそのページを、一字一句余すところの無いように読み進めていった。どれ程の時間、そうやって本を読み続けたのだろうか。雑誌の裏表紙にまで目を通した私は、そこでやっと雑誌をベッドの上に置いた。両手を伸ばしうんと大きく伸びをすると、背中が小気味よい音を立てる。時計を見ると、本を読み始めてから3時間ほど過ぎていた。 「……さて、どうしたものでしょう」有り余る時間は、見かたを変えれば退屈の牢獄。薔薇水晶との夕飯まで時間を持て余した私は、これからの数時間をどう過ごそうかと考えを巡らせる。冷蔵庫の中身に不足は無いので、買い物に行く必要も無い。仕方が無いので、とりあえず私はBGM代わりにでもとテレビの電源を入れてみた。映し出された画面は、どれも同じような映像。どの局でも同じような特別番組が報道されていた。 廃教会で若い女性の遺体が見つかった、という内容のニュースだった。「……うふふ」テレビに映し出される光景に、気が付けば私は静かに笑みを浮べていた。忘れるはずも無い。あの教会は、私とオディール・フォッセーが最期に会った場所だ。ああ、良かった。オディール、貴女は見つけてもらえたのですね。とても安らかな気持ちが心に広がる。貴女は夢や幻ではなく、確かにそこに居たからこそ見つけてもらえた。まるで素敵なラブロマンスに遭遇したような、満たされていくような幸福感が私に伝わってくる。同時に私の心に、白いカーテンに付いた僅かな染みのような……小さな。それでいて、鮮明な寂しさが存在するのも、明確に感じ取れた。 オディール・フォッセー。貴女は優しかった。貴女は美しかった。貴女は誰からも愛されていた。貴女には、貴女が例えどんな所に行こうと、必ず見つけてくれる人が居た。心の中で静かに。オディール・フォッセーに言葉を手向ける。まるで世界で一番やさしい物語に触れた後のような、静かな気持ちが私の胸をそっと締め付ける。テレビではキャスターが言葉を囁き続けている。私は、瞳を閉じてオディールへと想いを馳せていた。私は呪われたお城のお姫様。誰かが訪れてくれるのを待っている。私は寂しがり屋の魔女。白馬の王子様。どうか、早く私を見つけて下さいませ。
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