土曜日、見舞いに行く
◆つん、とした病院特有の薬のにおいが鼻をついて、思わず顔をしかめる。私は病院が嫌いだ。やたらと薄ぼんやりした廊下の照明も、とってつけられたようにクリーム色に塗られた壁も。……何より、ここには生気というものが感じられないから。「ねえ、水銀燈」「……なに?」それは、きっと目の前の彼女も同じだろう。生まれてからずっと、こんな陰気な鳥かごのような世界で育ってきた彼女も。「今日の明け方ね、お隣の部屋の人が死んじゃったんだ。不思議なものよね。先週までピンピンしてたのよ?」点滴の針を刺した腕をそっと撫でながら、彼女は言う。まるで、明日の天気の話をするように、何でもない口調で。「……そお」それ以上何を言えばいいかわからなかったし、何か言う必要もないと思った。窓の外には、憎たらしいほどの青空が広がっている。 「あっけないものよね。人の最期なんて」くすり、と彼女は笑みをこぼす。その笑いは、その亡くなった人に対してではなく、彼女自身に向けられた嘲笑。それくらい、わかってる。わかっていても、何も返さない私もずいぶんズルいのかもしれない。来週か、再来週か、それとも……今日か。次の発作が起きた時。それが彼女とのお別れの日。「……水銀燈」「ん?」窓の外に向けていた視線を彼女へと戻す。彼女は、そのきれいな瞳で私を見つめていた。初めて会った時より、ずっとずっと痩せ細った顔を、わずかにゆがめて。「私が、さ……」胸の中で警鐘が鳴る。いやだ。聞きたくない。イヤダ。「私が……私が死ん「悪いけど、今日はもう帰るわ」――臆病者。私の中で誰かがそう言った気がした。ガタリ、わざと大きな音を立てて椅子から立ち上がる。病室のドアに手をかけた時、後ろから声がした。ひどく寂しげな声。「さようなら、水銀燈」いつもみたいに、笑って「またね」などと彼女は言わない。そう……いつもと違う、別れのあいさつ。……でも、それが何だというの?言葉の裏に隠された意味?そんなもの、ただの深読みのしすぎだ。ただの。だから、ドアを開け、そのまま振り返らないで一言だけ言った。「……また、来るわ」――臆病者。私の中で、再び誰かがそう言った気がした。うるさいわね。心の中で舌打ちをして、私は乱暴にドアを閉める。わかっているのだ、わざわざ言われなくても。続いていく全ての事には、いつしか終わりが来ることなど。永遠、だなんてつまらない言葉が、世界のどこにも当てはまらないことなど。彼女は……めぐは……こんな私を許してくれるだろうか。家に帰ると、私はすぐにベッドにもぐりこんだ。妹たちが何か騒いでいたが、知ったことではない。心の奥が重くよじれる感覚。体の力が全て背中から抜けていくようで、けだるくてたまらない。カーテンを閉め、電気もつけず、目を閉じて暗闇の中に横たわる。今夜は風が強いようだ。遠くで森の木々がざわめく音が、かすかに耳に入る。(明日の朝にはやむのかしら……)ねむりにつこうとすると、脳裏をかすめる思い出。偶然に出会い、打ち解け、くだらないことで笑い…………そしてもうすぐ来る、別れという逃れられない未来。――ねえ、めぐ。きっと貴女に伝えれることは、私にはもうないけど……。あと少しだけ話ができるなら、そのとき私は、何を、何を話すのでしょうね。<了>
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