「蒼空のシュヴァリエ」第九回
昭和20年も早6月に入った。この頃にはもはや菊水特攻作戦は目立った効果を上げ得ず、逆に米軍のB-29による本土空襲はこの月に入って格段に増加し、銃後の女子供・老人らを根絶せんばかりに虐殺していった。この時期に入ると日本は梅雨を迎えることから、低空で本土に機銃掃射にやってくる米軍機も数が減り、それにともなって日本の迎撃戦闘機の出番も減少していた。すでに同盟国ドイツは連合国に無条件降伏しており…ついに日本は孤立無援と相成った。空母「キティホーク」自室に篭っていた水銀燈は、特にすることもなく、アメリカ本土で療養生活を送っている親友のメグと手紙を交換していた。銀「…あまり具合が思わしくないようねぇ」肺を患っているメグが近況を述べた便箋を見ながら、水銀燈はため息交じりにつぶやいた。軍に入った彼女とは裏腹に、キリスト教パブテスト派の修道女となっていたメグが教会から受けている入院手当てだけでは、彼女の治療が心もとない事を水銀燈は重々承知していた。水銀燈が日本軍の戦闘機の撃墜を増やそうと努力していたのは、その数に比例して得られる手当てを、結核の特効薬である抗生物質ストレプトマイシンにつぎ込むためであった。軍に居て空母に乗っている以上、衣食住には困らないし、取り立てて何の趣味もない水銀燈には、すでに何万ドルになっているであろう貯金を使うあては他に無かった。そもそも空母上には目立った娯楽施設もないために、金を持っていたとしてもどうにもならないのだが。艦内の経理課へ向かい、今月分の給料をとある修道院系の療養所宛に送金する手続きを終え、次いでメグへの返事を投函した彼女は、近くのブリーフティングルームにパイロットが集まっているのに気づいた。聞けば、どうも何かの娯楽映画を上映するらしいとのことである。悪天候のため艦内に溜まっていた多くのパイロットが、すでにルームを埋め尽くしていた。水銀燈も中に入った。照明が落され、映像が始まった。(⇒http://www.youtube.com/watch?v=gobRbMtvUfs)始まって水銀燈は悟った。これは映画などではない。戦闘機の機首に取り付けられたガン・カメラの映像だと、部屋にいるパイロットらはすぐに理解した。…そして、水銀燈が忘れ去ろうとしていたあの悪夢が追体験となってスクリーンから襲い掛かってきた。低空で日本の上空を飛ぶ戦闘機。それが…民家が集まる集落に銃撃・ロケット弾攻撃を加えるシーン。列車を銃撃するシーン。工業地帯、日本軍の飛行場を銃撃するシーンに続いて…彼女の心を砕け散らせたのは、海岸沿いにいた日本人二人に対する銃撃のシーンだった。…彼らは明らかに民間人じゃないの!周りを見ると、拳を突き上げ、歓声を上げるパイロットの多い事。…ゲームか何かとしか思っていないのね!!誰よ、こんな物を撮って上映する奴は!突然吐き気を覚えた水銀燈は、口を押えて部屋を後にした。彼女の気持ちを幾分か楽にしたのは、許し難いものを見たとばかりに顔をしかめ、水銀燈に続いて部屋を出てくるパイロットが、他にもたくさんいたことだった。十字を切っている者すら居た。…彼女はこの日以降、戦闘機に乗るのがまた億劫になってしまった。敵を堕とさないと手当てが増えないとは言え…日本が雨季でなかなか攻撃命令が下らないのが唯一の救いだった。その後、水銀燈は、あの映像の撮影・上映を命じたのが、フィッチャー司令だったらしいと聞いた。
そして…6月23日、鵜来基地の無線室。基地の全員が、ここに集まって机を囲んでいた。白「…沖縄の我が32軍が解散命令を出しました」ジ「解散命令…!?」笹「それが出るとどうなるんです…?」槐「…南部に圧迫されている我が32軍残存兵力は、各個ゲリラ戦を展開することになる」ジ「県民は!?」槐「…保護し切れなくなるでしょう。逃げ遅れた人々も、現地で編成された女学生の看護婦隊も…」梅「つまり、軍に参加している県民もそうでない県民も、32軍は戦場に放り出すと言う事か?」白・槐「…」ジ「ここまで追い詰められたか…」梅「おかしいじゃないか!米軍上陸までは県民に対して協力せよと言っておきながら、都合が悪くなると 弾雨の中に放り出す!?貴様ら陸軍は何を考えているんだ!」それぞれがこれまで抱え込んでいたやり場のない憤懣が爆発した感があった。笹「そうです!更に、沖縄の陸軍は早々に飛行場を敵に明け渡し、我が特攻作戦を間接的に妨害 したじゃないですか!しかもその後陸軍は自分達だけ特攻作戦を縮小してしまった!無責任でしょう!」白崎と槐、二名の陸軍出身者はこれには黙っていられなかった。白「だがそもそも、我が32軍が県と協同して県民の疎開を進めようとしたにも関わらず、それに 応じなかったのは彼ら自身ではないか!敵襲来は避けられないから疎開しろ、と言っても、 絶対にここを動かんと言う県民をどうしろと言うんだ!いくら故郷を離れたくないと言っても、 そんな自殺志願者を保護する余裕など、陸軍にはない!」 槐「付け加えさせてもらうが、ミッドウェイで貴様ら海軍があんな無様な敗北の仕方をしていなければ、 沖縄がこの時期に危険にさらされることも無かったんだぞ!海軍は偉そうな事ばかり言っていながら とんでもない失策ばかり繰り返しているではないか!真珠湾攻撃の折には無線封鎖の厳命を 簡単に破るわ…開戦からそれだ!それだけはない!我々陸軍通信隊から言わせて貰えば、貴様ら 海軍の通信・暗号技術は最低だ!ミッドウェイで負けたのが敵に暗号を解読されていた可能性を なぜ考えない!?山本長官機が撃墜されたのも恐らく貴様らの暗号D型が破られていたのがその 理由だ!…しかも海軍は今だに暗号を変更していないだろう!国賊めが!」梅「何だと…!!」ジ「やめろ!!」最高指揮官の一喝で場は静まった。ジ「…槐少尉、6月6日夜に傍受した例の電文を読み上げてくれ」槐「司令、あれは皆に動揺を誘うから秘匿せよと…」ジ「構わない。もう沖縄での敗北は決定したも同然だからな」槐「…はい」槐は無線記録を保管している棚から、表紙に『第32軍戦闘経過』と記されたファイルを抜き出し、あるページを開いて読み始めた。槐「長いのでかいつまんで読み上げます。
『現状を報告しないままにしておくことはどうしても出来ないので、県知事に代わって緊急に 報告する。沖縄戦が始まって以来、陸海軍は防戦一方で、県民を顧みることはほとんど不可能 だった。だが自分が知る範囲では、県民は老いも若きも防衛召集に応じ、残された婦女子は 敵の砲爆撃の下で逃げ惑いながら乏しい生活をしている。若い婦人は率先して軍に協力し、 看護婦・炊事婦・砲弾運びはおろか、切り込み隊への参加を申し出る者すらいる。 看護婦に至っては我が軍の撤退が決定されたのち、自給自足で黙々と雨の中を衛生兵が見捨てた 重傷者に手を貸して移動している。 …我が陸海軍が沖縄に進駐して以来、県民は軍から勤労奉仕や物資節約を強要され、もちろん 不満の声も大いに上がったが、ただひたすら日本人として戦っている。 現在、沖縄本島は焦土と化しており、食料は6月一杯しか持たない。 それほどまでして沖縄県民は戦った。 彼らに対し、後世で特別のご配慮をしていただく事を希望する。 海軍少将 太田実』
…沖縄の海軍司令官が、大本営に宛てて発した電文です」…皆一様に押し黙っていた。司令と通信士以外、これを始めて聞いた者は、沖縄の悲哀に涙を零しそうになると同時に驚愕した。6月上旬の時点で、すでに沖縄は焦土化していたというのだ。しかも、食料は…今月一杯しか持たないとあった。…という事は、今すでに食料の欠乏が現実のものとなっているのか。地上戦の惨劇が、この短い電文で痛いほどに分かった。ジ「…ここで言い争ってもどうにもならないだろう。我々は我々のやれることをやるしかない。 各自、本土決戦に向け、最善の準備を尽くせ」「…!!」本土決戦。それが今日ほど現実味を帯びて皆にのしかかったことはない。沖縄の32軍が組織的抵抗を封じられ、実質的に敗北した以上、米軍の次の上陸目標は…ここ西日本であることは明らかだった。もはや、誰も本土決戦を否定することは出来なかった。 蒼星石の母国、ドイツの惨状は、父の手紙によって彼女の知るところとなっていた。 短い栄華を誇ったナチス第三帝国は、その首都ベルリンを舞台に、進攻してくるソ連軍相手に、市民を 巻き込み大規模な防衛戦を戦った。国防軍や親衛隊の奮闘も及ばず、ソ連軍はついにベルリン官庁街に 突入し、総統地下壕のアドルフ・ヒトラー総統は拳銃で自決した。 こうして、第一次大戦後の困窮したドイツ経済を荒らしまわった一部のユダヤ人への怒りを全ユダヤ人 への憎悪へと置換し、見事経済と軍事を立ち直らせて国民からの圧倒的な信頼を得てからは人道的で ない振る舞いを行い、全世界を敵としたヒトラー以下第三帝国は、ついに終焉を迎えたのであった。 地上戦で完全な廃墟となったベルリンの有様は、日本でも一部の新聞で報道されていた。…ここで言っておかねばならないとばかりに、雪華綺晶が恐る恐る発言した。雪「…司令、今月に入り、補給されてくる整備物資や燃料が、量質ともに格段に低下しています。 このままでは…本土決戦を迎える前に、我が隊は戦闘不能に陥るかも知れません…」薔「…」整備兵の悲痛な訴えが、桜田達の心をえぐった。とりわけ、搭乗員の三名にはそれが痛いほど分かった。季節の割にはエンジンがかかりにくいことが最近になって何度もあった。発火プラグが粗悪化しているのかも知れないし、ガソリンの純度が低下しているからかも知れなかった。物資は、前にもまして間違いなく困窮している。…蒼星石は、特攻の背景が少し分かったような気がした。通常の迎撃戦をこのまま続けていく事が困難なのは、我が隊だけでなく、日本中どこの隊でも同じだろう。我が隊でもそうなのだから、他の隊はもっと苦しい状況下にある、と言った方が正しいか。米軍が日本の目と鼻の先に進出して来ていながら、十分な攻撃が出来ない我が軍の飛行機乗りの中には、忸怩たる思いでいる者も少なからずいるだろう。…ならば、すべての劣化と欠乏を迎える前に、最期に出来る完全な整備のもとで、肉弾と化して爆弾を抱き、敵艦に突入する方が少しでも敵に大きな損害を与えられる。彼女は、先月この基地を飛び立って散っていった佐々木の愛機を思い出していた。あの飛燕は、ここに不時着した時には明らかにエンジンの調子が狂っていた。…戦争の皮肉を、蒼星石は、いや無線室の皆は噛締めていた。
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