少年時代2.9
ドアの前で受けた印象は正しく、帳を下ろしたわけでもない室内は陽気のただ中にあるはずが、なにやらこう、ひたすらドンヨリしている。負の気配の源こと、お部屋の主の真紅嬢は、ドア寄りでカーペットが敷いてあるギリギリのところにへたりと座り込んで、弱りはてたくんくんぬいぐるみをただただ抱きしめていた。落涙こそはしていないが、その目元はまぶたを閉じればすぐにでもポトリと滴る、しょっぱい潤みをたたえたままだ。「なに、ジュン」「ぁ、あのさ… なおしてあげよ、くんくん。かわいそうだよ、そのまんまじゃ」目も向けず投げかけられた真紅の問いに、やや重たげな舌でもってなんとか拮抗せしめると、ジュンが先ほどよりしきりにいじっていたズボンの左ポケットからごそごそと、布張りのケースらしきものを取り出した。そう、彼は布のお医者様。右腕がもげようと股間がさけようと、それが布製でありさえすれば、外科手術でくっ付けてのけるゴッドハンドの持ち主だ。「…そう、ね」履歴書の得意なもの欄に上から目線と書いてしまえる、あまりにも貴族なこの少女も、くんくんの身が可愛いようで此度はさすがに角をおさめている様子だ。まあ、それほどまでに弱り果てているとも受け取れるが。「おねがいね」「ん」真紅のそばに陣をすえると、託されたくんくんを膝元に待たせて、裁縫の準備にとりかかるジュン。取り出した布張りのケースの口をパチンと開き、中で行儀よく並んでいる色とりどりの裁縫糸と針をざっと眺めている。くんくんの肌を一瞥し、同系色の糸を選び出すと、共に抜き出した指先の化身たる針の穴に、それはもう慣れた手つきでスルッと通した。「えー、と」針も備えていざ縫いだすかと思いきや、ドクターはまずくんくんの肩に残った糸の残骸を取り除き始めた。いたずら達に引っ張られた事が原因か、お嬢様との日常のスキンシップによる疲労が原因か、やや広がっていた縫い跡がみるみるうちにあらわとなっていく。「うん、これならちゃんとなおるよ」「本当?」不幸中の幸いというべきか、ちぎられる前からだいぶ縫い目が緩んでいたのだろう。ドクターの見立て通り、糸こそ無残なありさまだが布自体は手ひどく裂けたところもなく、これといって大きなダメージは受けていない。彼のすぐ隣まで膝でにじり寄って来た真紅の顔は先ほどとはうって変わり、この吉報に明らかにホッとしたご様子だ。除いた糸をまとめてくずかごに葬ると、両方の傷口から若干はみ出しているワタをぎゅっと奥に押し込め、いよいよジュン先生の腕の見せどころがやってきた。あらわになっている傷口をまち針で軽く留めるや、くんくんの肩に縫い針がチクリと差し込まれる。気丈な患者はあいかわらずべろんと舌を出したまま、じぃっと見守る真紅の気持ちにこたえるかのように、痛みに泣き叫ぶこと無くこらえている。シュッ、シュッ、シュッ、シュッ幼い指先が機敏な、それでいて正確な動きでリズムを刻む度に、くんくんの肩が少しづつ修復されていく。気負っているわけでもないし焦っているわけでもない、ただ集中しきっているだけのジュンの周りには、何本もの細い糸をピィンと張りめぐらせたような、静かな圧迫感が満ちみちている。糸をふるわせるのをはばかるかのように、真紅もいつの間にか口元で真一文字を書いてじいっと呼吸をおしこめ、ひざの上に固く握りこぶしを作っていた。ツピッ プツッ時間にすれば、5分とかかっていないだろう。赤子の手のひらにすっぽり乗るくらいの小さなハサミで、玉結びにした縫い糸のあまりを裁ち切ると、待ち針を抜いて裁縫ケースにしまい込む。最後に腕と胸を揉んで、押し込めていたワタをほぐしてやれば、巻き起こった大過の象徴だった重症人の体はすっかり元の通りとなり、晴れてくんくん君は退院の運びとなった。「はい、できたよ」「くんくん!」もろい砂の宝冠を扱うように、真紅は治ったばかりのくんくんを柔らかい手つきで受け取ると、先ほど枯れた目元の泉から今度は溢れんばかりの宝石を掘り出しながら、薄い胸元にきゅっと抱く。痛ましく剥き出しになっていたワタをしかと納めた丁寧な縫い目は、無事だった左腕のそれと見比べると、明らかにひとふた回りは技巧が上だ。ジュンの業が光っている。「もともとさ、こわれそうだったよ」ほらここ、と首の縫い目のわずかなほつれを指さすジュン。彼の見立てでは、水銀燈と雛苺にやんちゃされるまでもなく、既にくんくんの体はある程度の限界を迎えていたらしい。それとなく彼女らをかばう意図があったのかもわからないが。「きっちりなおしたほうがいいよ、これ」「そうね。 ジュン、その、おねがいしてもいいかしら」まだ少し弱気を引きずっているのか、真紅がやや遠慮がちな視線を送る。そんなお嬢さんのお願いを、受けないジュンではないはずなのだが。「うん、いいだけどさ。 あー、えっと」どうにもはっきりせず、言いよどむ。糸の残りを確認すべく手元に目を落としているあたり、断るつもりは無さそうだが、切り口がはっきりしていないのはどうした事か。「みんなをよんで来てちょうだい。もうおこってないから」「あ、うん。うん」はっとジュンが面を上げれば、くんくんを胸に抱いてしっとりと笑う真紅の顔がそこにある。怒っていないとの言は本当のようで、彼女の目にはもはや苛立ちも悲しみもなく、食べ物を運びながら部屋へと入ってきたその時を取り戻していた。頼みごとに口元を緩めパァッと顔を明るくすると、彼は裁縫道具をしまうのも忘れ、いそぎ腰を上げてすぐそこのドアに向かい駆け出した。
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