『歪みの国の少女』 ~繋げる希望~
《 元気にしていますか? おなかを壊したり、していませんか? 》書き出しは、いつも同じ。少女も、いつものように、ふ……と口の端を弛めた。彼女はいつだって、なにをさておいても、手紙の枕に少女を気づかう言葉を置く。それは、おそらく無意識下での、ごく自然発生的なもの。彼女の――変に気位が高く依怙地な義妹の胸に宿る、義姉への愛情の発露なのだろう。顔を合わせれば、生意気な憎まれ口しか叩かないのに……。そんな感想と共に、義妹の澄ました様子が思い出されて、少女は頬を綻ばせた。要するに、あの娘は他者との距離の取り方が、まだ上手じゃないのだ、と。手にした便箋を、鼻先が触れるほどに寄せて、静かに、ゆっくりと、息を吸い込む。恥知らずな【R機関】に検閲され、【処理】を施された、封のない手紙。けれど、少女の切望していたものは、ちゃんと残っていた。真新しい紙の滑らかなにおい。ツンと鼻腔を突くインクのにおい。小さな孤児院の中に満ち満ちた、静謐で平穏な暮らしの、懐かしいにおい。それらの隙間から、針の如く細かに抜けてくる、義妹たちの柔らかな髪のにおい。少女の胸に、愛おしい気持ちが大きく膨らんだ。ふ……。少女は深い安堵から、目元を和ませた。これも、いつものこと。「よかった」と独りごちると、改めて便箋を遠ざけ、整然と並んだ文章に目を落とした。その中に、生真面目な彼女にしては珍しく、ぐりぐりと塗りつぶした訂正箇所が、ちらほら。いつも目にする【R機関】の【処理】とは違う。明らかに、書いた本人の手による仕事だ。うっかり字を間違えたのか。……いや、それなら書き直すはずだ。真紅ならば。過剰とも思える配慮から、【こちら】を刺激しかねないデリケートな単語を亡き者にしたのだろう。手紙の内容は、【あちら】での、他愛のない日常生活のこと。父も義妹たちも、つつがなく暮らしているようだ。「……よかった」もう一度、独り言を繰り返して、少女は胸を撫でおろした。けれど、その整った顔立ちには、妙齢の乙女らしからぬ苦悩が刻まれている。いつだって、少女の風貌から憂いが消えることはなかった。決して消えることのない翳りが、油汚れの如くに、しつこく染みついていた。すべては、あの日からだ。少女は瞑目して、過去の記憶を掘り返す。孤児院での、貧しく質素ながら、心はいつでも豊かだった日々。優しくて、大きくて、温かい父の存在。やんちゃで手の掛かる、それでも可愛くて仕方がない義妹たち……。 「お父さま……みんな……」帰りたい――と、双眸を潤ませる。好きで、こんな場所に来たのではない。その想いが、憤りの芽となって、少女の胸裡で燻っていた。同じことの繰り返し。たった一人、家族と引き裂かれてしまった、あの日から。『歪みの国の少女』 ~繋げる希望~読み終えた手紙を、机の上に滑らせて、少女は窓辺に歩み寄った。真っ新なレースのカーテンの端を摘んで、澄んだ瞳を、外の世界に彷徨わせる。その表情は、相も変わらず暗い。若く瑞々しい唇を、キュッと噛んでいる。あと少しの刺激に背を押されれば、泣きだしてしまいそうな気配だった。ここは、少女のために設えられた部屋。瀟洒な屋敷の中の、なに不自由のない生活を約束された空間だった。とは言っても、すべての望みが叶えられることなど、ないのだけれど……。ドアがノックされる音に、少女はハッと振り返って、「どうぞ」と。扉の向こうの訪問者に呼びかけた時にはもう、愛くるしい笑みを完成させていた。こんなことばかり巧くなっても仕方がないのに、と胸裡で自嘲しながら。「失礼するよ」ドアノブの廻る音がしてすぐに、訪問者のよく通る声が告げた。穏やかだが、抑揚のある口振り。ある種の威厳も、低く響く声音に潜んでいる。室内へと、自らの座る車椅子を進めてくる姿だって、実に矍鑠としたものだ。少女は駆け寄ろうとしたが、老紳士に手で遮られ、浮かした踵を絨毯に沈めた。「どうかね。不便なことは、ないかね?」「ええ。結菱さんには、お世話になってばかりで。なんてお礼を言ったらいいのか」「慣れないものだな。そう畏まることはないと言い続けて、ひと月が経つのに」口調とは裏腹に、老紳士の猛禽を彷彿させる眼光が、雪の溶けるように和らぐ。少女も、気恥ずかしげに俯いて、透けるほどに白い頬を、春めいた桜色に染めた。この眺め、事情を知らない者の目には、孫娘と好々爺と映りそうである。が、もちろん違う。少女と結菱は、ほんの一ヶ月前まで赤の他人同士だった。少女の前で車椅子を止めた結菱の視線が、机の上の手紙へと吸い寄せられる。彼の老眼では、文面を判読できない。けれど、およその内容は把握しているらしい。「ご家族は、元気にしているようだね」「ええ。みんな、特に変わりないみたい」「結構なことだ。しかし、不憫なことでもある」言って、鷹揚に頷いた結菱は、節くれ立った手を伸ばして少女の白い手を包み込んだ。労るように。慰めるように。そして、どこか愛おしげに。「悔やまれてならない。私に、あと少しの若さと権力があれば、と」「そんな……なにを謙遜するのですか。結菱さんは立派に――」「立派かね。満足に歩くことすら叶わず、老醜を晒しているだけの、この私が」老人の嗄れた自己批判は、少女の喉の奥に、苦くて重々しい塊を残した。「やめてください!」瞼を閉ざして、いやいやをする。「そんな風に言わないで」少女の眉間に刻まれた深い皺に、辛い心境が、如実に現れていた。 「すまない。失言だったようだ」照れ臭さを露わに話す結菱の表情には、思春期の少年のような顔が垣間見えた。「いかんな、年寄りは。つい、気弱になって、愚痴ばかり零してしまう」「老若は関係ないんじゃないかしら。こんな状況だもの、誰だって卑屈になるわ」「こんな状況では、か」ふたりは揃って窓に顔を向け、ぼんやりと外の景色を眺めた。薄いガラス一枚で隔てられた先には、長閑で平々凡々とした街並みが広がっている。ありとあらゆる、すべての物が、溢れんばかりの日射しを浴びて輝いていた。その美しく平穏な景観に、彼らを悲観させる要素などは、微塵も窺えない。けれど、少女も老紳士も知っている。ここにある輝きは平和の縮図などではなく、死に逝く者たちの断末魔であることを。長閑なのではない。この街は病魔に蝕まれて、息も絶え絶えに横たわっているだけだ。「あと――」言いかけて、少女は力なく、放たれるはずだった問いを呑み込んだ。どれだけの猶予があるのかなど、誰にも確約できはしない。結菱にも。少女にも。おそらくは、ノーベル賞を授与されるほどの物理学者でさえも。「窓を、開けてくれないかね」少女は求められるまま、レースのカーテンを左右に分けて、観音開きの窓を開け放った。結菱は頷き、吹く込む風に抗い、窓の先に突きだしたテラスへと車椅子を進める。彼に続いて、少女も降り注ぐ陽光の下に出た。「風のにおいは、変わらないものだな」「そう……なの?」「うむ。君には馴染みが薄いだろうが、私にとっては何十年と慣れ親しんだ風だ。鮭が自分の生まれた川の水を忘れないように、私もまた、この風を忘れはしない」少女にそう告げた老紳士の横顔には、懐旧だけではない、様々な想いが浮かんでいた。いろいろな事があったのだろう。少女の想像など及びもしない、喜怒哀楽が。そして数多の思い出を抱きながら、結菱は役を演じきった俳優として、舞台袖に消えるはずだった。なのに、とんだカーテンコールが待っていたものだ。少女は緑青の浮いたブロンズの手すりに凭れて、目を閉じ、吹き抜ける風に身を委ねた。【こちら】にある物すべては、【歪み】に汚染された忌々しい代物――けれど、少女は頬を撫でてゆく柔らかな風を、確かに心地よいと感じていた。叶うものならば、ココロを託してしまいたい。そんな想いが、少女の胸に募る。この気持ちに【歪み】が生じてしまう前に、大好きな人たちに届けて……と。「お茶にしないかね」穏やかな老紳士の声に、少女は瞼を開く。微笑み、頷いた。「いいですね。それでは、すぐに支度しましょう」気持ちのいい陽気だった。一時の錯覚でも、苦い境遇を忘れられそうな気がした。ひらり、と。少女は飛んだ。テラスの手すりの向こうへと、華奢な身体を躍らせた。けれども、階下に墜落したりはしない。ここは【歪み】の世界。ダリの絵を彷彿させる、【記憶の固執】を嘲笑う非常識な世界。眼に映る物すべてが【現】であり、また【幻】でもあるのだから。それこそ一瞬のうちに、少女は屋敷の厨房に辿り着いていた。冷蔵庫で湯を沸かしつつ、広げたキッチンタオルに、ティーセットを並べる。【歪み】に対するせめてもの逆心から、茶葉だけは、なんの捻りもない銘柄を選んだ。結菱の待つテラスまで戻るときも、少女はきちんと歩き、階段を昇った。ティーセットを載せたキッチンタオルを手に、器用に自室のドアを開ける。それを、机に仮置きしてから、少女はテラスに小ぶりのテーブルを運び出した。「お待たせしました」「いいさ。至福のひとときを迎えるためには、待つことも大切な儀式なのだよ」さらりと、気障ったらしさを感じさせずに言える老紳士の格好よさが、少女は好きだった。威厳と円熟味を備えた結菱に、今は離れて暮らす父の影を、重ねていたのかもしれない。カップを並べながら、少女は父にしていたように、懐っこく微笑みかけた。「いい香りだ。ダージリンかね」「ええ。別のお茶が、よかったかしら」「そうではない。この香りも、まだ【歪】んでいないのだなと、嬉しくなってね」「……そうね。ええ、本当に」カップは、ウェッジウッドのボーンチャイナ。乳白色の器は日射しを吸い込んで、蛍のように淡く光って見える。そこに満たされた深紅の液体は、束の間、老人と少女の瞳と鼻腔を愉しませた。「――美味しい」まだ舌を火傷するほど熱い紅茶をひと啜りして、少女が独りごちた。「こう感じる私たちの味覚も……いずれは【歪み】に蝕まれてしまうのでしょうか」結菱は、うむ、と唸った。「いずれは、そうなるのだろうな」即座に、少女が問う。「どうしても? 逃れる術は……絶対にない?」諦めと後悔を以て、この状況に慣れてゆく道を、歩み続けるより他にない――だとしたら、あまりにも虚しすぎると、少女は思った。この【歪み】の世界を生みだしたのは、人間の弱くて甘えた心ではないか。それを克服する術もまた、人間の心で生み出せるはずなのに。「とても残念だが、【R機関】は外科手術だけが唯一の治療法だと信じ切っている」「あるいは、信じたいのかもしれないわね。誤った教条主義だけど」「確かに、そういう面はある。連中が推進するプロジェクトは、中世の対症療法だよ。目の前の安寧を得ることに躍起で、問題の抜本的な解決には怠慢なままなのだ」だから、やがて世界は自滅する形で【歪み】に呑まれるだろうと、結菱は続けた。少女にも、それは解る気がした。失敗は挽回によってこそ払拭されるもの。しかしながら【R機関】の方策には、そこに至るための確たる道筋が見られなかった。およそ半年前まで、栄華を極めていた人類。巷には、種々雑多な願望を短時間で可能にする文明の利器が、溢れていた。そこに暮らす大多数の人間は小利口な怠け者であり、いつだって楽することを考えていた。それを絶対悪だと論ずるつもりなど、少女にはない。なぜならば、楽をしたい欲求が、少なからず偉大な発明を生んできたからだ。少女も、この世に誕生してから数え切れないほど、先人の恩恵に与ってきた。だから、たぶん人類は、小利口な怠け者のままが最も幸せだったのだろう、とは思う。――ある日、またひとつ偉大な発明が、人類史の中に生み落とされた。多くの人間が脳裏に描いては、苦笑の糧にしてきた【夢】の装置。【夢】は人々の絶大な支持を以て、モバイルフォンの如く、速やかに普及していった。「もしも、【テレポ】……瞬間移動装置が、発明されていなかったら」「よしなさい。詮ないことだ。過去を悔やむだけでは、取り返しなどつかんよ」「解っています、それは。でも――」 考えてしまう。見えない未来より、見てきた過去を思う方が楽だから。けれど、それでは【R機関】と大差ないのだろう。所詮は、その場しのぎ。少女は、冷えてゆく紅茶に目を落としながら、事故の記憶を呼び覚ました。【テレポ】の氾濫と乱用による、世界規模の【歪み】の発生――その原因は、装置が使われる度に生じた、時空の微細な瑕疵によるものだった。被害は瞬く間に、GPSを媒介して地球全体に拡散した。なす術なく動揺する人類に、更なる追い打ちがかけられる。人体もまた時空を構成する一要素であり、【歪み】汚染者が更なる【歪み】を生むとのレポートが、それだ。ただちに国境を越えた修復(Restoration)のための対策組織――通称【R機関】が編成され、検査によって汚染者【歪徒】を狩りだし、隔離収容が始められた。それは巨大な力による、正義という欺瞞の下に行われた人権弾圧。大多数の人間が【歪徒】としての自覚症状もないまま、捕縛、収監された。【テレポ】を使うどころか、触れたことさえなかった少女すらも、問答無用に。しかし、その努力は皮肉にも、焼け石に水どころか、火に油を注ぐ結果となった。砂の一粒が、吹き寄せられて岩となり、いつか山を形づくるように。朝露の一滴が、せせらぎを生んで、やがては海を成すように。隔離によって凝縮された【歪み】は増殖し、もはや手の施しようがないほど巨大に膨れ上がっている。――それが、少女たちの暮らす【こちら】の世界。「あ……」不意に、耳障りなサイレンが街に鳴り響き、少女は顔を顰めた。「また、脱走」結菱もまた、苦虫を噛みつぶしたような面持ちになる。「無理もない。望まぬ世界に閉じこめられて、安穏でいられる者などいない」彼らは言わば、情報弱者だった。それも極度の。携帯電話もインターネットも、テレビやラジオなどのメディアも、この隔離エリアには存在しない。【歪み】が電磁波やウェブにより伝播、拡散するのを防ぐ目的からだ。ただひとつ許された【あちら】との通信手段は、【R機関】の検閲を介する手紙のみ。そんな収容生活に恐慌をきたした【歪徒】が、やがて外との繋がりを求め、脱走者となる。彼ら脱走者が、どのような末路を辿るのかは、想像力を逞しくするより他にない。一度として、彼らが戻った試しはなかった。出ていったきり、消えてしまう。【あちら】からすれば、少女や結菱もまた既に、亡霊【ワイト】なのかもしれないけれど。「それでも……」少女は両手でティーカップを包みながら、呟く。「希望は、捨てたくない」明日には、奇跡が起きるかもしれない。【歪み】を矯正する技術が確立されて、家族の元に帰れるかもしれないのに……その望みを、自ら摘み取ってしまうのは、自殺と同じではないか。「だから、手紙を書くわ。家族にも、友だちにも、ずっと伝え続けるつもりです。私は絶対に、挫けたりしない……って」紡ぐことは、繋げること。少女は、そう信じた。信じていたかった。【あちら】の人々がn[negation]のフィールドと揶揄して忌み嫌う、この【歪み】の国で、真っ直ぐに生きることもまた、形を変えた【歪み】なのかもしれないけれど。それでも、無気力にnの意味を[necropolis]へと変えてしまうよりは幸せだろう、と。「そうだな。それこそが、正解なのかもしれん」結菱は柔和に笑って、静けさの戻った街並みに、目を彷徨わせた。「君のような強い存在が、いつの時代も道を切り開いて、人々を導いてきたのだろう」強いだなんて――と。はにかみながら、少女は両手で頬を包んだ。 女の子に強いという形容は、褒めているのか、いないのか。ひとまずは、好意的に捉えておいた。「あ……あの」「うん?」「お茶が済んだら」「ふむ」「少し、歩きませんか。いい天気だし……お買い物のついでに」なぜ、そんな心境になったものか。実のところ、少女にもよく解らなかった。ただ唯一、確かなことがあるとしたら、「それはいい提案だ」老紳士が、自分の誘いを快諾してくれた事実に対して、歓喜していることだ。胸躍る昂揚の理由を問われても、嬉しいからとしか答えようがない。この閉塞空間にあって、少女の孤独に潰されそうな心が、渇望していたのだろう。父性の包容力を。安心して身を委ねられる力強さを。老紳士に好意を寄せたのも、きっと、そんな姑息な理由からに相違ない――少女は一息に紅茶を飲み干しながら、独り合点した。その日の夜更け、少女は手紙の返事をしたためた。《 お変わりありませんか、お父さま。みんなも、元気にしている?私のことは心配しないで。毎日、心静かに暮らしています 》――みんなに会えないのは、とても寂しいけれど。少女は胸の痛みに眉を曇らせながら、便箋の右下に小さく“水銀燈”と署名して、万年筆を置いた。それから、仄暗いランプの灯りの下で、机の傍らにある姿見の鏡を覗き込んだ。ああ……。憂い顔の少女の唇から、苦渋に満ちた吐息が漏れる。検閲される手紙に、迂闊なことは書けない。その欲求不満からだ。この文面をして、【R機関】に脱走者予備軍とマークされることは、大いにあり得た。――檻の中のモルモット。それ以外の、何者でもない。もう嫌……。抑鬱を紛らそうと、少女は自らの鏡像に、父や義妹たちの面影を映そうとした。そんなときだ。少女の中に、天啓の如く妙案が閃いたのは。 「そうよ……会いに行けないのなら、来てもらえばいいんだわ」こんな単純な発想の転換が、どうして今まで、浮かばなかったものか。少女は嬉々として、置いたばかりの万年筆を手に取った。不思議なことに、アイデアは後から後から、滾々と溢れてきた。父や義妹たちに【歪み】を植えつける手段は、手紙しかない。そして【R機関】の検閲と処理を潜り抜けるためには、自然な文面が望ましい。ならば、と。少女は、手紙を書き直した。文脈も、簡素だが難解なものへと。慣れない作業に四苦八苦しながらも、異様なまでの情熱が、尽きることはなかった。「……できた」満足そうに呟く少女の手には、書きあげた手紙。そこに整然と並ぶのは、反射文字のアルファベット。鏡に映さなければ読めない四行詩だ。これを見た家族は、どんな顔をするだろう。想像して、少女は、くくっと含み笑った。ぱたぱた……。灯されたランプにぶつかって、一匹の蛾が机に落ちた。仰向けになった蛾は、羽根をばたつかせつつ、六本の脚で頻りに宙を掻いている。少女は、琥珀色の隻眼で、その様子をしばし面白そうに観察すると――やおら、手にした万年筆を振り下ろし、ペン先で蛾を串刺しにした。ぷちっ。蛾の脚が、断末魔の苦しみに震えながら、縮こまってゆく。その変化を、怪しく濡れた瞳で眺めて、少女はまた、くすくすと忍び笑う。ランプの光を浴びて、背後に長く伸びた少女の影が、ゆら、ゆらり……。炎の加減で怪しく蠢くそれは、真っ黒いドラゴンを彷彿させた。「私からの招待状よ。さあ、みんな一緒に、会いにいらっしゃい。ここは暗くて、何も見えない。とても、とても寂しい場所なの。だから急いで。早く、早く――私の心が壊れてしまう前に」戯けるように、しかし切羽詰まった調子で、少女は夜闇に囁く。その爛々と輝く瞳の奥には、妖しい炎が揺らめいていた。〆
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