第十話 「お祭り騒ぎ」
第十話 「お祭り騒ぎ」なぜこうなった!僕はアウトドアとは縁の欠片もない体で必死に走っていた。足も遅いし体力もなく、息が切れるばかり。辛い辛い、人目がないとはいえ今走っている道路で寝転がりたい気分だった。しかしながら、そんな余裕はない。僕は気分転換で走っている訳じゃなく逃げているのだ。恐ろしいものだ、とても。人間は未知のものに恐怖するというが、まさにその通りであった。否、一つだけわかっている事がある。“捕まったらやばい”これは間違いない事だと思う。いつものようにだらだら深く考えて判断したのでなく、見て瞬時に全身がそう感じた。“あれ”は恐怖そのものだ。体が先に反応して逃げ出したのだからそうに違いない。後ろを振り向く。少しの間見続けたが姿は見えない。だが、油断できない。確実な安全を確保するまで僕は走り続ける。今は少しは安全であるが、いつまた危険な状態になるか。……!訂正しよう。今は決して安全な状態でなかった。なんと、塀の上という僅かなスペースを活用して僕を追いかけてきている。獣走りというのか、落ちないで器用に走る。というか速い、運動不足の僕とはいえ同じくらいの速度だ。なんなんだ、一体なんなのだ。「カァァァァズキィィィィィイ!」奴が僕に語りかけてくる。無論僕はカズキではない。こうなった原因は十五分程前だろうか、嵐は瞬時に現れた。◆トロイメント(喫茶店の呼び名がこれに落ち着いた)の帰り道。本日は深夜の営業はないらしく、蒼星石さんが一緒であった。これに加えて水銀燈、金糸雀はオフである。珍しいメンバーで、僕はバイトの先輩である二人に色々と仕事について聞いていた。新鮮な感覚であった。そんな中、水銀燈が蒼星石さんに質問した。「なぜ帽子を鞄にかけているんですのぉ? 」「貰った帽子で気に入っているのだけどね、被るのはどうもね」そして蒼星石さんは会話の路線を元に戻そうとする。どことなく不自然な事ばかり、言っている事も焦って話を変えるのも。あのぉ、何回もそうやって水銀燈が蒼星石さんに聞くけども無視する。あの優しく礼儀正しい蒼星石さんが無視するなんてのは信じられない。帽子に何かあるのは明らかであった。すると、水銀燈が鞄にかけている帽子を素早く奪ったのだ。あまりに鮮やかな動きにみとれていたが、そんな事しなくともいいじゃないかと思い直した。「貰っちゃったぁ、貰っちゃったぁ」そう言って水銀燈は帽子を被った。ミニシルクハットという感じなのか、ボーイッシュな感じである。自分の中で水銀燈が帽子を被った事による評定を審議していると、情けない悲鳴が聞こえる。蒼星石さんだ、なんて弱弱しい声を出すのだ。何故、蒼星石さんはこんな怯えた仕草をするのか。考えようとした刹那、“それ”はやってきた。「へ? 」腕を引っ張られ壁際に寄せられる。一瞬の出来事なのでよくは理解できなかったがわかった事は二つ。それは「カズキ」と名前を呼んでおり、何故だか水銀燈を目標に走ってくる。水銀燈はおろおろとして壁際に向かおうとするも、手遅れだという事に気付く。それの手が水銀燈にもう少しで届くという所で、水銀燈はそれに蹴りを入れて豪快なスタートを切った。豪快というよりも、必死である。そして二人は何処かへ走り去っていったのだ。暫くの間僕は呆気にとられていた。あまりに奇妙な光景が僕の意識を空ろにしたのだ。正気に戻り、問いかけてみる。「ありゃあ、なんです」「……おじいちゃん」そこから詳しく聞いてみた。何でも蒼星石さんのおばあちゃんである妻と蒼星石さんの叔父である自分の息子のカズキを亡くしたそうだ。悲しみのあまり面影を追いかけるという。蒼星石さんの鞄にかけていた帽子はその息子の形見であるらしく、蒼星石に贈ったという。被った所でさぁ大変、彼は帽子を被った人間をカズキと認識して追いかけるそうだ。という訳で帽子は被らず、鞄にかけておくだけだったらしい。んで、爺さんが何処から出てきたとか対処法はどうだとか色々気になる。けれども、一番気になる事がある。「捕まったらどうなるんです? 」唾を飲み込んで緊張した様子で僕に語りかけようとする。同じく緊張した様子で僕も聞き入ろうとする。そんな状況下、水銀燈は帰ってきた。顔から生気はなくなり、死にもの狂い。目が合った、瞬間的に水銀燈を加速をかけた。すぐ傍に迫っていた彼を僅かに引き離して、帽子に手をかけた。待てよ、これはまさか。嫌な想像が頭の中を駆け巡る。「はぁい!」枯れた声で叫んで僕の頭に帽子をのせる。ああやはり、わかったぞこれは。「カズキィィィィィィイイイ! 」バトンタッチだ。◆そんな訳でランナーは変わり、僕は走り続けている。名前も知らぬ通行人の頭に帽子を無差別にのせるというのは罪だ。自分は助かるが罪悪感に後生を侵される。責任感と危機感と悲壮感、以上を背負い僕は走る。帽子を捨てるという手もあるが、何か負けた気になる。二個あった肺の一つが潰れたのじゃないかという苦痛に悩む。で、これは一体いつ終わるのだろう?一つがあれに僕が捕まって終了、つまり敗北である。問題は勝利条件が不明という事だ。すでに僕は限界を超えて走っているが、あれに底はなさそうだ。難易度高すぎるだろう。チートじゃねえのかあれ。交差点だ。目の前で塀が途切れている。だが、この短時間でそれは無意味だという事を知らされている。ついさっきの所では左右も確認せず交差点を突き抜ける。此処で差がつくかと思いきや、あれは塀の上での走り幅跳びを疲労してくれた。一足分の幅しかない塀での走り幅跳びの難易度の高さは並じゃない。塀と塀の間の距離も中高生の幅跳び記録の平均を少し下回るくらいだったが関係ない。状況が状況でなかったら惚れ惚れするようなジャンプを見せてくれた。パーフェクトだ、歳を感じさせない見事なものである。訂正、歳だとかは最早関係ない。“あれ”は“あれ”なのであって、恐怖そのものでそれ以上でもそれ以下でもないんだ。そんな訳で距離をつけるとかいう希望は既になくし、打開策を今もひたすら考えている。カズキ以外の単語は聞き取れず、ただの奇声のようにしか聞こえない。あれやこれやと、考えは浮かんですぐにボツになる。正直に言おう、僕単体での勝利法は思いつかない。だからといって捕まりたくないので仕方なく走る。どうするんだよこれ!ちょっとして、小さな橋へと出る。いっそ川に飛び込む手段も考えたが、冷たい川の中で“あれ”に悲惨な目をあわされる図が浮かんだ。そこで勝負もとい戦いは展開を見せた。ついに抑えられない失速のせいで追い付かれたのである。今は僕は橋の真ん中を走り、手すりの上を“あれ”が走る。並んで走っている構図はさぞ滑稽であろう。横を振り向いて恐ろしい形相をした“あれ”と目が合い、思わず足がくすんだ。僕は急停止し、僕を追い抜いてしまった“あれ”はすかさず横跳びで橋の真ん中へとおいでになった。空気は冷たく、緊張感が漂う。ひとまず僕は息を整えようとした、幸いな事にあちらもブレイクタイムなようだ。対処法に思考を働かせようとした時、動きを見せた。どうやら回復力も並ではないらしい。“あれ”が行動を始める、ブリッジだ。綺麗な姿勢である、隙がないと言わんばかりの見事な曲線。はて、なにが始まるのか。答えは再開。こちらにブリッジの姿勢のまま向かってきた。速度に衰えも見えない見事なフォームチェンジ。恐らく視界の上下反転により混乱もない。獲物を萎縮させながらも自分にデメリットはない。僕はくすんでしまった足を動かす事が出来なかった。体力も勿論限界だが、それ以上に精神が参ってしまった。ああ、僕は“あれ”に負けてしまったんだ。完膚なきまでの敗北、そして捕食。僕は蛇に睨まれた蛙。あと数秒で僕に辿り着くだろう。恐怖に身を支配されながらも、不思議と変な気持ちになっていた。この人生で他人と競い合うという事に情熱を注いだ事はない。今回が始めての勝負、やるかやられるか、弱肉強食。そんなものだった。そしてあまりに綺麗に敗北した僕は、“あれ”に敬意を抱いた。お見事。恐怖のせいでついに腰をついてしまう。しかし、不思議と清清しい気分だった。ああ、僕は。走馬灯が訪れようとしている。幸せってなんだったんだろうか。僕は努力したんだろうか。人生の迷宮の出口を見つけたのだろうか。綺麗に終わったのだろうか。哀しく歌いたい気分だ。雪でも降らないかな、などと最後に春空を見つめて切なく狂おしく訳もわからない思考に至る。意識がゆらゆらとしていく。◆「それでどうなったのぉ? 」災厄をふりまいてくれた水銀燈に肩を借りながら僕はいきさつを語っていた。息も段々安定してきた。蒼星石さんは話が気にながらも僕の顔色をずっと伺っている。「目を瞑った、僕の人生経験上あまりないことだけど何も考えなかった。頭ん中が空っぽになるなんて初めてだよ」「それでそれで」、と問い詰めてくる水銀燈にゆっくり説明してやった。それは本当の偶然で、奇跡と言えるものかもしれないと。僕単体では“あれ”に勝利する方法はなかった。そこへ、結果的には切り札と呼べるものがやってきた。突如、自分の名をよばれた。腰を抜かした姿勢のまま振り返ると、ぱっとしないし記憶にもない顔がそこにあった。「久しぶり、笹塚だよ。高校で同じだった」成る程、それならば知る由もない。適当に相槌を打とうと思ったが、何か変だ。何も起きていない。僕は全ての終わりを覚悟したのに何も起きていない。恐る恐る、振り向く。やはり“あれ”は居た。しかしただ佇んでいる。いや、目線は僕の後ろの方の笹塚という子に向けられている。事が起きた。ブリッジフォームのまま加速して走ってきた。体を思わず震わせたが、なんと飛び越えたのだ。器用だ。思わず振り向いて笹塚の方を見る。いつのまにか体を反転させていて、笹塚に馬乗りしている“あれ”がいた。どういう事かはわからない。考えようとしたが体が先にそこから逃げ出していた。「まぁ逃げるしかないわねぇ」そりゃそうだ、あの状況ならば。だが、僕は未だに帽子を被っているが無事な理由がわからない。もっとも、それを確かめるために現場へと向かってるのだけど。「みたいだね、二人が見えてきた」この街中で壁に押し付ける者と押し付けられる者、誰かは一目瞭然だ。何か変わった所は。「あ」そうやって一息置いて蒼星石さんは喋り始めた。「あの子似てる、叔父さんに凄く似ている」驚愕という感じの表情を見せている。それ程までに似ているのだろう。感慨深くも感じるかもしれないが、僕はまず。「はい蒼星石さん」蒼星石さんの頭に帽子をかけてあげる事にした。ああ、似合っている。蒼星石さんという感じがした。頭の帽子に手を当てて暫く考え込んで、ありがとと呟いたような気がした。「あ、それとね。捕まるとこうなるんだ」蒼星石さんは二人を指差す。おぞましい表情あ消えて和やかに笹塚に接触する“彼”。幸せそうであった。そして何よりこの姿勢は。「……まさちゅーせっつ」水銀燈と僕が同時に言った。蒼星石さんは何を言っているのかわからなさそうにしている。そりゃそうだ、金糸雀を深く知る人間でないとわかるまい。親愛なるものに行う頬ずりという接触行為、その事象に金糸雀が名前をつけた。それがまさちゅーせっつ。なんだか、今日一日必死だった神経が急に緩んだ気がした。そして、久々の経験をする。狂ったのじゃないかという程に笑った。最近は少しは笑うようになったけど、今のはぜんぜん別物だ。こんなに笑ったのは空白期間以来初めてだ。つられて二人も笑う。僕の笑いにつられるなんて状況は今まで考えもしなかった。あー、なんて可笑しいんだ!なんて表現したらいいのだろう、この感情は。うきうきするような、凄く興奮していて、恍惚感がある。こんな気分は初めてだ。なんだろう、なんだろう。そうか、愉快なんだ。よく知らないけど、これが愉快ってもんなのだろうな。“楽しい”体は非常に疲れているが、そんな事を考えた。もしかしたら“今僕は幸せなのかもしれない”。そんな驚くような考えが、僕の中で駆け巡っていた。僕は今、無邪気になった気がして、けども成長した気にもなった。
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