【薔薇水晶とジュン】しあわせのはなし。中編
「ねえ、一応聞くけど、あれは誰?」「ふん、私が聞きたいわよ」 真紅と水銀燈の会話。悟ったのだ。二人は。彼女が、違う存在であることに。「これは、ジュンから聞いた話よ」「…………?」「薔薇水晶の話。薔薇水晶と、最初に会った時の話だって」「……薔薇水晶が、ジュンの家に居候した時の話?」「そうよ。薔薇水晶が、身寄りがなかったときの話。――まあ、それって、私がジュンを解放したときなんだけど」「ふぅん」「何よ、慰めるとかしないの?」「また泣くのなら、慰めてあげてもいいわよ?」「……は、冗談よ、そんな顔しないでよ。悪かったわよ」「それで?」 真紅は、続きを促す。「……あれは、強い雨が降っていた日だったっけ?」「さあ、どうだったかしらね」
――でも、とても寒かった日の、話。
「あ――」 声が漏れた。打ち付けるような強い雨。それは、まるで存在をも打ち消してしまうような雨だった。「僕、は?」 そんな中で、ジュンは傘もささずに、ぼうっと、ただ立っていた。何もしたくない。何も出来ない。それが、ジュンの心だった。「そっか。泣いてたもんなぁ、水銀燈」 その名前を思い出すだけで、心が痛む。あんなにも傷ついた水銀燈。そうしたのは、他ならぬ自分。誰もが否定するが、少なくともジュンはそう信じていた。 自分がもっとうまく立ち回れば、きっと違う結末があった、と信じていた。 それは、事実だ。ジュンの責任ではないにしろ、少なくとも、水銀燈が壊れる世界は回避できたかもしれない。もしかしたら、水銀燈と笑いあう世界があったのかもしれない。 「……ホントに、どうしようもなくて」 自己嫌悪、というのは、一人でするものだ。一人だから、自己嫌悪する。耐えられないのだ。心が優しい人間であればあるほど、自分の罪に。罪を感じる心は、自身の良心だ。 その点において、ジュンは優しかった。それだけは、疑いようのない事実だった。「どうしたら、いいんだろうな――」 呟く声すら、雨音に消える。誰も答えてくれる人はいない。いや、この世界には、誰も居ない。
――うわあああああああああ。
「……え?」 そう、居ないはずだったのだ。誰も。ジュン以外には。
ジュンは、声のするほうに行く。それが、聞き覚えのある声だったから、だろうか。本当に悲しい、感情をむき出しにした泣き声。 ――そして、ジュンはその声の主を見つける。「うわああああああああ――」 少女は、泣いていた。誰も居ないその場所で一人、天を仰ぐように。親とはぐれた幼子のように、心細げに、ただ、慟哭をあげる。「あの……」 ジュンは、自然に声をかけていた。それは、もしかしたら、一人で居たくないという気持ちもあったのかもしれない。水銀燈のように、涙を流す少女が居ることが耐えられなかったのかもしれない。
だけど。きっと、ジュンは――「え……?」 ――その、か弱い少女の、そばに居たいと、ただ自然に思ってしまった。
それは、何てひどいことなんだろう。ジュンは、自分を責める。水銀燈を、あんなにしておいて。それなのに、この少女の傍に居たいなんて。 だけど、それだけは本当のこと。だって、どうしようもないんだ。目の前に居る少女を見たら、どうしても、その考えしか浮かばなくなってしまった。水銀燈のことさえ、霞んでしまうくらいに――
ただ、少女の笑顔を、見たいと思った。
「あなた、だぁれ……?」 ――それが出逢い。【薔薇水晶とジュン】の物語の始まり。
「僕は、桜田ジュン」「……あなたは、なぁに?」「僕は、……きっとひどいヤツだ」「わたしに、なんのよう?」 少女の言葉は、幼さなかった。どうしてだろう。何故か、初めて使った言葉のように、ジュンには思えた。
「君の、笑顔が見たい」 赤面してしまうような台詞を、何の迷いもなくジュンは言った。それだけが真実だとでも言わないばかりに、言った。
「……えがお? えがおって、なに?」「笑顔――」 笑顔とは、何か。ジュンは、水銀燈を思い出す。真紅を思い出す。想い出を、想い出す。「笑顔って言うのは、」「うん」「――幸せなときに、やってくるもの」「しあわせ?」 きょとん、と少女は聞き返す。それはまるで、夢物語を語られたような。「ジュン」「え?」「あなたは、わたしにしあわせをくれるの?」 少女は、ただ純真な瞳で聞いた。
「……僕、が?」「あなたが、わたしに」「幸せを?」「そう、しあわせを」 とても陳腐で、使い古された言葉があった。今この時のために用意された言葉のような気さえする言葉がある。その言葉は――「いいよ」「ほんとう?」「ああ、本当だ」 すんなりと、とんでもないことを言うものだ、とジュンは思った。でも、自分の心に嘘偽りがない。それだけは、胸を張って言えた。「……じゃあ、ジュンと一緒に居る」「僕で、いいのか?」「やさしくしてくれるなら。いっしょにいてくれるなら。わたしを、しあわせにしてくれるなら」「誓おう」
そして、ジュンは誓う。この、あまりにも物語りじみて、出来すぎた世界に。 ――この、【運命】という言葉がぴったりと当てはまる、出逢いに。
「あは……うれしい」 そして、少女は笑う。初めて、ジュンの前で、笑った。それはとても、綺麗な微笑で。
「……つまり、どういうことなの?」「薔薇水晶に、身よりは居ないわ。……それどころか、ジュンと出会う前の記憶がない」「そう。それは、知らなかったわ」 真紅は、嘆息する。「薔薇水晶に身よりは居ないことは知っていたけど……どうして、水銀燈は知っているの?」「ジュンが教えてくれたわ。……まあ、仲直りみたいなものよ。そういう意味で、薔薇水晶に感謝しているわ。あの子が居なければ、私、もしかしたら壊れていたかもしれないわけだし」 「そういう理由もあって、あの子は、貴方に懐いているわけね。でも、その話がさっきの薔薇水晶とどういう関係があるの?」「真紅ぅ、人の話は聞きなさぁい? あの子は、薔薇水晶じゃないわぁ」「? 解せないわ。何を言っているの?」「あの子は、薔薇水晶よ。でも、私たちの知っている薔薇水晶ではない」 水銀燈は、彼女が走って消えて行った方向を見て言う。「あの子はね――」
……それは、とても悲しいことだった。
「あは」 彼女は笑う。何故か、どうしようもなく楽しくて。「こんなに雨が降っているからかな」 そう。知らない間に、雨が降り始めていた。それは、いつだったかの記憶。薔薇水晶とジュンが出逢ったときのような、強い雨のよう。「雨、好き」 雨は、薔薇水晶にとっての、幸せの象徴だった。傘も持たずに外に出て、ただ濡れたいと思うくらいに、薔薇水晶は好きだったのだ。 それはもちろん、ジュンとの思い出。ジュンとの出逢いがあるからだ。雨の日には、いいことがある。そう信じられるくらいの、ジュンとの出逢いがあったから。「だけど――」 しかし、“彼女”にとって、雨とは――。「あはは、早く、早く逢いたいなぁ。ジュン。ジュン。薔薇水晶(わたし)の大好きな、ジュン!」 歌うように、踊るように、彼女は駆け出した。居ても立っても居られない。どうすることも出来ない感情。逢いたい。ただそれだけ。 それは、恋のよう。熱く燃えあがる、恋のよう。 ――だけど気をつけて。恋とは、つまり、堕ちることに他ならない。フォール・イン・ラブ。恋に、堕ちる。
「早く、初めましてが言いたい! この鬱陶しい雨が、どうでもよくなる、素敵な初めましてを!」
そして。彼女は走り出す。薔薇水晶が大好きな雨を、嫌悪した表情で、楽しそうに、おかしそうに、とてもつまらなそうに。
それは、当たり前のことだった。――だって、“彼女”にとって雨なんて、ただの忌むべき記憶を呼び起こす触媒に過ぎなかったから。
続く
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