水銀燈の野望 烈風伝 ~薔薇乱舞編・蒼紫帖~
――永禄九年師走。「まず攻めるべきは――ここね」「伏見城――」薔薇乙女紅家当主・真紅が下した非情の決断。それは玄家・水銀燈に対する先制攻撃であった。「ここまで来たら、やってやるですぅ!」「必ず役目を果たして見せるよ」翠星石、蒼星石はその嚆矢となるべく、七千の軍勢を率いて出陣。たった数日の合戦で伏見城を陥落させることに成功した。一方、講和の機会を窺っていた水銀燈だが、伏見城を陥とされ、止むなく出陣の命令を下す。「かくなるうえは、こちらも相応の行動を起こさなければ示しがつきませんわ」「反撃の時……来たる」伏見奪還の命を受けたのは、雪華綺晶、薔薇水晶の両名であった。玄紅両軍の血戦の火蓋は、奇しくも双子の姉妹同士の戦いによって落とされる様相となっていた――~~水銀燈の野望 第二部 薔薇乱舞編・蒼紫帖~~――永禄十年正月。「明けましておめでとうござりまする。宰相様におかれましては、ご機嫌もうるわしく――」近江国、観音寺城。元旦から、城内は賑やかな声に包まれていた。領内各地から有力武将が続々と年賀の挨拶に訪れていたのだ。「こうして皆と新年を祝うことが出来て、祝着の極みよぉ。これも貴方の働きがあってこそ――感謝するわぁ」「はっ。身に余るお言葉、恐悦至極に存じ奉ります」「今年もよろしくお願いするわね。期待しているわぁ」水銀燈は酒の満たされた盃を片手に、客人の一人一人に言葉をかけ労をねぎらう。盃を干しては傍らの侍女に酌をされ、片時も笑みの絶えることはない。誰の目にも水銀燈の機嫌は上々であった。「ときに、雪姫様と紫姫様は如何なされましたかな? 御姿が見えぬようですが」「あの二人なら大晦日に飲み過ぎてひっくり返っているわぁ。まったく、情けない妹を持ったものよねぇ」「はは、あのお二方らしい――おっと、これは失礼を」「無礼講よぉ、新年だもの。二日酔いで皆の前に顔も出せないあのコたちの方が、よっぽど失礼ってもんだわぁ」諸将の間で雪華綺晶と薔薇水晶の不在に話題が及ぶ度、接待役のジュンは肝を冷やした。「こたびははるばるのお越し、かたじけのうござる。ささ、もう一献」同じく接待役を命じられた明智光秀は、涼しい顔で広間にずらりと並んだ客人の酒席に酌をして回っている。(苦労してたんだな……)目の回りそうなほど忙しい接待をそつなくこなす光秀を見て、ジュンはそう思った。「ほらぁ、ジュン! ぼーっとしてる場合じゃないわよぉ。向こうの席でお酒が足りてないじゃなぁい」「へいへい、ただいま」水銀燈に叱責され、再び宴席を駆け回るジュンであった。「失礼致す」宴もたけなわになりつつある昼過ぎ。一人の大柄な青年武将が、前触れも無く大広間に現れた。「貴殿は――」応対に出た光秀は、軽い驚きを浮かべた。「遅くなりましてござる。近江国小谷城主、浅井備前守長政にござりまする」「これはこれは、ようお越しになられた。さ、これへどうぞ」「かたじけない」うやうやしく礼をする男に光秀も最敬礼で返し、水銀燈のもとへと案内する。――浅井長政。北近江を治める大名にして、水銀燈の同盟者である。祖父・浅井亮政の代に、京極家に代わって北近江の実質的領主となった実力派大名であった。三代目に当たる長政も祖父に劣らぬ実力者であり、その人物には織田信長も心酔したと言われている。水銀燈の前へ通されると、長政はきびきびとした所作で座り、深々と頭を下げた。「宰相殿、お初にお目にかかりまする。浅井備前守にござる。どうか以後お見知り置きくだされませ」「よくぞお越しに――」水銀燈の言葉は、そこで途切れた。やおら立ち上がり上段を降りると、長政のもとへ歩み寄って目の前に腰を下ろす。「備前守殿、お会いできて嬉しいわぁ。本来なら私から小谷へ挨拶に伺うべきなのに」長政に盃を手渡すと、水銀燈は自ら酌をした。「これは……勿体のうござる。それがしが如き者に」「何言ってるのぉ。貴方は大切な盟友だもの、これくらい当然のもてなしよぉ」頬を朱に染め、水銀燈は満面の笑みを浮かべて答えた。「今日は存分に飲んで楽しんでいって欲しいわぁ。今日と言わず、何日でもこの観音寺に逗留していきなさいな♪」長政を迎え、水銀燈の気分は最高潮に達していた。ところで、水銀燈は朝から飲みっぱなしである。「昨年末、伏見城が陥とされたとのことにござるが……この先、近畿の情勢は如何相成りましょうや?」「らぁに言っでんのよぉ~? ころ私がいる限り、真紅ごろきの好きにはさせらいわぁ~♪」日が傾く頃には完全に呂律が回らなくなっていた。(本当に酔っ払ってどうすんだよ……)ジュンは頭を抱えた。水銀燈がこれほど大規模な宴会を催したことは、かつて一度も無かった。身内だけでささやかな宴を楽しんだことはあったが、その他は合戦に政事に明け暮れていたのである。この大宴会の真の目的を知る者は、水銀燈とジュン、光秀の他には殆ど居ない。発案者である雪華綺晶と薔薇水晶を除いては。二人は二日酔いで寝ていたわけではない。大和国多聞山城に集結した一万の軍勢と共に居た。「今頃、姉上はへべれけになっている頃合かもしれませんわね」「……ありうる」酒を酌み交わしながら、雪華綺晶と薔薇水晶は囁き合った。城内も城下も甲冑に身を包んだ兵士らでひしめき合い、合戦前夜の様相を呈している。合戦前夜どころではなかった。雪華綺晶と薔薇水晶は、元日であるこの日、まさに出陣しようとしていたのである。新年の宴は紅家や味方の諸将を欺くための演出であり、この大規模な軍事行動を隠す意図が秘められていた。「さて……首尾はどうです?」総大将である雪華綺晶は、忍装束を着込んだ金糸雀に尋ねた。「山城国までの軍道には、伏兵の気配は見られなかったかしら」「そうですか。御苦労でしたわ。引き続き、探索と調略をお願いいたしますわ」「承知かしら!」ひとまずの役目を終えた金糸雀は、再び城から駆け出していった。「敵も、味方でさえも私たちの行動に気付いていない……隠密行動はうまくいったようですわね」「苦労したもん」出陣準備は慎重に慎重を重ねて進められた。兵の徴集も出陣時期を悟られないよう、段階的に行われていたのであった。「さて――そろそろですわね」雪華綺晶は床几から立ち上がった。居並ぶ武将たちの顔に緊張が走る。「これより出陣いたします。軍議で申し合わせた通り、前軍はばらしー、後軍は私に続いてもらいますわ!」「おぉー!!」息を潜むべき時間は終わった。出陣すれば、あとは速やかに進軍あるのみ――新しい年の始まりであるこの日、彼女らは戦場へ解き放たれたのである。翌日。山城国、伏見城。翠星石と蒼星石は、二人だけで新年をささやかに祝っていた。無論、七千の兵力で城周辺を抜かりなく固めた上での祝い事である。「おめぇと二人っきりで酒が飲めるなんて……今年は最高の一年になりそうですぅ~♪」ピトッ「くっつきすぎだよ……こんなところ誰かに見られたら……」「心配ねぇですよ。夜まで誰も入ってくんなって命じてありますから♪」イチャイチャ「いい加減、飲み過ぎだってばぁ……ちょっ!? だ、ダメだって! こっこれ以上はNGワードないとまず――」「申し上げますっ!!」「ひうぅっっ!!?」「ひゃあぁっっ!!?」突然の注進に、床から五寸ばかり飛び上がる二人。「い、いきなり何事ですか!? 誰も入るなって言っておいたハズですぅ!!」「はぁ。しかし、まだ部屋に入ってはおりませぬが……」「あーっもう! 揚げ足取りは良いから、その場でさっさと用件を言いやがれですぅ!!」「はっ。昨日、多聞山城より玄家の軍勢が出陣、この城を目指して北上中とのことでござりまする!」「な、なんですとぉー!!?」再び飛び上がる翠星石。衝撃の度合いは、先程よりも遥かに大きいものだった。「で、その数は? 敵の大将は!?」動揺を抑えつつ、家臣に尋ねる蒼星石。酔いは完全に覚めてしまっていた。「は。先方隊を率いるは薔薇水晶、その数およそ四千。総大将の雪華綺晶は六千の兵を率いて後に続いたる由」「敵は二手に分かれ、総勢は一万か……分かった。下がっていいよ」「ははっ!」家臣が去った後も、翠星石はしばしの間呆然としていた。「昨日……ってことは、きらきーたちは元日に出陣したってことですよねぇ……」昨年末、水銀燈は元日に盛大な宴会を催す旨を近畿の有力武将たちに伝えていた。その書状は玄家に従う武将や同盟者のみならず、紅家の勢力範囲内の領主にまで届けられていたのである。「やられたね。水銀燈にしては珍しいことだとは思っていたけれど」蒼星石が呟く。「でも、アイツならやりかねねぇことでもありますねぇ。見抜けなかったとは不覚ですぅ……」古式を重んじ、出陣には必ず吉日を選ぶ真紅に対し、水銀燈はそうしたしきたりなどお構いなしであった。加えて水銀燈には、雪華綺晶という戦略に長けた片腕が居る。「とにかく、守りを固めなくては……なんとしても、この城を渡すわけにはいかねぇですぅ」「いや。守るよりも、ここは撃って出るべきだと思うよ」「わざわざ野戦に持ち込むのですかぁ?」翠星石は兵力差を考えている。一万の敵方に対し七千の兵があれば、城の防衛戦を有利に進めることができるだろう。「だけど、敵の大将は雪華綺晶――何を仕掛けてくるか分からない。野戦で相手の出鼻を挫けば、主導権は握れるはず」「し、しかしですねぇ……」「僕が行く。五千の兵を預けてくれれば、きっと薔薇水晶の先鋒隊を打ち破って見せるよ!」いつになく強い語気で、蒼星石は言った。「相手は……ばらしーですよ? まともにぶつかって勝てると思うですか?」「だから五千の兵力は欲しいんだ。数で上回れば、相手よりも柔軟な戦い方が出来る。勝機は必ずある!」「……分かったです」長い吐息のあとに、翠星石は言った。「ばらしーはおめぇに任せるです。ただし、無理はいかんですよ? 総崩れになりそうだったら、さっさと逃げてこいですぅ」「うん、分かった。ありがとう」蒼星石は立ち上がった。「正月祝いの続きは、また今度だね。この戦が終わったら、もう一度二人で飲もう?」「当たり前ですぅ! 今度こそ、邪魔は入らせねぇですよ!」刹那の間、二人は見つめ合った。やがて、蒼星石は背中を向けた。静かに部屋を出て行くその背中を、翠星石は無言で見送った。その両眼が赤く滲んでいたのは、酒のせいであったろうか。――二日後。大和国北西部において、玄紅両軍は対峙した。紅家・蒼星石軍、五千。玄家・薔薇水晶軍、四千。両軍とも足軽隊、槍隊を中心とした編成であり、陣形もともに「偃月」の陣である。赤と黒の軍旗に彩られた両陣営は、備えを完了してから半刻余りに渡って睨み合っていた。規模も編成も陣形も同じ、二つの軍勢。真正面からぶつかり合えば、双方とも甚大な被害を被る消耗戦となることは必至であった。薔薇水晶は陣の中核に床几を据え、静かに「頃合」を待っている。「霧が……出てきた」先鋒のさらに前方にまで目をやると、相手の陣をちょうど覆い隠すように濃い霧が立ち込めていた。近くを大きな川が流れているためか、霧の出やすい土地であるらしい。「この霧は……厄介だな」蒼星石の陣営からも、ちょうど同じような景色が見えていた。互いに相手の出方が見えにくい。だがこの状況は、結果的に二人の将に同じような考えをもたらしたようであった。「今、撃って出れば――敵の意表を衝けるかもしれない!」「……狼煙の準備を」二将は、殆ど同時に床几から腰を上げた。「……行くよ?」馬上の人となった薔薇水晶は、独り言のように呟いた。刀を抜き放ち、鋭く前方へ振り下ろす。直後、狼煙が空高く打ち上げられた。攻撃開始の合図である。怒涛のような鬨の声があがった。先鋒隊は長槍を構え、一糸乱れぬ動きで敵陣めがけ突っ込んでいった。「かかれぇっ!!」時を同じくして、蒼星石もまた馬上で声を張り上げた。配下の武将らの絶叫がそれに続き、先鋒部隊が槍をそろえて突進する。両軍の先鋒の間が瞬く間に縮まり、槍の穂先が次々に接触した。槍合わせの開始であった。カン、カンと小気味良い音が響き、両軍が小刻みに前進と後退を繰り返す。やがて、悲鳴と、刃が骨を抉る鈍い音が混じり始める。最前列の兵士たちが倒れ、後列の者はその屍を踏み越えて前進しようとする。押し切れる――そう思った途端、相手の槍衾に阻まれ、再び後退を余儀なくされる。両軍とも飽くことなく、その繰り返しを演じ続けた。流される鮮血と泥に塗れた死体が量産され、その数だけが時間の経過を示しているようであった。霧は、いつの間にかすっかり晴れていた。膠着状態。薔薇水晶は微動だにすることなく、隻眼で戦況を淡々と見つめている。「このままじゃ、死人だけが増えていく……」蒼星石は、凄惨な戦場の現実を見せつけられ、表情を歪めていた。(そろそろ、動くべきなんだろうか……)蒼星石には策があった。五千の軍勢のうち千を別働隊とし、さらにこれを五百ずつに分けて左右両翼に配置してある。混戦となればこの二部隊が横へ動き、薔薇水晶軍の横腹を左右から衝いて混乱させるのだ。敵陣を横から崩すというのは、一軍の将なら誰もが考え得る一手であり、むしろ正攻法とさえ言ってもいい。これを左右からの挟撃と組み合わせたのは、普段あまり策を弄しない蒼星石としては大胆な作戦であると言えた。しかし、合戦は未だ序盤である。「いや、まだだっ……絶対に退くな! 何としても薔薇水晶の先鋒を押し返すんだっ!」迷いを振り払うかのように、押されつつあった先鋒に向けて蒼星石は絶叫した。その声が通じたか、先鋒が勢いを取り戻し再び前進していく。だがその前進も、やがて壁にぶつかったようにして止まる。膠着は、しばらくの間終わりそうになかった。「蒼姫様! 御覧なされ、敵陣が崩れ始めておりますぞ!」「何だって!」合戦開始からおよそ四半刻後。側近が告げたように、薔薇水晶軍は先鋒部隊から徐々に陣を崩し始め、足並みも乱れていた。すぐさま、蒼星石は命令を下す。「全軍、前進! この機に乗じて一気に敵陣を突き崩すよ!!」一際大きな歓声が沸き起こった。蒼星石自身も馬を進め、勝敗を一気に決しようと逸った。(しかし、意外にあっけないなぁ……)蒼星石軍の突出を受けて薔薇水晶軍はいよいよ乱れ、陣形も原形を留めない程崩れたっているように見えた。かつて「紫鬼」とまで恐れられた薔薇水晶の意外な脆さに、決して疑問が浮かばなかった訳ではない。しかし、血生臭い戦場の空気と異様な高揚感に包まれた神経が、無意識にその疑念を払拭してしまっていたのだ。異変は、まもなく起こる事となった。「押されている!? 何故、だっ……ぐはぁっ!!」前線の武将や兵たちが、次々に討ち取られていく。あちこちで悪夢のような悲鳴があがり、血飛沫が絶え間なく飛び散った。地に転がった首の無い死体の上に、力尽きた兵が倒れこんで新たな屍と化す。一向宗の説く無間地獄もかくやと思われる、惨たらしい光景が現出していた。「何故……どうしてこんな?!」押されているのは、陣形を保ったままの蒼星石軍の方であった。敵軍の乱れに乗じて総攻撃をかけたあたりまでは、明らかに優勢のはずだった。だが、しばらくすると流れは変わった。むしろ無陣と化した薔薇水晶軍の流れに飲み込まれるように、蒼星石軍は混乱を極めるようになっていた。先鋒に代わり前線へ踊り出た薔薇水晶軍の第二軍は、生き生きと動いていた。ひたすら前進を試みる蒼星石軍を嘲笑うかのように、敵陣の中に次々入り込んでは手当たり次第に敵兵に襲い掛かる。黒い軍旗がうねりながら敵陣を飲み込んでいく様は、まるで堰を切った濁流のようでもあった。「陣形も組まない雑兵たちが、どうしてこれほどの強さを……」蒼星石は、じっと敵軍の動きを見つめ続けた。その視線が遥か前方にいる薔薇水晶の姿を捉えたとき、疑問の答えが見えたような気がした。「そうか、陣形が崩れたわけではなかったんだ――」馬上で刀を振るう薔薇水晶。その周囲を、密集部隊が幾重にも取り囲みながらゆっくりと歩を進めていく。さらにその周りで縦横無尽に動き回っているのは、すべて遊撃部隊であるらしかった。無造作に駆け回っているように見えるが、薔薇水晶を中心として歪な円を描き、入れ替わりながら攻撃を繰り返しているのである。蒼星石は、川中島合戦で上杉謙信が用いたという「車掛の陣」を思い起こした。薔薇水晶の変則的な陣形は、その変形と言っても差し支えなさそうであった。(あの中核を崩せば、もしかしたら――)蒼星石の陣形は、未だ崩れきってはいない。別働隊として用意した千の兵も、無傷のままである。(よし……!)蒼星石は、決意した。「合図の旗を!」号令と共に、本軍付近に鮮やかな青の旗が次々に掲げられる。直後、両翼に動きが起こった。騎馬を中心とした別働隊が本陣から離脱したのである。兵数こそ少ないが、機動力は高い。すぐにでも薔薇水晶の率いる直属軍の両脇を衝けるはずであった。(薔薇水晶のことだ。すでに僕の意図は見抜いているかもしれない……)だがその不安は杞憂だった。薔薇水晶は何ら変わることなく遊撃軍に下知をし続けた。じわじわと前進していく薔薇水晶軍の両横に、あっという間に騎馬隊が迫る。蒼星石は拳を握り締めつつ見守った。「……!」薔薇水晶の氷のような表情が、微かに動いた。本隊の両脇に、敵の騎馬隊が襲い掛かった瞬間であった。密集していた本軍に、見た目にも動揺が広がっていく。「今だ! 全軍、反撃開始! 敵軍を蹴散らすんだっ!!」力強く響き渡る、鬨の声。残る力を振り絞り、蒼星石軍は最後の突撃を開始した。怒声と悲鳴が乱れ飛び、血飛沫が雨のように敵味方の頭上に降り注ぐ。薔薇水晶軍の遊撃隊は見る間に押し戻され、勢いを失ったかに見えた。だが――「薔薇水晶――キミは、何処まで……っ!」蒼星石の視線の先で、薔薇水晶は無尽蔵とも思える体力を燃焼させ続けていた。いつの間にか本軍の陣頭に立ち、奇襲を仕掛けた蒼星石の騎馬部隊を次から次へと斬り伏せていく。返り血に塗れながら一心に剣を振るう姿は、まさに一匹の鬼と化したようであった。乱れかけたかに見えた陣形も、いつしか混乱から立ち直っている。あるいはますますその戦意を増幅させているかにさえ見えた。「私は、負けない……絶対に。銀ちゃんの……雪華姉の思いが、叶うまでは……!」薔薇水晶の陣中から、一際大きな雄叫びが聞こえた。黒い軍勢の動きが、またも加速する。「紫姫様が居られる限り、我らは決して負けん!」「もう一息だ! 絶対に退くではないぞ!」総大将の殺気が乗り移ったかのように、一兵卒に至るまで、瞳を爛々と燃え滾らせながら突き進んでいく。蒼星石軍の将兵らの間に、恐怖が芽生え始めた。両軍とも陣形は入り乱れ、赤と黒の軍旗がそこかしこで絡み合っている。しかし赤い旗は見るからに数を減らし、後方では武器を捨てて逃げ出す者も相次いだ。半年前までは味方であった軍勢の真の恐ろしさを、彼らは今初めて思い知らされたのだ。「薔薇水晶……キミは、恐ろしい子だね。でも、僕だって――」蒼星石は、刀を抜き放った。「僕だって、負けるわけにはいかないんだっ!!」「姫っ! なりませぬ!!」制止する家臣の声を振り切って、蒼星石は単騎、敵陣へ突き進んだ。その勢いに敵兵も驚き、自然に道を開かせることとなった。「ここまで来たら、決着は――僕と、薔薇水晶でつけなきゃならないんだ!!」群がる敵兵を蹴散らしていくと、不意に兵もまばらな空間が目前に開けた。薔薇水晶は、居た。乱戦のさ中、徒歩立ちの兵の首をまさに刎ねた直後であった。血塗れの甲冑を纏った姿は、形容し難い殺気と凄みに溢れている。隻眼が、それ自体別の生き物のような影を帯びて、蒼星石の姿を照準に捉えた。「薔薇水晶っ!!」蒼星石が、突進した。同時に、薔薇水晶も凄まじい速さで駆け始めていた。馬上の二つの影が、交わり、躍った。「くぅっ!」「……ちっ」蒼星石の右目の下が、横一文字に薄く切り裂かれている薔薇水晶は刀を取り落としていた。「その首貰った!」野太い声。横から、一騎の騎馬武者が手槍を片手に突っ込んで来る。蒼星石の配下であった。「邪魔っ!!」薔薇水晶は鋭く叫ぶと、突き出された槍をかわし、柄の部分を掴んだ。そのまま槍を奪うと、柄尻で敵将の喉元を鋭く突き、馬上から叩き落す。手槍を持ち直し、馬首を翻すと、蒼星石の眼差しがあった。「キミの首は……僕が貰う!!」「……!」蒼星石の言葉に、薔薇水晶は右眼を見開いた。微かに潤んだ――少し淋しそうな――眼つきであった。二人は、再び刃を向け合った。互いの姿をめがけ、無言で、駆け出した。鈍い音が、何度か響いた。薔薇水晶は、馬上から視線を下ろした。蒼星石の馬は、主を背に載せてはいない。主は、その足元に倒れ伏していた。血溜まりに沈んだその身体は、寸分も動かない。薔薇水晶は、見つめている。あくまで無言のまま。いつの間にか周囲を取り巻いていた武将たち――薔薇水晶の配下の者たちであった。彼らの視線は、薔薇水晶に向けられている。何かを促すように。「……捨て置きなさい」薔薇水晶は呟いた。「しかしながら――」「……命令。従わないなら、お前たちも……斬る」武将たちは、口を閉ざした。「付いて来て」一言だけ残し、薔薇水晶は馬腹を蹴った。武将たちも、黙って後に従った。それが、この戦いに終止符を打つ総攻撃の開始であった。蒼星石軍は総崩れとなった。戦場から離脱し、伏見城へ戻ることの出来た兵は二千にも満たない。生き残っても、深手を負って動けなくなった者、捕虜となった者が多数居た。一方、勝利した薔薇水晶軍の損害は数百であった。数の上では圧勝だが、実質は決して楽な戦いではなかった。薔薇水晶と雪華綺晶は、骨肉の争いの悲惨さを身に沁みて感じさせらることになったのであった。「そ……そんな……」数日後。伏見城で報告を受けた翠星石は、その場で倒れ込んでしまった。そのまま自室に籠り、一晩中泣き続けた。声が嗄れるまで、涙が流れ尽くすまで、慟哭した。だが時勢は待っていてはくれない。雪華綺晶の軍勢が、近づいている。一万の兵の足音が、少しずつ、確実に、翠星石を追い詰めつつあったのだ。
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