『パステル』 -17-
大地を埋め尽くす、紅い薔薇の園。その中央には、どこか気怠そうに佇む、緑髪の乙女。若く張りのある肌は、生命の色で溢れていて、病人めいたところなど欠片もない。――柿崎めぐ。それが、彼女の名前。 めぐの右側から、墓場から這い出たばかりのような薄汚れた骸骨が、馴れ馴れしく抱きついている。白骨と化した右手が、豊かに隆起する彼女の左胸へと伸ばされ、いましも愛撫しようとしていた。けれども、伸ばされたその手は、目的を達成できはしない。左から、めぐを支えるジュンが、そうはさせじと掴み、引き剥がしているからだ。 ジュンは、骸骨と奪い合うように、右腕で彼女の腰を抱き寄せている。骸骨の右腕を掴む彼の左手――その薬指には、金属特有の光華を放つ、薔薇の指輪。 だが、生々しく絡みあう3体の人影以上に異様なものも、描き込まれていた。彼らを取り囲む、緻密な装飾を施された大小無数のドアの群れだ。どれもが捻れ、歪んでいる。なんのために描き込まれたのか解らない。そんなものが地平の彼方まで、隙間を埋めるタイルみたいに配されている。 「――なんだか、吸い込まれてしまいそうね」 完成した絵に目を注ぎながら、真紅が独りごちる。横から覗き込んでいた水銀燈も、似たような感想を抱いたのか、黙って頷く。 「なあ。どうして、薔薇なんだ?」 ジュンだけは、描いた当人を振り返って、問いかけた。雛苺が、「ほえ?」という風に、顔をあげる。彼女はいま、三時のおやつを兼ねた昼食を、摂っているところだった。一気呵成に絵を仕上げていたため、こんな時間になってしまったのだ。 苺オーレで、本日6個目となるチーズ蒸しパンを流し込むと、雛苺は回答した。 「ヒナの好きな花だから。 あとね、生命の象徴としての紅を、配色したかったの」「生命の象徴としての、紅?」「血のことでしょう」 首を傾げるジュンに代わり、さも当然と言わんばかりに、真紅が口を挟む。 「それに、紅いバラには『愛情』という意味もあるのよ。 2人の門出を飾る花としてなら、最も相応しいかも知れないのだわ」 愛情って、与える者、受ける者、どちらにとっても生きる希望だと思うから。そう言うと、真紅は、うっとりと眼を細めた。 もしかしたら、初恋の思い出でも、瞼の裏に甦らせているのかも知れない。 そんな真紅に優しく微笑みかけて、ジュンは絵に視線を戻した。 「とりあえず、この絵によって、僕に与えられた課題は――」「めぐの傍らを片時も離れず、伸びてくる死の手を掴んでおくこと、ねぇ。 伴侶としての義務を全うしなかったら、承知しないわよぉ」「それは当然のことだろ。僕が言いたかったのは、もっと現実的な問題さ」「現実的な問題って……なぁにぃ?」 おうむ返しに訊ねる水銀燈に、ジュンは「これだよ」と、絵を指差して見せた。「僕の左手に描かれてる、この指輪。探すか、特注で作ってもらわないと」 花弁の一枚、細かなトゲに至るまで、薔薇を精巧に象ったデザインだ。材質にもよるが、最悪、オーダーメイドになるだろう。一品物だし、どれだけ値の張ることか……。 ところが、そんなジュンの見立ては、水銀燈によって一笑された。 「なぁんだ。そんなの、問題でもなんでもないわぁ」「え? どういうことだよ」 まさか、その手のショップや細工職人に、心当たりがあるのだろうか。ジュンが聞き返すと、水銀燈は小さな笑みを残したまま、頭を振った。 「探す必要なんかない、って意味よ。 私ね……貴方の探しもの、どこにあるか知ってるの」 「ホントか?! どこなんだ、それは」「あらぁ。気づいてなかったのぉ? ずっと、貴方の近くにあったのに」「僕の近くに? ずっと?」 考える。水銀燈とジュンの交流は、2年弱。高校生活よりも、まだ浅い。それとて、この病院に居る間だけのこと。正味は1年にも満たない時間だろう。彼女の知るジュンのプライベートなど、ほんの僅かに過ぎないはずだ。 ――では。ひとつの可能性に、ジュンは思い至った。本来ならば、まず初めに辿り着くべき答えへと。 「もしかして、めぐが持ってるのか」 彼と水銀燈の接点は、めぐの存在が大半を占める。それを考慮しつつ、さっきの対話を思い返せば、その結論にしか達し得なかった。いまも水銀燈が所有しているのなら、単刀直入に差し出していたはずだ。 案の定、水銀燈は、神妙な面持ちで頷いた。 「前に、私がプレゼントしたのよ。この絵と、そっくりのデザインの指輪を。 どういう偶然か知らないけど、不可思議な符合よねぇ」 言いながら、彼女は怪訝そうに、雛苺を一瞥した。けれど、それも瞬刻。めぐが話のネタに見せびらかしたのかも、と考えたのだろう。やおら表情から硬さを消して、水銀燈は続けた。 「ともかく、そういうことだから。めぐと指輪の交換をすれば済む話よ」「なるほどな。それは確かに、簡単な解決策だ」 でも――と、ジュン。彼は、居合わせた3人の乙女を順繰りに見回して、宣誓するように言った。 「やっぱり、僕はこの指輪を探すよ。そうしたいんだ。 どうせなら、対になるものを自力で用意して、持っていたいって思うから。 それにさ、君とめぐの記念の品なら、僕がもらうわけにいかないだろ」「……律儀ねぇ。と言うか、意地っ張りなおバカさんってカンジぃ」「貴女だって、相当な依怙地よ。やはり、バカって言った方がバカなのだわ」「な……真紅ぅ!」「あっ、ちょっ、なにするのよ。やめて、頬を摘まはひゃひへーふがふが」「んもー! 2人とも、ケンカはやめるのよー」 いきなり始まった取っ組み合いに、雛苺が割り込む。もちろん、水銀燈たちとて、時と場所くらい弁えている。親友同士の戯れもそこそこに、水銀燈はジュンへと水を向けた。 「まあ、探すというなら、ツテが無いわけでもないわよ。 槐先生は、アクセサリーの制作にも造詣が深かったから、多分――」「なら、相談に乗ってもらえるように、口を利いてもらえないか」「お安いご用よ。どのみち、車も返しに行かなきゃならないし」 そのときに引き合わせるからと、水銀燈は確約した。だが、とにもかくにも、めぐに絵を見せるのが先だ。もう数時間が経っているし、そろそろ、彼女も目を醒ます頃合いだろう。雛苺の食事も終わったし、3人が連れ立って病室を発とうとすると…… 「待ちなさい。私も、一緒に行くわ」 ジュンたちを呼び止めた真紅は、ベッドから出ようとして、端麗な表情を歪めた。昨日の今日だ。ちょっと動くだけでも、身体中が痛むに違いない。 「無理しないで、安静にしてなさいよぉ」「どうしても、話したいことがあって」「めぐに? それなら、言伝を頼まれてあげるわ」「ダメよ。じかに会って、確かめたいの」「……しょうがないわねぇ」 面倒くさそうな口調のわりに、水銀燈は、いそいそと真紅に手を貸す。 「真紅ってば、言い出したら聞き分けがない――って、 うひぃ……湿布くさぁい。何枚、貼ってるのよぉ」「仕方ないでしょう。酷い打ち身なのだから」 それは、水銀燈が真紅に与えてしまった痛み。そして、真紅が水銀燈を受け止めてくれた証し。申し訳なくて、でも、そんな真紅の想いが嬉しくて、愛おしくて…… 「まあ、おまぬけ真紅は、トクホン臭いのがお似合いかもねぇ」 なのに、ちょっと抱え起こすのにも、おまけの憎まれ口を叩いてしまう。そんなことは、真紅だって百も承知。言わせっぱなしでは済まさない。左腕1本といえども、水銀燈に腕を巻きつけ、しがみついた。 「うふふ……」「な、なによぉ。気持ち悪い笑い方しないでよ」「貴女が褒めてくれたから、喜んでいるのよ。そうだわ、お礼もしなければね。 ええ、独り占めは良くないもの。貴女にも、湿布の臭いをお裾分けするわ」「ちょっ、やめてよ」「ほぉ~ら、だんだん衣服に染み込んでいくのだわぁ~」 「いやーっ! 離しなさいよ、バカぁ!」 子供みたいにじゃれ合う2人を眺めながら、「あいつら仲良いな」と、ジュン。その隣で、雛苺も苦笑まじりに相槌を打った。 「気兼ねなく幼さをさらけ出せるほど、ココロを許し合えてるのよ。 早い話が、似た者同士の腐れ縁なの」 ~ ~ ~ そんなこんなの騒動を経て、316号室を訪れた雛苺たちは、ドアを開けるや、めぐに果物ナイフを突き付けられて竦み上がった。さては、前途を憂えて無理心中でもするつもりか! と、思いきや―― 「あ、いらっしゃい。そろそろ来るかなって、リンゴ切ってたのよ」 ――なんて、悪びれもせずに微笑む。 「あ、危ないでしょう!」 真紅が怒りを露わにするも、めぐは「平気よ」と、涼しい顔をする。「もし、ブスッといっちゃっても、すぐ手当してもらえるってば」 そう言うことじゃなくて。真紅は溜息を吐いて、額に手を遣った。「相変わらずねぇ」と水銀燈が呟き、ジュンが肩を竦めるあたり、これが日常茶飯事なのか。雛苺と真紅は呆気にとられて、しばし開いた口を塞げなかった。 「ところで、あなたは?」 ナイフを片づけてベッドに戻ると、めぐは好奇の眼差しを、金髪の麗人に据えた。訊ねられたジュンが、水銀燈に支えられて佇む真紅を一瞥する。 「彼女の名前は、真紅。水銀燈の幼なじみだそうだ。 なんか、めぐに話があるらしくてね」「私に? どんなコトかしら」 めぐが視線で促すも、真紅は瞼を閉ざして、頸を横に振った。 「私の話は、後でいいわ。それよりも、雛苺……貴女の用件を、先に」「う、うい。それじゃあ――」 揃って病室に来た以上、理由は言わずと知れたことだが、一応の前置き。雛苺は、スケッチブックを開いて、めぐに差しだした。 「絵が、描きあがったなの」「ホント? 見せて。ふぅん……とても繊細な色使いね。 この薔薇の紅、いいわね。私の好みよ。鮮やかで、とっても綺麗だわ」 それだけ言うと、めぐは両手で絵を掲げて、すべての意識を、そこに向けた。吟味の表現そのままに、鋭く一点を凝視したり、かと思えば忙しなく眺め回したり。なにを見て、感じているのか。絵という鏡に、どんなココロを映しているのだろう。めぐの瞳がスケッチブックの上を走るたび、雛苺の胸も高鳴る。 そして、ふと――紙面を離れた彼女の視線に捉えられて、雛苺は身を固くした。 「ねえ、雛苺。ふたつ、訊いてもいいかな」「な、なに?」「服を脱ぎかけに描いた必要性。それから、この扉の意味は?」 めぐの声音に、激情の気配はない。あるのは、純粋な知的探求心だけ……らしい。あくまで、生徒がテキスト片手に、教師に質問するかのような口ぶりだ。けれど、まだ抑制されているだけで、本当は沸々と煮えたぎっているのかも。雛苺の答え次第では、一気に吹き零れんばかりに。 「うと、ね。今回のテーマは、輪廻転生や再生じゃなく、再出発。 要するに、スタートラインの引きなおしを目的に、描いたのよ。 だから、めぐさんには、だらしなく服を着せてあるの」「……ん? ごめん。よく分からないんだけど」「服は、文明の産物でしょ。そして、叡智とか通則の具象でもあるわ」 それを身に着けている――とは、世間一般の常識や良識を備えている、とも言える。新生児との重大な差違は、そこだ。産まれたての赤ん坊に、俗智はない。 「それじゃあ、このドアの群れは?」「未来の形容。無数の扉は、可能性を。歪んでるのは、不確定の表現なのよ」「ああ……なるほどね」 得心したらしく、めぐは頻りに頷いた。「いろいろと、事細かに考えられてるのね。正直、意外だった」 雛苺の説明を聞いて、ジュンたちも、今更ながら納得顔をしている。どうしても、骸骨と乙女と青年のもつれ合いに目を引かれてしまって、それ以外の部分にまで注意が届いていなかったのだ。 「めぐさんとジュンの未来は、2人が協力しあって描き続けていくものでしょ。 ヒナが描けるのは、新しいスタートライン……物語の序曲だけなのよ」 それを根本的な解決とは、決して言えない。めぐの心臓は、依然として癒えないのだから。 「――序曲、か」 けれど、めぐの表情は清々しかった。彼女はいま、まさに自らの過ちに気づき、本当の意味での目的を得たのかも知れない。 「ありがとう、雛苺。新生活に入る私たちへの、なによりの贈り物よ」 雛苺に描いてもらう、とは、結局のところ他力本願。誰のせいにもしないと言いながら、自覚ないまま、逃げ道を探していた。病身であることに甘えて、自ら掴みに行くことを、どこかで諦めていたのだ。 でも、過ちに気づいたのなら、やり直すこともできる。その意欲と、実行する勇気さえあれば。 めぐは、ジュンと目を合わせ、笑みを浮かべた。「もうちょっと頑張ってみるね、私」ジュンも微笑みながら、「全力で協力するよ」と頷き、雛苺に眼を転じた。 「僕からも、礼を言わせてくれ。ありがとな」「気に入ってもらえたなら、ヒナも、ひと安心なのよ」「さて、次は――」 言って、めぐは穏やかな眼差しを、もう1人の乙女へと転じた。 「あなたね。私に話したいことって、なに?」「まずは、祝福しておくわ。おめでとう、2人とも。 ところで、貴方たち。新居は、もう決まっているの?」「僕の家で暮らす予定だけど」「そう――」 真紅は首を傾げて、少しばかり考え込む素振りをした。しかし、逡巡には至らず。強い意志を秘めた双眸を、ジュンとめぐに戻した。 「もし、差し支えがなければ……私と契約する気はないかしら。 私の用件と言うのはね、住み込みで働いてくれる夫婦を、探していたのよ」「また、いきなりな話だな」 ジュンは呆れたように言うが、その胸裡では、微妙にココロを動かされていた。彼なりに、姉を厄介払いするような状況には、呵責を感じていたのだ。 真紅の申し出を受け入れたなら、のりは今までどおり、生まれ育った家で暮らせる。けれども、めぐは、それを望まないかも知れない。彼が、あまり乗り気でない風を装ったのも、偏に、めぐを気遣ってのことだった。 「まあまあ。折角、こうして訪ねてくれたんだもの。 話くらいは、聞いてあげましょうよ」 ジュンの思いには、薄々、気づいていたのだろう。途切れそうな話題を、めぐが繋げる。ひた……と、真紅を見つめながら。 「具体的に、どこに住まわせようというの?」「私は、製茶業を営んでいてね。そこそこ広い茶畑を、保有しているの。 そこにある施設の管理を、任せたいのだわ」「私と彼の、2人だけで?」「昼間は、うちの従業員が常駐しているわ。夜間は、貴方たちだけになるわね。 いままでは、少ない人員をやりくりしていたのだけれど…… 夜勤も大きな負担なのよ。社員のプライベートにとっても、経理の面でも」「ふぅん……なるほどね」 会話の切れ間を縫って、雛苺がベッドに近づく。そして、めぐの手中にあるスケッチブックを捲って、下書きのページを開いた。 「これが、いまの話に出てた、茶畑にある施設からの眺めなのよ。 鉛筆描きだから、色合いは判りにくいんだけど」「へえ……けっこう広いんだ。ここって、山頂付近? 空が、とっても近く見えるわ。すごく綺麗な景色なんでしょうね」 感嘆の息を吐いて、めぐは、ジュンに笑顔を向けた。「いいんじゃないかな、引き受けてみても。あなた、どう思う?」 「どう――って、あのなあ……」ジュンは、片眉を上げて、苦笑う。「いいのかよ、そんな簡単に決めちゃっても。待遇とか、いろいろあるだろ」 それについては、即座に真紅が口を挟んだ。 「正社員としての雇用よ。資格に応じて、別途手当もつけるわ」「――だ、そうよ。私は異存ないわ。こんな場所での暮らしにも憧れてたし。 私、アルバイトすらしたことないから、働くってことに興味もあるのよ。 それにね、彼女に雇われるのは、もう決定事項だと思うの」 この絵が、描かれた時から――めぐは、そう言うと、スケッチブックを先程のページに戻した。 紅い薔薇の園に囲まれた、めぐと、ジュン。真紅という乙女に重なる、気高く咲き誇る紅い薔薇のイメージ。指摘されてから、改めて眺めると……なるほど、そう捉えられなくもない。そこまでの思惑が、雛苺にあったかどうかは、はなはだ疑問だが。 「……そりゃまあ、めぐが望むなら、叶えてあげたいけどさ。 あまりにも不便な生活を強いられるのなら、論外だろ。 交通事情が最悪だと、もしものとき、病院への搬送が間に合わないかも。 めぐの命に関わることだし、その懸念があるなら、僕は反対だ」「善処するわ。従業員の福利厚生を計るのも、雇用者の義務ですもの」 真紅は、その青い瞳に真摯な光を宿して、まっすぐにジュンたちを見つめた。そこには強い意志が感じられる。おそらく、真紅は約束を違えない。結ばれた契約を、自らのプライドにかけて履行しようとするだろう。不安は拭いきれないものの、ジュンは「わかった」と頷いた。 「じゃあ、決まりね」めぐが手を打ち鳴らして、締め括る。「なんだか、ワクワクしてきちゃった。一度、前もって見学にも行きたいわね」 無邪気にはしゃぐ姿は、まるっきり遠足前夜のノリだ。そんな病人らしからぬ溌剌とした様子に、居合わせた誰もが、笑みを誘われていた。 -to be continued-
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