秋口のこと
一 夢みたこと朝日が差し込んでいる。その眩しさで真紅は目を覚ました。随分と眠っていたような気がするけれど、よく思い出せなかった。頭が酷くぼうっとしている。そもそもなぜ自分は座りながら眠っていたのか。真紅の席と向かい側には大きな空の食器。何かが乗っていた様子も無い。真紅は見た事も無い場所だった。「なんなのここは…?」狐につままれたような気持ちで真紅は席から降りた。椅子は足がつかないほど大きく、飛び降りるような形になる。服の揺れる衣擦れの音が大きい。真紅は自分の服を確かめた。人形展の時にも着ていった紅いドレスだ。いつの間に着替えたのか。自分の指が関節ごとに丸く膨らんでいた。まるで球体関節人形のように。いや、球体関節人形そのものだ。真紅は人形になっていた。椅子も食器も大きいのではなくて、自分が縮んでいたのだ。慌てて真紅は鏡を探した。ちょうど部屋の隅に薔薇の彫刻に縁取られた姿見があった。駆け寄り、自分の姿を写しだす。考え通りそこには気品にあふれる紅い人形が一体立っていた。その姿はまさに。「…ローゼンメイデン…」震えた声で呟く。自分の頬に触れる。そのまま自分を抱きしめる。この異常な事態に真紅はなんの疑問も持たなかった。「やっと、やっと…ここまで」ただただ真紅の胸は感動で打ち震えていた。無意識に流れ出た喜びの涙が真紅の頬をつたう。そうだ、これこそが正しい。やっと収まるべき場所に収まったという気すらする。いままでの人としての生活のほうが間違いだったのだ。この姿こそが正しい。真紅の赤熱した頭脳は次の考えを紡ぎだす。
自分が人形ならば、この場所はなんなのか。そんなもの、決まっている。(お父様の家だわ)その考えは天啓のように真紅の脳裏に閃いた。「お父様!お父様!どこにいらっしゃるのですか!」真紅の声に答えるように微かにコーヒーとふんわりとしたパンの焼ける香りがし始めた。ここがお父様の家ならば、食器を用意したのはお父様だろう。待っているべきかしら。真紅は一瞬そう考えたが、けれど近くにお父様が居るとわかっただけで、もう真紅は走るような勢いで歩き出していた。早くお父様に会いたかった。話を聞いてほしかった。この姿を見てもらって抱き上げてもらいたかった。香りに誘導されて真紅は扉を開けた。ドアノブは真紅にも手の届く場所にも着いていた。やはりこの家はローゼンメイデンのためにある。けれど扉の開いた先は、まだお父様のいる部屋ではなかった。通路のような場所。小さな丸い天窓が3つはまっていて、柔らかい朝日はここにもある。右手側に真紅の背より高い棚が作られていて、たくさんお人形が陳列されている。みんな腰を下ろし壁に背を預け、朝日を浴びて眠っていた。一番手前に白い人形。それから桃、蒼、翠、黄、黒そこで人形は途切れて、扉があった。ちらりと桃の人形の笑顔を見る。けれど他の人形に興味はなかった。真紅は小走りに次の扉に向かい、ドアノブを捻る。がちゃり。扉は開かない。扉には鍵がかかっていた。何度も扉をあけようとする。開かない。「なんで…!」真紅は呻いた。心の中の喜びと期待がそのまま焦りと失意に塗り替えられて行く。真紅は絶叫した。「お父様、どうか開けて下さい。貴方の娘の真紅です、会いに来たんです!お父様!」ドアを叩く。分厚い一枚板でできたドアはびくともしない。真紅はさらに激しくドアを叩き続けた。「お父様!私はここにいます!気づいて!」ドアの向こうから返事は無い。「お願いです、お父様、おとうさま…」だんだんとドアを叩く力が弱まっていく。力なく腕が垂れる。「どうか…」もう言葉にもならなかった。涙がぼろぼろと足の間に落ちていく。「当たり前じゃなぁい」右を振り向くと、眠っていたはずの黒い人形が笑っていた。チェシャ猫のような三日月の笑み。嘲る笑いで真紅を見下ろしている。「お父様が貴女みたいなブサイクを愛するわけないじゃない。お父様が愛しているのは私、一番最初に作られたこの私よ」真紅は一目でこの黒い人形が自分の天敵である事に気がついた。それにさっきの姿を見られていたのだとしたら最悪だ。「順番なんてたいした問題じゃないでしょ」「そうかしらぁ?」黒い人形は音も無く羽ばたき、真紅の上空をゆらゆらと漂い始めた。「私達って随分似てないわよねぇ。つまり一つ前の作品を発展させる形で作られた訳じゃないのよ。おわかり?」黒い人形はにやにや笑っている。真紅は黒い人形をにらみながら慎重に答える。「それが?」「つまりお父様は私たちを同時期に構想されていたのよ。なら、制作順番はお父様が少しでも早く世に生み出したかった順と言えるでしょ」「くだらない妄想よ。根拠がないわ」もっと他に言い返した方がよかったが、うまく頭が回らない。「じゃあ、なんで貴女のためにお父様は扉を開けて下さらないの」「…」真紅は答えられなかった。「かわいそうな五番目ちゃん。貴方は誰にも愛されてない」黒い人形は歌うように言って、手を広げた。空に浮かび、朝日を受けて優雅に手を広げる黒い人形は、美しかった。真紅でも認めざるを得ないほどに。こんなに憎らしいのに。 「そしてお父様に最も愛されるのはこの私。お父様に最も近しいのは私。お父様の棺に蓋をするのもこの私なの」黒い人形は優しく真紅の頭に手を置いた。そして女王の高圧さで告げる。「さ、五番目ちゃん貴女の席はあそこよ」蒼の人形と桃の人形の間を指差す。真紅は黒い人形の手を払いのけた。真紅の胸の内に溜まった黒い油のような感情に火がついた。激怒だった。「うるさいのよ!こんな連中と私は違う!」叫んでから、真紅ははっと息をのんだ。「あらあら、お姉ちゃん悲しいわぁ」黒い人形は蔑んだ目で、こちらを見ていた。「…ただの事実なのだわ」「結局のところ、貴女にとって姉妹は邪魔物にすぎないのよ」「違う!」「私の人形を壊したくせに」「壊したくて壊したんじゃないわ、私だって貴女の人形展が成功するように力を貸していたのだわ」「嘘。貴女にとって、私の人形展は自分の名前を高めるための踏み台に過ぎなかった。だから私の人形を壊したんでしょう?だって貴女以外に輝く物があっては困るものね」 なじる声は降り注ぎ続ける。「人形展が私にとってどんな価値があったか、貴女は気づいていたはずよ。けれど、貴女はそんなこと気にもしなかった。いいえ、気づいて、そして見下していたんでしょう。私の気持ち、私の行為全てを」 「私は貴女が人形師として成功すればいいと思っていたわ」「それが見下しているというのよ!貴女に与えられる必要なんて私には無かった」みしみしと音を立てて、水銀燈の翼が広がり続けていた。「答えなさい真紅。貴女は私の造った金糸雀に何を見たのか」「貴女が自分の優位を確信していたのなら、あの時ああも取り乱す必要は無かったでしょう」「…」「答えられないのなら、言ってあげる。貴女はあの時アリスを見ていたのよ。もはやアリスに近づくはずも無いと思っていた私から、ああいう物が飛び出して来たから、貴女はあんなに取り乱し、私を否定せずにはいられなかった。違う?」 真紅は黙り続けた。水銀燈の唇はつぃっ、と悪意ある形に吊り上がる。「まぁ、どうでもいいわ。お返しよ。受け取りなさい」真紅は自分の右腕に黒い羽根がまとわりついている事に気がついた。そして気がついた時にはもう遅い。真紅の右腕に激痛が走り、そのまま右腕はちぎれ飛び、ぼたりと床に落ちた。 震える左手で、右腕の袖を掴んだ。真紅は膝をつく。全身が瘧のように小刻みに震えていた。上から黒い人形の笑い声が降ってくる。「これではっきりしたわ。壊れたお人形がお父様のお気に入りな訳ないでしょう」そして黒い人形は笑い続けていた。体をのけぞらせるほどの大笑いだった。「あはは、なんて不格好なの真紅ぅ!」
二 夢の顛末有栖川病院の飾り気の無いベッドの上で真紅は跳ね起きた。「あぁあっ…」右腕が、もはや無い腕が痛くて痛くてたまらなかった。また血が流れ出したのかと思った。出血を止めようとする左腕が空中を掴む。「いっ…た」呻く。脂汗が止めどなく流れた。痛みに朦朧となりながら真紅は思う。(ああそうか。無くした腕はあの人形を砕いた腕だった)人形展の金糸雀人形。どこか遠くを見るような眼差しをしていた。あの目は遠くにいるお父様を見ようとしているように思えたっけ。そこが気に入らなかった。真紅自身何を考えているのかよくわかっていない。ただの痛みからの現実逃避だった。どれだけそうしていただろうか。やがて痛みの波は小さくなってきた。真紅は荒い息を吐いた。思い出されるのは、夢に見た黒い人形の吊り上がった笑み。「水銀燈…」左腕にさらに力が入る。その瞬間、控えめなノックの音が響いた。「誰?」「真紅、入ってもいいかしら?カナかしら」おずおずとした金糸雀の声。最悪のタイミングだったと言っていい。けれども。「ちょっと待って頂戴」鉄の自制心で、真紅はいつもの平然とした声を出した。手早くハンカチで汗を拭き、髪を整えた。痛みが引いて来たとはいえ、酷く体が熱っぽいのを我慢して平気な顔を取り繕う。
「いいわよ」「こんにちわ、真紅」声音の通り、おずおずとした調子で金糸雀が入って来た。右手に不死屋の紙箱、左手にヴァイオリンケースを持っている。真紅はただ無関心な一瞥をくれた。「貴女が来るとは意外ね」「そうかしら」「何しにきたの?」金糸雀は不意にぶたれたような、少し驚いた顔をした。「その…体の調子はどうかしら?」「おかげさまで調子がいいわ」「…あぅ」気まずい沈黙。(ど、どうしたらいいのかしら…)金糸雀は人に邪険にされるのは、これが初めてだった。少なくとも自覚している限りでは。自分が嫌がられているのはわかるが、目の前の真紅はなんだかいつもと様子が違うし、ジュンとお見舞いに行ったときよりも調子が悪そうなので、さっさと帰る事もしたくない。 「えっと、その…」金糸雀の心配そうな表情に真紅は内心苛ついた。(この前、ジュンと一緒に来て、義理は果たしたと思うけれど)金糸雀にわからないようにそっとため息をつく。別に相手を気遣っての事ではなく、金糸雀に感情を乱されていると思われるのが嫌なだけだ。真紅の視線がさらに冷たく重くなった気がして、金糸雀は内心慌てた。そこで気がつくのは手に持った不死屋のケーキの紙箱の重みである。今日買ってきた紅茶と苺のロールケーキはかなり場を和ませてくれる気がする。紅茶のスポンジに包まれた生クリームの中で苺が半分に分かれていて、まるでリスザルの目みたいにくりっとしているのだ。 いきなりこんなに気まずくなるとは思っていなかったが、そういう和み効果を期待して金糸雀が一生懸命選んだ一品だった。(ととと、とりあえず不死屋のケーキで場を繋ぐかしら!?)「と、とりあ」「金糸雀」
「へ?」不死屋の紅茶のロールケーキを取り出そうとし始めた金糸雀はきょとんとした。「貴女が心配するような事は何もないわ」改めて、真紅はそう切り出した。「貴女は私が打ちのめされて、酷く落ち込んでいると思ったんでしょうけれど、そんなことはないわ」真紅は襟の第一ボタンを止めてみせた。「ほらこのとおり。腕が一本なくなったくらい私にはどうってことないのだわ。少なくとも貴女が責任を感じるような事じゃなかったのよ、あの事は」真紅の右腕が飛んだ時、目の前にいたのは金糸雀だった。「そうかもだけど…」金糸雀は申し訳なさそうにしている。(勘違いされたらたまらないわね)素っ気ない態度を気丈な態度だと勘違いされてしまうと。金糸雀が頻繁にお見舞いに来るようになりそうだ。それは正直うんざりするので、ごめん被りたかった。だから駄目押しをしておく。 「だからわたしは貴女の哀れみなんていらないのよ」金糸雀は病室に立っているが、あごを引き、上目遣い気味に言った。「カナは哀れんだりなんてしてないかしら」「筋合いのない心配は哀れみと同じだわ」「カナと真紅は姉妹かしら」真紅は今度こそ大きくため息をついた。話が面倒くさい方向に転がりだしているし、腕の痛みもぶり返し気味だ。ちくり、じわりと痛みが増していく。腕の切断面に一本づつ針を刺していくような痛み。 ほうっておいてほしかった。『貴女の顔なんて見たくもないからさっさと出て行って頂戴!』と叫べたらどれだけいいだろう。けれど、そんな人前で取り乱すなどという振る舞いは真紅の美意識が許さない。あくまで落ち着いて金糸雀を追い出しにかかる。刃物のような冷たい表情が真紅の顔に浮かび始めていた。「姉妹ね…私たちにとって、姉妹という関係はどれほどの物なの?」「…」金糸雀は言葉に詰まった。真紅の予想通り、金糸雀はそのことについて深く考えた事はなかったようだった。水銀燈が他の姉妹は全員敵だと吹き込んでいるかと思っていたが、その様子もなさそうだ。「私はそもそも貴女に興味がなかったわよ。貴女が桜田さんの家に押し掛けてこなければ関わりあう事もなかったでしょうし」「でもその前に夏にみんなと知り合うって決めたのは真紅かしら。真紅は欠席だってできたでしょ」「あの時は少しは意味があるかもと思っていたわ。けれど貴女達と知り合ったこの数ヶ月間はなんの収穫もなかったわね。貴女達はローゼンの娘としての自覚があまりにも足りないのだもの」 既に真紅は常人なら涙を流してもおかしくない痛みを感じていたが、それに加えて今までの針で刺される痛みではなく、突然斧を肩口に叩き込まれるような発作的な痛みが真紅の腕の中で跳ねた。 さすがの真紅も一瞬視線を右腕の付け根に視線を走らせた。当然異常はない。そして真紅は他の事に気がついた。さっき止めて見せた服のボタンが外れている。半端に穴に通す事しかできなかったため、簡単に外れたらしい。一瞬痛みを忘れるほどの感情が真紅の胸の内に吹き荒れた。 それは自分への激怒であり悲鳴であり、なにより失望だった。「ローゼンの娘としての自覚ってなんのことかしら?」金糸雀が不思議そうに問うてくる。激痛は止まない。むしろ斧を二度、三度と傷口に繰り返し叩き付けられているかのようだ。そして失望も消えない。でもここで返事がなければ不自然だ。「アリスを目指すということよ」「アリスを目指す?」金糸雀はその答えがあまりに意外で、理解できなかった。返事がなくても真紅は続ける。真紅の言葉はすでにうわ言のようになっており、それ自体が異常な熱に浮かされていた。「そうよ。私は違う。愚かな貴女、目をそらす翠星石、卑屈な蒼星石、甘ったれた赤ちゃんの雛苺そのどれとも違う」真紅はきつく自分の右腕の付け根、もうそこから先はない付け根を左手できつく掴んだ。「真摯にアリスを目指しているのは私だけだったわ」「おねえちゃんがいるかしら」むしろ水銀燈を一番酷く嘲うために、真紅がこういう話し方をしたことに金糸雀は気がつかない。そして真紅は会話を誘導したために、金糸雀の意図に真紅は気がつかない。金糸雀が水銀燈の名前を出したのは、真紅に自分は独りだと思って欲しくなかったからだ。
二人はお互いの意図や、いつもと違う態度をとる理由を全く分かっていなかった。それでも会話は続く。真紅は鼻で笑った。「ははっ。水銀燈が一番おかしいのよ。壊れているわ」「壊れ…?」「そう。ジャンクよ」真紅の胸にある感情は自分に向けられたものだ。けれど、それを噴出させる方向まで自分に照準を会わせる必要はない。目の前には金糸雀がいる。こいつが一番大事にしてるものが何かはわかってる。 現実逃避であることは薄々分かっていた。でもどうでもよかった。どうせ現実に大事な物は戻ってこない。なくなった腕。完全な自分。お父様との唯一の絆。「教えてあげるわ、水銀燈が」ガゴン!金糸雀が床にヴァイオリンケースを叩き付ける鈍い音が響いた。微かに内部の弦が振動する音がその後に続く。「いらない。取り消して」金糸雀は迷いのない口調で言った。その視線は鋭い。「おねえちゃんだけじゃない。みんなに言った酷い事全部取り消すかしら!」「答えはノーよ」しばらく二人はにらみ合った。が、真紅には限界がある。「っ…あ」ついに目覚めた時と同じくらいに膨れ上がった腕の痛みに真紅はおもわず背中を丸め、かがみ込んだ。金糸雀は自分の怒りを忘れて、真紅に駆け寄った。金糸雀がにやにやと笑っているような気がする。目線を上に戻せない。「痛いの!?真紅、真紅!」金糸雀の手が真紅の背中に触れた。真紅は背中の手を払いのけようとしたが、それは激しい痛みのせいで加減がきかなかった。左腕に鈍い感触がして、それから不意に感触がなくなる。振り上げた左腕は勢い良く金糸雀のあごを打っていた。金糸雀はたたらを踏むように2、3歩後ろに下がった。それから膝が床に落ちる。その姿勢は足を崩した正座のようだったが、すぐに上半身が足を抱え込むようにして前のめりに倒れた。 ごん。頭をそのまま床に打ち付けた音がする。嫌な予感がする。さすがの真紅の声も震え始めていた。「金糸雀、腕が当ったみたいね?悪かったわ」「…」金糸雀は何も答えない。妙な姿勢もそのままだ。心臓が激しく打っているのに、真紅は体が冷えるのを感じた。腕の痛みさえも壁を隔てた遠い事のように感じられる。にじみ出た汗が冷えて気持ち悪い。「早く起きて頂戴」言い終わる前に真紅はベッドを滑り降りた。金糸雀の背中を揺らす。真紅のされるがままに金糸雀は揺れた。自分では指一本も動かさない。(死んでる)そんな発想が頭に浮かんだ。理性は否定する。人が腕があたったくらいで死ぬ訳がない。そんなわけはない。血だって出てない。うつぶせの金糸雀をひっくり返せば、すぐに確認できる事だった。けれど人形展の事が、今の状況に重なる。あの時も腕に少しの感触を感じただけだった。けれどあの人形は終わってしまった。生気すら感じた物が全ての意味を失ってしまう、理不尽な終わり。人形の壊れた顔に現れた空洞。まるで操り人形の糸が全て切れてしまったような、突然の終わり。今、金糸雀がうつぶせたその顔はどうなっているのか。おそらくなんの外傷もない。けれど顔があったところで、もう魂は抜け出てしまっているのではないか。初めて真紅の頬を痛みのためでない汗が伝った。恐い。「なんなの…一体これはなんなの…?」腕をなくして入院して、目の前で金糸雀が死んでいる。自分のなす術無くなにもかもが崩れて行く。まるで自分の座っている床すら砂になって落ちて行くようだ。暗い。寒い。生まれて初めて、真紅は気絶した。
※さてどうしよう。メグは真紅の病室に一人立ちながら考える。病室のお隣さんに挨拶しようと思ったら、先客に金糸雀がいて、しばらく覗いていたらこの有様だった。いきなり医者を呼ぶのはやめておこう。この状況をみれば治療だけではすまない。原因が追及されて、お互いの保護者に連絡がいけばもうアウトだ。ただでさえ両家の関係はこじれているのだから、もう入院中にお見舞いに行く事も出来ないだろう。それどころか警察がしゃしゃり出てきて、真紅の腕が失われた事件との関連を追求するかも知れない。「せぇの…っと」なんとか真紅を抱え上げる。片腕になってしまった事を差し引いても、真紅はメグでも持ち上げられるほど軽かった。とはいえ真紅をベッドに戻すと、メグの両腕は震えていたし、酷くむせたが。(ちゃんと食べてるのかしら、この娘)ぜぇはぁと息をつきながら、メグは自分の事を棚に上げて考えた。実は昨日めぐはのりと出会って、少し話をしていた。その時『真紅ちゃん』のことを口にするのりの顔には見覚えがあった。一昔前に自分のお見舞いに来た自分の父親の顔だ。頑に心を閉ざす相手にどう接していいのか分からない、途方に暮れた顔。(こういうのを同病相哀れむって言うのかしら)真紅をなんとかしてあげたいと、めぐは思う。真紅のような子供はほうっておけば自分で築き上げた城壁の中から出てこれなくなるだろう。自分は水銀燈との出会いによって、そうならずにすんだ。金糸雀と真紅の関係がそれと同じになってくれればそれが一番良いのだが、それは正直無理だろう。「どうしたものかしらねー」次に、侍が切腹してから前のめりに倒れたみたいになっている金糸雀をひっくり返す。「ぷ」メグは思わず吹き出した。倒れた時にケーキの箱を下敷きにしたようで、クリームが髭のように口の周りについていた。まるで季節外れのサンタクロースだ。「カナちゃんらしいわ」ハンカチを取り出しながら、メグはそんなことを呟く。ぐにぐにと口周りを触られる感触で金糸雀は目が覚めた。「うー…?」口の中で消えるごく小さな声を発しながら、金糸雀がうっすらと目を開けると目の前には真紅の顔があった。金糸雀は脳しんとうの影響で少し記憶を失い、残った記憶も混濁していたため、なぜ真紅に触れられているのかさっぱりわからなかった。けれど真紅はとても真剣な表情で自分の顔を触っているので、金糸雀はしばらく真紅のさせたいようにさせてあげることにする。真紅の手つきは盲人が人の顔を確かめるような柔らかさで、金糸雀には心地いい。(まるで卵になったみたいかしらー)本当のところビスクドールを触るかのような慎重さで触っていたのだが、金糸雀が知るはずもない。下まつ毛をくすぐる真紅の指がくすぐったい。「…よかった」と、真紅は安心して息をついた。金糸雀は真紅が今にも泣き出しそうな表情をしている事に気がつく。「だいじょーぶ、かしら」何が問題なのかも把握しなていないのに生来の能天気さで金糸雀はそう言った。そのままひょいと手を伸ばして、真紅の目尻に光る涙を拭う。真紅を元気づけるために金糸雀はにこにこと笑ってみせた。真紅は二度、目を瞬かせた。金糸雀が起きていることに気がついていなかったため、驚いているらしい。真紅があっけにとられている間も、金糸雀は田舎のひまわりの様なのどかさで笑いかけ続ける。
しばらくの間。真紅はむにっといきなり頬を引っ張った。「ふぎっ!?」それも一瞬で済まさず延々と引っ張り続ける。横にいるメグは全く助けない。というか、金糸雀の頬が人一倍伸びるのをひっそりとおもしろがっていた。結局、金糸雀が真紅の指を振り払えたのは5秒ほど立った頃で、すっかり金糸雀の方が涙目になっていた。「なな、なんでこういうことするのかしら!」怒る金糸雀に対して、真紅はもう一度毒を吐く。「貴女が面白い顔してるからよ」「なー!?」これから口喧嘩が始まりそうな雰囲気になったが、真紅は急にツンと冷たい表情になって言い捨てる。「これに懲りたら二度と来ないで頂戴」そして、真紅は言うべき事は言ったとばかりに、金糸雀に背を向けてベッドの中に潜り込んだ。それからしばらくは怒りの収まらない金糸雀が色々言うが、もはや真紅は無視し続ける。「あ、貴女みたいなわがままな人は初めて見たかしら!ぶっちゃけカナがとっといたヤクルトを1パック全部飲むおねえちゃんの2.18倍くらいわがままかしらー!?」 「あーカナちゃん家庭の事情をぶっちゃけるのもそのくらいにして、ね?」錯乱気味の金糸雀にメグは遅まきの仲裁に入った。「な、なんなのかしら、真紅ったらなんなのかしら!」涙目で顔を真っ赤にして怒る金糸雀にメグは悲しそうに言ってみせた。「真紅ちゃんも怪我で大変なのよ」「う…」さっきのやり取りを見ていて、メグは少し希望を感じていた。気絶から回復した真紅は真っ先に金糸雀がどうなったのかを気にしていた。真紅は冷酷な性格ではないのだ。(水銀燈を見てればこの家系に色々あるのはわかってたけれど…真紅ちゃんはなんていうか、複雑な娘ね)シュンとして、すでに怒りが去りかけている金糸雀のほうが姉妹の例外なのだろう。「…今日は来ない方が良かったのかしら」「うーん、少なくとも今日はもうおしまいね。真紅ちゃん寝ちゃったし」「かしら…」「なに。また明日出直せばいいのよ。何があったのかも本人から聞けば良いんだし」しばらく金糸雀は悩んでいたが、結局の所そうするしかないとわかったらしい。「そうするかしらー」金糸雀は千鳥足気味に真紅の部屋から出て行った。金糸雀が部屋から出てから、ふう。とメグは息をつく。とにかく真紅を一人にしないで済みそうだとメグは胸を撫で下ろす。「また明日も来るって。金糸雀を追い払うのに失敗したわね真紅ちゃん」あいかわらず真紅はこちらに背を向けたままだ。けれど、一瞬怒ったように背中を震わせた。金糸雀をロビーまで見送ってから、メグは呟く。「さて、ここからが難しいのよね」独り言が多いのは、入院生活が長いメグの癖だ。まずは水銀燈へ電話だ。三 入院の日々/見舞い客達その日は一睡も出来なかった。そのせいで目が赤い。だから、今日は誰にも会いたくないと思った。真紅はベッドの上で三角座りをしながら、ドアに背を向け続けている。ノックの音は無視する。ドア越しに声をかけられても「帰って」とだけ返す。ジュンはそれで引っこんだ。次に先生が来た。ただただ無視するとドアの前でジュンが先生に謝っていた。まだジュンはドアの前にいたらしい。ジュンの必死で取り繕う声音は案外のりに似ていた。のりが来るには時間がある。次に来たのは金糸雀だった。ジュンと挨拶をかわす高い声、ココンカンココン、変にリズミカルなノックの音。無視する。「真紅ー寝てるのかし」「帰って」
ジュンがとりなして謝るような声。金糸雀の物凄くわざとらしいため息。「はぁー、しかたないかしら。じゃあ帰るわ…と見せかけてえいっ」「あっ」ジュンの慌てた声。ガチャリというドアノブを握る音。ノブを回す音はしない。ここまで無理にドアを開けようと人間はいない。なので、ドアノブに塗り付けた接着剤を握ったのは金糸雀だった。「本当にひっかかるとはね…」真紅としては誰にも入ってほしくないという意思表示だったのだけれど。「ドアの下に接着剤はがしが落ちてるわ。負けを認めて帰るなら使っても良いわよ」まるで勝負みたいな風に言ったのは、金糸雀と七月に勝負をした事があったからだ。金糸雀は勝負に関しては潔いので、これですんなり引き下がるだろう。しばらくドアががちゃがちゃと音を立てる。けれど、やっぱり手がはがれなかったらしい。諦めたような沈黙。「これがホントの門前払い。って上手くもないかしらー!」走り去る軽い足音。あきれかえったジュンの声。「おまえなぁ…涙目だったぞ金糸雀」不謹慎だけれど、ほんの少し笑えてしまった。のりは水銀燈と一緒に現れた。「水銀燈さん」「こんにちわ、ジュン君」ジュンがまず真紅の態度を二人に説明していた。ジュンが水銀燈と話をしているだけでも、胸がざわついた。自分の弱みを水銀燈に見せるなんてありえない。「真紅ちゃん、あのぅ…」のりの困り声。「今は誰にも会いたくないの。のり、わかって頂戴」ジュンが一時期のりに向けていたのと同じような態度だとは真紅は気がつかない。そして割り込むような、落ち着いたノックの音。「真紅、開けてもらえないかしら?」水銀燈の言葉にも真紅は冷静な声で返事をしようとした。けれど失敗した。「入ってこないで!」この日真紅は初めて声を荒げた。声を荒げるつもりなんて無かったのに自分でも驚くほど大声が出た。金糸雀の時にはいくらでも取り繕う余裕があった真紅が、最初から余裕の無い敵意ばかりの言葉を向けていた。少しの沈黙。ジュンとのりが面食らったような顔をしているのは簡単に想像できた。けれど、水銀燈はどんな顔をしているのか。静かな水銀燈の声がした。その感情は真紅には読み取れなかった。「そう…しかたないわね。扉越しで悪いけれど、あの日の事は謝るわ。ごめんなさいね」それでも真紅は無言でい続ける。何が何でも、水銀燈とだけは話さないつもりだった。扉の前では水銀燈はのりとジュンにも謝り、のりとジュンが何度も水銀燈に謝っていた。水銀燈がいなくなってから、真紅は枕を思い切り殴りつけた。何に怒っているのかなんて自分でも分からない。ただ苛立ちと怒りと屈辱感で真紅の胸は一杯だった。荒々しく涙を拭う。結局ジュンは面会時間が終わるまで、ドアの前にいた。※腕を無くしてしまったにしても、真紅は全くいつも通りに見えた。昨日は面会拒否状態だったと翠星石がジュンに聞いていたのに、顔色も良さそうだ。「廊下で君の同級生達に会ったよ」「ふうん、そう」「また、気のない返事ですねぇ」「まぁね」翠星石のあきれた声。真紅と苦笑いを向け合う。真紅の冷たい言い方に蒼星石は『おやおや』とでも言いたげに眉を上げた。まぁでも、真紅の反応も仕方ないかなと蒼星石は思う。さっき話した同級生達は、真紅の事を『お姫様』というあだ名で呼んでいた。おそらく真紅の知らないところで。陰口ではないのだろうけれど、面白がっているような調子。翠星石と真紅の話が盛り上がり始めるのを横目に蒼星石はお見舞いの品を取り出し始めた。
真紅の部屋を出た後、翠星石はほんの少し俯き加減で、早足に歩いた。押し殺していた怒りが込み上げて来たのだろう。この情の濃さが翠星石の良さだと蒼星石は思っている。蒼星石にそこまでの熱さは無い。 「おかしいですよ真紅も、あの同級生達も」「そうだね。でも、僕たちもあの同級生達と同じだよ」「翠星石が真紅を面白がってたっていうんですか!?」「そうじゃなくって、ただのお見舞いしか出来なかったところ」小さく、あぁ。と翠星石は呟く。「そうですね」結局翠星石も蒼星石も普通の見舞いしかできなかった。真紅の心は開かなかった。翠星石のはげましは上滑りし、そのうち会話は他愛のない方向に逸れて行った。「結局さ、真紅が僕たちに傷ついた姿を見せたくはないみたいだから」表面上は翠星石の気持ちに同調してる風を装いながら、蒼星石は言った。「私たちにはどうしようもない、ですか。でも…」翠星石は簡単には割り切れないようだった。「うん」翠星石の気持ちに同調するように蒼星石は深く頷いた。(翠星石と真紅って、本当は気が合うんだろうな)なんてったって、好きな人が同じ人になるくらいだ。翠星石と真紅の間には桜田ジュンという対立点がある。もしも翠星石がジュンに恋する前に真紅と合っていれば仲良くなっていたのだろうが、現実はそうはならなかった。今となっては、翠星石は真紅への思い入れを深めるべきじゃない。翠星石が真紅を気遣ってジュンを遠慮してしまう可能性の枝は断ち切るべきだ。表面化していないだけで、二人は恋敵なのだから。「僕たちは真紅の誇りを尊重するべきなんだよ」言いながら、蒼星石はとある映像を思い出した。祖父一葉のツテを使って、真紅が主演する予定だった映画『未来のイヴ』の資料を見せてもらったことがある。まだその映像はイメージショットでしかなかったが、すでに真紅は恐ろしいほど美しかった。 翠星石がアリスに最もふさわしいと考える蒼星石ですら、美しいと認めざるを得ないほどに。だから。この墜落は幸運だ。真紅は傷ついたときほど一人になりたがる。それは誇り高さなのだろうけれど、そればかりでは気遣う方もやがて疲れて諦める。(このまま、真紅が失意のうちに頑なになってくれれば、ジュン君が翠星石の物になる可能性は上がるよね…)「そっとしてあげるのが一番だよ。僕たちが騒ぎ立てることが真紅にとっても一番辛いんじゃないかな」「そう、ですよね」悲しそうな翠星石に蒼星石は手を出す。翠星石と指を絡めて手を握る。しばらく、無言のまま歩いた。真紅よりも翠星石の幸せが優先する。これでいいはずだ。なによりもジュン君の心を射止めることが翠星石の幸せのはずだ。翠星石がぽつりと言う。「蒼星石と翠星石だけはいつだって一緒ですよ」蒼星石もそれに続く。「うん。翠星石と僕はいつまでも一緒だよ」お父様が亡くなった時に二人で泣きながら交わした約束を二人はもう一度繰り返した。病院の駐車場から送迎の車が発進するころ、蒼星石の視界に緑色の髪の毛が入り込んだ。あの髪の色をしているのはこの街では金糸雀一人しかいない。用件はやっぱり真紅だろう。(金糸雀は僕を軽蔑するかな?)ふと、心にそんな言葉が湧いた。言い訳気味に付け加える。(僕が真紅を傷つける訳じゃない)
※なにも、金糸雀は毎日門前払いを食らっている訳ではない。真紅はこの入院生活の中でも平然と落ち着いている姿を見せたいのだから、誰でも丁重に扱うのは当然と言えば当然だけれども。たいていの日ではちゃんと部屋まで通してあげたし、淹れた紅茶も飲んであげた。世間話だって少しはするし、チェスで負かしてやる時もあるし、くんくん探偵の凄さを教えて上げないでも無い。それでも眠れない夜を過ごした後は、目が赤いから誰にも顔を見せたくないだけだ。ただ、部屋に入れてもらえないときの方が、金糸雀がはりきっているのは気のせいではないと思う。扉越しに金糸雀が声をかけてくる。「急に部屋に入れてくれないとか…あなたって本当に気まぐれな猫みたいかしら」もちろん金糸雀は真紅が扉を開けない理由など知らない。ついでに自分が真紅を猫扱いするという地雷を踏んだ事にも気づいていない。最初の接着剤をドアノブにつけた時に勝ち負けを持ち出した事から、単純に真紅がちょっとした勝負を仕掛けて来たのだと思っているようだった。「三度目の挑戦、受けてもらうかしら真紅。『序曲』!」今回はヴァイオリンの音色で真紅に自分から扉を開けさせる作戦らしい。一曲目の時の拍手は二つ。ジュンと、よく金糸雀にくっついてくる小さな薔薇水晶。「ほら、真紅も見に来てみろよ、指の動きとか凄いぞ。参考になる」ジュンが本当に感心したような声を上げていた。「なんの参考よ」そのせいでついつい言い返してしまった。「野ばらのプレリュード!」 確かに金糸雀の弾くヴァイオリンの音色はすばらしかった。その証拠に、一曲ごとに拍手の数と音が多くなって行く。自由に歩ける患者がだんだんと集まりだしているらしい。中には小児科の患者だろう子供の声も聞こえる。「お客さんも集まり始めていよいよ盛り上がって来たかしらー。次、うなだれ兵士のマーチ!」三曲目が終わる頃には、金糸雀はすっかり上機嫌だった。聴衆の評判がいいと、素直にテンションが上がるらしい。「くんくん探偵歴代OPEDメドレー!さぁ真紅さくさく出てこないと聞き逃しちゃうかしらー!」「そこでなにをしているの!」厳しい中年女性の声。確か佐原とかいう看護師だ。病院の廊下で人だかりを作れば、何事かと駆けつけた病院関係者にしょっぴかれるのは当然だろうに。こんこん。ドアをノックする控えめな音。「誰?」聞き取るのも難しい、たどたどしい声。「か、カナお姉さまの…ヴァイオリン…気に入りません…か?」「演奏会を開けるくらい上手いわよ」「…じゃあ…出てきても…」「ヴァイオリンの音なんて扉越しでもはっきり聞こえるわ」微かに『あ…』と呟く声が聞こえた気がした。最後にジュンがぼやいた。「そりゃそうだよな」「ほんと…お間抜けね」その日初めて真紅は笑った。「ジュン、金糸雀に伝えて頂戴」※ジュンが見つけた時金糸雀は病院内の喫茶店でめぐと薔薇水晶と一緒にいた。「あ、ジュンかしら」自分に気がついて笑顔で挨拶してくる金糸雀の目が少し赤いので、ジュンはよけい申し訳ない気持ちになった。「真紅から伝言なんだけど…」
「貴女なんかが一生かかっても私に勝てる訳無いでしょこのばかばかばかばか。わかったらさっさとあきらめなさいな」「かしらー!」喜怒哀楽のあらゆる表現が「かしら」で表現できるのはある意味うらやましいな、とジュンは思った。激怒する金糸雀は駆け出して行った。行き先は当然真紅の部屋だろう。あわあわした顔で薔薇水晶がその後ろを追いかけて行く。「真紅ちゃんって本気でカナちゃんに来てほしくないの?」「そうですけど」「だとしたら結構子供っぽいのね」どう考えても今の言葉は逆効果でしょう。とメグの顔が言っている。ジュンとしては「ええまぁ…」と言葉を濁すしかなかった。※塞ぎ込み立ち尽くすものにとって、日々はあっというまに過ぎてゆく。誰に対しても丁寧で気丈に振るまい、そして心を開かない真紅の対応は当然のように見舞客を減らした。それでも金糸雀は毎日放課後に顔を出し、菓子を持参しては食べながらしゃべった。部屋に入れてもらえない日も無謀な作戦で玉砕を繰り返した。そしてジュンはその倍、静かに真紅の傍にいた。毎日来る見舞客は二人だけになった。※今日は珍しく金糸雀が来なかった。そしてジュンから微かに漂う程度、翠星石の花のような香りがした。今までもジュンがスコーンを持ってくる事はあったし、別に翠星石がジュンを好きな事くらい知ってるから別にどうという事も無い。 金糸雀には金糸雀のジュンにはジュンの生活があるのだから、当然の事だし、というかなぜ自分がわざわざこんな事を考えないといけないのか。真紅は病院内の喫茶店の中にいた。喫茶店といっても、簡素で小さいものだけれど。香りの薄い紅茶を一息で飲み干し、ため息をついた。あまり自分の病室に戻りたくなかった。最近、あの病室に一人で座っていると、小さい頃に部屋で一人きりだった事を思い出してしまいがちだった。お父様は生まれたときから家にいなかったが、母親はある日蒸発してしまった。自分一人がらんとした部屋に居た時の感触が真紅には今だに忘れられない。もう自分の周りに誰もいないが、それでも母親の「一人で家を出ては行けない」という言いつけを守って、真紅はずっと家にいた。槐が真紅の元を訪ねて来たのは、母親が蒸発してから数日後。そろそろ食料も尽きかけていたので、槐が来なければそのまま死んでいた可能性が高かった。お父様の事を知ったのも、閉め切った家を開いた槐に連れ出されてからだ。そこで垣間見たお父様の栄光は、親の愛情一つ持たない真紅にとって唯一の心の支えだった。だから真紅はアリスを目指して来たのだ。ローゼンを偲ぶ会に出席した事が桜田の家に貰われるきっかけになった事や、当時の真紅を知る槐さえ、真紅が入院してから一度も見舞いに来ない。それが自分の暗い考えを裏付けているように真紅には感じられていた。アリスにでもならない限り、自分の周りには誰もいてくれないのだ。あの独りで居た家が怖くて逃げ出したくて、必死であがいてアリスを目指し、結局あの一人の部屋に戻って来たのではないか。鬱々とした考えに泣きそうになってしまったが、誇り高い真紅はもちろん、人前で涙を流す事を自分に許さなかった。ちょうど背後を歩いてくる気配があったので、店員に向かって言う。「紅茶を」「ずいぶん不機嫌そうね」近づいて来ていたのは店員ではなくて、メグだった。そのまま許可も取らずに真紅の向かいに座る。「ちょっと」
真紅が抗議の声を上げた時、メグは手を挙げた。「店員さん紅茶二つ、あとフィナンシェも一つ」しかめ面でメグを軽くにらむ真紅に対して、メグは平然と「まぁまぁ、おごるわよ」と言った。メグはじっくりと話したそうだったが、真紅にそんな気はない。「金糸雀の事なら、からかってれば面白いだけよ」「なんのこと?」「貴女が金糸雀を気にかけてる事くらいわかるわよ。おそらく水銀燈の頼みでしょうけど」メグは困ったような表情をしたが、真紅の性急さにつきあう事にしたようだった。「あの娘に哀れみとか悪意は無かったでしょう」「たしかにそうだわ」「怪我人にだろうと怒れるのはあの娘くらいのものよ」メグはそういうと少し笑った。紅茶とフィナンシェが届き、真紅はフィナンシェを一口食べる。「カナちゃんにローゼンの記憶は無いわよ」「まぁ、あの調子じゃ記憶に残っていないでしょう」「ひどい言い様ね」メグは意外そうな顔をした。「べつに今の事を評したんじゃないわ」メグも知らないだろう、ローゼンを偲ぶ会に出席した時のこと。あの時、一日中堂々としていた水銀燈の表情が崩れたのは一度だけ。会も終わって、出口に向かっている時、金糸雀が不思議そうに言った言葉。「おとうさまはいつかえってくるの?」水銀燈の顔が歪むのを見たのはあの時だけだ。知らない子に見つめられている事に気がついた水銀燈は、すぐに表情を繕い直したけれど。真紅は紅茶の水面だけを見ていた。「貴女は仲直りさせたいようだけれど、それは無駄よ。私たちが仲良くすることなんて誰も望んでないもの」「そんなことはないでしょ。現にカナちゃんだって貴女と仲良くしたいでしょうに」「じゃあ、なんでお父様は私たちを一つ屋根の下に住まわせなかったの?」真紅の声は異常なまでに押し殺されていて本当に真紅の声なのか、メグは一瞬耳を疑った。誰も、ではなく本当のところはお父様。「私たちは知り合えば知り合うほど戦いは避けられないでしょう。あの一番のん気な金糸雀だって私と相対するときは勝負を持ち出さずにはいられないのだから。今の関係だから、あの程度の遊びで済んでいるのだわ」 真紅がメグを見た。「関係が深くなればなるほど、思いが強くなればなるほど、私たちの戦いは深さを増して、やがては大事なものを傷つけるのよ。そうじゃなかった時なんて無いもの」その上目遣いの視線は年上のメグをたじろがせるほど鬼気迫っていた。メグは自分の肌が火であぶられるような錯覚を感じた。反射的に身が竦む。メグは紅茶のカップに指をかけていたので、皿とぶつかって耳障りな音を立てた。「…だから貴女と話なんてしたくなかったのよ」真紅は席を立ったが、吐き捨てたその言葉は投げやりで力が無かった。「何かあるとは思ってたけど…」独り言を言って、喉が渇いている事に気がついた。メグはひどく汗をかいていた。色々と金糸雀が真紅のところに来るように最初の暴力沙汰をごまかしたり、ひそかに金糸雀を応援して来たのは失敗だったかもしれない。あの目つきの裏にある異様な怒りと絶望。それは元々、真紅が持っていたものだ。学生時代の水銀燈が垣間見せた物によく似ている。ただ、その後の投げやりな様子を考えると、メグは暗澹たる気分になった。 水銀燈の人形作りにあたるものが、アリスを目指すという事だったのだろう。負の感情を転化はけ口を失い、真紅が本格的に心のバランスを崩し始めているように思える。 他人の出る幕ではなかったのかもしれない。そう思えて、メグはため息をついた。水銀燈は金糸雀が脳しんとうを起こす事になった日に、これ以上見舞いには行かせない様にしたがっており、それを押しとどめたのがメグだ。金糸雀に見舞いを禁止しないかわりに、メグはこれ以上金糸雀が真紅に何かされないか注意することになっていた。金糸雀はメグと偶然良く会うと思っているが、そうではない。水銀燈の心配を少しでも減らすために、メグが部屋から出てくるようにしていた。
もっともメグは真紅がそういう事をするとは思えなかった—金糸雀の意識が戻ったときの表情を見れば子供でもわかる—ので、部屋の中までついて行く事はしなかったが。 影に病院と外の人間の間のつじつまを合わせ、日向に金糸雀を励まし真紅を煽る。金糸雀が真紅のお見舞いに行くことを一番強く後押ししていたのはメグだった。「…あの塞ぎようをなんとかしたかったけれどね」もう真紅の入院生活も一月近くなる。退院の日が近づいて来ていた。四 薔薇乙女の戦い今朝、園芸用品を運ぶために使ったスポーツバッグは重たいので地面に置き、壁に背もたれるようにして蒼星石は立っていた。蒼星石は学園の玄関で翠星石を待っていた。普段はジュンが病院に向かってから、翠星石が園芸部に戻ってくるのだが、今日は園芸部自体が珍しく活動日ではなかったので、蒼星石がここで暇をつぶしている。 ジュンに会っているので、最近の翠星石は部活動の時間が少し短い。ただ園芸部はもとより部長の恋路を応援しているから、特に問題はなかった。強いて言うなら翠星石が蒼星石以外の誰にも自分の気持ちがバレていないと思っている事ぐらいか。 今日の翠星石はいつもより遅かった。それ自体はジュンと一緒にいる時間が長いという事なのだから蒼星石には喜ばしい。やはり真紅の精神は荒れているようで、ジュンの表情も張りつめがちになっていたから、翠星石の手作りお菓子とちょっとした会話はジュンにとってもいい息抜きになっているようだった。 休日に一緒に出かけた事もある。さすがに二人っきりとはいかず、蒼星石も呼ばれたけれど。当日にちゃっかりジュンの横をキープする翠星石の背中を見て、蒼星石は少し笑ったものだった。別に何をしたわけでもないけれどほんの少し、覚悟を決めた甲斐があったと思う。なにもかも順調だった。コッコッコッ。なんだか気忙し気な、堅い靴音。蒼星石の前に現れたのは音楽の教師だった。金糸雀にヴァイオリンの指導をしようとしては逃げられているらしい。彼女が苛ついているのは一目見ただけで分かった。「科学部の部長を見なかった?」不機嫌さを押し殺せていない声。わざわざ名前を呼ばないあたりに彼女の不機嫌さが伺える。元々この音楽教師は神経質で生徒を管理したがる傾向が強い。正直、金糸雀との相性は悪そうだ。「金糸雀の事なら見ませんでしたけど?」「ああ、そう」蒼星石が答えると、そのまま音楽教師は踵を返して校内に戻って行った。その様子をみながら失礼な人だな。と思う。おかげで少し感じていた優等生的良心の呵責が和らいだ。スポーツバッグを3分の1ほど開く。「もう出て来てもいいよ」「…た、助かったかしら」ぴょこん、と金糸雀の顔が飛び出して来た。スポーツバッグの気密性が高いせいで金糸雀の顔は真っ赤だ。玄関で翠星石を待っていたら、いきなり金糸雀が駆け込んで来たのがほんの5分前。「けれど、バッグに隠れるっていう発想がよく出てくるね」呆れ半分、感心半分といった調子で蒼星石は言った。「昔はよくこうやって運ばれたもんかしら」よくわからない過去にも興味は惹かれたが、蒼星石は質問せずに携帯を取り出す。「ちょっとそのままでいてね」キャリーバッグから犬が顔を出しているみたいで少し可愛い。ちなみに蒼星石は犬が好きだ。蒼星石は金糸雀を携帯で撮った。「ふう…さて、と」携帯をしまって、蒼星石はスポーツバッグを全開にして金糸雀に手を貸した。制服の上から愛用の鋏を触る。人の心も鋏一つで断ち切れればいいのに。バッグから出て、背伸びしている金糸雀に蒼星石はなにげなく聞く。「今日も真紅のところへ行くの?」「うん」「ほぼ毎日通っているんだよね。僕は金糸雀がこんなに長くお見舞いを続けるなんて思ってなかったよ」「やー、それほどでもないかしらぁ」金糸雀は照れたように手を振る。「凄いよ。なかなか出来る事じゃないし」
合わせて蒼星石も微笑んで、それから表情を少し曇らせる。「ただ少し心配なんだけれど、その…真紅はそれを喜んでいるのかな?」「あー、正直一回たりとも嬉しそうには見えないかしら」金糸雀の表情も情けなさそうな物に変わる。「そっか…僕たちが言う事じゃないかも知れないけれど、真紅はそっとしておいてほしいのかもね」「蒼星石にも言われるし、やっぱりそれが一番いいのかしら」「他の人にも似たような事を言われたんだ?」「おねえちゃんとか、ばらしーちゃんに槐さん、巴に雛苺、翠星石にも」金糸雀の目が少し潤んで来たように見える。「真紅と共通の知人ほぼ全員だね」「みっちゃんには言われてないもん」「ごめん、気に障ったなら謝るよ」むくれる金糸雀を気弱そうに宥める。(あの子は君の理解者でいたいだろうからね。そりゃあ、反対なんてしないさ)話が逸れてしまうような、棘のある事は言わないように。蒼星石は本当のところ、こういうすっきりしないやり方は嫌いだ。でも、今手持ちの武器は言葉しか無い事を理解していた。だから蒼星石はためらわない。「でも、草笛さんは今の真紅の落ち込みようは知らないから」細い蜘蛛の糸をひっかけるように、慎重に。「カナだって、蒼星石の考えが真紅に一番優しいことは知ってるかしら」「それじゃあ、なにが納得できないんだい?」「うーん」考えている時でも金糸雀は賑やかにうなっていた。チェスで追いつめられた時と同じような悩み方だ。いつもの勝ちパターンが見えて蒼星石は少しほっとした。金糸雀が考え込んだところで予想外の手を打ってくる事はほとんどない。やがて自分に理が無い事を悟って、こちらの考えを認めるだろう。(蒼星石の考えが真紅に一番優しい、か)蒼星石はやはり、金糸雀は甘いと思う。チェスの時から薄々気がついていたが、金糸雀は人の悪意にひどく鈍い。ある程度合理的に考える頭があるのに異常なまでにチェスに弱いのはそれが理由だ。あらゆる人の金糸雀への制止が真紅への優しさから出ていると考えているあたり、その癖はチェスだけの物ではなさそうだった。蒼星石にとって、それぞれが金糸雀を止める理由はだいたい見当がつく。例えば、水銀燈が金糸雀を真紅の元に行かせたくないのは、自分と真紅の関係が第一容疑者と被害者だからだ。そうじゃなきゃ、彼女の事だ。ジュン君の引きこもりを治した時みたいに、自分が前に出て来ていないとおかしい。水銀燈に真紅への優しさなんて一片も無い。人形展の顛末を見ていた蒼星石にはそう断言できる。正直に言えば警察と同じく、真紅の右腕を切断して隠したのは屋敷を熟知した水銀燈以外にあり得ないとすら思っている。 水銀燈はただ、逆恨みした真紅に金糸雀が傷つけられないか心配しているだけで、それを大っぴらにしないのは警察へのポーズと金糸雀に余計な心配をかけたくないからだ。「あ、そっか」特に感情がこもっていない平坦な声に、蒼星石は注意を戻した。その声と同じ静かな表情が蒼星石に人形展の人形を思い出させる。ただあの時と違い、目の前の金糸雀の静かな表情が妙に苦しそうに見える。蒼星石がこの時思い出せなかったことは、あの人形に対して人はそれぞれ思い思いの物語を見ていた事。自分は今、鬼のような表情を無理矢理隠していると信じている蒼星石は、苦しそうな表情をしていたのが金糸雀ではなく、自分だったことに最後まで気がつかなかった。 金糸雀はすぐにいつもの元気そうな表情で続ける。「仲良くなれるのが一番いいけれど、きっとカナは、なにより真紅を知りたいからかしら」「それは君の我が侭だよ」蒼星石はたしなめるような調子に切り替える。「それは、そうかしら…」「わかっているならなんで、真紅の負担になるような事をするんだい?」「だって、今ほうっておいたら、真紅と話せなくなるわ」放っておけば真紅が自分の殻にこもりがちになるだろう事を、金糸雀はなんとなく気がついていたらしい。金糸雀はいたずらを叱られている子供のように上目遣いで蒼星石を見ていた。
「前にジュンと一緒に真紅の病室に行った事があるんだけれど」「ジュン君と?」「その時に二人は喧嘩したわ。でも…その二人を見てカナも姉妹なのに、ジュンの方が真紅とずっと家族だなって思ったの」「ご家族に任せようと思わないのかい」「カナだって姉妹かしら」「…ぁあ」このまま、金糸雀の行動は我が侭であり、真紅の事を考えるべきだと諭せば、金糸雀の行動をやめさせる事が出来た。「…その気持ちはわかるよ」けれど蒼星石はそうする事をやめた。蒼星石も姉妹だからだ。その後は他愛も無いチェスの話をしていたような気がする。「姉妹だから、か」蒼星石にとって、その言葉が一番胸に突き刺さる。断ち落とせないばかりか、金糸雀の成功を応援したい気持ちになってしまった。気づかされた事は分かりやすい。「僕は嘘もなれ合いも好きじゃない。真紅だって傷つけたいわけじゃない」でも、戦う事をやめていいのか?蒼星石の懊悩は止まらない。そもそも真紅もまた、好戦的だ。あのまま真紅が咲き誇れば他の姉妹はすべて圧倒されていたのではないのか。やめるべきなのか、どうか。迷いが生じて蒼星石は今『断ち落とす』ことは保留することにした。けれど、ジュンの心に二本も薔薇は咲かないだろう。金糸雀が真紅の閉ざされた心をどうする事も出来ないだろうけれど…。考えがどうにも支離滅裂で、ただただ気が滅入るので、蒼星石は今考える事をやめることにした。黄金の鋏を取り出して、そっと撫でる。いつも持ち歩いている愛用の鋏。それは生まれた時にお父様から贈られた、大切な鋏だ。鞄に入ったドレスと同じ、ただ二つのお父様からの贈り物。鋏を顔の前に持ち出して、蒼星石は頭を垂れた。鋏が額に当たり、祈っているかのような姿勢になる。つらい時や苦しい時、蒼星石はいつもこうやって痛みをしのいできた。静謐な時間が過ぎる。ふわりと、香水の香りがした。今日の朝、翠星石がつけていった香水の香りだ。「おまたせですぅ」「おかえり、今日はどうだった?」翠星石はその一言に顔を赤くする。翠星石がやってくる頃には、蒼星石はいつもの調子を取り戻していた。それから続くジュンに関するあれこれを蒼星石は微笑みながら聞く。翠星石とジュンが仲良くなりだした事を蒼星石は好ましく思う。そしてなによりも恋に胸弾ませる翠星石は美しい。誰よりも。どの薔薇よりも。満開に咲く翠星石を誰よりも身近に見られる事が蒼星石には嬉しかった。だからこれが相思相愛になり、咲き誇る二人の愛はさぞかし美しいに違いない。それを身近に見るために蒼星石はこの恋路を全力で応援して行きたかった。その嬉しさに嘘偽りの無い事もまた、蒼星石には嬉しかった。※「メグさん、こんちわかしら」「あら、今日は特に元気ね」メグと金糸雀はいつものように病室の前で会った。金糸雀の頬が赤いのは今日がよく晴れているからという訳ではなさそうだった。「チェスで、蒼星石がすっごく良い手を教えてくれてたから遂に真紅に勝てそうかしら」「それは凄いわね。ぜひ勝って欲しいわ」メグは真紅のためにも、その色々な勝負とやらで一度は金糸雀に勝って欲しかった。どうみても、真紅にとって金糸雀は他愛も無い相手扱いされているように見えるので、真紅の中で金糸雀の存在感を増して欲しいのだ。そうやって、真紅が自由の身になってからも、この調子で関わり合うくらいの関係になって欲しい 後ろから、鈴の転がるような綺麗な声が割り込む。
「聞き間違い?私に勝つですって」後ろに真紅が居た。左腕で肩にかかったツインテールを払う仕草が様になっていた。「上等よ」「上等かしらー!」景気よく金糸雀が言い返す。(頑張ってね) メグは真紅の部屋に入って行く金糸雀の背中に心で声援を送った。姉妹に勝つ事が真紅の矜持であるから、それがさらに傷つけられた時に真紅がどうなるのか、メグは気がつかなかった。金糸雀からの又聞きだけで、真紅の打ち筋を把握できる蒼星石のチェスの実力は相当に高いようだった。「チェックかしら」金糸雀のワクワクした気持ちを押さえ込めていない声。それは、王と女王を同時に狙う一手。「っ…やってくれるじゃない」真紅の打ち筋は蒼星石のように定石を理解した打ち方ではなく、その地頭の良さに頼った打ち方をしている。だから、まるで蜘蛛の巣の罠のように見えづらいその殺し手に気がつかなかった。真紅の戦法は常に女王を軸に据えた攻めの姿勢。主要の敵駒のほとんどを女王で刈り取って来た。だから、突然女王を倒された意味は大きい。真紅は善戦したが、それが限界だった。「チェックメイト」「…逃げられないわ…」「やったーかしらー!」金糸雀は快哉を上げた。「私の負けね」真紅はただ事実を呟いた。悔しいが平静を保っているのではなく、その声に力は無かった。「そ、そんなにへこむ事も無いかしら。ほら、これでやっとカナの1勝8敗だし」もちろん、真紅は金糸雀の言葉等気にしていない。「私はこんなにも弱かったかしら?」ほんの少し不思議な気持ちになって、真紅は手の中で女王を弄んだ。「いやほら、女王を倒したあの手筋も蒼星石のまねっこかしら。この手もさっき蒼星石が教えてくれただけだし」いずれ、こうなるような気がしていた。もはや自分は完璧とはほど遠い何かなのだし。目の前の負けにすら奮い立つ物を感じない。割れた器のように、ちぎれた腕の先から気力が全て漏れだしているかのようだった。ほんの少し前には全てに手が届く様な気がしていたのに、今は心に奇妙な脱力感しか湧いてこない。腕を失った喪失感は日常の中でこんな感情へと進化していた。唯一自分を支えていた、普段通りに振る舞うというささやかな見栄と現実逃避も折れてしまえば、胸の内にある空虚を直視するしか無い。目の前に広がる事実を、真紅は褪めた気持ちで眺めていた。 ここにあるのはただの残骸だった。もはやアリスにはたどり着けず、奮い立つ心さえ失って、もはやなにもない。なにもかも手に入れるつもりで結局自分はここに戻って来た。狭い何も無い部屋。母はおらず。父もいない。ここに居るのは何者でもない。狭い狭い鞄の中、しまわれて誰も気がついてくれない。「は」真紅の震える腕が持ち上がり、神経質にこめかみの辺りを掴もうとして、何かにぶつかった。いつのまにか、金糸雀が真紅の頬を触っていた。真紅の腕は金糸雀の手にぶつかったのだ。そうして我に返らなければ、真紅はそのまま自分の髪の毛を掻きむしっていただろう。女王が床に落ちた。「金糸雀…?」真紅は悪夢から目が覚めてから、始めて目の前の人間に気がついたように金糸雀の名前を呼んだ。金糸雀の眼から一筋、涙がこぼれた。「なんで、貴女が泣くのよ…」呆れた真紅から、少し枯れた声が出た。「貴女はもう私に勝ったんだから満足でしょう、さっさと帰りなさいよ」「いやかしら」「ほっといてよ」「泣いてる真紅をほうってなんか行かないかしら」真紅が泣き止むまで、金糸雀はずっとそこにいた。西日が射して真っ白な部屋は茜色に染まりきっている。気怠いのはこの時間のせいだと思いたいけれど、そうはいかない。「もう本当に来ないで頂戴」鼻声で真紅は言った。金糸雀はリンゴを剥いていた。泣き止んで、真紅はベッドの上に三角座りをしていた。体は金糸雀の方に向けているが、膝に顔を埋めて、赤い目は金糸雀から逸らしている。「結局、私と貴女の間にあるのは戦いだけよ。私たちは知り合えば知り合うほど戦いは避けられないのよ」「そうかしら」「たとえ笑い合う関係になっても、きっと私は心の底で貴女に勝ちたい、負けたくないと思うわ」金糸雀は不思議そうな顔をした。「別にそれでいいと思うけれど…?」「それでいい?」なにか、金糸雀と自分の間に大きなズレがあることに真紅は気がついた。そう言えば、これまで取り繕う事に夢中で金糸雀の考え、というより、金糸雀自体を全く気にした事がなかった。 「戦う事がカナと真紅を繋ぐ絆なら、戦えばいいかしら」「今までもこれからも私たちの間にはそれしか無いのよ。それでなにかが生まれるとでも?」「生まれないかもだけど。それがカナと真紅の絆なら、それでいいかしら」「どういうこと?」 金糸雀は首を捻った。自分自身はっきりと考えた事は無かったらしい。「だって、カナと真紅って張り合ってばっかりでしょ?」「そうね」ここまでは同じ考えみたいだけど。と真紅は考える「そしてカナと真紅は家族じゃないかしら」「きっとカナと真紅は今日から会うのをやめても、お互いにあんまり困らないわ。カナにはおねえちゃんがいて、真紅にはジュンがいるでしょ?」「そうでしょうね…私たちは友達でもなく、家族でもないもの」「でもカナは真紅を無視したりなんてできない。家族じゃなくても、姉妹だもの。離ればなれでも意識し合えるなら、きっといい事かしら」しばらくの間。「私はきっと凄く嫌なやつなのだわ。だって姉妹の誰よりも成功したいし、誰が失敗しても嬉しいのよ」「真紅は姉妹の失敗を願うほどねじけてないかしら。だってとても誇り高いもの」「…」「どうしたの?」「なんでもない。そう…金糸雀は勝っても負けても戦い続ければいいと思っているのね」「あ、そんな感じかしら」「私は完璧に勝ち続けなければならないと思う」「よくわからないけれど、疲れないかしら」「疲れたわよ。ちょっとこっちに来て頂戴」真紅に手招かれて、金糸雀もベッドの上、真紅の隣に座った。真紅の上半身は傾いで倒れ、そのまま金糸雀の膝の上に収まる。驚いている金糸雀を、真紅は上目遣いで見た。「ねぇ、貴女は水銀燈の事をなんて呼んでいるの」「おねえちゃんかしら」「ふぅん…」真紅は心底どうでも良さそうに返事をして。「たまには私もおねえちゃんに甘えてみてあげるわ」などと、気のなさそうな振りをして言う。金糸雀は真紅の横顔が真っ赤な事に気がついて、クスクス笑った。「真紅がお姉さんなのに、これじゃあべこべかしら」少し意外そうに、真紅の流し目が金糸雀を見た。「そう、そんなことも知らないのね」真紅は意味ありげに呟いてみせた。「私は貴女の妹よ。貴女より年下だもの」「えぇ!!でも真紅は学年が上かしら?」「飛び級よ」「へ?」「アリスだったらそれぐらいできなきゃダメでしょ」少しむくれた顔で、真紅は言う。アリスという名前を気軽に出せるような心境の変化に気がついてるのかどうか。金糸雀はしばらくぽかんとしていたが、やがて言った。 「どうりで体もちっちゃいわけかしら」「貴女よりは高いけどね」「う」金糸雀の顔がおもしろかったので、今度は真紅がくすくすと笑った。頭に金糸雀の温もりを感じながら、真紅は自分の左手を見た。「そう、本当は貴女に色々と話したい事があったのだわ」「なにかしら?」「人形を壊してしまった事とか、ジュンとノリの事とか…」「全部聞くかしら」飾り気の無い、金糸雀の返事が降ってきて、ぽつぽつと真紅は話始めた。くんくん探偵の事、人形を壊してしまった事への謝罪、桜田の家の事、自分の事。ただ話し、聞いてもらう。ずっと姉妹としたくて、やがては諦めてしまった事を真紅はしていた。ぼうっと眺めるその手のひらに姉の輪郭が思い出された。夕日に照らされた部屋の中で、真紅の手は橙色をしている。そうやって真紅は自分が人形でない事を知った。※家に戻ってからくると、もう夕日が落ちる頃だった。着替え等を入れた紙袋を扉の前に一度置いて、ジュンが部屋をノックすると「入っていいかしら」と金糸雀の控えめな声がした。 部屋に入ると金糸雀がベッドの上に座っていて、唇の前で人差し指を立てている。そしてその膝枕で真紅が眠っていた。「聞いたかしらジュンジュン」金糸雀は妙に楽しそうだった。とりあえずハイテンションな人物が苦手なジュンはそれだけでちょっとたじろいだ。「な、なにをさ」「真紅はカナ達より年下なのね。ということは、ジュンはお兄さんのような気持ちで真紅に接していたのかしら?」ジュンは頭をかいた。「こいつはいつも下僕だって言うけどね」「いいお兄さんかしら」「そっちこそ、上手くいったみたいじゃないか」恥ずかしかったので、ジュンは話題を変えた。「うん、はじめて真紅と話せたかも」「どんな話?」「姉妹のないしょ話」にんまりと笑う金糸雀にあわせて、ジュンはちぇっ、と呟いてみせた。「こいつ、案外子供っぽいだろ?頭いいくせに意地っ張りで偏屈で、変なところマイペースだし」ジュンと金糸雀は二人して苦笑した。二人の真紅に注ぐ眼差しはあくまで優しい。「意固地なところがあるけれど、可愛い妹かしら」五 食卓あの病院内喫茶店にのりと見知らぬ中年男性が座っているのが見えた。「あんな所にいたのね」そう呟くと、真紅は一人で喫茶店内に入った。すぐにメグは真紅を見つけて、軽く手を振る。「真紅ちゃんが私を捜すなんて珍しいわね」「挨拶しようともったら、部屋にいないんですもの。探したわよ」「ああ、今日が退院日?」「そうよ」中年男性はメグと向かい側の席を譲ってくれた。なにか頼もうとするのを、おかまいなくと断る。向かい合って座るメグはなんだか血色が良かった。「なんだか、前よりすっきりした顔をしているわね」「たいした事じゃないけれど」真紅は左手を伸ばして、その指先を見た。「ただ、腕を無くして、もう何もかも終わりになった。そんな風に考えていたけれど、そんな事なかったわ」「心の整理がついたのね」「こう思えるのは、貴女のおかげでもあると思うの。ありがとう」「たいしたことはしてないわ」「でも不思議なのよ。貴女はなんで私と金糸雀の仲を取り持つような事をしたの?」メグは指をくみ、照れ笑いした。「たいした理由じゃないわ。ただ、肉親がいがみ合うのは悲しいことでしょ。私も昔パパと仲が悪かったから、そういう娘が放っておけなかっただけよ」「そちらの方がお父さん?」「ええそうよ」真紅に自己紹介する、メグの隣に座った中年男性は不器用そうだが誠実そうだった。「昔水銀燈君に助けてもらってね、なんとか仲直りできたんですよ」「そう。水銀燈にもいい所があるのね」真紅のそっけない物言いにメグの父親は鼻白んだ。メグは苦笑する。「やっぱりきついわねぇ。まぁ、貴女に水銀燈を疑うなとは言えないけれど」とはいえメグは一点の曇りも無く、彼女自身は水銀燈の事を疑っていなさそうだった。「今も疑ってもいるし、嫌いよ。きっとアイツは私の天敵だもの。でも…」「でも?」「でも最初に悪い事をしたのは、こっちだって分かってるわ」「へぇ…ちょっと大人になったわね」「昔からいろんな人に大人っぽいって言われて来たけれど」「そりゃまた。随分見る目の無い人達に囲まれて来たのね」「ははっ、確かにそうかもしれないわ」ざっくりとしたメグの物言いは以前の真紅ならカチンと来ていたかも知れないが、特に不快に感じなかった。(そういえば、ジュンとのりは私を大人っぽいと言った事がないわね)ふと、真紅はそんな事を思った。特に振り返る事もせず、真紅は喫茶店を出た。「そんな所にいたのかよ」「あらあらジュン君、真紅ちゃんにも積もる話があるのよぅ」ジュンの責めるような口調。のりのたしなめるような口調。つまりはいつもの口調だ。ジュンは真紅の荷物を全て持ってくれているようで、両肩にそれぞれ大きな鞄を掛けていた。空調の効いた病院の中で、うっすらと汗をかいている。「あら、ごめんなさい。探してくれたの」「別に、早く帰りたいだけさ」喫茶店は病院入り口に近く、すぐに三人は病院を出た。のりが病院の扉前に立つ警備員にも会釈をしたりしつつ、待たせてあったタクシーに乗り込む。「それでね、真紅ちゃん今日のお夕飯なんだけど、退院祝いになにか美味しい物を食べに行こうかと思うんだけれど…」「適当にピザとかでいいじゃん」「ジュン君そんな事言っちゃ、めっめっよう」相変わらずジュンは姉にたいして素直じゃなく、軽口を叩いているようだった。「私はどちらかといえば、家で食べたいわね」「そう?」「ええ、のりの手料理が食べたいわ」真紅が照れくさそうに言うと、のりの顔がぱぁっ、と明るくなった。「よぉーし、お姉ちゃんはりきっちゃうわよぅ!」はりきったのりの料理はちょっと凄かった。花丸ハンバーグは当然の事として、ハート形オムライス、パンプキンスープ、大根や海藻などの三種類のサラダ。パイはくんくんの顔をかたどってあった。他にも様々な 料理が食卓狭しと並べられている。「本当はケーキも焼きたかったんだけど、時間がなかったから不死屋で買っちゃったわ」てへへと笑うのりに、もちろんジュンは引き気味だ。「ねえちゃんて、時々超パワフルだよな…」「さぁさ、みんな食べましょ。せっかくのご飯が冷めちゃうわ」三人とも席につくと、それぞれの席に既に注がれたグラスがあった。ジュンがのりに聞く。「これって乾杯用?」全員未成年であり、のりが飲酒を許すはずも無いので、グラスにはジュースと紅茶が注がれている。「うん、せっかくだから」のりがグラスを持ち、二人もそれに従う。「真紅ちゃん退院おめでとう!」「あのね」乾杯しようとのりがグラスを掲げた瞬間、真紅の堅い声が割りこんだ。珍しく声が小さい。「一つ聞きたい事があるんだけれど…」食卓を囲んでいる今だからこそ、聞いておきたいこと。「私は…」実は今まで一度も自分から確かめた事の無いこと。本当は昔から確かめてみたくて仕方なかったのに、怖くて聞けなかったこと。「私はあなた達の家族かしら?」一瞬の沈黙。ごく短い間に緊張のあまり真紅の心臓の鼓動が一つ跳ね上がった。「もちろん。これからもずっと、真紅ちゃんは私の可愛い妹よぅ」何を今更と言わんばかりに、のりは平然と答えた。「そう…良かった」控えめな呟き。けれど真紅の目から涙がこぼれた。金糸雀の時とはまた違う、胸が暖かい物で溢れたからこそ出る涙だった。のりは真紅に近づくと、そっと真紅を抱きしめた。照れ屋のジュンはその場から動かなかったが、しかし涙ぐんでいた。六 目覚めてしたこと暗いアトリエの作業台に橙色の明かりがぽつんと一つ。これもローゼンがまだ生きていた時から引き継がれたランプの光だ。蛍光灯に慣れた目からすると遥かに薄暗い部屋の中で、水銀燈は紙粘土をいじっていた。天窓から降り注ぐ月光と、火の光だけを頼りに自分の中のイメージを形にして行く。デッサンを描くよりもさらに前、ローゼン流の構想の練り方だった。微かに聞こえる音と言えば金糸雀の弾くヴァイオリンの音くらいの物だ。真紅が午前中には退院する事をうっかり忘れて、もぬけの殻になった病室訪ねたらしく晩御飯時でも残念そうにしていたが、ヴァイオリンの音は秋の月光に惹かれてか冴え冴えとしていた。そんな静かなアトリエの中で、不意に携帯の着信音が鳴った。小さく舌打ちして、水銀燈は携帯を見た。発信は桜田の家からだった。おそらくのりだろうと水銀燈は見当をつけた。左手を拭き、携帯を取る。右手は紙粘土をいじったままだ。「もしもし、水銀燈?」真紅だった。「あら、久しぶりね」右手が無意識のうちに紙粘土に爪を立てていた。真紅と水銀燈の仲は悪い。少なくとも水銀燈は今年の夏に槐の家で初めて会った時から真紅が気に入らなかった。あの時の槐の執心ぶり。何年かけてもつかめるかどうかわからないインスピレーションを掴んだ熱狂が顔に浮かんでいた。まだその時は気に入らないだけだったが、あの人形展の一夜を経て、水銀燈ははっきりと真紅を意識していた。何歳か年下であろうとコイツは私の天敵だと。基本的に食うか食われるかの関係でしかありえないと。「少し話たいことがあるだけだから」「話ですって?」「…人形を壊してしまって悪かったわ。その前にも酷いことを言ってしまったし」「…え?」「聞こえなかった?人形を壊してしまってごめんなさい」「…」あまりに予想外の事に水銀燈は黙りこんだ。「…じゃあ…確かに謝ったわよ」「……どういう風のふきまわし…?」「言葉の通りよ。また逢いましょう水銀燈…」通話が終わる。なぜか、右手は力なく垂れ下がった。終わり
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