僕にとってのアリス
この世界には、無数の扉が隠れています。
さの先に潜む物とは恐怖の悲鳴か、はたまた愛の詠唱か。
枝分かれした運命。
定められた者同士が邂逅するとき、小さな光が産れます。
出会い。
それは気まぐれな女神の落とした、儚い時間。
今宵も物語が始まります。
運命に耳を澄ましましょう。
薄暗い夕方。狭い路地をとぼとぼと俯きながら歩く一人の青年がいた。
彼の名は槐という。夢を追いかけ、遠く離れた異国に辿り着いた若者。彼の夢は一流の人形師になることだった。日本という国は、そのためには小さすぎた。
しかしここでの生活も楽ではなかった。修行の成果もなかなか表れず、なにしろ貧しい。彼の頭の中にはある考えがよぎっていた。『あと半年。あと半年して成果が出なければ、日本に帰ろう・・・。』
そんなことを思いながらふと周りを見る。気付くとそこは借家への帰路ではなく、見知らぬスラム街のような場所だった。
「悪い癖だな・・・。考え事してるといつもこれだ・・・。」もと来た道を戻ろうと方向を変える。
すると、そこにはさっきまではいなかった、小さな少女が立っていた。
その少女はお世辞にも、いい格好をしているとは言えない。みすぼらしいボロボロの服。傷だらけの手足。そして左目には大きな眼帯。何かを訴えるように視線を向ける。
「えーと、ここら辺に住んでるの? 道とか教えてもらっていいかな?」しかし少女は口を開こうとはしなかった。
仕方ない、と思った槐は少女の横を通り抜ける。
自分の足音に合わせ、ぺたぺたと聞こえるもう一つの足音。
振り返ると少女はついて来ていた。「もう暗いよ。おうちに帰らないの?」だがやはり少女は喋らない。ただ首を横に振り続ける。
まいったな、と溜息をつく。そのとき、彼女の小さなお腹から腹の虫の音が。
ぐぅ・・・
槐はあることを悟った。『そうか、この子に家は・・・。』
しばらく少女と目を合わせていると、降参したかのように頭を掻いて呟く。
「うちに、来る?」
途端に少女の顔がぱぁっと明るくなる。『悪い癖だな・・・困った人を見かけると、いつもこうだ・・・。』
手を握り歩き出す。
夕日が眩しかった。
彼女の手は暖かかった。
小さなテーブルを挟んで、槐の向かいには少女が座っている。よっぽどお腹がすいていたのだろう、無我夢中で皿に手をつける。大変な生活をしていたのだろうとすぐにわかった。
「名前、なんていうんだい?」同じように黙っていたが、今までの質問の時とは違い、少し悲しげな顔を見せる。
彼の哲学からいうと、一度手を差し伸べたらもう放り出す訳にもいかない。
「そうだな・・・薔薇のように紅い唇。水晶のように澄んだ右の瞳。 そう、君の名前は『薔薇水晶』だ。これからはここが、君の家だよ。」
それを聞いた少女は初めて見せる笑顔でコクコク、と頷いた。
槐はまたも溜息をつく。
しかし、その顔には穏やかな笑顔が漏れていた。
それからというもの、槐の生活には少しずつ変化が表れてきていた。忙しい毎日でもそれは充実していたし、そして何より薔薇水晶が時折見せる笑顔に癒された。
薔薇水晶にも少しずつ、変化が訪れていた。表情は増え、喋りかければ言葉を返すようになった。
槐はまるで父親のように彼女を見守ってきた。薔薇水晶の心が、ちょっとずつでも開き始めていることが嬉しかった。
そしてある日・・・
「・・・聞いて欲しいことが・・・あるの・・・。」仕事から帰ってきた槐に薔薇水晶が話しかける。彼女から言葉をかけてくれたのは初めてと言ってもよかった。
嬉しく感じた槐の反面、薔薇水晶の表情はとても哀しげだった。
「私の・・・過去・・・。」
________________________________薔薇水晶の話を聞いた槐はあまりのことに言葉を失った。
薔薇水晶が産れた直後、父親は蒸発。母親は新しい夫を作った。そして新しい家庭の中、薔薇水晶は名前すらつけてもらえずに、邪魔者扱いされていた。新しい父親は酒癖が悪く、いつも薔薇水晶を虐待していた。ある時、暴力に耐えかねた薔薇水晶は母親に助けを求めたが・・・。
「あんたなんか・・・あんたなんか産れて来なければよかったんだよ!!」その言葉は彼女の心を深く抉った。
そしてその三日後、薔薇水晶は郊外から離れたスラム街に捨てられたのだ・・・。
話し終えた薔薇水晶は、左目の眼帯をゆっくりと外す。
槐は唖然とした。
眼帯の下、そこには白く濁った瞳。そう、過去の激しい暴力は、彼女の左目の光を奪ったのだった。
「いつか言ってくれた・・・澄んだ瞳って・・・。でも私は澄んでなんかいない・・・。 壊れた子、要らない子・・・。」
透き通った右の瞳と濁った左の瞳からは、透明な涙が零れている。ぽろぽろと泣く彼女はいつもより小さく見えた。
スッと暖かいものが彼女を包んだ。
それは槐の両の腕。
「そんなことはない・・・。君は僕にとってのアリスだ・・・。
君と出会った日、僕の誕生日だったんだ。
君は僕の前に舞い降りた天使。
神様がくれた、最高の贈り物だよ・・・。」
薔薇水晶は槐の胸の中で瞳を閉じた。
零れていた涙は、気付いたらとても暖かかった。
「お父・・・さま・・・」
過去は変えられない・・・。
だからこそ、今はこうしていたい・・・。
それから月日は流れた。
今日は槐の誕生日。そして、「薔薇水晶」という名前の誕生日でもあった。
槐は仕事の帰りに小さなケーキを買おうと思っていた。その頃、薔薇水晶は留守番をしている。薔薇水晶も同じように、槐へのプレゼントを考えていた。
『私、お金持ってない・・・。・・・そうだ! 綺麗なお花を摘んでこよう。 きっと、お父様喜んでくれる・・・!』
思いがまとまった薔薇水晶は家を駆け出した。
川沿いの草原へ向かう彼女。
空には暗い雲が出てきていた。
日は沈みかけていた。『綺麗なお花、たくさん・・・。お父様、待っててね・・・。』
高鳴る想いを抑えながら帰路を走る薔薇水晶。
しかし次の瞬間、薔薇水晶の意識は暗闇に飛ばされた。
彼女の左目の死角。
急いでいた彼女には、飛び出してきた車の存在とは知る由も無かった。
『だいぶ遅くなったな・・・薔薇水晶、怒ってないかな?』雨が降る中、傘もささずに家を目指す槐。その手には、小さなケーキの入った箱を抱えていた。
通り道に人だかりができている。家路につくには、そこを通るしかない。「何があったんですか?」事情を聞こうと尋ねる。「女の子が車に撥ねられたんだ!」それを聞いた途端、何故か槐の心を針が刺さったような緊張が襲った。
嫌な予感を振り払い、人込みを掻き分ける・・・。
そこには
白く長い髪。小さな体。
薔薇水晶が横たわっていた。
『そんな・・・そんな、嘘だ!!』人を押し退け、その小さな体に駆け寄る。
「薔薇水晶・・・!!! 薔薇水晶!!! 目を開けておくれ・・・!」
上半身を抱き寄せる。それに反応したのか、微かに唇が動き目を薄く開く。
「お父・・・様・・・。」安心したように、力無く微笑む薔薇水晶。
「ダメだ! 僕の・・・君は僕の大切な・・・!!!」槐の涙が薔薇水晶の頬に降る。
「・・・今日は・・・お父様が・・私を生んでくれた日・・・。わた・・し、本当の・・・天使に・・なり・・・た・・・。」
瞳を閉ざす薔薇水晶。声を上げ泣く槐。
二人の周りには、小さな、綺麗な花が散っていた。
それから9年後日本に帰ってきた槐は、ある製作に取り掛かった。
それは、一体の少女人形。
食事や睡眠もまともに摂らずに、ただひたすらに道具を握る毎日。そんな日々が5年も続いた。
そして出来上がったのは、彼の人生作品の中での「至高の少女」。
その人形。いや、その少女が完成した日、それは・・・。
「誕生日おめでとう・・・。僕の薔薇水晶・・・。」
小さなアトリエに、優しい木漏れ日が降り注ぐ。
その少女の両の瞳は、まるで水晶のように光り輝いていた。
FIN
偶然の出会いが光を生むのか、
光が偶然の出会いを生むのか。
運命の歯車とは止められぬ流れ星。
それは儚く散るか、願いを運ぶか・・・。
過去は塗り替えられません。
だからこそ、この今を大切にしてください。
おや、どこからか悲鳴が聞こえます・・・。
次の物語まで、しばしの休憩。
それでは、ごきげんよう。
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