『パステル』 -10-
家人と客人、4人で囲む、和やかで温かい食卓。それは、どこにでもありがちな、ささやかで飾らない宴だった。 話題にのぼるのは、もっぱら、雛苺のこと。友人を家に招くのが、よほど珍しいと見えて、家人たちは彼女を質問ぜめにした。口達者ではない雛苺は、終始、会話のイニシアティブを掴めずじまいだった。 客間のソファに場所を移しても、語らいのペースは、相も変わらず。有栖川の煎れてくれた紅茶、ローザミスティカの3番をチビチビと嗜みつつ、雛苺はただ、問われることに答えるばかりで……。 (うー。2人っきりで、お話したいのにー) 薔薇水晶や、彼女の父――槐に、さも屈託なさげな笑顔を振りまく反面、キッチンで洗い物をしている有栖川の背中へと、雛苺の意識は向けられていた。それを具現したならば、鋭利な棘となって突き刺さっただろうほど一心に。 ――夜の更けるにつれて、雛苺の眼が時計を捉える回数も、増える。明日は月曜日。朝からアルバイトだから、日付が変わる前に帰宅しなければ。そこから逆算すると、ここに留まっていられる時間は、もう長くなかった。単調なリズムで回り続ける秒針の摩擦熱が、雛苺の胸裡を、チリチリと焦がす。 (どうしたら……あ! そうなの! お手伝いするって、声を掛ければ――) 天啓のごとく湧いた閃きに、雛苺は地団駄を踏みたい気分になった。なんたる迂闊。こんなにも単純な策略を、なぜ、もっと早くに思いつかなかったのか。 ……と、後悔するのもそこそこに、雛苺は時を惜しんで行動した。会話の切れ間を見計らって、温くなった紅茶をイッキ呑み。それで用済みになったカップとソーサーに、新たな役目を与えるべく、腰を浮かせた。 「お片づけくらいは、しないとねっ」 あくまでも自然を装って、キッチンに向かう。……が、彼女の思惑は、すぐに躓く羽目になった。 「じゃあ、私も」 やおら、薔薇水晶までが紅茶を飲み干して、ソファを立ったからだ。これでは、有栖川と差し向かいで話し合うなど、望むべくもない。 (まさか……ヒナの企み、バレてる?) 雛苺は自問してすぐ、まさかね――と、自らの憶測をもみ消した。薔薇水晶はただ、新しい友人である雛苺と、お喋りしたいだけなのだろう。その気持ちが解るだけに、薔薇水晶を疎んじるなんてできず―― 連れ立って、キッチンに足を踏み入れる2人。そこでは有栖川が、機嫌よさそうにハミングしながら、食器を洗っていた。 「お姉ちゃん。これも一緒に、お願い」「あらぁ、わざわざ持ってきてくれたのぉ?」 振り向いた微笑みは、素朴そのもので、芝居じみたところなど一片もなかった。この人は水銀燈ではない、と断言されれば、そのとおりであるようにも思える。雛苺の中にあった『如才ない才媛』というイメージは揺らぎ、ほころび始めていた。 「ありがとぉ」 エプロンで手を拭いて、有栖川はカップを受け取る。その際に、湿り気の残る彼女の指が、雛苺の指と触れ合った。ざらり……と。木綿の生地にも似た、ごわごわ引っかかる肌触り。炊事や洗濯などの家事で、見た目よりもずっと、肌荒れしているらしい。 雛苺に指摘されるや、彼女は「やぁね」と、はにかみながら背を向けた。そして、シンクに残る食器洗いを再開しつつ、つけ加える。 「これくらい、たいしたコトないわ。平気よ。すぐに治るから」 どこか言い訳がましい呟きは、薔薇水晶が側にいたから……なのだろうか。恩人の愛娘であり、妹にも等しい少女に、変な気遣いをさせたくなかったから。 あくまでも、それは雛苺の当て推量に過ぎない。有栖川の本心は、違ったかも知れない。だけど、そうであって欲しい――雛苺はココロの片隅で、身勝手な願いを抱いた。それを口に出して、無理強いするつもりなど、更々なかったけれど。 「ねぇ、雛苺。私のお部屋……行きましょ」「え? う、うん」 誘われるまま、雛苺は後ろ髪を引かれる思いで、薔薇水晶を追った。有栖川と話をしたい欲求が、消えたワケではない。ただ、この場は諦めざるを得なかったし、であるなら、時間は大切に使うべきで……。折角だし、薔薇水晶から情報を集めようと、考えなおしたのだ。 案内されたのは二階の、綺麗に片づけられた6畳間。淡いピンクを基調とした壁紙を、人気ロックバンドのポスターや、子犬や仔猫を被写体としたカレンダーが飾っている。ベッドの枕元には、タキシードを着た白いウサギのぬいぐるみ。いかにも女の子らしい部屋模様だ。 雛苺は、ウサギのぬいぐるみに眼を留めながら、回想していた。アルバイトの配達で、ジュンの家の前を通りがかった時のことを。ここでまた白ウサギに会ったのは、なにかの因縁だろうか。 「どうかした?」 やおら話しかけられて、雛苺は我に返った。気を取りなおし、振り向くと、薔薇水晶の不思議そうな表情があった。 「なにか……変?」「ううん。あのウサギさん、ミッフィーみたいで可愛いなって思ったのよ」 雛苺が繕い笑うと、薔薇水晶も、にこりと唇を綻ばせた。 「あれ……お父さまの手作り。ウサギだけど……おんりーワン」「下手なダジャレね。だけど、ぬいぐるみの作りは、いい仕事してるなの。 いいなぁ~。ヒナも欲しいなぁ~」「じゃあ、頼んであげる。お父さま、優しいから……きっと作ってくれる」「ホント!? それじゃあ、ネコさんのぬいぐるみ、お願いしていい?」「おk、把握」 淡々とした口振りながら、とても嬉しそうな面持ち。薔薇水晶にとって、友だちのために何かをする――または、してもらう機会は、雛苺が思っているより、ずっと稀なのかも知れない。だからこその、喜色なのだろう。 ベッドに腰を降ろした薔薇水晶は、右隣のスペースを、揃えた指先で、ぽふぽふ……。ここに来て、と言うことか。雛苺は誘われるまま、ベッドに腰をあずけた。 ふわり――と。薔薇水晶の長い髪から放たれる、甘ったるいコンディショナーの薫りに包まれる。その瞬間、ざわり……。雛苺の胸裡を逆なでたのは、なんとも形容のし難い感覚で。強いて一言に集約するなら、麻痺とか酩酊、に近いような錯覚だった。 「ん……と」 けれど、このまま無為に過ごすわけにはいかない。雛苺は周りに眼を走らせて、思いつくまま、言葉を迸らせた。 「とっても広くって、ステキなお部屋なのよ」「そう? ありがと」「あ、それとね、ばらしーのお父さま、すっごくカッコイイから驚いちゃった」 場を和ますための方便、というつもりはなかったが、期せずして同じ結果を生んだ。「でしょ」と、満面に笑みを湛える薔薇水晶は、本当に誇らしげだった。実際、槐は、世界を股に掛けて活躍する才器だと言うし、そういった事情から、つい鼻を高くしてしまうのも無理からぬことだろう。 へにゃへにゃと頬を弛める薔薇水晶。だが、やおら、背中に氷でも入れられたかのような真顔になった。そして、「そう言えば」と。好奇に満ちた眼差しと共に、細い指先を、雛苺のデイパックに向けた。 「雛苺は、絵を描くのよね」「うんっ! 下手の横好きだから、ちょっと恥ずかしいんだけどぉ」 いつもの習癖で、そう口にした途端、雛苺のアタマに真紅の諫言が甦った。過ぎた謙遜は、嫌味になる。薔薇水晶を、不快にさせてしまっただろうか?けれど、ちらと窺い見た限りでは、そんな素振りはなかった。 雛苺は小さく息を吐いて、デイパックを持ち上げ、膝に乗せると、スケッチブックを抜き出し、開いて見せた。「これが最新作なの」それは、双子の姉妹が丹誠こめて育てていた、茶畑のスケッチ。 「油絵の具で色づけすれば、完成よ」「……すごく上手。このまま飾っても、充分に見栄えがする」「ありがとなの。でも、この絵は先約があるから、あげられないのよ」「そう……残念」 言って、薔薇水晶は、とても名残惜しそうに、長い睫毛を伏せた。けれども、すぐにパッと目を見開いて。 「私を描くとしたら、どれくらい時間かかる?」「え、と。構図にもよるけど――」 描いて欲しいの? 問うと、薔薇水晶は口元を綻ばせて、コクコクと頷いた。どうやら相当に、雛苺の絵を気に入ってくれたらしい。ぜひにと求められたら嬉しいし、描いてあげたくなるのが人情というもの。雛苺は、タイムリミットを念頭に置きながら、おおよその時間を見積もった。 「んー、そうね。バストアップのラフなら、30分くらいで描けると思うの」「バストの…………裸婦? 脱ぐの?」 訊いておきながら、薔薇水晶は答えも待たずに、パジャマのボタンを外し始める。雛苺は、慌てて彼女の手を掴んで、止めた。 「脱がなくていいのっ! ラフスケッチのコトなのよ」「……ああ。そゆこと」「うい。じゃあ、楽にしてね。30分ほど、じっとしてられるポーズで」「解った。これで、いい?」 薔薇水晶は、ころりとベッドに横たわり、すらりと形のいい顎を、腕に乗せた。これなら、確かに身動きは少なくて済むし、疲れもするまい。雛苺は、モデルの正面に腰を降ろすと、深呼吸を繰り返して……徐に、鉛筆を手にした。 ~ ~ ~ ――こうなるだろうことは、自然な成り行きだったし、予測の範疇だった。ベッドに横臥した薔薇水晶は、すっかり寝入っている。最後まで空白だった表情を描き足し、雛苺は大きく吐息して、鉛筆を手放した。 「気持ちよさそうな寝顔ね」 別れの挨拶くらいはと思ったけれど、ここで叩き起こすのも、可哀想な気がする。雛苺は、枕元に置かれた目覚まし時計を見遣って、時刻を確かめた。すっかり夜も更けたが、まだ終電には間に合いそうだ。無防備に眠りこける乙女の絵を、そっと机に置いて、雛苺は滑るように部屋を出た。 それにしても、最寄り駅までは、どのくらい離れているのだろう?この辺りの道にも不案内だ。地図を書いてもらうか、送ってもらう他はない。 ――じゃあ、それを誰に頼もうか。思った次の瞬間にはもう、雛苺は笑顔いっぱいで、両手に拳を握っていた。 「そうなのっ。いまこそ、2人っきりで話をするチャンスなのよ!」 まだ深夜と言うには早いし、よもや、来客中に眠るほど不用心でもあるまい。きっと対話ができる。確信する雛苺の耳に、有栖川の声が甦った。 階段を降りてくる、軽やかな気配を察したのだろう。応接間から、ひょいと顔が覗いた。でも、それは意中の人ではなくて―― 「おや、もう帰るのかい?」 薔薇水晶の父親、槐は穏やかに微笑みながら、さらに継いだ。「薔薇水晶は?」 「絵のモデルをしてて、そのまま眠っちゃったのよ」「やれやれ。困った娘だ」 階段を降りきった雛苺と入れ替わりに、長身の槐は背を屈め、階段を昇り始めた。その途中、はたと立ち止まって、雛苺に囁きかけた。 「これからも、仲良くしてやってほしい」 薔薇水晶のことだろう。雛苺は笑顔で応じる。「もちろんなの」「ありがとう」槐も、目尻を下げた。 「あの子は、僕に似たらしく、他人とのコミュニケーションが下手でね。 母親を早くに亡くしたことが、影響しているんだろうな」 言うと、槐は寂しさを張りつかせた顔を、つ……と背けた。 雛苺には、彼や薔薇水晶の心情が、なんとなく理解できた。女の子にとって、母親とは最も身近な同性であり、歳の離れた姉のような存在でもある。父親では、どれだけ愛情を注ごうとも、そういった役割を演じきれない。だからと言って、父も娘も、軽々しく『再婚』の選択肢を切り出せなくて――多感な時期を母もなく過ごした少女は、どこか頑なで冷めた娘に育ってしまったのだろう。 有栖川の登場は、この父娘にとって大きな転機となったのは、間違いない。彼女を、ひとつ屋根の下に住まわせて……人助けのつもりが救われていた、と。 「よろしく頼むよ」「はい、なの」 頷いた雛苺に微笑みかけて、槐は再び、階段を昇り始めた。その背に、おずおずと問いかける。「あのぉ……有栖川さんは?」 「彼女なら、入浴中じゃないかな。いつも、最後に使っているから」 だったら、ほどなく会えるだろう。槐を見送って、雛苺は歩きだした。向かう先は、応接間ではなく、バスルーム。一応、ドア越しにでも、用件くらいは伝えておこうと思っていた。そうしておけば、余計な前置きなしに、話を進められるから。 ぱしゃ……ぱしゃ……。ドアの向こうから聞こえる、水の砕ける音は、シャワーのものではなかった。すっかり冷めた浴槽の残り湯を、洗面器で汲んでは、浴びているようだ。居候だからと、水道代は疎か、追い焚きするガス代さえ憚っているのかも知れない。 ひとつ深呼吸して、雛苺は、ドアをノックした。――いや。するつもりが、彼女の拳は、ものの見事に空振りしていた。なんの前触れもなく、ドアが引き開けられたせいで。 「きゃぁっ?!」 有栖川も、まさか、そこに人が立っているとは思わなかったのだろう。黄色い悲鳴をあげて、タオルを取り落とし、手で胸を隠す慌てぶりだった。いささか大仰にも感じられたが、それだけ油断していた証だろうと、雛苺は強引に納得した。 「もう! まいっちんぐ……じゃなくて! これは一体、なんのつもり?」「ごご、ごめんなさいなのっ。ヒナ、別に驚かすつもりじゃ」「じゃあ、なに? まさか、盗撮――」「誤解なのよー」 雛苺は俯き、巧く説明できない苛立ちから、自分のアタマをポカポカと叩いた。その様子を見て、有栖川も、ふう……と溜息を漏らした。 「とにかく、先に身体を拭かせてもらえないかしら。風邪ひいちゃうわ」 あたふたと背を向けた雛苺は、後ろでバスタオルを広げる乙女に、用件を告げた。表向きの、帰り道についてのことだけを。 『真紅』という単語は、吐き出せず、飲み込めず……喉に刺さった魚の小骨みたいに、雛苺をヤキモキさせ続けていた。 -to be continued-
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