Flood of tears
私は見上げる。鈍色の空を。哀しい色の雲が、重くのしかかり、瓦礫の夢に降り注ぐ。何も考えないまま、私はいつものように仕事の片づけを終え、移動することにした。今回は珍しい午前中の仕事だった。大抵は夜に時間を指定される。殺人というものは、夜にしか起きないとでも思っているのだろうか?人の死に、時間なんて関係ない。人は死ぬ時に死ぬだけ。夜に人が死ぬのなんて、ドラマのために脚色された愚かなイメージだ。もう一度、空を見上げる。何を思ってなのかは、私自身にも分からなかった。DUNE第五話「Floods of tears」子供たちのはしゃぐ声。それを見守る母親たち。昼間の公園のベンチに座り、時間つぶしをしている。白崎の指定した時間は、もう少し先だ。あれは、ああ見えて時間にうるさい男なのだ。ますます、不思議の国のアリスに出る白ウサギに似てくる。わざと似せようとしているんじゃないか、と私は睨んでいる。子供たちを見て、私はこんな時間を持って無かったことをふと、思い出す。無邪気さなんて、とうに捨てた。無邪気なままでは、生きてゆけなかったから。誰も彼も敵にしか見えなかったあの頃。いや、それは今でも変わらずか、根本的には。けど、今は信じたい人ができた。一人だけ、一人だけど。ふと、足もとに赤い色をした、サッカーボールよりか少し小さいボールが転がってきているのに気づいた。前を見ると、10、11歳位のかわいらしい少年がいた。彼はこっちに少し近づきながら、ボールを取ってください、と頼んできた。私は無言でそのボールを拾い、投げ返してやる。それは、小さく弧を描き、少年の少し手前で地面に落ち、バインと音を立てバウンドをし、彼の手の中へ納まった。ありがとう、とにこやかな笑顔で、彼は礼を言い、軽い会釈して、友達の輪へと戻って行った。きっと彼には、私のことは偶然同じ公園にい、偶然ボールを転がしてしまった方にいた女性としか思ってないだろう。そして、この記憶は明日の朝になってしまえば忘れるのかもしれない。それでいいんだ。すべて、偶然のもとに成り立ち、ほとんど誰も深くへは立ち入ってこない。そんなものだ。そのままでいい。この公園の中に、私のことを知る者も、知ろうと思う者もいない。誰彼話すようなことではないし、誰かに話したところで、これはただの冗談と取られるか、精神異常者の戯言と思われるだけ。本当は、この中に、いやどこにもいてはいけない存在なのかも知れない。そんなとりとめのないことを考えていると、「お姉ちゃん、これあげるの」という声がすぐ近くから聞こえてきた。いつの間にか隣に、フランス人形のような少女が座り、こっちを見ていた。その小さな手の中には、『うにゅー』、苺大福が入っていた。「お姉ちゃん、すっごく怖くて、すっごく悲しそうな顔をしているのよ」そんなことを言いながら、心配そうな目で見つめてきた。「ううん。大丈夫よ、心配ないわ。ありがとう」と返そうとしたが、大丈夫、という言葉を言い終えさせないままに「嘘なの!だって…泣きそうになってるのよ」と割り込んできた。おいおい、泣きそうになってるのはそっちのほうだ、なんて思っていても、私には次の言葉が紡げなかった。突然のことには、人間は案外弱い。空洞ができた心の中の、脆い線に触れるかのように、「お姉ちゃん、つらい時は泣いていいのよ?」 という少女の言葉が流れ込む。不思議な少女だ。まだまだ幼いであろうに、どこか成熟している。私は居心地の悪さなどは感じず、逆に自分が欲しがってた自分自身を映す『鏡』に諭されているように思えた。包まれているような心地がした。やわらかく、何よりもやわらかく。気がつけば、涙を流している自分がいた。何のための、誰のための涙かは分からない。昔の仲間のためかも、殺してきた人のためかも、大切な一人のためかも、自分自身のためかも知れなかった。そっと、頭をなでるように包み込む、優しい腕の感触。何も言わないで、ただ抱きしめる感触。あなたは一人じゃない、とその腕は囁いてるかのようだった。どれほどの時がたったのだろうか。涙はやっと止まった。私は一言、「ありがとう」と呟いた。「いえいえ、どういたしましてなの」と少女は胸を張り、返す。そんな様子を見ているとやはり振る舞いには子供らしさが残っているな、と思えた。「じゃあ、はいなの。これあげるのよ」と、もう一度少女は、苺大福を差し出してきた。「うん、ありがとう。でも、いいの?」 『うにゅー』は私の大好物ではあるが…。「もっちろんなの!あ!でもママにはないしょにしてほしいのよ?」 なんて、慌てたように付け足した。そんな様子がおかしくて、つい笑みがこぼれてしまう。「あ!お姉ちゃん、笑わないでなの!」 と頬をかわいらしく膨らませ、抗議してきた。「ふふ、ごめんね」とまだ笑いながら謝る。「むー。なんか引っかかるの。でも、よかったの!お姉ちゃんが笑って」と言い、「ばいばーい」と言いながら、ふわふわと、おそらく母親のいる方へと走っていった。この時、私は、彼女が羨ましく感じた。大人げなく。きっと、いまの私には手に入れることのできないであろうものをたくさん持っていたから…。少女に感謝と羨望の念を抱きつつ、ベンチにまだ座っていた。彼女の言葉が反芻する。難しいことなど言ってなかった。むしろ、簡単なこと。簡単であるはずのこと。そう、全ては単純なことなのだ。私の中で、ゆっくりと、ある一つの考えが浮かんできた。拒むことはない。これが、今したいこと。私にとって、大切なこと。私は、彼女みたいになれたのであろうか?もしも、生きている世界が違ったのなら。もしも、関わった人間が違ったのなら。しかし、こんなことを考えても、きりがない。仮定について考えても、無駄なのだ。今は、今できる最高のことを、最高の選択をするしかない。……最悪から二番目の選択しか出来なくても。呆と徒然にことを考えていると、公園にある時計が視界に入った。そろそろ時間か……。結構時間を潰せたな。じゃあ、行こうか、と思った。長い間同じ姿勢だったので強張った筋肉に無理やり血液を送り、動かすように指令を出す。この体は私のものだ。だから、勝手な行動は許さない。なんて指揮官のようなことを考えながら、立ち上がる。そして、一つ伸びをして、公園の出口へと向かった。ここから事務所までは歩いて20分ほどの位置にある。そこの近くには駅があるわけでもなく、乗り物を使うには微妙な位置なのだ。事務所の近くで待っていない理由は何となく、だ。そこら辺には、喫茶店等はあるにはあるが、その気になれなかった。いつもという訳ではない。普通のコーヒー、まあまあ美味しいミートパイを出す店があり、普段はそこにいる。今日はなぜなんだろう。巡りあわせ、というやつなのだろうか。住宅街の真ん中にこの公園があり、住宅街の先には、時代に少し残された感のある商店街。200メートルほどの川にかかった橋を渡る。この下で、少年たちが野球をしている。ただの遊びではなさそうだ。おそらく、試合か何かだろう。河原には、車が何台も止まっている。渡り切ると、また住宅街。今度のは前のより、住宅の質が少し落ちる。古びている。色、褪せている。とはいえ、ほんの少しだけの差なのだが。この差を気にする人間は気にするらしい。私には、全く分からないことなのだけど。ここにある団地を通り過ぎる頃には、いやな感じは少しずつ形をなしてきた。正確には、商店街の淵のころからあったものだが。懐かしい、けど嬉しいとは思えない、あの感覚。だが、急に行動を起こしてはいけない。逃げられてしまう、もしくは逆に危機に陥る。ある程度、引き付けなくてはならない。私自身の身を守るために。後ろの方、かなり後方で、おそらく銃を構えたのだろう。背中がちりちりと焦げるような感じがする。うん、私だって逆の立場ならここで動くだろう。ゆっくりひとつ深呼吸。そして、走った。まっすぐ前ではない。右へ、団地の方へ。慌てたように、一発の銃弾が私のいた少し右のアスファルトを抉る。2発目、3発目と私の後を追う。だが、まだまだ遠い。急な動きの中、照準は定まらないだろう。軽く手も反動でしびれているはずだ。それだけでない。連射が遅い。なぜ私がいきなり走りだしたのか分からず混乱しているのか。もしかしたらどこかから襲撃の情報が漏れたのかも知れない、と上司を恨んでいるかもしれない。だが、動揺しているのは相手だけではない。私もだ。どこから私の情報が漏れたのだろう、白崎に探らせなければならないな。すべての雑念を振り払い、逃げることに専念する。死ぬつもりなど、毛頭ない。右へ左へと、団地を縫うように走る。小さな公園があり、そこでやり過ごすことも考えたが、やめた。やり過ごせそうにない。敵の放った弾丸は今のところ5発。どれもすぐそばを掠める。テレビで見るスポーツの試合だったら、惜しい、と叫んでいただろう。いや、こんな状況でも、敵の射撃の腕前には驚嘆していた。敵の弾切れを期待することはできなさそうだ。私は、振り返りはしない。その一瞬が命取りになる。私にとって、運のいいことは、荷物が何もないこと。逆に運の悪いことは、武器もないこと。そして、確実に、少しずつではあるが追い詰められていることだ。この時、私はやったことのない鬼ごっこについて考えていた。二人以上でやるの児戯。一人が“鬼”となり、その他の“子”を追いかけ、捕まった“子”は“鬼”となり、捕まえた“鬼”は“子”となる遊び。明確な勝敗はなく、ただ飽きるまで続けられる、終わりのない遊び。ただ、今の状況はそれとは違い、命を賭したものだということ。いや、命を落とす確率は“子”である私の方が圧倒的に高いな。それならば、認めたくはないが、キツネ狩りといった方が正しいだろう。狩られるなんて嫌だ、と狩られるキツネは考えているのだろうか。やはり、何もわからないまま、終わるのだろうか。死ぬ刹那には、やられた、とでも考えるのだろうか。生態系ピラミッドの頂点ではないにせよ、捕食する側の自分が狩られてしまうことに憤りを感じるのだろうか。分からない。私はキツネなどではない。狩られるなんて、まっぴらごめんだ。かといって、反撃の手があるわけではない。だが、逃げる術はある。これは賭けだ。失敗すれば、命はない。だが、捕まれば、どちらにせよ、命はない。私の隣の木に、弾丸が突き刺さる。これで、11発目だ。もう少し多いかもしれない。5,6発はかすり、確実に私の体の一部を奪っていった。だが、まだ身体機能に支障が出るほどではない。サイレンサーのせいで、音は聞き取りにくい。おそらく、敵のは自動式拳銃。だからと言って、装弾数が分からなければ意味などない。そんな情報に気づいたところで敵が死ぬわけでも、追いかけるのを諦めるわけでもない。結局のところ、何の意味もなさない。手頃な大きさの石を拾い、団地とは別の家屋に最も近い住居棟の入口へと駆け込む。選択肢は、ここしかない。入口、5段の階段、一階住居入り口。7段の階段。踊り場。8段の階段。二階住居入口。7段の階段。踊り場。8段の階段。三階住居入口。7段の階段。踊り場。踊り場の横の壁に取り付けられた梯子へと飛びつく。梯子を登り、子供が登ってこないようにするための蓋に当たる。ここに駆け込んでから、ここまで一息。鎖を繋ぎとめていた南京錠のU字型の金属の足(ツル)に、持っていた石をぶつける。このとき、この中で響く足音が増えた。急いでその鎖を外し、蓋を跳ねのけ、屋上へとの登る。石を投げ捨て、屋上の淵へと走る。勢い余って落ちそうになるのをすんでのところで踏みとどまる。息が荒い。肩で呼吸をしている。数回、深呼吸。見れば、その先にはいい具合に木々が茂っている。淵ギリギリに立つ。私はそこに背を向け、両腕を羽のように伸ばし、重心を後ろへ傾ける。そして、わたしはそこから落ちていった。DUNE 第五話「Floods of tears」了
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