『誰より好きなのに』 後編
真紅に――お母さまに、戻れと言われ……私は従った。でも、それは本当に、正しい選択だったのだろうか。お父さまを襲った悲劇も、知らず、私が持ち帰ったからじゃないの?『浦島太郎』の昔話にある、玉手箱みたいな、余計なお荷物を。あの物語で、太郎は箱から噴き出した白煙を浴びて、老人になった。竜宮城と現世におけるタイムラグを、一気にリセットしたからだ。では――私はいつ、その箱を開けたというのか。 「もしかして……《九秒前の白》のことを、打ち明けたから」真紅と、きらきーの話を話したがために、この状況が引き起こされた……と?向こうで感じた幸せの、対価として。 「もし、そうだとしても――」だったら、私のみを不幸にすればいい。私の身を傷つければいい。連帯保証人じゃあるまいし、誰かを巻き添えにする必要なんて、どこにもない。それなのに……どうして。口惜しさに唇を噛みながら、私は、目の前のベッドに視線を落とした。 お父さまは、俯せの姿勢で、ベッドに寝かされていた。ここは集中治療室。見慣れない医療機器に囲まれ、お父さまは眠りに就いている。お医者さまも看護士さんも、夜明け前には、一連の処置を終えて出ていった。今は、私たちだけ……。一命を取り留めたものの、お父さまの具合は依然として、予断を許さない状態だ。当たり前よね。倒れてきた電柱の、下敷きになったんだもの。 折れた肋骨が背中に突き抜けていたり、椎骨が砕けたり、歪んでしまったり。数時間にも及ぶ手術で、見た目だけは元どおりだけれど……それは背骨や肋骨に沿って埋め込まれた、金属の固定具があっての話だ。脊髄の損傷度合いによっては痺れが残り、悪くすれば下半身不随になるかも。お医者さまには、そう説明された。 「お父さま」胸がはち切れそうに痛くて、喘ぐように口を開けば、溜息が零れるだけ。私には医学なんて解らない。専門家の話を鵜呑みにして、不安に苛まれながら、祈ることしかできない。だけど、それでも、生きていてくれたから……わずかでも気休めの余地があるだけ、まだ救われていた。それすらできない状況になっていたら、きっと、罪悪感に押し潰されていた。今度こそ本当に、私は生きていなかったに違いない。 「お父さま。私……ちょっと家に戻ります。 着替えとか、洗面用具とか……いろいろ持ってこないと」お父さまの頬に触れて、微かな息づかいと肌の温もりを確かめた。麻酔が効いて熟睡している。どうせ聞こえてない。それでも、私は話しかけた。いつもみたいに振り向いてくれるんじゃないかしらと、淡く期待しながら。 半日ぶりくらいで帰り着いた家の様子は、ほぼ昨夜のままだった。工房の床の、砕けたティーカップ。作業机に横たわる人形。お母さまの写真。そもそも、ドアには鍵さえ掛かってない有り様で。いかに、お父さまが必死になって追いかけてくれたかを、物語っていた。私がいないと知るや、取るものも取り敢えず、外に飛び出して――そして、荒れ狂う海に身を投げた私を見つけて、命がけで救ってくれたのだ。どうしようもなくバカな、こんな私を。 「ごめん……なさい」また、涙。どうして8年もの間、一度も泣かずに生きてこられたのか……不思議でならない。私って、本当は、すごい泣き虫なのかも。そうとしか考えられない。 「ヤダな、もぅ。とにかく…………入院の支度……しなきゃ」――でも、その前に。眼帯で、おまじないをしたほうが、よさそう。これから先も、コトある毎に泣いてばかりでは困るから。グズグズと鼻を啜りながら、お父さまの作業机に歩み寄った。お母さまを模した人形と、お母さま本人の写真。そして、そこに、私の眼帯も並べてあった。きちんと、拾っておいてくれたのね。 「ありがとう……お父さま」私は眼帯を手にとって、握った拳を、胸に押し当てた。 洗面所で、グシャグシャの泣き顔を洗い引き締めてから、眼帯を着けた。少しは、まともな顔になったかな……鏡を覗き込んで、微笑んでみる。その鏡像が、ふと《九秒前の白》で会った妹の顔と重なり、私は息を呑んだ。髪の感じ、金色の瞳、面差し。どれをとっても、よく似ている。生き写しだ。……と、言うか。 「どうして、今まで忘れてたのかしら」私は、しばらくの間、鏡を見つめたまま、愕然と立ち尽くしていた。あれは――『きらきしょー』とは、私の……幼い頃の姿に他ならない。正確には、子供だった私が憧れていた、理想の自分。腐臭の澱む、ろくに陽も当たらない路地裏に座り込んで、私は眺めていた。祭りに沸く街角を、煌びやかに着飾った子供たちが、親の手を引いて駆けてゆく様を。私も、あんな風に――みすぼらしく、異臭を放つボロを纏った私には、その世界が、とても眩しく見えた。汚れひとつない、洗いたての匂いのする服を着て、美味しい物を食べて……ありとあらゆる祝福を与えられた、幸せな、美しい女の子。羨望と憧憬は、飽くことなき妄想の糧。いつしか、私は自らの中に、別の人格を生みだすまでの夢想家に成長していた。アリス――と言うのが、もうひとりの私の名前。お父さまたちと出逢うまで、アリスは私の、唯一の友だちだった。ヘドロ臭い運河の水面に写した、自分の姿。そこに居る女の子こそが、アリス……私の分身。汚れた水に投影された、汚れた娘の鏡像だというのに、彼女はとても美しかった。 アリス――『きらきしょー』の居た世界。《九秒前の白》とは、つまり私の妄想が築きあげた、仮想空間なのかしら?お母さま――真紅が言っていたことを、反芻してみる。 『ここには、私たちしか居ないわ。私たちしか入れないのよ』
『貴女は生きて、歩き続けなさい。そして、此処を守るのだわ』あれは、妄想を紡ぎ続けなさいと。せっかく産まれた世界を、守って生きなさい――と。そういう意味だったの?でも、それならどうして『きらきしょー』は、アリスと名乗らなかったのか。彼女と一緒にいた、お母さまは…………だぁれ? まさか、本物の幽霊?解らない。こんがらがってきた。どうして私って、こうバカなんだろう。毎度のことながら、自己嫌悪。 「ああ……もぅ、ヤメヤメ。悩む前に、始めなきゃ。いろいろと」私はコツンとアタマを叩いて、おかしな考えを追い出した。とにもかくにも、病院に持っていく荷物を、纏めなければ。それに、当分は休業するとは言え、工房とお店を掃除しておかないと。今は、私だけが、ここを守れるのだから。 まずは、割ってしまったティーカップの片づけ。売り物のお人形を並べ直したり、ショーケースのガラスを拭いたり、箒で床を掃いたり。家事に専念しているところに、来客を告げるドアベルが鳴った。 「ごめんなさい。しばらくお休――あ」店に入ってきたのは、隣で喫茶店を経営している、お父さまの古い親友だった。切れ長の眼をした優男ながら、ここ一番では頼りになる人だ。 「白崎さん……あの、昨夜は……ありがとうございました」 「なぁに、気にしないでいいよ」白崎さんは、人好きのする笑顔で、ひらひらと手を振った。昨夜は、この人が、すべて手配してくれたのだ。泣き喚くだけの私に代わって。その後も、お父さまの手術が終わるまで私に付き添い、慰めてくれていた。もし、この人が気づいてくれてなかったら……と思うと、ゾッとする。 「槐くんが一命を取り留めて、まずは、ひと安心だね」 「でも……まだ、予断を許さない状況だって、お医者さまが」 「彼だって若いから、回復力もあるし、きっと大丈夫だよ」 「はい」俯いた私のアタマを、白崎さんの手が優しく叩く。ぽふぽふぽふ……。 「ほらほら、落ち込んでる暇なんかないよ。君が、しっかりしなきゃ。 槐くんが帰る場所は、ここしかないんだからね」 「それは、解ってます……けど」 「笑う門には福きたる、って言うだろう。ほぉーら、スマイルスマイル~」 むにに……と両の頬を摘まれて、ムリヤリ笑顔にさせられた。知り合ったときから、こういう人だ。ちょっと強引で、戯けかたが道化っぽい。でも、気さくで、なんだか憎みきれない人。白崎さんの指が離れても、私の作られた笑みは、崩れなかった。むしろ、自然と笑いが沸いてきたから不思議。思わず噴いてしまった私を見て、彼も満足そうに破顔した。 「掃除が終わったら、病院に行くんだろう? いろいろと持っていく物もあるだろうし、僕の車で送ってあげるよ」 「白崎さん……お店は?」 「心配いらない。頼れるワイフが、ちゃんと切り盛りしてくれてるからね」こんな人にも、奥さんがいる。名前は、めぐ。大学の同期生だったとか。感情の起伏が激しいところはあるけど、基本的に、優しい女性だ。それに、黒髪と喫茶店のエプロンが似合う、とっても綺麗な人。お母さまが亡くなってから、この白崎夫妻には、とても良くしてもらってきた。 「掃除なら、僕が代わってあげるから、君は荷物を纏めておいで。 おなかも空いてるだろう? 病院に行く前に、ウチで食べていくといいよ。 ……だけど、まずはシャワーを浴びるべきだね」言われて、今更だけど気づいた。私、昨日から着替えてない。髪はバサバサだし、服はムワッと潮臭くて、とても人前に出られたものじゃなかった。 「打ち身が痛くて洗いにくいようなら、僕が手伝ってあげようか」 「…………めぐさんに言いつけますよ」 「失礼しました、お嬢様。それだけは勘弁してください」 セクハラまがいの軽口も、沈みがちな私の気を紛らそうとの、配慮だったのだろう。私は身支度を整えてから、めぐさんのアドバイスに従い、当面の荷物を纏めた。白崎さんの店でお昼をご馳走になってから、彼の運転する車で、病院へ―― お父さまは、依然として、昏々と眠り続けていた。手術で背中を切開したから、俯せ寝のままだけれど、苦しそうな寝顔ではない。「やれやれ、いい気なものだねえ」とは、白崎さんの感想。 「せっかく、愛娘がお見舞いに来てくれたっていうのに」 「いいんです。今まで……働き過ぎな感もあったし」 「文字どおりの骨休めだったら、どんなに良かっただろうね」 「……本当に」何本も骨を折っている状態では、洒落にもならない。いつか……こんなコトもあったねと、みんなで笑い合える日がくればいいけど。 「――さて。僕は、引き上げるとしようかな」 「え? 来たばかりなのに」 「目を醒ましそうもないからね、彼。また日を改めて、様子見に来るよ。 薔薇水晶。君は、どうするんだい。帰るなら、送ってあげるけど」 「いえ、あの…………もう少し、残っています。 お医者さまから、治療のことで……お話あるかも知れないし」 解った、と頷いて、白崎さんは踵を返した。「だけど、無理はしないように」 「ありがとう、白崎さん。めぐさんにも、よろしく伝えてください」 「話しておくよ。それじゃあ、また」 集中治療室のドアが、そっと閉じられる。それよって、廊下から流れ込んでくる諸々の音は、すっかり遮られてしまった。静かだった。まるで、この部屋そのものが《九秒前の白》と化したような――そんな錯覚をしてしまうほど、濃密な静寂が、この場を支配していた。医療機器の動作音はするけれど、それさえも、掠れて聞こえるほどに。私は、ベッドの脇にスツールを置いて、腰を降ろした。 「どんな夢……見てるの?」長い長い、眠りの時間。それが、せめて楽しい夢ならばと、願わずにはいられない。たとえば――真紅や、きらきーに出会える夢とか。ああ、でも、楽しすぎるのも考えものか。夢の世界にドップリ浸かって、こっちに戻ってくれなくなったら困る。私だけでは、あの工房を守ることなんて……できっこない。 「せめて――私が、お母さまと同じくらい……賢かったら」詮ないこととは承知の上で、泣き言を呟いてみた。もちろん、本当に泣いたワケじゃない。眼帯の封印は、神憑り的な効果を発揮して、私の涙を堰き止めている。ベッドに肘を乗せ、頬づえを突いて、間近で、じっくりと寝顔を観察する。けれど、お父さまは規則ただしい呼吸を、繰り返すばかりで。頬をツンツンしても、耳に息を吹きかけてみようと、まったく反応なし。本当に、よく眠っている。憑き物が落ちたような、安らかな表情で。 今だったら――そんな想いに背を押されて、私は身を乗り出して、お父さまの耳元に唇を寄せた。 「……槐……さん」この人を名前で呼ぶのは、憶えている限り、これが初めて。だから、なのか。それだけのコトなのに、ドキドキと、胸が苦しい。でも、さっきまでの不安な胸騒ぎとは、根本的に違う。嬉しかったり、楽しいときのような、フワフワする感じの――巧く表現できないけれど、とても気持ちのいい胸のざわめきだった。 「だいすき」今まで、何度も口にしてきた言葉だけど。今ほど、想いを込めて囁いたのは……やっぱり、初めてだと思う。仰向けに眠っていてくれたなら、本気の証しをあげられたのに。人口呼吸なんかじゃない、本当のキスを。……ううん。これは、これで良かったのかもね。眠っている間に、コッソリ……なんて一方通行では、満足できないもの。誰よりも、好きだから――だからこそ、もう一度、真剣に想いを伝えたい。そして、叶うものなら、しっかりと受け止めて欲しかった。 「今はまだ……これで、我慢しておくね」お父さまが目を醒まさないよう祈りながら、私は……伸び始めの無精ヒゲを避けて、そっと、彼の頬に口づけた。 病室のドアが無造作に開けられたのは、まさに、その直後。ビクン! と飛び上がった弾みで、私はスツールごと床に倒れてしまった。ノックも無しにドアを開けた、不埒な粗忽者はと言うと…… 「おやぁ? うたた寝でもしていたのかい」と悪びれる様子もない。まったく……誰のせいだと思っているのか。飄々とし過ぎるのにも程がある。私は立ち上がって、白崎さんに詰め寄った。 「……し、白崎さんっ! ノックぐらいしてくださいっ」 「これは失敬。驚かすつもりじゃなかったんだけどね」 「悪気がないなら、余計に質が悪いです」 「いやはや、確かに不注意だったね。申し訳ない」白崎さんはアタマを掻き掻き、眉毛で八の字を描いた。ホントにもう……困った人だ。憎めないところが、また憎たらしい。それにしても、なんで戻ってきたのかしら。 「てっきり帰ったとばかり……どうして、また?」 「それが、駐車場を出ようとした矢先に、奥さんから電話があってね」 「めぐさんが?」眼で続きを促すと、白崎さんはベッドに伏せるお父さまを、チラと窺った。 「夕飯には絶対、君を連れてこいって。君を元気づけようと、準備してたらしい。 腕によりをかけて作った料理を、ご馳走してくれるそうだよ」 「そんな。そこまで……甘えられない」 「いやいや。僕らの間で、遠慮は無しだよ」それに、と。白崎さんは、喋りかけた私を遮った。 「槐くんが目を醒ましたら、忙しくて休む間もなくなるだろうからね。 今夜中は起きないだろうし、英気を養える内に、しっかり休んでおいた方がいい」一理ある。いつも白崎さんの車で、送迎してもらえるワケじゃない。毎日、洗濯物などの荷物を抱え、病院と自宅を往復するのはキツイだろう。 「そういうワケだから、ご招待されてくれないかな?」 「ええ。じゃあ……お言葉に甘えて」食事の用意までしてくれた2人の心遣いを、無下にはできない。それに、今は誰かとお喋りしていたい気分だった。話題なんか、なんでもいいから。 「よし、決まりだ。この時間だと道が混むけど、ちょうどいい頃合いに着けそうかな」私は白崎さんに背中を押されて、ベッドから離れた。病室の出入り口で歩を止め、一度だけ振り返る。そして、ココロの中で囁きかけた。(あなただけを、ずっと想っています――) 白崎邸で夜食をご馳走になり、私は自宅に戻った。よく眠れるようにと、紅茶に赤ワインを入れて、舐めるように嗜んだ。眠りが浅いとき、お父さまは、よくこうしてワイン入り紅茶を飲んでいた。それを、ちょっとばかりの興味から、真似してみたのだ。……が、ちょっと分量を間違えたらしい。飲み干して、ややも待たず、顔が熱くなってきた。歩くと、足元が覚束ない。アタマも、クラクラしてる。 もう寝よう――とは思うものの、なんとなく、独りでベッドに入るのが嫌で。私は工房に行って、お父さまが仕事で使っている椅子に、腰をおろした。お母さまの写真と、彼女を模した人形が、もの言わず私を見つめている。もしかしたら、未成年のくせに飲酒したバカ娘に、呆れて言葉もないのかも。 「……なんて、ね」人形は、喋ったりしない。故人は、言葉を並べたりしない。そのくらいは、分かっている。理屈では解っているけれど、でも……やっぱり。 「声が……聞きたいな。夢で……また、逢――かな?」行けるものなら、行きたい。あの、真っ白な泡沫の世界へと。私は、酔いの怠さに抗いきれず、作業机に両腕を重ねて、突っ伏した。そのまま、じっとしていると……瞼が、とろん。まるで、直火に炙られたチーズみたいに、とろとろと垂れ下がってくる。何度か、ハッと目を開くも、ことごとくが徒労に終わった。そして気づく。どうして、無理して起きようとしているんだろう、と。眠ってしまえばいい。目を閉じて、もわもわと広がる無意識に沈みかけた、その一瞬。 『夜は眠りの時間よ。おやすみなさい』脳裏で囁かれた声が、優しい余韻を引く。それは、お母さまの――真紅の口振りに、間違いなかった。でも……その声音は彼女のものではなく、私の声だった。 エピローグにつづく
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