『孤独の中の神の祝福』 後編
「明日は、会えないと思います。もしかしたら、明後日も」 見回りの看護士さんに咎められて、渋々と引き上げる間際、雪華綺晶は、もらわれていく子犬みたいな、頼りない眼をして言った。手術に何時間かかるか分からないし、早く終わったとしても、麻酔が抜けきってないはず。明後日も、鎮痛剤とか、いろいろ投薬されてるだろうし……ま、普通に考えても、とても歩き回れる状態じゃないわね、きっと。だったら――私は景気づけに彼女の背中をバシッ! と叩いて、笑顔で送り出した。 「元気だしてよ。お見舞いには、必ず行ってあげるから」「きっとですわよ?」と、雪華綺晶は縋るような眼差しのまま、去ってゆく。何度も何度も、振り返り振り返り。やがて、常夜灯だけが点る薄暗い廊下の向こうに、彼女のシルエットが消えた。私は静寂の中に、ぽつんと立っていた。これでまた、独りっきり。そう思った途端、大きな喪失感が、私を呑み込んだ。火が消えたようなって表現、そのものだった。胸が、キリキリと痛い。でも、発作じゃない。いつからか忘れてた――忘れたフリをしていた感情が、その痛みを生んでいる。…………寂しい。このまま眠ることなんて、できない。気づいてしまったから。ベッドに入っても、きっと泣いてしまう。そう。ずっと、私は求めていたの。この孤独で枯れそうなココロに、恵みの雨を降らせて、潤してくれる存在を。死に憧れたのだって、その先に在るかも知れない救済を、夢みていたからだ。結局のところ、私の中でも、天使は曖昧なイメージでしかなかった。人でも動物でも、物でも、歌みたいな形のないモノでも……ここから私の魂を解き放ってくれるのなら、すべてが天使になり得たんだわ。でも、いま私の胸には、確かな天使の像が宿っている。眼を閉ざしても、瞼の裏に、その姿を描くことができる。だから、もう早く死にたいだなんて思わない。独りで漠然と空を眺めることも、もうしない。 「そうだ。おやすみって言うの忘れてた」我ながら、白々しい。会いに行きたいなら、ただ歩き出すだけでいいのに。そんなコトにさえ、口実を求めているなんて。……ちょっと、素直な自分を、長いこと押し込めすぎてたみたい。 夜の病棟内は、怖いくらいに静かで、パジャマの衣擦れさえ、うるさく聞こえる。スリッパなんか履いていられない。私は素足になると、背を屈めて、ネコのように素早く歩き始めた。 幸い、夜勤の看護士さんたちは全員、ナースステーションに詰めていた。お陰で、私は見咎められることなく、3階にある雪華綺晶の病室まで辿り着けた。入り口のプレートで、室内の配置を確認――彼女のベッドは窓側の、向かって右。それぞれのベッドは、L字型のレールに掛けられたカーテンで仕切られている。耳をそばだてる……左右から聞こえてくるのは、規則ただしい寝息だけ。それでも、なるべく物音を立てないよう、慎重に足を運んだ。窓際のベッドの左からは、カーテン越しに、鼾が聞こえた。じゃあ、右のベッドは? と言えば、これが驚くほど静かだった。もう、眠っちゃったのかな。ついさっき別れたばかりなのに。ひょっとして、雪華綺晶って、かなり寝付きがいい? 「きらきー、起きてる?」囁いて、カーテンの端っこに人差し指だけ掛け、そぉ……っと開いてゆく。息を殺し、覗き込んだ先には――――誰もいない。空っぽのベッドに手を差し入れても、温もりは残ってなかった。病室は空調が効いていて、温度や湿度は一定に保たれている。この状況で、こんな短時間に、ベッドが冷えるワケがない。導かれる結論は、つまり、雪華綺晶は私と別れた後、ベッドに入ってないと言うこと。じゃあ、この夜更けに、彼女はどこへ? 着替えて、病院の外のコンビニまで、こっそり買い出しに行ったとか? 「まさか、ね。あり得ないわ」買い置きはあると言ってたし、やっぱり、病院のどこかに居るに違いない。もしかしたら――焦りにも似たウズウズ感が、私を突き動かす。窓に降ろされたブラインドの隙間に、ゆっくりと指を差し入れる。そして、刑事ドラマよろしく指先で僅かにこじ開け、外の様子を窺った。 「やっぱり」私の勘は当たっていた。雪華綺晶は、私たちの待ち合わせ場所だった木陰に、じっと立ち尽くしていた。月光を浴びた彼女は、夜闇の中で、仄かに白く輝いて見える。 まるで、幽霊みたい。思った途端、雪華綺晶が顔を上げた。まるで、私の思念に引かれたように、まっすぐ、この病室を見つめている。夜の暗い中で、しかも僅かな隙間にもかかわらず、窓越しに眼が合った。パッと破顔一笑した彼女は、優雅な仕種で、おいでおいでと手招きする。私が来ることを、予期してたの?それとも、不安で眠れず、散歩してたら、偶然この状況になった?分からない。でも、どうでもよかった。私は雪華綺晶に会うために、わざわざ来たんだもの。彼女が外にいるなら、私も外に行く。それだけのことよ。ブラインドから指を引き抜いて、私は速やかに病室を後にした。スリッパやサンダルは、病室に置いてきてしまったので、仕方なく素足のまま外に出た。直に触れるタイルやアスファルトは、ひんやりしてて、意外に気持ちがいい。いつもの木のところに行くと、雪華綺晶は芝生に座って、膝を抱えていた。 「こんな夜中に、なにしてるの?」訊ねたら、「貴女こそ」と。雪華綺晶は儚げな微笑みを浮かべて、傍らに立つ私を見上げる。青白い月影の下で、彼女の唇は、異様に紅く見えた。 「どうして、私の病室にいらしたのですか」 「それは……おやすみって、言ってなかったから」 「寂しかったから、じゃなくて?」 「有り体に言っちゃうと、そうかな」不思議なものよね。独り寝には慣れっこで、寂しいなんて思いもしなかったのに。いまでは、独りでいることを、嫌いになり始めている。 「隣、座ってもいい?」 「どうぞ」私は雪華綺晶の隣に腰を降ろして、ひっそりと寝静まる病棟を仰ぎ見た。更にその上には、ちらほらと星が瞬いている。そう言えば、ここのところ、あまり夜空を眺めてなかったなあ。なんだか、小学校の夏休みに、家族で軽井沢に旅行したことが思い出された。あの頃は、パパもママも、今よりずっと近くにいてくれた。私の心臓だって、まだ頻繁に発作を起こすこともなくて――パパは天体望遠鏡で、夏の星座を教えてくれたっけ。懐かしいな……とっても。 「星を見るのは、お好き?」雪華綺晶に訊ねられて、私は「ええ」と首を振った。 「正しくは、夜空を眺めているのが好き。 独りで、病室の窓を開け放して、じっと虚空を見つめているの。 そうしているとね、黒い天使が舞い降りてくる気がして」 「ソレって、悪魔と違いますの?」 「天使も悪魔も、すべては主観の問題よ。本質は、どっちでもないわ」 「……そうですわね」私たちは、また夜空に眼を向けた。いつになく静かな夜だ。街灯の明るさに寝惚けたカラスが、時折、かぁ……と啼くくらいで。病院の脇を走る国道からも、物音は響いてこない。昼間は車が数珠つなぎになるくらい、混雑するのにね。 「私の病気は――」静かすぎて、つい寝そうになった矢先、雪華綺晶の囁きが、私を起こした。「右の視神経に、腫瘍ができているんです。どうも転移性の腫瘍みたいで」 「転移性って、ガンじゃないの、それ?」 「詳しくは分かりませんけど。植物の種くらいの大きさで。 お医者さまの説明では、視神経は左右で交叉してますし、脳にも繋がってますから、 そちらへの影響を考えると、あまり強いお薬は使えないらしいんです」 「でも、放っておくことも、できないんでしょ?」 「ええ。放置すれば、いずれ左の視神経や下垂体、脳の他の部分にも腫瘍が転移して、 両眼の失明――最悪のパターンでは、脳への重篤な障害も考えられると」だから、手術で腫瘍を切除して、その後は定期的に効力の弱い薬を投与しながら、経過を診るとのことだった。それを、だいたい5年くらい続けるんだって。まるっきりガンの治療法と同じね。今なら、まだ右眼だけで被害を食い止められる。定期的な通院が必要にはなるけれど、元どおりの生活に戻れる。だったら、手術を受けるべきよね。 元どおりになることと、治ることは、必ずしも同じではないのです。私は、数日前に聞いた、雪華綺晶の言葉を思い出した。そっか。あれは、こういう意味だったのね。やっと解った。その後、巡回の看護士さんに見つかりそうになった私たちは、連れ立って病院の敷地に隣接する教会へと逃れた。誰にも邪魔されずに、夜明けまで喋っていたい気分だったから。教会には、新旧ふたつの礼拝堂がある。古い方はもう使われていなくて、近々、取り壊されるらしい。だから、近づく人は居ない。こんな夜中なら、尚のこと。そのせいか、扉は施錠もされていなかった。 「不用心ですわね。イタズラでもされたら、どうするのでしょう」 「いいんじゃない? どうせ壊すんだし、火事で焼けたら手間が省けるでしょ」 「また、不敬極まりないなコトを」祭具の類は、すべて新しい礼拝堂に移されたようで、がらんとしていた。礼拝堂だった名残を留めているのは、整然と並んだ机と……かつて十字架が掲げられてただろう祭壇の、大きなステンドグラスだけ。私たちは祭壇に歩み寄って、それを見上げた。 「見事なものよね。荘厳って感じで」 「本当に……きれいですわ」ステンドグラスには、天使が描かれている。ケルビムなのかな?私、クリスチャンじゃないから、よく知らないんだけど。 「ねえ、きらきー。あなた、空を飛びたいって思ったこと、ある?」藪から棒な質問だったにも拘わらず、雪華綺晶は驚いた風もなく。 「ありますよ。実際、飛んでいますし」 「え? ウソ!」逆に、私の方が驚かされていた。だいたい、実際に飛んでるってナニ? バンジージャンプか、なにか? 「実はね、私、趣味でパラモーターをしているんです」 「パラモーター?」 「エンジン付きパラグライダーですわ」 「あ! あの扇風機みたいなの背負って飛ぶ、あれのこと?」 「ええ。操作に慣れると、自由に空を飛べるので気持ちいいですわよ」大空を自由に飛んでいる光景を、思い浮かべてみる。もしかしたら、雪華綺晶と一緒に、空を飛べる日がくるかも知れないなぁって。そう思ってしまうと、あっさり死ぬのが惜しくなった。 「それって、私でも、すぐ飛べるようになる?」 「貴女は……いつ発作が起こるか分かりませんし。単独飛行は、すすめられませんわね」 「そんな死に方も、望むところだけど」 「ダメです! どうしても飛びたいのでしたら、私が連れていってあげますわ。 これでもライセンス持ちですから、タンデム飛行も、お手のモノですのよ」 「ホント?!」 「私が退院したら、めぐの体調がいい日に、外出許可をいただいてフライトしましょう」 「最高っ! 私ったらツイてるわ~」ずっと、蒼穹を眺めながら、空を飛びたいと願っていた。その夢は、ちょっと手を伸ばせば掴めそうなところに、確かにある。でも、なにかを得ようと思えば、必ず対価は求められるものだわ。私には、ナニがある? 対価として払えるものを、私は持っている?考えてみて、愕然とした。……なにもない。 「ゴメンね、雪華綺晶。私には、明日の手術、頑張ってとしか言えない。 あなたは私の夢を叶えてくれようとしているのに、私は、なにもしてあげられない」それが、ものすごく悔しかった。知らず知らずのうちに、涙が溢れてくる。私はただ、「ゴメンね」を繰り返すばかりで、結局、雪華綺晶を困らせている。なのに、彼女は、涙に濡れる私の頬を、柔らかな手つきで包み込んで―― 「では、勇気をください。それで契約しましょう」――と。意味を問い返す暇もなく、私の唇は、雪華綺晶の唇によって塞がれていた。それが、どれだけ続いたのか、憶えていない。ただ、アタマが真っ白になって。いつの間にか、涙さえ止まっていた。 「……んふ。めぐの唇、キャベツ太郎の味がしましたわ」 「なっ?! ば、バカ……」そりゃ確かに、病室でお喋りしながら食べてたわよ、キャベツ太郎。でもね、それを言ったら、雪華綺晶だって―― 「あなただって、ハートチップルの匂いがするじゃない! ニンニクくさっ!」 「うっ! それを言われると」 「あーもうっ。ムードもなにもブチ壊しよ」 「お菓子だけに、おかしな結末ですわね。お後がよろしいようで」 「……最悪」本当に、顔から火が出るくらい恥ずかしくて、人生で最悪の出来事だった。だけど、無かったことにするつもりも、なかった。私が死の間際に立たされたときには、きっと、いい思い出になっていると予感していたから。 ~ ~ ~そんなコトがあってから、およそ1ヶ月が過ぎた、ある日。私は、雪華綺晶の操るパラモーターで、夢にまで見た大空を飛んでいた。彼女の手術は、無事に済んでいた。右眼の視力を失ったものの、他への転移は、今のところ見られないと言う。そこで、私の体調を見ながら、主治医に外出許可をもらったの。不思議なことに、あれからの1ヶ月、私の体調は、すこぶる良かった。心境の変化が、病状を劇的に快復させることがあるって話を聞くけれど、まさか、そんなことが自分の身に起こるだなんて、思ってもみなかったわ。 病は気から。為せば成る……か。それにしても、なんて気持ちがいいんだろう。眼下にも、周囲にも、私を閉じこめるものは、なにもない。私は、雪華綺晶の耳元に顔を寄せて、モーターの音に負けないくらいの大声を出した。 「ありがとう、天使さん」私に向けられた彼女の瞳が、どういたしまして、と語りかけてくる。幸せだ。本当に、私の人生で最高の、至福の瞬間だった。夢が叶った。天使と共に、空を飛ぶ夢が。なんだか、ホッとしちゃった。もう、なにも思い残すことなんか……ない。無上の喜びに全身を包まれながら、私は――雪華綺晶の頬にキスをして、彼女の肩に、頭を預けた。そして、囁きかける。彼女に聞こえようと、聞こえまいと、どっちでもよかった。 「長かったわ、今日まで。本当に、長い長い闘病生活だった。 ちょっと、疲れちゃった」 「……めぐ?」雪華綺晶が呼びかけてくるけど、キニシナイ。私は、深く息を吸い込んで。 「もう……ゴールしても良いよね」大きく吐息すると、そのまま、瞼を閉ざした。 「めぐ? ……めぐ?」 「まさか…………そんな! こんなのウソよね? お願いですから、目を醒ましてっ! ねえっ! めぐっ!」 あまりに狼狽えた声を出すものだから、もう我慢の限界。私は笑いを堪えながら、目を開けた。 「――――なワケないじゃぁぁん」 「…………はぃ?」 雪華綺晶は、呆気にとられた様子で、すっかり涙目になっていた。もう少しだけ焦らしてたら、ホントに泣き出しちゃったかもね。それはそれで、見てみたかったけど……また次の機会のお楽しみってコトで。 「ビックリした? 私、けっこう死んだフリが巧いでしょ」 「ふ、ふは……ふひひひ」 ようやく、からかわれたと悟ったらしく。半泣きの顔に、引きつった笑みを浮かべて、雪華綺晶は安堵を滲ませる。そして、次の瞬間! 「もう貴女ゴールしちゃいなさいっ!」 彼女は般若のごとき形相で、私の頸を右手で鷲掴みにした。でも、そんなことをしたら―― 「ぐがが……ちょ、きら……操縦して……落ち」 「ふえ? あわわわっ?! き、きゃーっ!」 「いやぁーっ! 死んじゃうー!」 ――と、まあ九死に一生を得る体験もしたけれど。私は、ちゃんと生きている。たまに、雪華綺晶と一緒に、空も飛んでいる。やっぱり、天使が味方だと、死の方が逃げていくみたいね。 今日も、病室の窓から空を眺める。もうしないって決めてたけど、あれはウソ。 だって、ほら―― ここから見る世界には、パラモーターを操る天使が居るんだもの。 ~終~
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