『パステル』 -6-
その世界は、新たに創造されたのではなく、元々そこにあったのかも知れない。すべてを、ミルクのような濃い霧に、覆い隠されていただけで。 端麗、かつ鮮やかに彩色を施された、パステル画――開かれた、異世界への扉。それを見つめる真紅の顔には、驚きと戸惑いの色が、ありありと滲んでいた。 「これが、貴女から見た、いまの私?」「うい。ヒナが見て、感じたままの真紅なのよ」 見た目にも柔らかそうなソファに、深々と身を沈めた妙齢の乙女。精巧な金細工をおもわすブロンドは、肩のラインに沿って、滝のように流れ落ちている。たおやかに弓張り月を描いた、桜色の唇。僅かに開いた隙間の奥に見え隠れする、美しく並んだ白い歯。 スケッチブックの中の真紅は、少女のような眩しい笑みを浮かべていた。なんの悩みも迷いも感じさせない、無垢な微笑みを。それなのに、細められた瞼には、年を経た者に見る慈しみの光が満ち溢れている。 「どうしてかしらね……なんだか、不思議な気持ち」 その美麗な印象に、真紅はすっかり魅せられたらしい。唇を尖らせながら、スケッチブックを矯めつ眇めつしている。 「見ようによっては、泣き笑っているようだし…… 呆れているようにも、怒気を孕んでいるようでもある。面白いわ、とても」 まるで、能面ね。パステル画に目を落としたまま、真紅が呟いた。能面は、演じる者の技量にも依るが、見る角度によって多彩にその性格を変える。喩えとしては、言い得て妙だ。 「絵っていうのはね」雛苺の声に、真紅は顔を上げた。「鏡みたいなものなのよ。姿じゃなくて、見る人の感性を写す鏡なの。 きっと、真紅のココロは、とても深いところまで澄んでるのね。 この絵から、いろいろなものを感じたのなら――」 それは、とても貴重で、特別なエッセンスなのよ……と。真紅の蒼眸を見つめながら、雛苺は破顔した。無垢な笑みにつられて、真紅も口元を綻ばせる。 「貴女の指は、魔法の指ね。こんなに素敵な絵を、描けるんですもの」「そんな……ヒナなんか、全然たいしたコトないのよ~」「謙虚ね。でも、気をつけなさい。過ぎた謙遜は、嫌味になるわ」 言って、真紅は雛苺の右手へと、視線を下げた。 「きっと、誰もが、それぞれに魔法の指を持っているのだわ。 人はみんな、生まれながらの職人なのだから。 でもね……雛苺。誰もが、魔法の使いかたを知っているわけではないのよ。 魔法を習得するためには、気の遠くなるほどの時間を費やすか―― 貴女の言葉を借りれば、特別なエッセンスが必要だわ」 だからこそ、魔法を使える貴女は、もっと胸を張りなさい。優しくも力強い、真紅の示唆。雛苺は胸に手を当てると、深く息を吐いた。 「解ったのよ、真紅。でも、よかった……真紅が、この絵を気に入ってくれて。 実は、ちょっと気懸かりだったの」「なあに? まさか、この絵は失敗作とか言うんじゃないでしょうね」「そうじゃないけど……えぇと」 口ごもった雛苺のココロに、真紅の凛とした声が谺する。胸を張りなさい、と。彼女はショートカットの金髪を揺らし、決然と顔を上げた。 「ヒナ、謝らなきゃいけないの。真紅との約束、破っちゃったから」 深々と頭を下げられて、真紅は困惑した。約束って、なんだったかしら?描くにあたり、腕が確かならばと条件はつけた。それは憶えている。スケッチブックに描かれたパステル画は、実際、素人目にも見事な出来映えだ。 それなのに……いったい、なにに対して、この娘は謝っているのだろう。真紅が訊ねると、雛苺は申し訳なさそうに、口を開いた。 「その絵は、ありのままの真紅を描いてないのよ。 ヒナの望みが、ちょっとだけ投影されちゃってるなの」「貴女の、望み?」「うい。ヒナはね、いつでも――真紅には、この絵のように笑ってて欲しいの。 ううん……真紅だけじゃなくて、ヒナのお友だち、みんなに。 だって、そのほうが、みんな幸せな気持ちになれるもん」 身振りや手振りなど、コミュニケーションの仕方は、いろいろだ。わけても、表情の動きは、時に言葉より雄弁だったりする。そばで誰かが顰めっ面をしていたら、息苦しく思うだろうし、不快にもなろう。 もし、この絵のように、穏やかな笑顔を浮かべながら生きていたら……水銀燈も、帰ってきてくれるのかしら。ふと、真紅は、そんな詮ないことを思った。 「貴女は違うと言うけれど、私にとって、この絵は紛れもなく、ありのままの私だわ。 よかったら、これ……譲っていただけない?」 もしかしたら、また「ふざけないで」と、罵声を浴びることになるかも。そんな雛苺の心配は、杞憂にすぎなかった。真紅の申し出に、雛苺は一点の翳りもない笑顔で、こくん……と頷く。 「もちろんなの! 真紅のために、ヒナは描いたんだもの」「嬉しいわ。早速、額縁に入れて、この部屋に飾らせてもらうわね」 言って、頬を弛めた真紅の面立ちは――ただの偶然なのだろうが、パステル画の中の微笑そのものだった。 「ところで、貴女。おなか、すいてない?」 問われて、そう言えば……と、雛苺は時間というものを思い出した。描くことに集中するあまり、すっかり忘れていたが、時計の針はもう、午後2時を回っていた。 「あうぅ……すいたの~」「私もよ。よかったら、これから一緒に、食べに行きましょうか? さっき話したでしょう。直営の喫茶店があるって」「お食事もできるの?」「軽食だけれど、用意できるわ。焼きたてのワッフルも、なかなか好評よ」 3度の食事も大切だが、雛苺の食欲は、甘味のほうに大きく傾いた。やはり女の子は、いくつになっても甘いものが好きなのだ。雛苺は、グッと握った拳を、宙に突き上げた。 「行く行く――っ!」「ふふ……。それじゃあ、案内するわ」 ~ ~ ~ 真紅に連れられ、訪れた喫茶店は、ログハウス風の小粋な店だった。駐車場も広くとってあり、意外に本格的な経営をしているようだ。ドアの上に掲げられた看板には、ちょこんと座ったネコが描かれており、その下に、店名とおぼしい『ジョナサン』の白文字が、躍るようにあしらわれている。 「うよー。すっごくお洒落な感じなのよ。駐車場も満車だし、大盛況なのね。 でも……どこかで聞いた気がするお店の名前なのー」「気にしたら負けよ、雛苺。さ、入りましょう。週末だから、すぐには座れないかもね」 ドアを開けるなり、店内から「いらっしゃいませかしらー!」と、元気のよい、ハキハキした女の子の声が迎えてくれた。レジの向こうから、カウボーイを連想させるラフな服装の娘が、歩み出てくる。真紅がなにも言わないところを見ると、どうやら、これが店の制服らしい。 「なぁんだ、真紅かしらー」「お客に向かって『なんだ』は無いでしょう。まったく、貴女という娘は――」「へへえ~。ごめんなさいかしら、社長さぁ~ん」「いい加減になさい」 しなを作って戯ける娘に、真紅がバチッ! と、デコピンをお見舞いした。面食らっている雛苺に気づいて、店員の娘が額をさすりながら、にこやかに話しかけてきた。 「……ぁ痛たたぁ。とまあ、冗談は、このくらいにしておいて。 いらっしゃい。あなた、真紅のお友だちかしらー?」「う、うぃ。雛苺なの」「そう。私は金糸雀よ。カナって呼んでくれていいかしらー。 それじゃあ2名様、テーブル席にご案内するわ。こちらへ、どうぞー」 雛苺は歩きながら、横目に店内の様子を観察して、その賑わいぶりに改めて感心した。カウンターやテーブルなどの調度品には、細やかな気配りが見て取れる。BGMにカントリー系のポップスが流され、実に気どりのない雰囲気だ。カウボーイ風の制服も、そのムードに巧く溶け込んでいる。悪くない。 窓辺のテーブルに着いて、雛苺たちは、今日の『イチ押し!』メニューを注文した。オーダーを取った金糸雀が、威勢よく厨房に声を掛けている。 「マスター! 『イチ押し』ツー、追加かしらー」「はいはーい。あー忙しい忙しいっ」 それに応えるように、奥から調理人の格好をした金髪の女の子が、顔を出した。雛苺と同じくらいのショートカットで、目元もパッチリとしていて……快活という表現より、勝ち気と言ったほうがピッタリな印象だ。彼女は、別の席のオーダーだろうケーキセットの皿を、金糸雀に突き出した。 「とんだ重労働だわ。お給料2倍にしてもらうよう、真紅に掛け合わなきゃ」「それなら、丁度いいかしら。いま来てるわよ、ほら」「えっ、ウソ? どこ?」 マスターと呼ばれた娘が、ギョッとした顔で、雛苺たちのほうを見る。しして、にこやかに手を振る真紅と目が合った途端、彼女は青ざめ、引きつった笑みを浮かべながら、厨房へと引っ込んでしまった。 「やれやれ。あの子たちにも、困ったものね」 と、真紅が小さく吐息する。なんとも、アットホームなことだ。それも、この店の人気を支えている要素なのかも知れない。 「みんな、真紅のことを名前で呼ぶのね。お友だちみたいに」「小さな会社だもの。堅苦しい肩書きで呼ぶ必要はないと、私が言ってるのよ。 実際、プライベートでは、お友だちだし」 真紅の話では、この店を任せている娘――サラも、古い友人だという。ジョナサンという店名は、彼女の飼い猫から取ったのだとか。 言って、真紅は「ネコだなんて、ゾッとしないわ」と、大仰に身震いする。あんなに可愛いの動物を、どうして嫌うのだろう。訊ねようとした雛苺に先んじて、 「真紅は子供の頃、ネコにひどい目に遭わされたんですって」 雛苺たちのオーダーを運んできた金糸雀が、口を挟んだ。 「それ以来、トラウマになっちゃってるかしら。おっかしいわよねー」「うるさいわね。金糸雀だって、カラスが苦手でしょうに」「あはは……まあ、ソレはそれ。 ところで、雛苺。あなた、真紅とどういう間柄なのかしら?」 従業員が少ないと、互いに顔見知り。友好関係も、おのずと重なってくるものなのだろう。金糸雀やサラにとっては、真紅の友人というだけでも、興味の対象となるようだ。 さて、なんと説明したらよいものか。まごまごする雛苺に代わって、真紅が口を開いた。 「雛苺とは、今朝、知り合ったのよ。絵を描くために、旅をしているんですって」「へぇ~。さすらいの絵描きさんなんて、かっこいいかしら」「ちゃ……そんな大それたものじゃないのっ。ヒナは、ただの美大生なのよ」「でも、腕は確かだわ。私も、一枚、描いてもらったのよ」「そうなんだー。だったら、この店に飾る絵も、描いてくれないかしら? 茶畑の風景とか、きっと、内装のいいアクセントになるかしらー」「あら。貴女にしては、いいアイディアなのだわ」 雛苺の意志をよそに、トントン拍子に話が進んでいる。はたして、どこまでが本心なのだろう。これは冗談の範疇なのだろうか。付き合いの浅い雛苺には、どちらとも判断がつかない。 「茶畑って……真紅が言ってた、山の中腹の?」「ええ、そうよ。双子の姉妹が、管理主任を務めてるかしら。 姉のほうが口喧しくって、無断で茶畑に入ろうものならウルサイのなんのって。 真紅から、あの娘たちに話しといてくれれば、文句の出ようもないかしら」 嬉々として喋る金糸雀の様子は、どうやら本気モードらしい。サラに呼ばれ、厨房に引き上げる際にも、頼んだかしら~! とウインクを飛ばしてきた。 「ふぅ……。さ、やっと静かになったし、食べるとしましょう」 今日のイチ押しだと言う特大ホットケーキを前にして、真紅が言う。「冷めてしまったら、美味しさも半減だもの」 言われるまでもない。雛苺は、すごい勢いでパクつき、紅茶で流し込んでいく。――が、千手観音のごとく動いていた彼女の手は、不意に止まる。 「ねえ、真紅。お茶畑の絵を描くのって、今日じゃなきゃ……ダメなの?」 心配そうな目をする雛苺に、真紅は「あら?」と澄ました笑みを返した。「本当に描いてくれるの? 冗談だったのだけれど」 その割には、随分とノリノリで、金糸雀と相談していなかったか……。どうにも会話の調子を狂わされて、雛苺は軽い頭痛を覚えた。 「描くのは構わないのよ。でも、今からだと遅くなっちゃうなの」「でしょうね。きっと、描いている途中で、日が暮れてしまうのだわ。 それに、あの子たちにも、見学に行くと伝えておかないと」 「――と言うわけで、雛苺」真紅は、さも当然と言わんばかりに切り出す。「今夜、うちに泊まりなさい。茶畑には、明日、案内させるわ」 また、随分と自分本位な話だ。押しの強い性格と表現してもいい。おそらく、真紅は幼少の頃から、気高くあるようにと厳しく育てられたのだろう。容姿端麗。才色兼備。品行方正。そういった四字熟語に、ピタリと当てはまるような、模範的な淑女として。 だから、弱者である水銀燈を庇うことは、彼女にとって当然のことだったし、完璧であり続けることが、揺るぎない自信を支える原動力でもあったのだ。 ――そして、生まれて初めて味わった、欠落という名の屈辱。不完全であることへの恥じらいと、挫折。いままで築き上げた価値観が、砂上の楼閣だったと思い知らされた、虚無。そのショックたるや、限りなく絶望に近いものがあっただろう。 だが、たとえ大きな変化の波に洗われようとも、性格は、そう簡単に変わらない。三つ子の魂、百まで――とは、よく言ったものだ。 「それじゃ、お言葉に甘えて、泊めてもらうのよ」 雛苺としては、固辞する理由などなかった。元々、泊まることも想定していたから、着替えも用意してある。 それに、真紅の話を聞いて、茶畑にも興味を惹かれていた。真紅と水銀燈が、額に汗して拓いたという、その風景に。彼女たちの情熱の結晶を見ずして帰るのは、なんとも惜しい気がしたのだ。 ~ ~ ~ 2人は夜食も、喫茶店『ジョナサン』で済ませた。と言うより、雛苺が、すっかりこの店を気に入っていた。 料理の質は、悪くない。注文してからの待ち時間も、まあまあ早いほうだ。元気のいいウエイトレスや、勝ち気な調理人も、個性的で魅力がある。だからこそ、自然とリピーターが増えるのだろう。 「へー。雛苺、今夜は真紅の家に泊まるんだ? じゃあ、お店が引けたら、カナも遊びに行っちゃおうかしら。サラも、どう?」「あ、それ名案。ジョナサンも連れて、お邪魔しちゃおっと」「ちょっと! ネコはダメよ!」 真紅の反論も、どこ吹く風。この店を任されている2人の乙女は、すっかり遊ぶ気満々の様子だった。女の子は3人寄れば、かしましい。集まるのが、4人ともなれば―― その晩は、結局、飲み明かしの語り明かしで……。管理主任の双子姉妹が訪れたときには、4人とも折り重なって眠りこけていたそうな。 -to be continued-
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