微熱乙女
微熱、微熱、これは微熱。私はいつもよりいくらか赤く、いくらか熱い頬に手を当てて鏡の中に映る間抜け顔の自分を見ていた。あえて熱をはかるようなことはしない。そんなことをして、もし少しでも高い温度と認められようものなら母親は決して私の今日の外出を認めたりはしないだろう。微熱だ、こんなもの…ただの微熱なんだ。と再度自分に言い聞かせて私はすっくと立ち上がり、壁に掛けられたカレンダーを見つめる。らしくないハートで飾られた今日の日付。文字には書かれていなくても、誰が見たって特別な日だとわかるその日にどうやら私は体調を崩してしまったらしかった。朝から顔がほてったように熱く、心臓もうるさいくらいに高鳴っているし指先は微かに奮え、なんだか思考もうまくまわらない。素人判断ながら、これは風邪に間違いない。 「行かなきゃぁ、ジュンが待ってるわぁ…」と呟きながら部屋を出て母親に気付かれないよう玄関まで。顔を見られれば風邪と見透かされてしまう可能性があるからだ。でも玄関までくればもう大丈夫「行ってくるわぁ」とキッチンに声を掛けるとパタパタと駆け寄る足音。予定通りだ、気付かれっこない。あとは背中を向けて会話するだけでいいのだから。しかし、手早くブーツのひもを結びながら待ち構えている私に、予想外の言葉が母親から投げ掛けられてきた。「今日はデートね?うらやましいわぁ」どうしてわかったんだと、とっさに振り返るも言葉が出てこない。それでも私の言いたいことを察したらしい母親は「昨日遅くまで服選びしてたもんねぇ…」「あっ、その服とっても可愛いわよ」「耳まで赤くしちゃって」「初々しいわねぇ」 なんて早口でまくしたてるものだから。私はすぐさま立ち上がると叫ぶように言葉を吐きちらした。「風邪ひいただけよぉ!」「誰が、ジュンなんかとでででデートなんかぁ!」「急に変なこと言わないでくれるぅ!」「も、もう行ってくるわぁ」バタンと勢いよく扉を閉めて私は逃げるように足早に門をくぐった。やってしまった。よもやジュンの名前まで出してしまうとは。最後に見た母親のニヤついた顔を思い出して私は沸騰しそうになる。そしてようやく気付いた。私は風邪じゃない。初デートというイベントを前にして、緊張と不安、興奮と喜びを一気に集めたものだから心がパンクしてしまっていただけだったのだろう。 「微熱のせいよぉ」速歩きで駅を目指す。「ジュンのせいよぉ」八つ当たりの独り言。「ジュンにもうつしてやるわぁ」弾むような呼吸が前方の空気を白く染める。「きっと簡単よぉ。」駅前にはもうすでにジュンの姿がある。「手を握るだけで私の微熱は…」見えてきた彼の顔もまた、もうすでにあかい。「伝わるはずだものぉ」今日はじめて笑みがこぼれたのを感じて、私の微熱は少しだけあたたかさを増した。
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