薔薇乙女家族番外編 その八
薔薇乙女家族番外編その八~時計塔屋敷~梯子は長く闇へ続いている。儀式の部屋の光も既に届かない。梯子を掴む手も見えない。「屋敷の下にこんな空間があるだなんて…」と思ったが、数々の奇怪な部屋に、奇怪な現象を目にしてきたのもあってさほど大きな衝撃もない。それよりも、この先に潜んでいる存在の事に、未だに見つからない娘達の事が気掛かりだ。 娘達はこの先まで進んだとは考えられないが、この洞窟の果てに手掛かりくらいは手に入れられないかという根拠の無い希望を当てにするしかなかった。屋敷を歩き回って影も見られなかったのだから不確定要素を根拠にする他無い。 しかしそれを考えると、水銀燈や蒼星石もあれから姿を見ていない。いくら何でも不自然だという危惧はまさに、この先に彼女らが待ち構えているのではないかと予感している。 だが、どちらにしても立ち止まれないし、今更引き返しても仕方がない。パーキングやリターンという選択肢は無いのだ。長い梯子がようやく地に着いたみたいだ。闇の霧に阻まれて何も見えないから携帯の照明を使う。空気がひんやりとしてて肌寒い。「すごい空洞だな。何故こんなものを…」声が反響する。照明を回してみてもやはり広い空洞だというのが分かる。灯りを頼りに前へ進もうと歩を動かそうとした時だった。「ようこそ、闇の深淵へ」その声に神経を途端にビクつかせ、照明を遠くへ向けるとタキシードを着た……ウサギが立っていた。長い耳に二本の前歯、つぶらな瞳にモサモサと体毛に包まれてる顔。間違いなくウサギの面だ。そのウサギがシルクハットにタキシードにステッキまで持って二本足で立っている。ここまで来ていよいよ化け物が出てきたみたいだ。 「…お前は?」明らかに腰が引けていたが、声だけは強気に振る舞った。「そんなに警戒なさらなくても結構。私は彼女とは無関係ですので」何だか色々知ってそうな口振りだ。全てを見通している様な目でこちらを見つめてくる。「お前は一体誰なんだ?」もう一度尋ねる。彼はまた思わせぶりな言い回しをする。「私はただ、時の最果て、或いは始まりから全てを見つめる兎。それだけです」言っている意味が分からない。一体何なんだ…。「分からないはずはありませんぞ。私はあなた達人間の思考から生まれた存在。あなた達が私を生んだのですから」僕の表情を読んだのかどうかは知らないが、兎はまた分からない事を言い出している。「では…これで如何でしょう。私は最初は知性と呼ばれていた存在でした。ですが後にある人間が私に名前を下さったのです。それがお分かりですかな?」聞いた事ある話だ。それを生み出した人が最初は知性と呼称し、後に別の人間がそれにある名称を与え、世に広まった。だが僕の知るその話は、神話や小説の様な物語の話ではない。 「まるで、「ラプラスの悪魔」みたいな奴だな」兎がそれを聞いて目元に笑みを浮かべた様な気がした。否定する事もしない所を見ると、正解と考えて良いのだろうか…もうここまで来るとコメントにも困る。ラプラスの悪魔…ラプラスの魔、ラプラスの魔物とも呼ばれるそれはピエール…なんとかラプラス(ピエール=シモン・ラプラスだったかな)が言い出した理論の権化みたいなもんだ。 この世の物質を構成している分子…要するに、物質を形作っている物質がどこに、どの様に配置されているか。又、その運動量、一体どの様な法則で運動をするのか…の全てを瞬間に理解できる知性があれば、従来の物理学とそれを照らし合わせていく事ができる。 すなわち、一つの物質の未来を予想する事ができるだろうと言うものだ。その「物質」を拡大させていけば、ひいては世界の未来を計算するという事にもなる。物理学を活かした大予言となるわけだ。しかし、その「物質を構成する物質」の運動は不規則なものだ。おまけに未来を予測すると言ったって、物質の運動量等のデータを果たしてどこまで合理的に計算できるのかという疑問が打ち出された。 この世の物質は全てが確率という物でできており、道は些細な事から大きな事まで、幾万と存在する。そして全ての道(例えそれが、一見考えられない道であっても)に確率があり、全てに可能性がある。各パターン別に計算しても、答えがバラバラになって答えに結びつかない。 結果、ラプラスの悪魔でも未来を見通す事はできないというのが物理学においての結論となった…とだけは聞いているが。…未来を見通す化け物。そのラプラスの悪魔が目の前の兎だというのか。「…で、そのラプラスの悪魔が僕に何か用か?」先を急いでいるんだがと付け加える。奴は言った。「私はこの世の幾つもの始まりと、幾つもの終わり…すなわち、幾つもの物語を目にしておりますがこの物語はそうそう無い。非常に興味深いものです」…何を言いたいんだ。「私はこの物語をもう少し見ていたいと思いましてね。普段は外野にいるのを内野へと参上した次第です」「…内野に来て一体何をしたい?」クックックと含み笑いしている。いちいちムカつく奴だな。「お前に付き合っている程の余裕は無いんだ。先に通してくれ」奴は素直に道を示してくれた。軽く指弾きしたと思ったら、壁にあったらしい松明が一斉に燃え上がった。奴の脇を通り抜け、その区画を走り抜けようとした時、声が耳元に入り込んできた。「くれぐれもお気をつけて。深き闇に喰われる事無き様に…」返事も返さずにそのままそこを駆け抜けた。松明の灯りは大きな空洞の壁にできた横穴の中にまで続いている。それらの灯りを頼りにただ直進する。床はやはり岩盤を荒削りしたものらしく、多少足を取られる事もあるが構わずに走る。天井から水滴が滴り落ちる。それが頭や鼻筋辺りに落ちてヒヤリとさせられる。不安を煽られるが身に鞭を入れる。立ち止まらない。しばらくすると、その横穴の果てにたどり着いた。一見行き止まりだが、またさらに横穴があり、そこから先へと進めるみたいだ。だが、行き止まりにやたら火の灯りが集中しているのが気になる。 少しそれに近づいて見ると、そこには大きな窪みがあり、周りにろうそくが立てられているのが分かった。これが火の正体か。しかしこんな窪み、一体何でこんな所に…。何気なく覗き込んでみて、そして僕は凍った。「……ぁ…ぁぁあ…」僕の一番見たくないものがあった。「…真…紅……」ろうそくに囲まれて、全身血まみれになって横たわる真紅がそこにいた。「真紅!真紅!」一気に涙が溢れてきた。窪みに身を投げ入れて彼女を両手に抱きかかえる。「真紅!……真紅!!真紅!!」あたたかい彼女の体は完全に冷たくなっていた。彼女は普段はクールを装っているがその実、大層な甘えん坊だった。二人きりになった時は抱っこをねだったりしてきた。抱っこは卒業じゃないかと言っても、それでもねだってきたので根負けして、彼女を両手でしっかりと抱き上げてやった。その時の彼女は嬉しそうに笑ってくれていた。 普段両手に感じていた温もり。それが今では温もりどころか血の冷たさしか感じられないなんて…。僕の涙が彼女の頬を濡らした。「真紅…痛かっただろう…辛かっただろう…怖かっただろう…」彼女を優しく抱きしめる。「ごめんよ…真紅…ごめんよ…」綺麗な彼女の金髪も、ドス黒い紅に染まっていてガサガサになっていた。彼女の綺麗な顔にも血を塗られた上で埃だらけ、口元には凝固した血の塊が転がっている。できるだけ彼女の顔を綺麗にしてあげよう。物が無いからあまりいいものではないが、ハンカチで顔を吹いて土埃だけでも落としてやる。お世辞にも綺麗になったとはいえないが、真紅をまたそこに寝かしつけ、右手を取った。「真紅…父さんに力を貸してくれ…」真紅の右手にある指輪を抜き取る。自分の指にははまらないから、上着の胸ポケットにそれを入れる。彼女の誕生日プレゼントに買ってあげた指輪…流石に(アクセサリーの相場で言えば)安物ではあったが、真紅は喜んでくれた。それがこんな形で僕の元に戻ってきた。目をつぶって涙を堪えるが、抑えられない。まだ涙に潤む眼のまま彼女に頬に軽く口付けをし、立ち上がった。「…真紅…必ず迎えに来るからな…少しだけ待っていてくれ…」どんなに冷たくなっても愛する娘だ。「行ってくるぞ」と父親の背中を彼女に見せる。胸に娘の思い出を噛み締めて、さらなる暗闇へと進む。女の子の笑い声がうっすら響く、洞穴の奥へと…。
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