第九話 『キヲク』
――明けて、1933年。1月の冷えた空気は、音をよく響かせる。広い室内に、四つの音が余韻を引いた。悲痛な声は短く、物の砕ける音は長く――柱時計の振り子と、ミストラルと呼ばれる季節風に揺れる窓の音が、それらを包み込む。雪華綺晶が、己が主である少女の部屋を、掃除しているときのコトだった。いつものように、サロンから聞こえるピアノの旋律に聴き入るあまり、つい―― 「あぁ……どうしましょう……」 コリンヌが大切にしている人形を清掃中、うっかり、床に落としてしまったのだ。18世紀ごろの著名な錬金術師の手によるモノらしく、その造形は精巧の極致。眩い銀色の髪に、寂しげな目元、なめらかな光沢を放つ肌の質感……そして、黒い翼。逆十字をあしらった黒いドレスと相俟って、なんともデカダンな美しさを醸している。無垢な幼女のようで、完熟した妖女にも見える面差しは、畏怖の念すら抱かせた。 だが、いま床に投げ出された人形の身体は、有り得ないカタチに折れ曲がっている。落下の衝撃で、ビスク製の胴体部分が、割れてしまったようだ。雪華綺晶が、震える手で人形の上半身を持ち上げると、がしゃり――パーツを繋いでいたゴム紐が切れて、腰から下が、細かい破片と共に床へと抜け落ちた。 本当に、どうしたらいいのか。とても素人の手に負える代物ではない。兎にも角にも、修理なんて証拠隠滅の手段を考えるより先に、コリンヌに謝らなければ。壊してしまった人形を胸に抱いて、雪華綺晶は重い脚を引きずり、サロンを訪れた。 「まあ!」ひたすら平謝りする雪華綺晶の手から、人形を奪い取ったコリンヌは、目に涙を溜めて、唇を震わせた。「そんな……二葉さんに戴いた、お人形が――」 第九話 『キヲク』 もし、大好きな人からプレゼントされた、大切な品を壊されてしまったら――雪華綺晶は唇をキュッと噛んで、無意識の内に、胸元のペンダントを握り締めた。 悲しいに決まっている。代わりの物が用意できようと、できまいと。たとえ修理しても、本人にとって、その価値は著しく失われてしまうのだから。見た目は元どおり。だけど、それは最早、からっぽの器……。たくさんの思い出が詰まっていた宝箱では、もうないのだ。 「ごめんなさい……ごめんなさい……」 人形を抱いて啜り泣くコリンヌを前に、雪華綺晶はただただ俯いて、壊れた蓄音機のように、謝罪の言葉を繰り返すことしか出来なかった。いっそ、思いっ切り強く、頬を引っ叩いてもらえたら――百万の罵詈雑言を、コリンヌが容赦なく浴びせてくれたのなら――ある意味、まだ救われたかも知れない。完全悪として、裁かれるのであれば。 けれど、コリンヌはさめざめと泣き濡れるだけだった。一言たりとも、雪華綺晶を責めようとはしなかった。なぜ? 過ちは人の常、許すは神の業……とでも?痛罵されないことで、雪華綺晶の忸怩たる想いは胸につっかえたまま、フラストレーションを溜め込み、際限なく膨張してゆく。無言が続けば続くほど、内側から圧迫される胸の痛みも増して、雪華綺晶は苦悶に喘いだ。 かちゃり。ドアノブが回され、雛苺が不安そうな顔を覗かせたのは、いたたまれなくなった雪華綺晶が、今まさに逃げだそうとした矢先だった。 「コリンヌお嬢様……どうしたの? なにか、あったの?」察しの良い娘だ。ピアノの演奏が不自然に止んだので、心配になったのだろう。 彼女の登場によって、浮いていた雪華綺晶の踵は、再び床を踏みしめた。逃げだす機会を逸したからではない。雛苺なら助けてくれると、思ったからだ。今の雪華綺晶は、コリンヌを宥め慰める言葉を、持っていなかった。もし持っていたとしても、それを口にすることなど出来はしなかっただろう。――でも、長く住み込みで奉公してきた雛苺ならば、或いは……。 雛苺は、ことこと靴を鳴らして、泣き崩れているコリンヌの元へと歩み寄った。そして、彼女の腕に抱かれた人形に気づくと、口元に手を当てて息を呑んだ。 「お人形さんが……壊れちゃったのね?」「ごっ、ごめんなさいっ! 私の過失で――」「……うぃ」 もはや条件反射的に謝る雪華綺晶に、雛苺は『任せて』と言わんばかりに頷くと、コリンヌの隣りに屈み込んで、彼女の背中を撫でながら囁きかけた。 「そんなに悲しまないで。お嬢様が泣いてたら、きらきーも、ヒナも、 お人形さんだって、とっても哀しくなっちゃうのよ?」「雛…………苺」「それにね、このままじゃ、その子も可哀相なの。 壊れたところから、大切な思い出が流れだしちゃうのよ」「……でも…………このお人形は――」「解ってるの。このビスクドールは、もう作られてないのよね? ちゃんと修理できる職人さんは、もう居ないかも知れない――って」 それは、コリンヌの誕生日にプレゼントを手渡すとき、二葉が語っていたことだ。この人形を、懇意にしているアンティークドールショップで偶然にも見つけた彼は、店主に頼み込んで譲り受けた――とのコトだった。どれだけ大枚をはたいたかは、一度として口にしなかったけれど。 まあ、とにかく。修復できるものなら、いくら払ってでも、元どおりにしたい。本音を滲ます眼差しのコリンヌに、雛苺は「へへー」と、自信ありげに笑いかけた。 「実は、ヒナねぇ~……すっごい人形師さんを知ってるのよー。 その人なら、きっと直してくれるのっ。さ、ヒナにその子を預けて」 いつもなら、この軽いノリと根拠に乏しい自信に、不安をもよおしていただろう。しかし、現状では雛苺に従ってみるより他ない。コリンヌはハンカチで目元を拭うと、愛娘を託すように、そっと人形を差し出した。 ~ ~ ~ 鄙びた田園風景の中を、山に向かって風のように走り抜ける、一台の自転車。額に汗を滲ませながらペダルを漕ぐのは、髪をポニーテールに束ねた雪華綺晶。その後ろには、人形を納めた鞄を抱えた雛苺が座って、時折、指示を出している。 「ねえ、雛苺さん。貴女どうして、その職人さんを知っていましたの?」 雪華綺晶の、至極もっともな疑問を受けて、雛苺は照れ笑いを浮かべた。なんでも子供の時分に、やはり貴重な人形を壊してしまったことが、あったそうだ。その際に修理を依頼したのが、これから会う人物なのだと言う。 「ホントかウソか、ヒナには解らないんだけど…… 山奥に隠棲してるその人はね、とある秘密結社のメンバーだって噂されてるのよ」 随分とオカルトめいた話だが、あのビスクドールを修理するには、そういった分野の知識も必要かも知れない。何しろ、普通の人形ではないのだから。 流れゆく景色を、なにげなく眺めていた雪華綺晶は、ふと――「あら?」郷愁めいた感情に、胸の奥が騒ぐのを感じた。私は、この風景をよく見ていた……そんな気がする、と。
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