きみは誰?
――Side真紅――高校初日、隣あった女子生徒が話し掛けてきた。「よろしくね、えぇと…」私の名前は長い。先程の自己紹介くらいじゃ覚えられないくらいに。「真紅よ、よろしくなのだわ」私はなんとか思い出そうと思考を巡らせる彼女に救いの手を差し延べる。「え?しん…く…さん?え?」しかし逆効果だったみたいだ。彼女は混乱し始めたよう。自己紹介したときの私の名前には真紅なんてどこにもなかったのだから当然なのかもしれない。「あだ名みたいなものなのだわ。そう呼んでちょうだい」ようやく納得したように彼女はにこりと笑って「よろしくね、真紅さん」と、言った。私はこちらこそと笑いかけて席を立つ。ちょうど講堂へ移動しようとしていたからである。自然と連れ立つように二人で教室を出ることとなった。改まっての自己紹介や他愛もない話をしながら歩く。少しばかり打ち解けてきたときに彼女から質問が投げ掛けられた。「真紅さんのあだ名の由来って何なの?」私は少し思案をしてから、やはり話さないことに決めた。知られたくないのではなく教えたくない感じ、といえば分かるだろうか?話したくてたまらないのだけど大切にしまっておきたい感じ、のほうが当たっているかもしれない。まぁとにかく私は『忘れてしまったのだわ』と、質問をはぐらかしてしまったのだった。 ――Sideジュン――腕を前にのばすようにして学生服の丈を確認した。ついこの間まで通っていた中学のそれと、なんら代わり映えのしない色やデザイン。新しさゆえの窮屈さや柔軟性のなさに辟易しながら自分の席につく。まわりを見渡すと、男子のそれとは違う女子の可愛らしい制服が目を潤してくれる。そして僕の目は教室のはしでぼんやりと外をみやる少女にいたってピタリと動きを留める。中学の見慣れた制服とはまた違う、その魅力的な姿を目にしながら僕は懐かしい情景を思い出していた。幼いころ、母さんの誕生日に届いた真っ赤な薔薇の花束。出張中の父さんからだった。僕はその綺麗な薔薇をずっと見つめていた。「これは薔薇よ。真紅の薔薇。とっても綺麗でしょう?」母さんが見とれたままに立ち尽くす僕にそう教えてくれた。その日から僕の周りに少しの変化が起こった。クレヨンの赤の減りが早くなったり、赤い画用紙の切れ端が部屋に散乱したり。戦隊もののリーダーにあこがれたり、赤い毛糸で作ってもらった手袋を喜んではめたりもした。しかしながら僕はいろんな赤に出会いながらも満たされない自分を感じていた。思えば、あの母さんの抱いていた真紅の薔薇、それを超える紅を僕は探し求めていたのだろう。そして幼い日の僕は、あの薔薇をも超える真紅の少女と出会うことになるのである。「きみは誰?」公園のブランコに微かに揺られる少女。彼女に引き寄せられるようにブランコにたどり着いた僕は、そう声をかけた。白い肌。金色の髪。青い瞳。赤い服。沢山の色を持つ彼女を見て幼い僕はあの日の薔薇を思い出していた。僕はその日まで赤いものが真紅なのだと思っていた。…間違いではないのだけれど。それでもまぁ僕はそれが間違いだとその時は思ったのだ。今、目の前にいる少女。彼女こそが真紅。白く、青く、金色で、赤に包まれた彼女。その全てをもって彼女が真紅なのだと思ったのだ。「………だわ」と、ゆっくり彼女は自分の名前を名乗った。だけど僕には彼女の名前を覚えることが出来なかった。10年付き合った今でも言い間違いそうになるほど長い彼女の名前を幼い頃の僕に間違うなというほうが無理な話なのだと思う。言いよどむ僕に淋しげな表情を浮かべる彼女。その表情の変化を見て焦った僕は、何を思ったのか彼女にこう言っていた。「真紅!きみは真紅!」急に大きな声を出した僕に驚くように彼女は顔をあげた。「なんなのだわ?」「名前…きみにぴったりなの…それが真紅」「…真紅ってどういう意味なの?」聞いたこともない単語なのだろう、彼女は恐る恐るそう聞いてきた。「うーんとね、とっても綺麗って意味だよ。」僕の口から自然とそんな言葉がこぼれて、彼女は顔を真っ赤にした。僕はさっきまでの淋しさが抜けてくれた彼女の顔がとっても綺麗だと思ったから、「やっぱりきみが真紅だ」と言って自然と笑みがこぼれた。――Side真紅――講堂で販売された真新しい教科書たちをどうにか教室に持ち帰り一息つく。体力を余計に奪った原因の一つである国語辞典をケースから取り出してパラパラとめくる。約束されたように開かれたページには真紅という文字がおどった。それは私のもう一つの名前。大切な人にもらった幸せな言葉。幼いあの日、泣いていた私。「きもちわりー」髪が金色で瞳が青。同じ国に生きる私を明確に異人と決定づけるその容姿を同年代の子供たちはそう表現した。「へんななまえー」誰ひとりとして覚えてくれない本当の私の名前。それは大好きなお父様につけてもらった大切な名前。だけど呼ばれない名前に意味などあるのだろうか。少しずつ自分の名前を嫌いになりかけていたそのときに、私は一人の少年と出会うことが出来た。「きみは誰?」独り淋しくブランコに揺られる私に見知らぬ少年が声をかけてきた。私は彼の瞳に嫌悪の無いのを確認し、おそるおそる自己紹介をした。彼はもしかしたら私の名前を呼んでくれるかもしれない。何十回目かもわからない淡い期待が胸に起こる。しかし少年もまた皆と同じ戸惑いの顔を見せ私の心は闇に落ちたように曇った。彼にもまた私は異人となった。私は誰にとっても気持ちの悪い他人なのだ、と。「きみは真紅!」そんな私の心に立ち込めた雲を晴らすかように、一陣の風のような言葉が起こった。意味を聞いたら「綺麗って意味」だと笑ったその少年に私は救われた。私が向けてほしかったのは珍しいものを見るような視線なんかじゃなく。この少年のような暖かい微笑みだった。次の日の保育園、いつものようにからかいにくる男の子に私は出したこともない大声で言う。「わたしは真紅なのだわ。そうおよびなさい!」世界はたったそれだけのことで一変した。みんなにとって私は名前もわからない異人ではなくなってくれたのだから。年長組さんになって少年が保育園に通い出すと、私は一番に話し掛け友達に、それからは彼のそばを離れなくなった。彼のことが大好きで、彼といるのがとても幸せで。彼のそばにいるのがとても暖かかった。10年が経ち、なかなか素直になれない今であってもその気持ちだけは変わっていない。そんなことを考えていると「真紅」と私をよぶ彼の声がした。彼に呼ばれると「綺麗」だと言われているようで少し照れる。そして誰に呼ばれるよりもうれしくなる。もういちど聞きたくて、私は聞こえないふりをした。「おい真紅」彼はもう一度そう呼んで私のすぐそばまでやって来た。私はようやく顔をあげる。「なんなのだわ?」「いや、もう帰ろうと思って…って何で国語辞典なんて広げてんだよ」と彼は私の机に視線をやってくすくすと笑いはじめた。そんな彼に私は指で『真紅』の文字をさして「ジュンに聞いた意味は載っていないのだわ」と悪戯な言葉をなげかける。案の定彼は真っ赤になって、あれはそのぅ、と少し言葉を失ってから「ぼ、僕にとってはそういう意味だからいいんだ」と、結構大胆な台詞を吐いたので面食らった。まるで対抗するようにそれなら私にとっても『真紅』には違う意味がある。私がそう言うと彼は意外そうな顔をして、聞かせてよと言った。私にとって『真紅』とは、大切なもの、大好きなもの、という意味だ。だから今はヒントだけしか彼には言えない。「私の意味なら、貴方が私にとって唯一…『真紅』なのだわ」これだけのヒントじゃ鈍感な彼にはわかりっこないだろう。「僕の意味ならきみだけが『真紅』なんだけどなぁ…」そう独り言のようにつぶやいて彼は私の『真紅』の意味を考えているようだ。私は彼の何気ないつぶやきにすっかり顔を紅潮させてしまい頭が沸騰寸前になる。そんな私に視線を戻した彼は「やっぱりきみが真紅だ」と、あの時と同じ微笑みで笑った。
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