1-1
1-1 放課後の校舎に、ひとり。黒板の上の時計は、午後5時を指そうとしている。高校2年生の少年――桜田ジュンは、3階の教室から外を眺めていた。まだ残暑の厳しい、9月中旬。開け放した窓から吹き込む風は、決して爽やかとは言えないまでも、かつてのようにダクダクと汗を噴き出させるものでもなかった。「今日は、いつになく夕陽が綺麗だな」校庭から流れてくる野球部のかけ声を、聞くとはなしに聴きながら、柄にもなく、センチメンタルな台詞を口にしてみる。薄くたなびく雲間に見え隠れしながら、真っ赤な太陽が沈んでゆく。「あと少し、か」――今日も退屈だったな。彼は胸の内で、傲慢な感想を呟いた。大した変化もなく、ただ平々凡々と過ぎてゆく日常。事態が急変したなら、きっと取り乱して、右往左往するだけだろうに――それでも、ジュンは刺激を求めていた。若い心が、なにかを渇望していた。だから、面白そうだと思えたら、どんなコトにも手を出してみたり……。しかしながら、今の今まで、彼の趣味が長続きしたことはなかった。熱しやすく冷めやすい性分ではない……ハズなのだが。いつからだろう。こんな風に、日々を退屈に感じ始めたのは。ちょっとだけ……本当に一瞬だけ記憶を辿って、ジュンは徐に吐息した。――くだらない。そんな一言が喉元まで浮かんできて、毎度の如く、彼をシラケさせた。思い出して、どうなる? それで、明日から刺激に満ちた毎日が始まるとでも?どうせ、平凡な今日の延長線上にしか、明日はないと言うのに。「そろそろ帰るか。いい加減、腹も減ってきたし」この時間ならば、姉“桜田のり”も部活を終えて、夕飯の支度をしだす頃だ。机の横に掛けたカバンに腕を伸ばし、椅子から腰を浮かせる。……だが、完全に膝を伸ばしきる前に、彼はピタリと動きを止めた。教室のドアが、遠慮がちに開かれたからだ。「なんだ…………お前か」ジュンは、不意に顔を見せた同級生の娘に、ぶっきらぼうな言葉をぶつけた。カチン! そんな音が聞こえるほど、あからさまに表情を強張らせる。これも、いつもどおりの反応。退屈だな、と……ジュンはまた溜息を漏らした。「なんだ、とは何ですか! ムカツク野郎ですぅ。 特別のお慈悲で、おめーの様子を見にきてやったというですのに」「……ったく。どっちがムカツクんだか」「きぃ――っ! 口の減らないヤツですねっ!」「そりゃ、お前のことだろ」なにを一人でヒステリックになっているのか。この娘は、いつもこうだ。呆れたと言わんばかりに切り返すと、彼女はズカズカと歩み寄ってくるが早いか、いきなりジュンの向こう臑を蹴っ飛ばした。「痛ってぇ! なにすんだよ、この性悪女っ!」「おめーが憎まれ口ばっか叩くからですぅ」再び椅子に腰を落としたジュンを、腕組みした彼女が、怖い顔で見おろしてくる。――ケンカ売ってんのは、お前の方だってば。そう言ってやりたかったのだが、夕陽を受けて輝く緋翠の瞳に気圧されて、ジュンは吐くはずだった悪態を、ぐいと呑み込んだ。「……で?」「ふえっ?」「いや、だからさ……僕の様子を見にきて、どうする気だったんだ」「あの……そ、それは――」彼女――翠星石は、むくれた顔を崩すなり、一転して悲しげに睫毛を伏せた。「おめー……じゃなくて、ジュンと…………ただ、話したかったですよ」「僕と? いつも、してるじゃんか。同級生なんだし」「あれは、その……まあ、そうですけどぉ。そうじゃなくて……ああ、もうっ! なんで解らねぇですか! 二人っきりで、話したかったですよ!」それで、いまになって教室に顔を見せたワケだ。何を語るつもりか知らないが、ジュンは机に頬杖ついて、翠星石を見上げた。――とりあえず、話してみろよ。ジュンの視線に促されて、翠星石は手近な机に腰を預けると、口を開いた。「最近、笑わなくなったです」「……誰が?」「おめー以外に、誰が居るです。いつも仏頂面で、どこ見てるのか判らなくて」「この顔は生まれつきだし。それに、どこ見てようが僕の勝手だろ」翠星石は、また憂鬱そうに溜息を漏らして、顔を顰めた。その、哀れんでいるかのような素振りに、ジュンは苛立ちを覚えた。「そんなに、いまの生活が面白くねぇですか?」「どっちかって言えば、つまらないね。大概のことは飽きるし」「私たちと、一緒にいることにも?」「……かもな。いつ、とは断言できないけどさ」あくまで素っ気ない受け答え。翠星石は、壁にボールを投げている気分だった。投げたボールは、壁に当たって、予想どおりの地点に跳ね返ってくる。ああ言えば、ジュンはきっと、こう答える。翠星石には、それが手に取るように解っていた。だから、確信があった。彼は、私の誘いに乗ってくるだろう……と。「おめーは少し、ココロの修養に努めるべきです」「なんだ、いきなり? 新手の宗教の勧誘か? それとも、僕に、禅寺にでも籠もってこいとでも言うのかよ」「違ぇです。夢の中で、人間的に成長してこいってコトですぅ」「……? すまん、よく解らないんだが」即座に訊き返してくる。興味がないなら、端っから聞き流しているだろう。よしよし乗ってきた。翠星石は、ここぞとばかりに本題を切り出した。「いいですか。おめーは、いまのままじゃ、ダメ人間になっちまうですよ。 そう遠くない将来、七輪と練炭とガムテープに荷造り紐を買う羽目に――」「おい……なんか、暗に酷いこと言ってないか?」「黙っとれです」翠星石は、ピシャリとジュンの言葉を遮って、得意げに人差し指を立てた。「だ・か・らぁ。この私が、おめーのココロの成長を、手助けしてやるですぅ」「なんだそれ? 恩着せがましいな、おい」「遠慮しなくたっていいですよ?」「してないし。頼む気もないね」放っておいたら、勝手にトチ狂って、鬱陶しいことになりそうだ。ジュンは面倒くさいなと辟易しながら、はっきり言ってやることにした。「僕のココロを成長させるだって? は! なんだよ、それ。 お前に、なにができるんだよ。同い年の、親離れしてない子供同士じゃないか」初めこそ穏やかだったが、彼の声は次第に熱を帯び、大きくなっていた。どうにも満たされない憤懣が、暴力的な言葉となって、少女にぶつけられる。翠星石はたじろぎ、じわりと後ずさった。だが、逃げない。震える脚が机に止められたところで、気丈に顔を上げた。「で……できるです」「……あ?」「私なら、できるですよ!」「お前、まだそんな――」ジュンは舌打ちすると、翠星石に詰め寄って、小柄な彼女を机に押し倒した。「ひぃっ! なっ、なにするですっ!」「僕を、オトナにしてくれるんだろ? だから、こうして―― 二人っきりになれるのを、待ってたんじゃないのか?」「い、意味が違ぇですよ、おバカ! やぁっ、やめるですぅっ!」「そんなこと言って、本当は僕に抱かれたいんだろ?」「お――――思い上がりも、いい加減にしやがれですっ!」カァッと。翠星石は、夕陽に染まってなお判るほど頬を紅潮させて、ジュンを突き飛ばした。体勢を立て直す間もあればこそ。蹌踉めいたジュンの横っ面を、翠星石の平手が、痛烈に殴りつけた。「おバカ! それが身勝手で子供じみた発想だと、なんで解らねぇですか! いまの生活が、つまらない? 大概のことは飽きる? なに抜かすです! おめーは何もしてねぇです。何も見えてないから、そんな戯言を吐けるですよ!」今度は、ジュンがたじろぐ番だった。反論の暇さえ与えられず、翠星石の勢いに呑まれるまま。「黙ってないで、なんとか言ってみやがれです!」少女の涙声が、少年の胸を深く抉った。痛くて、苦しくて……陸に打ち上げられた魚みたいに、口をパクパクさせるだけ。――でも。言わなければいけないことは、ちゃんと解っていた。そこまでガキじゃない。プライドのカケラくらいは、あるつもりだった。「……ゴメン。お前の言うとおりだ」だけど、いまはまだ、顔を背けていなければ謝ることさえできない。そんな彼のことを、翠星石は、もう責めなかった。ただ、しゃくりあげながら、頬に残る涙の軌跡を指で拭って――どこに隠し持っていたのか、おず……と、ラッピングされたお菓子を差し出した。「これは?」「ユメの実、です」「……いつものスコーンだろ?」「作った私が、ユメの実だってんです。だから、違わねぇですよっ!」どう見てもスコーンの詰め合わせだが、水掛け論になるのも馬鹿げている。ジュンは小声で礼を言いながら、彼女の手から、お菓子の包みを受け取った。そして、小腹も空いていたことだし、早速ひとつ頂こうとした時……翠星石に待ったをかけられた。「まだ、食べちゃダメですぅ」「ん? なんでだよ。熟成させると旨くなる、とか?」「そうじゃねぇです。ユメの実は、眠る前に……ひとつだけ食べるです」「ふぅん。そうすると、どうなるんだ?」「それは――」翠星石は、これまでジュンが見たこともないほど妖麗に微笑んで、「食べてみての、お楽しみですぅ~」ふわりと身を翻すと、制服のスカートを靡かせ、小走りに教室から出ていった。ジュンは暫しの間、薄暗くなった教室に一人、立ち尽くしていた。とうに陽も落ちて、野球部のかけ声も、もう聞こえなくなっていた。――その夜の、就寝前。彼は教えられたとおり、ユメの実をひとつ食べた。これで、なにが変わると言うのだろう。正直、半信半疑。あの時、翠星石は奇妙に自信ありげだった。それを思い出して、頭を振る。半分でも彼女を信じたがっていることが、ジュンには信じられなかった。「とりあえず、眠ってみれば判るさ」メガネをはずし、瞼を閉ざすと、睡魔は思いもよらず速やかに訪れた。 ~ ~ ~「ああ、やっと来たですぅ。たらたらしてんじゃねぇですよ」優しく――だが馴染みのある毒舌が、ジュンを包み込んだ。即座に、彼は思った。最悪だ。夢の中でまで、あの性悪女に付きまとわれるなんて……と。このままタヌキ寝入りを決め込もうかと考えたが、理不尽な暴力で叩き起こされるのは、容易に想像がついた。だったら、痛めつけられる前に起きてしまうほうがいい。諦めて瞼を開くと、渦巻き模様のワンピースを着た、翠星石が立っていた。いや、そもそも、自分は横たわっていなかったっけ?そう思って、ジュンは初めて、ここには方向感覚が無いと気付いた。「約束どおり、ユメの実を食べてくれたですね」「あ、ああ……。それにしても、ここは、どこなんだ?」「おめーの夢の中に決まってるです」「……はい? いや、そうアッサリ言われても困るだろ……。 大体だな、ここが僕の夢なら、お前は何なんだ? ただの幻か?」「私は、本物の翠星石ですよ。おめーの夢に、お邪魔してるですぅ」にこにこと微笑みながら、翠星石は、事も無げに言う。そして、ジュンは――「いやいやいや…………有り得ないって」常識という『思い込み』に縋りついて、脆い理性を保とうとした。さもありなん。翠星石の細められた眼差しが、そう語っていた。「お前、やっぱり僕の夢だろ? 妄想の産物なんだよな?」「このバカちん。本物の翠星石だと、何度も言ってるじゃねぇですか」「だけどさ、これはないよ。常識はずれだって。僕の夢にお邪魔してるだと? はは……馬鹿馬鹿しい。できっこないよ」「ところが、できちゃうですよ。この、私―― ドリームキャストの紋章を持つ、翠星石には、ね」ドリームキャスト! マジ有り得ねえーっ!いくら夢でも、これはひどい。翠星石の服の蚊取り線香マークは、そういう意味か。ジュンはあまりのショックに頭痛と眩暈を覚えて、吐き気を催した。だが、翠星石は彼の急変などお構いなしに、話を進めてゆく。「他にも、プレイステーション2の紋章を持つ金糸雀とか、 N64の紋章所持者である、蒼星石×雛苺ペアも居るですよ」もうやめてくれ。そう叫びたかったが、口を開けば吐いてしまいそうで、結局、なにも言えなかった。とりあえず、ラマーズ法で吐き気を抑え込んで、ジュンは訊ねてみた。「僕を、どうする気だ」「おめーには、これから夢の中でココロの修養を積んでもらうです」「…………どうやって?」「モチロン、7日間短期集中エクササイズですよ。 スィーズ・ドリーム・キャンプですぅ」「……マジ有り得ねえ」もう夢から覚めよう。ジュンは本気で、そう思った。まだ夜中かも知れないけれど……こんな茶番には、付き合っていられない。だが、彼の思惑くらい、翠星石はお見通しだった。彼女は、起きようとするジュンの手を、そっと握って、ふるふると頭を振る。「逃げるなです。この世界のどこかに、おめーの『樹』があるですよ」「だから、なんだよ」「おめーは、この夢の世界を旅して、自分の『樹』を見つけなきゃならんです。 いまはまだ小さな『樹』ですから、すぐには見つけられないでしょう。 でも……旅での色々な経験は、ちゃーんと『樹』の養分になるです」「……ってコトは、なにか? この世界で、僕が精神的に成長すれば、 その『樹』とやらも大きく育って、見つけ易くなるのか?」「そうですぅ。やっぱり、おめーは見所があるヤツですね。 私の目に、狂いはなかったですぅ♪」どうしてなのか。翠星石は、とても嬉しそうだった。そんな彼女の笑顔を見ていたら――ジュンの中に、久しく忘れていた感情が、ありありと甦ってきた。『自分だけが――』ではなく、『誰かのため――』に、頑張ってみようという意欲が。「わかったよ、翠星石。少し、努力してみる」「ホントです?」「うん。ただ……問題は、7日間も眠りっぱなしなのかってコトだけど」「心配いらねぇですよ。夢の世界と、現実の世界では、時の流れが違ぇです。 こんな経験はねぇですか? 夢の中でかなりの時間を過ごしたハズなのに、 起きてみたら、ほんの数分しか経ってなかったってコト」「ああ……それなら、しょっちゅうだ」実際、ジュンは授業中の居眠りで、よく体験していた。夢の中では授業が終わったのに、目を覚ませば1ページと進んでいなかった、とか。あんな感じならば、大して心配もない。「それじゃあ行ってみるか……ってさ、ところで、どこがスタートだ?」「スタートラインは、あそこ――」翠星石が指差す先には、ぽっかりと口を開けた、小さな四角い穴が。「おい。あれって、ダストシュートってやつじゃないか?」「そう見えるのなら、きっと、ジュンのココロが、そう見せてるです。 普段の日常なんてゴミみたいなもの――そう思ってたんじゃねぇですか?」図星。確かに、退屈だと蔑むあまり、そんな風に考えたりしていた。その結果が、ダストシュート。いつの間にか、こんな狭い感受性しか、持てなくなっていた。――いや。こんなにも、自らココロを閉ざしていたのだ。いざ目の当たりにして、ジュンは恥ずかしくて堪らなくなった。そして、いますぐにでも、目の前の穴に入りたい気持ちになった。(本当に……あのままだったら、練炭と七輪を買いに行ってたかもな)ジュンは自嘲した。恥ずかしくて、笑うことしか出来なかった。世間知らずの、思い上がったガキ。それが、いままでの自分。だけど、扉はもう目の前にある――翠星石が、導いてくれたから。「翠星石」「はいですぅ?」「あのさ……ありがとな。ちょっと、自分を鍛えなおしてくる」「……ま、せいぜい悪あがきしてきやがれです」見送りの時まで憎まれ口。でもまあ、その方が彼女らしい。ジュンは清々しい気分で、笑いながらダストシュートに飛び込んだ。この先にある、自分だけのブレイブ・ストーリーを探しに。だけど、ジュンは確かに見ていた。翠星石の姿が見えなくなる寸前……彼女の唇が、声もなく動く様子を。――気をつけて、いってらっしゃい。翠星石は、間違いなく……今しも涙を落としそうな眼をして、そう語っていた。
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