第七話 『今でも・・・あなたが好きだから』
ピアノが、好き? 訊ねられて、雪華綺晶は間を置かず、好きと答えた。特に、コリンヌが奏でるピアノの音色は、大好きだった。鍵盤を叩けば、誰でも音は出せる。老人でも、生まれたての赤ん坊でも。けれど、僅かな間や力加減は、人それぞれに違う。音色の質も、そこで変わる。本当に艶のある和音を引き出せる人間は、ほんのひと握りに過ぎない。そして、コリンヌはその数少ない者の一人だと、雪華綺晶は常々、感じていた。「マスター……あ、いえ……コリンヌの弾く旋律は、特に心地よいですわ。 まるで、上質の羽根箒で、素肌をくすぐられているような―― 得も言えない恍惚に、私を誘ってくれるんですもの」思いがけず賛辞を呈されて、コリンヌは「そんな大袈裟な」と、はにかんだ。「その心地よさは、演奏者の手柄ではなく、旋律を生み出した人たちの功績よ。 いま弾いていたのは、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』という曲ね。 他にも、サティやドビュッシーといった著名な作曲家の曲を、よく弾くわ。 みんな、パリ音楽院で学んだ素晴らしい才能の持ち主たちなの」澄んだ瞳を輝かせて、活き活きと語るコリンヌを見つめながら、ああ、本当にピアノが好きなんだな――と、雪華綺晶は思った。そして……彼女の言い分は、やや間違っている、とも。卑近な例をあげるなら、料理と同じだろう。どれほど素材が良かろうと、調理の仕方が拙ければ、美味しくはならないから。 第七話 『今でも・・・あなたが好きだから』素晴らしい演奏者が居てこそ、ステキな旋律は、最高の音楽へと昇華できる。まだ蕾だけれど……コリンヌは確実に、才能という花を咲かせつつあった。別の曲なら、この娘はどんな風に弾くのだろう。想像して、雪華綺晶は胸を躍らせた。「コリンヌ。お疲れでないようでしたら、もう少し、聞かせてください」「ええ、いいわよ。でも……まずは、わたしの話を済ませてからね」即答に、雪華綺晶は戸惑った。話とは、ピアノの件だと独り合点していたのだ。それが実は、本題を切り出すための緩衝材だったなんて……。クッションを要するくらいだ。これから話されることは、それなりに痛いのだろう。ストレートにぶつけられれば、ショックで目が眩んでしまうほどに。「ねえ、雪華綺晶。正直に答えてね。約束してちょうだい」「は、はい。誓いますわ」「貴女……わたしの手紙、勝手に読んだでしょう?」がっつん! 折角の緩衝材も、全くの役立たず。バレていた。その事実に、雪華綺晶はクラクラと眩暈を催した。なぜ、コリンヌに知られたのだろう? まさか……雛苺が告げ口を?――有り得ない。雛苺と雪華綺晶は一蓮托生。密告したって、なんの得もない。ただ……そそっかしい彼女のことだ。うっかり口を滑らすことは考えられた。雪華綺晶の沈黙を、肯定の返事と受け取ったのだろう。コリンヌは「仕方のない子ね」と、呆れたように苦笑った。「挟んであった箇所が、1ページ違っていたわよ。すぐに、誰の仕業か判ったわ」どうやら、迂闊という点では、雪華綺晶も大差ないらしい。自分の過失を棚に上げて、一瞬でも雛苺を疑ったことを、彼女は恥じた。実際には、文面を読んでなどいない。けれど、読もうとしたのは事実だ。雪華綺晶は、雛苺のことを一切語らずに、深々と腰を屈めた。「ごめんなさい。偶然に見つけて……外国郵便でしたから、そのぉ」「差出人が気になって、つい見てしまったのね?」「はい。さもしい真似を、してしまいました。この上は、どんな処罰も受けます。 出て行けと仰られるならば、今すぐにでも、お屋敷を去りますから」見ず知らずの雪華綺晶に、コリンヌは親切にしてくれた。のみならず、心を開いて、お友だちとすら呼んでくれた。それなのに……コリンヌの信頼を、雪華綺晶は裏切ってしまったのだ。雪華綺晶は項垂れ、全身を緊張させて、断罪を待った。きっと、屋敷を追われる。着の身着のまま、無一文で放り出される。そしてまた、真夜中の山中を彷徨い歩いて、親切な誰かに拾われるのだろう。或いは心ない者に捕らわれ、慰み者に堕ちるだけかも知れないけれど……それも、天が下した罰なのだろうと、雪華綺晶は甘受するつもりだった。はふぅ――長い沈黙を破るコリンヌの深い溜息が、固まりかけていた部屋の空気をかき混ぜる。それに対して、雪華綺晶の身体は、更に硬くなった。すっかり畏縮しきった彼女に、コリンヌは、短い言葉をかけた。「まあ、良いわ」「……はい?」「許してあげるわ。元はと言えば、本に挟んでおいたのが悪いんだもの。 それに、コソコソと秘密にするような事でもないから」あれから、もう二年も経つのね。呆気にとられている雪華綺晶を余所に、コリンヌは遠い眼をして、続けた。「あの人と――彼と、お知り合いになってから」「カレ?」「嫌ぁね、しらばっくれるなんて。手紙に書いてあったでしょう?」「え……っと?」なんだかハッキリしない雪華綺晶の受け答えに、コリンヌは小首を傾げる。が、少女の感受性が培った鋭い洞察力は、コトの真相を的確に見抜いていた。「雪華綺晶、貴女……本当は、手紙を読んでいないんじゃなくて?」「は、はぁ……まぁ」「もう! 正直に答えてって、最初にお願いしたでしょう」「だってぇ。弁明できるような雰囲気じゃなかったですしぃ」ムッと柳眉を吊り上げるコリンヌの前で、雪華綺晶は唇をすぼめて、バツが悪そうに、もじもじと肩を揺すっていた。その様子が、おかしかったのだろう。コリンヌは、やおらククッと喉を鳴らし始めた。「本当に、仕方のない子なのね」コリンヌは雪華綺晶の腰を抱き寄せ、隣りに立たせた。「この人が、彼……二葉さんよ」言って、コリンヌが、譜面台の脇に置かれたフォトスタンドを指す。その小さなモノクロームの世界を見るなり、雪華綺晶は、ハッと息を呑んだ。写真の中で、あどけない顔の少女――二年前のコリンヌが、はにかんでいる。その背後には、彼女の肩に手を置いて、柔和な笑みを浮かべる青年の姿。それは紛れもなく、雪華綺晶が昨夜、夢の中で出逢った青年の笑顔だった。
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