第三話 『For the moment』
ひどい。雪華綺晶の指先を覆う包帯に、血の染みを見て、コリンヌは眉を顰めた。十指とも――特に、力の掛かる中指や薬指は、両手とも爪が剥がれていたのだ。コリンヌは訊ねた。どうして、こんな状態になったのか。なぜ、あんな真夜中に、薄着で山中を彷徨っていたのか。けれど、雪華綺晶は端麗な表情を歪めて、ただただ頭を横に振るだけ。解らない。思い出せない。そう答える雪華綺晶は、ひどく苦しそうに唇を歪めて、今にも泣きそうだった。これでは、難癖をつけて苛めているみたい。不憫に思うあまり、胸に痛みを覚えて、コリンヌは溜息まじりに微笑を作った。「まあ、いいわ。お父様のお許しも頂いたし、当面は、ゆっくり養生してね」「……はい。ありがとうございます、コリンヌ」「気にしないで。実を言うと、わたしも雛苺も、新しいお友だちができて嬉しいの。 なんなら、ずっと居てくれてもいいのよ」「お友だち……? ……出逢ったばかりの、私が?」きょとんとした面持ちで、雪華綺晶は琥珀色の瞳を、ぱちくりさせた。よもや、そんな風に想われているとは、夢にも思っていなかったのだろう。富豪の箱入り娘が、酔狂で、ケガした小汚い野良ネコを保護しただけ……傷が癒えれば追い出される運命だと、覚悟すらしていた。それなのに、まさか――呆気にとられている雪華綺晶に、コリンヌはもう一度、揺るぎなく伝えた。「貴女は、悪い子なんかじゃないわ。だから、わたしたちはお友だちよ」 第三話 『For the moment』 雪華綺晶は、朝日に映える白い頬を弛めて、控えめな笑みを浮かべた。初めこそ濃かった戸惑いの色も、すぐに、嬉しさ百パーセントの笑顔に変わった。「ありがとう。私、なんて言ったら――」極まった感情は、はらはらと雪華綺晶の頬に煌めく軌跡を残し、零れ落ちていく。コリンヌはハンカチーフを手にして、濡れた白い頬を、そっと拭いてあげた。「おなか、空いてるんじゃない?」訊ねた途端、タイミング良く、雪華綺晶のおなかが、くるるる……と鳴いた。「まあ!」と、コリンヌは口元に手を遣って、鈴ように澄んだ笑いを振りまく。雪華綺晶は両手で朱に染まる頬を挟み、「やぁん」と顔を背け、恥じらった。そんな彼女の仕種が愛おしくて、コリンヌは雪華綺晶の髪に、指を滑らせた。汗や脂で汚れているらしく、がさがさと引っかかってくる感触。コリンヌは髪を撫でる手を止めずに、雪華綺晶の頭に、鼻先を擦りつけてみた。やっぱり、少し臭う。お風呂に入れて、きれいに洗ってあげた方が良いだろう。ケガの治療のためにも、清潔にしておくべきだ。他人に触れられることが気持ち良いのか、雪華綺晶はウットリと瞼を閉じて、されるがままになっている。瑞々しい唇には、妖艶な笑みすら浮かんでいた。(こうしていると……本当に、お人形さんみたいね。可愛いわ、とても――)昨夜の奇妙な昂りが、また甦ってくる。思う存分、弄くり回したい衝動に駆られる。しかし、コリンヌは下卑た欲情を強引にねじ伏せて、雪華綺晶の髪から指を離した。「さあ、雛苺に食事を運んでもらって、三人で朝食にしましょう」 ~ ~ ~指に包帯を巻いているせいで、雪華綺晶はスプーンやフォークを、よく落とした。そのため、コリンヌと雛苺は、かわりばんこで彼女に食べさせてあげた。「はい、きらきー。あーんしてなのー♪」雛苺はもう、雪華綺晶のことを『きらきー』だなんて、親しげに呼んでいる。陽気で人なつっこいところは長所と言えようが、少々、馴れ馴れしすぎはしないか。どういうカタチであれ、雪華綺晶は赤の他人。いわゆる、お客様なのだ。――が、それは建前。いけないと分かっていても、コリンヌの本音は違っていた。「このビシソワース(ジャガイモの冷製ポタージュ)ね、ヒナが作ったのよ。 ねえねえ、どお? おいしい~?」「はい。とってもサッパリしていて、まさに滋味ですわ♪」すっかり打ち解けて、仲睦まじく食事をする二人は、旧知の親友同士みたいだ。コリンヌは不思議な安らぎを覚えて、柔らかい笑みを浮かべた。そして、密かな望みを強くした。もっと、雪華綺晶と親しくなりたい……と。 ~ ~ ~朝食を済ませてから、コリンヌは雪華綺晶と一緒に、湯浴みをした。昨夜からの忙しなさで、ずっと入浴していなかったし、手の不自由な雪華綺晶を洗ってあげるつもりだったから、一石二鳥というものだ。雛苺も一緒に入るとゴネたが、コリンヌに「お仕事があるでしょ」と諫められ、「ぶー」と、むくれながら渋々、屋敷の掃除に向かった。公私の区別を有耶無耶にしがちなところは、雛苺の褒められないところだ。 磨りガラスを抜けた陽光が、広い浴室の隅々まで、明るく照らしている。コリンヌは、泡立つバスタブに雪華綺晶を浸らせて、首から肩へと洗っていった。あまり、誰かに身体を流してもらった経験が無いのだろう。雪華綺晶は、時折くすくす笑って、くすぐったそうに身悶えた。「ダメよ、じっとしてて。洗いにくいでしょう」「でもぉ……なにかムズムズして、変な感じが……」「我慢して。大人しくしてらっしゃい」「……はぁい」背中が敏感らしく、雪華綺晶は洗ってもらっている間、弓なりに撓ったまま、熱っぽく吐息しながら、ふるふると震えていた。身体に続いて、緩く波打つ長い髪をシャンプーしていく。これは想像以上の重労働だったが、汚れが溶け込んだ泡をシャワーで流すと、そんな苦労もいっぺんに消し飛ぶほどの無垢が、コリンヌの前に顕れた。「まあ、なんてステキなのかしら。見違えるほど綺麗になったわ。本当よ。 乾かせば、きっと、ふわふわの髪になるわね」「ありがとう。何から何まで、良くして頂いて……なんて感謝したらいいのか」「さっきも言ったでしょう。気にしなくてもいいのよ、本当に」そう言われたって、こうも至れり尽くせりでは恐縮してしまう。まして、居候の分際である雪華綺晶には、息苦しいことこの上なかった。コリンヌのために、何かしてあげたい。彼女が与えてくれた恩に、酬いたい。雪華綺晶は、シャワーを浴びているコリンヌの背中に、話しかけた。「お願いです、コリンヌ。私に、身の回りのお世話をさせてください。 お給金なんて要りませんから……私を、あなたの侍女に召し抱えてください」
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