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「しあわせな物語?」「そう。単純で、明解な。それでいて、とてもしあわせな、夢の物語を」
昼間だというのに私達の居るオープンテラスのカフェはとても空いていて、周りを見ても席はがらがらだった。 どうしてこんな話をしているのだろう。自分でも、よくわからない。
わからない? それは、嘘。
「僕達はどうだろう」
彼が尋ねる。私はそれに何と返すべきか、少し迷う、―― いやそれも、嘘。
暖かい風が、街にも春の訪れを告げていた。私と彼が住んでいた、この街へ。 陽気が、私を眠りに誘おうとする。 ここ最近、考えすぎで私は殆ど睡眠をとれていない。
不思議なものだ。今、たった今、酷くかなしい筈の私。 その気持ちとは裏腹に、ただの眠気に抗えそうにない。
「それは、随分と野暮なことだわ。私はそうね、……しあわせ、だった、かしら」
自分で言葉にしていながら、少し意地悪い物言いになっていることに気付く。正確には、私と彼の物語は、まだ過去形にするのには少々早い。そう、ほんの少々。
彼とはもう、別れようと思っている。それを考えると、私は本当に意地が悪い。確かに近頃はお互いすれ違っていたけども――それを、言葉にしてしまったら。一度投げ出されてしまった言葉は、どんなに上塗りしたって消えはしないのに。 どんな言葉。いや、どんな物だって。
お互い目線も合わせず、ぽつりぽつりと言葉を零していく。一体いつからだったろうか。私達が、このような塩梅で会話をするようになったのは。
目は口ほどに物を言い、なんて言葉は。世間一般に大層よく言われていることだし、実際私もそうだと思っている。だから今、私達がこうやって二人、『顔を合わせて』いるにも関わらず、こんな状況に陥っている限り。零れていく言葉は、言葉以上のものに成り得なかった。
ふと、彼の方を見やる。予想通りの俯き加減だったその視線は、テーブルが無かったなら、丁度向かい合っている私の足元あたりの方向を漠然と捉えている筈だ。
「夢を」「……?」「夢を、みていたのかしらね、私達は。目覚めれば、夢は消えてしまうから――貴方は。貴方は、何も心配せずに旅立って頂戴」
その言に、彼は何も返さなかった。席を立ち、その場を後にしようとする。
「――さよなら、真紅」
貴方の、声。私はそれを、座ったままで聴く。貴方のことなら、何でも理解出来ると思ってた。今だって、そう。貴方の顔を、見ることは出来ないけれど。その声が、どれほどの寂しさを含んでいるか――嫌になる位、感じ取れるのだから。
そして。私は貴方のことを、愛していたの。 ねえ、それを貴方は――知っていたかしら。
「ええ。どうか元気で、ジュン」
歩き出した彼の後姿が、小さくなっていく。 立ち上がって、追いかけるべきだろうか。 いや、それは――出来ない。
どうして?
だって、たった今。彼の別れの言葉に私は、応えてしまったから。
それに――こんな、別れ際。見苦しく足掻くのは、少々、レディとしてははしたない。
物語は、これでおしまい。私と彼の見ていた夢、その歴史は、消える。 だからこの夢に、名前はつかない。ただひとつの、空白になる。
私は今、思い出している。 完全な空白に、なってしまう前に。 大きなドラマなんて、無かった。 それでも、きっと。私達の日常は、鮮やかに色付いたものであったと思う。 そう。単純で、明解な。それでいて、とてもしあわせな――名前の無い、夢の物語。 そのひとつの、はじまりを。
――――
今一度、閉じてしまった幕を開きましょう。 其処には、名前の無い――ある世界の、ある物語がありました。 それを皆様は、目の当たりにする。
私ですか? 私は、幕の開き手。 初めてお逢いする方も。 ひょっとしたら、随分と久方ぶりにお逢いする方も、居るかもしれないですね。
名乗ることは致しません。 名前とは、便宜上の些細なもので――それでいて、大切なものではあるのですけれども。 今、名前の無い物語の幕を開ける私が。自らを現すのは、少々無粋というものでしょう。
彼女は、夢を見ていたのかもしれないと。そう自分で言いました。 その夢を、思い出す。 思い出は、色褪せるものでしょうか。 それとも、時を経て――うつくしくも、成るのでしょうか。 あなたは、如何ですか?
それでは、幕の向こう側にあった、ひとつの記憶。 暫しの間、お付き合いを。
春は、一年の始まりの季節だから。それに相応しい出逢いがあるだなんて、本当、言い得て妙な物だと思ってしまう。 学校の門をくぐる初々しい感じの男女を見て、私も年をとっただんて――そんなことを考えるのは、ちょっと早いだろうか。高々一~二歳の差が、随分と大きく感じられてしまうのは、しょうがないことなのだろうけど。
「ま、今年は僕らも卒業だからな。花の女子高生も、いよいよ終わりって感じか?」「……ひとの考えてることを、さくっと読まないでくれるかしら」「そりゃしょうがない。何年腐れ縁やってると思ってるんだ」
腐れ縁、ね。彼も言うようになったものだ。小さい頃なんかは、もうちょっと可愛げのあったような気も――いや、今より捻くれていただろうか?
まあ、それはいい。こうして話をしている事自体が、とても自然なことである私達にとって。こんなやり取りひとつとっても、特に気を遣うことはない。 いつも通りの朝。学年がひとつ上がって、最上級生になってしまってから、そろそろ二十日が過ぎようとしている。 あまりにも普段どおりだったことが、今日は少し引っかかった。去年はちゃんと、覚えていてくれた筈なんだけれど。――まあ、いいか。 それは、些細な。とても些細な、ことだから。
「今日の一限、なんだっけ?」「古文ね、確か」「うわっ……寝るよ絶対」「どうせ遅くまでネットをしていたのでしょう? しょうがないものばかり買って」「お前に通販の素晴らしさはわからないさ」「はいはい、そうね」「ま……いいけど。それにしても、だるいなあ」
溜息をつく彼の相手も程ほどに、私達は教室へ向かう。 彼はそれ程でも無いようだが――もっとも、彼自身の成績はとても優秀な訳なのだけれど――私は古文の授業が結構すきだったりする。私自身が、小さい頃日本に住んでいなかったせいもあるかもしれない。日本の文学的な文化、というものはとても興味深かった。
文(ふみ)、すなわち手紙というものは。昔の男女のやりとりで――少なくとも、私の知る物語の中では――大変盛んであったようで。 自らの思いを、文字で綴ったうたに託す。何とも切なげで、ロマンチックだなあと思ってしまうのだ。
「ねぇ、ジュン」
私は、席の隣で早くも突っ伏している彼に話しかける。
「どした?」「性癖、のようなものかしら。貴方は葵の上と、紫の上。どちらが好みかしら?」「これはまた。二人の受けた境遇は考慮しなくていい訳?」
こう返してくる辺りが、彼らしい処なのだろうか。
「その辺りは良いわ、あれは物語だから。純粋に聞いてみただけよ」「んー……そうだな」
ちょっと考えるような素振りを見せてから。
「明石の姫君で」
ぽつりと言って、彼はまた机で眠る体制をとってしまった。 成る程、ね。真面目で奥ゆかしい、そんな感じが好みだと。私には、……無理かなあ。 ちょっと残念なような。そうでも、ないような。
そんなどうでもいいかもしれないことを考える私をよそに、その日の幕間は始まったのだ。
――――――
「今日、久しぶりにお邪魔してもいいかしら?」「えっ!? 別に構わないけど、……」
放課後。お互い部活もしていないから、放課後は特にすることも無かった。 それにしても――これはいよいよ、期待出来そうに無い。しょうがない、しょうがないか。
「たまには貴方の紅茶も飲みたくなるのよ。感謝しなさいね?」「はいはい」「……」
『はい、は一回でしょう?』
昔は。そう、幼い頃は。私は彼のことを下僕呼ばわりしていたこともあったりしたのだけれど。そんな塩梅がそうそういつまでも続く訳も無くて、私も彼のことをぞんざいに扱うことが出来なくなっていた。 今だって。紅茶を淹れて欲しいと一言頼むのに、心臓が縮み上がっていた。
『断られたら、どうしよう?』
私とて女子高生、その位のはにかみのひとつやふたつ、しても良いじゃないかと自分に投げかけたくなる。けれど、これは違うのだ。昔は自然に、口にしていた言葉だったのだから。
らしくない、と思う。高校に入学した辺りから、そんな感じになってしまった。彼の考えが、読めない。そうだ、いくら『自然な付き合い』とは言っても。何処か昔と違う、そんな感情を抱くようになったのも、丁度その位からだったと思う。 話をしても、彼は彼でするすると私の言葉をかわす術を身につけてしまった様子だったし。それでも――彼と会話をするのは楽しかったのだけれど。
「おい、大丈夫か」「え? ――平気よ。ごめんなさい、少し考え事をしていたの。さ、行きましょう」
そうして、連れ立って学校を出る。朝は何故だか一緒の時間帯の登校になってしまうのだが、帰り道をこうやって二人並んで歩くのは、本当に久しぶりだった。
ことり、と。口をつけたティーカップを、テーブルに置く。
「美味しいわ。ありがとう、ジュン」「どういたしまして」
久しぶりに味わった彼の淹れてくれた紅茶は、文句のつけようが無かった。いや、たとえ何処かしらの不備があったとしても――『今』の私が、それを言及することが出来たかどうかは怪しい。
彼の部屋。ジュンの、部屋。此処に来るのは、いつ位振りだろう?
彼はお茶うけに出したフィナンシェに手をつけている。私はもう一度紅茶に口を付けて、香りを愉しみながら。暫し、無言の時間が訪れる。
「最近、っていうか」
その静寂を破ったのは、彼が零した言葉だった。
「もう随分前からかな。真紅が、真紅らしくないような気がする」「……どういうことかしら? 私は私。それ以外の、何物でも無いじゃない」
言いながら、平静を装って。それでいて、彼の一言は、私の胸に突き刺さっていた。
「――ま。お前も、大人になったってことかな」「何よ。私が子供だったとでも言いたいの?」
少し語気が荒くなってしまう。そんな私の様子を見てか、彼は少し慌てた様子になった。
「や、そんなんじゃなくてさ――ああもう、いいか。ちょっと待ってて」
そう言って彼は、立ち上がって。机の引き出しの二番目の奥から、包みを取り出した。
「またひとつ、大人になったってことで。――誕生日おめでとう、真紅」
差し出された、プレゼント。 私は。私は、――声を出すことが、出来なかった。
「本当は、お前の家に行こうと思ってたんだけど。来てくれるんなら、丁度いいと思ったからさ」「何よ……全然そんな素振り、見せなかったじゃない」
やっとの思いで搾り出した声を受けて、彼は後ろ頭をばりばりと掻いていた。
「なんていうかな。お前が家に来るって言ったときは、ひょっとして催促されてるのかななんて、思ったりしたんだけど……そんな感じでも、無かったみたいだし。僕がお前の誕生日を忘れるなんて無いんだからさ、ちょっとしたドッキリだって」
催促、をしたつもりは。勿論無かった。彼はそれを汲み取ってくれたみたいだけれど、今更ながら――自分のとった行動が、恥ずかしくなる。
「馬鹿ね、――」
言いながら、少し泣いてしまった。涙というものは、不意な物であればあるほど、止められなくて。
「おい、大丈夫か?」
今日、二度目の心配を、彼にかけてしまう。
「大丈夫、――大丈夫よ。ありがとう、ジュン。中身を、……見て、良いかしら?」「あ、――うん。どうぞ」
包みを、開く。その中には、――
「これ……」「どう、かな。結構自信作だったりするんだけど」
人形だった。紅いドレスを身に纏った、少女人形。細やかな縫製がとてもうつくしくて――それを見た時、思わず目を見張ってしまった。 この、人形が。何処か私に似ているかも、だなんて。そんなことを考えるのは、些か自惚れが強いだろうか……?
「夜なべして作ったんだから、大事にしてくれよ」「言われなくても――大切にするわ。貴方に、貰ったものだもの」
青い瞳の人形と、目を合わせながら言った。 夜なべして、とは。彼は昨日、これを作る為に夜遅くまで起きているのだろうか?
「ねえ、ジュン」「なんだよ」「こんなプレゼントは、……他の誰かにも、あげたことがあるの? あなた、結構もてるようだし」
彼は普段ぶっきらぼうなのだが、ここぞと言う時は自分の強さを発揮するタイプだった。それなりに深く接してみると、彼のパーソナリティは感じ取れる。そんな性格を理解する人達は決して少なくなくて、現に何人かの女子に告白されたこともある様だった。それについて、今まで私は、特に言及することは無かったのだが。
私が言うと、彼は少し考えるような素振りを見せる。
「どうだろ。手作り、って処を見れば、姉ちゃん以外には無いんじゃないかな」「そう……」
何を、考えているのだろう。今の彼の言葉を聞いて、少し安心してしまった自分に、疑問を覚える。 もし、他の誰か。家族はまた別として、別に手作りじゃなくても、他の女の子に――彼がプレゼントをあげていたとしたら。少し、少し――さみしいかもしれないと。そう思ってしまうのは、何故なのか。
そんなことを考えても、本当に仕方ないことだ。彼にとって私という存在は、ただの腐れ縁。
「まあ、貴方の好みは私とは違うタイプでしょうしね」「え?」「今朝の質問。奥ゆかしい感じの娘が、良いのでしょう? 私はそんな感じにはなれないから」
うーん、と。唸ってから彼は、また口を開く。
「そんな感じ、ねえ。確かに今のお前は、そうだなあ」「ふふ。わかってるわ、そんなこと」
うん。わかってる、わかってるとも。
「お前だって」「えっ?」「お前だって、こないだ下級生に告白されてたみたいじゃないか。どうしたんだ、あの返事」「……誰から聴いたの?」「風の噂。気付いてないのは当人ばかり、って奴だ。そういう話が広まるのは、早いもんで」
そんなもの、なのだろうか。其処は果たして、与り知れなかった。 実際私は、つい先日、新入生から愛の告白を受けたりして。理由を尋ねると(自分をすきだと言うのなら、いつだってその理由が気になるのが女の――や、女に限らず、ひととしての――常だと思う)一目惚れ、ということだったので。丁寧に、お断りさせて貰った。勿論このことは他の誰にも。友達にも、勿論ジュンにも、話していない。
「お断りさせて頂いたわ。一目惚れなんて言われても、それは外見だけの判断なのでしょう? 私のことを何も知らないのに、すきだと言われても困るだけよ」「成る程、ね。其処だけはやっぱり、お前らしいんだな」「そうかしら」「そうだよ」
それぎり訪れたふたたびの静寂は、五分程続いたらしい。時計の針を見ると、実際そうだったのだけれど。私にはそれよりも、もっともっと時の流れが遅く感じられた。 その静けさに言葉を投げ入れたのは、またしても彼だった訳で。
「なんだろう。……なんだろうなあ。ちょっと、安心した」「――何がかしら?」「最近のお前って、結構見てて不安なんだよ。不安、って言っても大したことではないんだけど。何かほら、色々物言いに遠慮がある、って言うのかなあ。そんな風に思ってたから、雰囲気に流されちゃってもおかしくないかも、って」 「私が、あの告白を受けていたかもしれない?」「まあ……そうかも」
遠慮。彼の言う『らしくない』は、そういった処をさしているのだろうか。 確かに自分でも、以前の様に自らの考えを顕すことは出来なくなっていると感じてはいるが。
「仮に受けていたとしても、貴方には関係の無いことでしょう?」「ん、……」
私が返すと、彼は一瞬押し黙る。逡巡の素振りを見せてから、また口を開いた。
「関係ないって言われても……何かな。変な男に引っかからないか、こちらとしても心配な訳で」「あら。私は男のひとを見る目には自信があるつもりなのだけど」「そうなのか?」「そうよ」
例えば、眼の前に居る貴方のような。 それを言うことが出来たなら、どんなに楽なことだろう。 ただ。今はこれで良いのかもしれない、とも思う。久しぶりに彼の淹れてくれた紅茶を飲んで、そんなことを考えた。彼と一緒に居るのは居心地が良いし、別に特別な関係にならなくても……今のふたりの関係が、ずっと続いていくのならば。
ずっと、と言う言葉は。この先の未来について、何の保証を請け負ってくれる訳ではなかった。けど、それでも。
「なあ、真紅」「何かしら?」「お前には、誰か気になるひととか、居ないのか」「――、……」
ぬけぬけとそういうことを言うか、この朴念仁は。気が利かない、全く以て気が利かない。 彼の言葉を受けて、私はたった今自分で考えていた言葉を翻したくなってくる。
『私の気になるひとなら、眼の前に居るわ』
思わず自分の気持ちを伝えそうになって、口を開きかける。けれど、それよりも先に彼の言葉が空に投げ出された。
「や、こういうのはずるいか……なんか保険かけてるみたいで」「……どうしたの?」「ああもう、鈍いな。僕の気になるひとは――眼の前に居る」「え?――」
一瞬何を言われたのかわからなくて、素っ頓狂な声をあげてしまった。
「なあ、真紅。僕達、こうやってもう長いこと腐れ縁してきたけど。ええと、何だ……僕はお前と、まだ、一緒に居てもいいかな」
「お前が良ければの話」という言葉を続けた後の彼の眼は、久しぶりに、本当に久しぶりに私の視線と重なっていた。
どきりとした。というか、少々どころでは無く頭が混乱していた。 彼の言葉は。額面通り受け取るなら、今のままの関係をずっと続けていこう、という意味を表していた。 けれど、そのひとつ前の言葉が、それを打ち消す。自惚れにも程があるかもしれないけれど、今なら彼の心の内を、全て感じ取ることが出来ると。冗談では無く、そんなことも思ったのだ。
――ほら、また後ろ頭を掻いている。彼は照れたとき、そんな仕草をするの。 貴方は、わかるかしら。今の、私の思いを。
「そうね。貴方はこの先も、こうやって私に紅茶を淹れてくれるかしら?」
それなら、考えないことも無いけれど。そんなことを、澄まし顔で言う私だ。
「む、――」
困ってる、困ってる。少し俯き加減になって、私の足元あたりへ視線が泳ぐのは、気まずい証拠。この位遠廻しに言うのが丁度良い。彼だってストレートに言った訳では無い。ちょっとしたお返し、と言うものだ。
参った。ひとつの想いは、とても不思議なもので――あれほど自分らしく無くなっていたと感じていた私が、――
「いきなり本調子になってるもんなあ」
そう言われる様な感じに、なってしまっていた。
「そうかしら」
返しながら。苦笑気味の彼の右隣に、ちょこんと座る。彼の身体はそんなにたくましいと言う訳でも無くて、背の高さで言ったら私よりも少し高い位。
「――でも、」
この位が、丁度いいかしら。彼の肩に、頭をあずける。 いきなり抱っこして頂戴、なんて。昔はそんな無理な注文をしてたことも覚えているが(勿論当時も出来た筈が無い)、今は、これでいい。
なんだかんだ言って。私だって、顔から火が出る程恥ずかしいのだ。 向かい合っていなければ。恐らく真っ赤になっている顔を、見られなくて済むもの。
「降参、真紅。参ったから勘弁してくれ」「駄目よ。もう少し、このまま」
彼は右手で後ろ頭を掻いた。その手で肩を抱く位の所作の出来ない辺りが、彼らしいと言えば彼らしい。――野暮と言うのはかわいそうだ、私だってひとのことを言えるような立場ではないもの。
すきなひとの、隣に居られれば。しあわせは、そんな単純な事で得られるものだった。 なんて明解な、答えなのだろう。
ちらりと、彼の顔を見てやろうかと。首を傾けたまま、視線を上向きにする。 丁度視界に入った時計は、五時をさそうとしていた。
眼を閉じる。このまま眠ってしまっても構わないと、思える位。 私のこころは、安らいでいた。
私はそこから、夢を見た。 私と彼は、有体に、しあわせな日々を送る。
そんな、単純で明解な、物語だったけれど。 私はその物語に、名前をつけようと思ったの。 名前は、便宜上の些細なもの。 だけどとても、大切なものだから――
「すまない、コンクールが近くってさ」「そう、なの。じゃあ、仕方無いわよね」「ああ、埋め合わせはするから」
彼からそんな謝罪の言葉を多く聞くようになったのは。私は大学へ、彼は服飾の専門学校へ進学して、暫く経ってからのことだった。
それでも、何とかやっていたつもりだったのだ。 元々私達が付き合いはじめた頃に、周囲には何組かのカップルがいた。その中の女子のひとりが酷く嫉妬深く、彼氏をいつも束縛していたように見受けた。
それを見て思ったものだった。あんな風には、決してなるまいと。 ジュンにはジュンの生活がある。付き合いがある。『彼の自由を、尊重して』――さえいれば、どうにでもなると。そう、考えていた。それが女として、きっと良い在り方なのだろうと。
けれど恥ずかしながら、それを完全に容認できるほど、私も器が大きい訳では無かったということになる。むしろ周囲でそれをきちんと成し得ている恋人同士の話を聞くにつけて、畏怖の念さえ覚えてしまうのだ。
高校に居た頃はそれほど気にならなかった。そして、互いに卒業して。少し離れた場所に普段居るという状況になった途端、さみしさが溢れる。世の中の遠距離恋愛は、どんな風に成り立っているのだろうと。冗談じゃなく考え込んでしまう位だった。
たまに、愚痴りもした。彼はそれをどのように受け止めていたかは、わかる。お互い向かいあって話す時。彼の眼線は、やはり私の足元辺りをうろうろとしていた。 だから、極力は出さないようにしていた訳で。彼の言う『埋め合わせ』に期待しつつ、ゆっくりゆっくりと時を過ごしていたのだ。
―――
「今度、海外に行けるかもしれないんだ」「本当、?――」
『おめでとう』の言葉を、直ぐに紡ぐことが出来なかった。
「長いこと出品してきたけど――やっと僕にも、チャンスが来たよ。卒業したら直ぐにでも行けるみたいで」
興奮気味で話す彼。 そうね。多分今の貴方に、私の気持ちを理解して欲しいと思うのは、きっと野暮なことなのだ。だって彼の幼い頃からの夢が、かたちになろうとしているのだから。
「ねえジュン、明日――」「あ、――真紅、悪い! さっきから祝賀会やるって友達がせっついててさ」
『桜田、早くいこうぜー』『悪い、今行くよ!』言葉を返す間もなく、切られる電話だった。「あ、埋め合わせはまた今度するからさ。じゃ、また!」
受話器から聴こえていた声は、男の子のようだったけれど。その祝賀会とやらには、女の子も居るんだろうな。結構女友達が居ることを、私は知っている。
「……」
携帯を投げ出して、ベッドに仰向けになる。
「明日は、私の誕生日なのよ? ジュン……」
そこからの一年は、なあなあに過ぎていく。私はさみしさを誤魔化して、彼は自分のことに手一杯。逢うたびにこころの空白は埋まるような気もしていたけれど、何処か二人の間に見えない膜が張っているような風にも思えた。
私よりも二年早く、彼が卒業する年になって。 彼はその年、海外へ旅立つ。また更に、向こう二年も。
長い。私はもう、限界だった。 彼のことを、愛してる。 だけど、これ以上離れるだなんて、もう無理。
そんなことを考えるだなんて、所詮は深くも無い想いだったのだろう―― そう言われても、きっと反論する言葉を、私は持たない。持っていない。
最近、全く眠っていない。 考えすぎのせい、と一言で言えばそうかもしれない。
だけどそれも、今日でおしまい。 明日。私は彼に、――別れを切り出そうと、思っているから。
『しんく、』
声が聴こえる。 彼は今、ここには居ない。 幻聴が聴こえるだなんて、私も相当参っているのか。
『真紅、――』
……そうね。 そう呼びかけてくれることは、この先無くなってしまうのだろう――
『真紅、』
「え?――」「真紅、おい。大丈夫か?」
呼びかけられて、私は身体を起こす。 そこは確かに、ジュンの部屋だった。
意識が、はっきりとしない。私は何時の間にかベッドで横になっていて、彼が心配そうに私の方を覗き込んでいた。
眼をこすろうとすると、頬のあたりにかけてつめたい水の感触がした。
「いや、僕の隣で眠っちゃってたからさ。とりあえずベッドに寝かしといたんだけど」
暫くしたら泣き始めたもんだから、と。そんなことを言う彼。時計を見ると、記憶に残っていた時間から、驚くほど時が経っていないことに気付く。
「夢を」「え?」「夢を見ていたわ。付き合って早々縁起でも無いけれど――いえ、はじめの頃はしあわせだったのよ? けれど私とジュンの距離は段々離れていって、……別れるところまで、いってしまうの」
私の言を受けた彼は、正に寝耳に水を喰らったような表情をしながら驚いていた。
「なんだよそれ。本当に縁起でもないな」「ええ、全くね」
ベッドから身を起こす。 本当、どうしてそんな夢を見てしまったのだろう。
「ところでジュン。私が眠っている間に、いやらしいことなどしていないわよね? まさか」
それを聞くなり、少し慌てた風になる彼。――そういう態度は宜しくない。無実の罪で訴えられてもしかたないわよ?
「してない。寝顔は暫く拝見させて貰ったけど」「あら。随分と殊勝なことね」「はいはい。――まあ、なんていうか」
『見とれてた』
さらっと、そんなことを口にする。 全く、全く以て――言うように、なったじゃないか。
彼の顔の方に手を出して、眼鏡を取り外す。
「な、何するんだよ。見えないだろ」「見えなくてもいいでしょう」
多分またしても、私の顔は真っ赤なのだ。 けれど。それで終わってしまうのも、個人的には悔しい訳で。
「これなら、――見えるのかしら?」
顔を近づけて、そっと。唇を、重ねる。 触れるだけの、口付け。 申し訳ないが、これが限界。
「~~~!」
はい、今度は彼の顔がまっかっか。 私から眼鏡を強引に奪って、ぷいとそっぽを向いてしまう。
「ふふっ」
その仕草が何だか可愛らしくて、笑いが零れてしまう。
「笑うことないだろうに……」
ばりばりと後ろ頭を掻いている。
「馬鹿にしている訳ではないわ。それは知ってたかしら?」「……なんとなく」「そうよ。いい子ね、ジュン」「うわ、久しぶりに聞いた、それ」「そうだったかしら」「うん」
他愛無い会話が、心地良かった。 こうやって、ふたりで話していける限り。 さっきの夢のような結末には、きっとならないだろうと思う。
「なあ、真紅」
そういえば、夢に名前をつけていたような気がする。 なんだっけ。 なんだったのだろう。
「……どうしたの? ジュン」
まあ、別に、 ……気にすることでも……ないのかもしれない……
「真紅。僕は君のことが――」
『真紅――』
……
「真紅、おい」
……?
「大丈夫か?」
「え……」
身を起こすと――そこは、カフェのオープンテラス。 眼の前には、彼が。ジュンが居る。
「最近寝てないって、言ってただろう? 暫く寝せといたけど、様子が何だか変だったから」
どうやら、眠ってしまっていたらしい。 なんてこと。 これから私は、彼に伝えなければいけないことがあって――
「なあ真紅、伝えたいことがあるって言ってたけど――」
そう、それは。 息を吸い込み、言葉を吐き出そうとする。
「――ごめん」
「え?」
私の声よりも、彼の言葉の方が先だった。
「いや、最近ちゃんと話出来てなかったし――向こうに発つ前に、言っておこうと思って」「……何かしら」
眼の前に、差し出されたもの。
「これ――」
掌に収まった小箱を、開く。
安物だけど、と。そんなことをのたまう彼が渡したのは、――銀色の、指輪だった。
「二年、って……結構長いけど。僕もたまにこっちに戻ってくるし、――向こうに居る間だって、浮気なんかしないからさ」「……」
「戻ってきて、落ち着いたら――」「結婚しよう、真紅」
ああ。 私はまだ、夢を見ているのだろうか? ……
「……私で、良いの?」
私は結構な寂しがりで、二年も貴方を待っているとは限らないのよ?
「なあ、真紅。僕は、――ええと、なんだ」
後ろ頭を、掻きながら。
「多分お前が思ってるより――その。……愛してる。……それは知ってたか?」
小さい声だったけれど。それがこころの中で、響いている。 私が思っているより、だなんて。そんなこと、私が知る筈ないじゃないの。
何も言わず、私は席を立って。彼の隣に歩き出し、抱きしめていた。
「おい、真紅――」「暫くこうすることも、出来ないでしょう? 我慢して頂戴」
やっぱり、彼と離れることなんて、出来ない。 事実彼は、海外に行ってしまう訳だけど。 私の方から向こうに出向いてしまえば良いのだ。
学生なんて、時間は余るほどあるのだから。 お金の問題さえなんとかなれば、難しいことなんて何もない。
抱きしめたまま、私は囁く。
「しあわせな、物語」「えっ?」
「そう。単純で、明解な。それでいて、とてもしあわせな、夢のような物語が、世の中にはあるの。確かにそれはあるのに――それで居て、とても不確か。いつ消えてしまうかもしれないもの。私はそれを、知っていたような気がするの。
ついさっき。本当についさっきまで、私はそれを見ていたわ」
片方の腕で、私をそっと抱きしめ返して。もう片方の手を、私の頭の上にぽんと載せた。
「なあ、真紅。しあわせな物語、って――」「僕達は、どうだろう」
――どうだろう。今の私には、直ぐ言葉を返すことなんて出来ない。 だって、先のことなんて、誰にもわからないから。
今がしあわせなら、それで良いような。 それだけだと、実は足りないような。
だから。
「物語に、名前をつけましょう」
春風が、髪を巻き上げる。 私達は、少し身体を離して。
「単純で、明解な?」
お互い真っ直ぐに、眼を合わせながら。
「そう。そんな、夢のような物語に」
お互いの気持ちを、伝え合う。
そうやって。 この夢の続きを、いつまでも紡ぐために。
少女の見ていたひとつの夢の幕間。 如何でしたでしょうか?
すべての出来事は、すべて思い出と成り得ます。 そう、今、この瞬間の出来事であってもです。
素晴らしい瞬間が、こころに残るということ。 それがこれから先も、降り積もっていくのならばと。 そう願えるなら、――しあわせというものは。 案外と直ぐ近くで見つけられるものかもしれません。
そう。単純で明解な答えは、もう其処にあるのです。
――さて。 幕を閉じる際になって。 この物語には、名前が与えられました。 どうか彼女達の人生が奏でる旋律が、こころに刻まれんことを。
私ですか。私は――ただの道化の兎でございますよ。
また別の幕間でお逢い出来ることを、願っております――
【夢の続き】~クロニクル~
こっそり告知します。以前話していたHPが出来上がりました。誰か気付いた方は宜しくお願いします。
透雨
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