槐の花の芳しき
草いきれに時々花の香りが混じって、薔薇水晶の鼻をくすぐった。薔薇水晶は足をとめないまま、その香りの出所をさがした。歩道横の槐に、ちらりほらり花が咲いている。槐の花の盛りの季節だった。
薔薇水晶は街路樹に沿って花の香りを追った。足どりが危なげになっていくのを感じた父の槐は、薔薇水晶を呼びとめて注意した。
薔薇水晶は拗ねをみせた。槐はかまわない。拗ねている薔薇水晶も、そんな幼稚な態度を含めてこのふたりきりの散策を楽しんでいるようだった。叱られるのも一興、思われている証明ということなのだろう。
薔薇水晶の双子の姉である雪華綺晶はいない。彼女は彼女で故旧の金糸雀・みっちゃんと市民プールへ、上機嫌で出かけていった。金糸雀は薔薇水晶たちのクラスメイトで、みっちゃんはその叔母にあたる女性である。叔母といっても年齢は金糸雀と一回り程度しか違わない。たしか七人だか八人姉妹の末っ子だと聞いた。金糸雀と年齢が近いのはそのためだろう。昔からの人形好きで、槐の店の常連客でもある。
名前に雪の字のあるわりに、雪華綺晶は夏の満喫できる、いかにもな場所が好きである。逆に薔薇水晶はそういう場所を好まない。見知らぬ人間ばかりの度を越えた騒がしさは、彼女のもっとも嫌うところの一つだった。
そういう理由もあって、薔薇水晶と槐はふたりきりで、このあてのない散策に興じていた。
目的地というものが存在しないせいか、視線が、いつもよりもきちんと周りの景色に向けられる。目的地がはっきりしていると、心でその場所を見るので、道すがらの景色が薄くなりがちであるが、今はその希薄さからまぬかれている。視界には、いつにない清かな彩りがあり、それがふたりの心に涼風を吹かせていた。
薔薇水晶も槐も、見なれているはずの景色をとても新鮮な心持ちで眺めていた。
薔薇水晶が中学校にあがって二度目の夏休みである。見上げる気にもならない空には、強烈な太陽があった。
槐は額の汗をきった指で携帯電話をとりだし、時刻を確認した。十二時半を少し過ぎたところだった。腹具合も昼食時であることを告げているようだった。
槐がそろそろ昼食にしようと言うと、薔薇水晶は、海がいい、とそれだけを言った。ここは港が近い。港には、海を遠望できる公園というか野外休憩所があり、そこのベンチにはテーブルも屋根もついていて、それらがなければ日よけになりそうな木がある。
槐が頷いて、ふたりは港で昼食をとることにした。弁当を持ってきているから、途中でどこかに寄って買う必要はない。
バスに乗ってから、薔薇水晶はすぐに後悔した。港へ向かうバスの行き道には、病院がある。そのことを忘れていて、バスのなかで思い出した。海は近いけれども、どの病室からも海の見えない、そんな距離にある病院は、槐の妻が息をひきとった場所である。槐の妻とは言うまでもなく薔薇水晶の母なのであって、彼女にとってもその病院は、因縁の浅くない場所だった。
槐はバスが病院に近づくたび、睫を暗くしめらせた。そうなると港に着くまで、槐はそのしめりから脱出できない。ひきずられて薔薇水晶の眉宇も翳りをあらわした。
薔薇水晶も雪華綺晶も母親の記憶などほとんどない。双子を生んだのが障ったのか、出産後すぐに罹病し、それでもふたりを六歳まで育ててから死んだ。そのあとは、と言えば白崎が母親代わりとなって家事育児につとめたという話である。
男が男に惚れるというのはたまに聞くことだが、薔薇水晶には、白崎のそれは少し違うような気がした。人形師としての槐の才能に惚れこんだからと言って、どうしてあそこまでできるものもなのか。あるいはまた、彼らの腐れ縁というか友情は、たしかに、もはや、夫婦に近いものがあった。黄泉まで共にするのではないかとさえ思われた。
ただし、もちろん白崎は明確に男である。槐相手と違い、薔薇水晶は昔のようにべたべたと白崎にくっつくことがなくなった。一定の距離を置きはじめたとも言える。その薔薇水晶は、家族として共にある時間の長い白崎に、男を感じる年齢になってきているということだった。
二台並んだ座席の窓側に薔薇水晶、通路側に槐が座っている。槐は外のいかなる景色からも目をそむけるように、ずっと顔をふせていた。
薔薇水晶は急にさびしくなった。槐の心のなかから、自分の姿が消えてなくなったように感じられてならなかったのである。胸に生じたこのさびしさを信じたくない薔薇水晶は、槐の服の袖をそっとつかんだ。薔薇水晶の指はふれてきた槐の手ですぐにほどかれたが、布の代わりに槐の指が薔薇水晶の指にからめられ、落ちた。それは自分のなかのさびしさやかなしさを信じたくない、槐の心のあらわれに他ならなかったのだが、薔薇水晶には、ただ父の優しさにしか感じられなかった。
港では、足もとから颯と風がおこった。さわやかな風である。その風を全身にあびて心の清涼を得た槐は、しだいに眉間の暗さをとりのぞき、薔薇水晶に笑貌を見せた。
薔薇水晶も笑った。一見すると、とてもそのようには思えない、かすかな笑みだった。しかし槐には満面の笑みに見える。薔薇水晶は表情のとぼしい子だが、けっして無感動ではない。もし感情を正しくおもてにあらわせるとしたら、彼女は四六時中、けっこうな百面相を披露していただろう。
槐は薔薇水晶の背にやんわり腕をまわして肩をたたくと、もう片方の腕をあげて、あそこ、とある一方を指さした。薔薇水晶は槐の指の先を追った。
のんびり食事するにはもってこいの屋根付テーブルである。ここには平日でも昼食をとりにくる人がそれなりにいるが、都合よくそこはあいていた。日陰の席を確保して、ふたりは弁当の包みをひらいた。少し強めの風も、食事のさまたげにならない程度である。箸のすすみは終始良好で、合間の談笑はやむことがなかった。
昼食後、しばらくお茶を飲みながらくつろいでいたが、やがて槐が立ち上がり、薔薇水晶を海へと誘った。ここまで来て、もっと近くで海を見ないのは、つまらない。一服の最後の嚥下をすませた薔薇水晶が立つと、槐はその手をとって曳いた。
波うちの音が聞こえる。汽笛の音が聞こえる。風の音が、草のすれる音が、人々の話し声が聞こえる。ふたりは自分たちの笑声をそれらにまぜて、空に消した。
港の海は、じっさいのところ、綺麗であるとはとても言いがたいものなのだろう。しかし、ふたりの立っているところからは、海の汚れは見えず、感じもしなかった。
一言の会話もなくただ景色を眺めて楽しんで、それにようやく倦んできたところで、ふたりは帰ることにした。
帰りのバスでも病院の前を通った。行きと同じように、槐はやはり睫をしめらせ、薔薇水晶は槐の服をつかみ、槐はその手をほどき、代わりに自分の手をかさねて、落とした。
家に着く頃、自宅兼用のドールショップはちょうど店じまいするところだった。白崎が立て看板を店のなかに運ぼうとしていたので、槐がドアを開いて、閉じられないように押さえた。どうも。そんな言葉がふたりの耳に小さくとどいた。
夕食中、薔薇水晶は槐が気になってしかたがなかったが、槐の元気のないのは、病院の前を通りかかった時だけなので、今はもう、すっかりもとの父に戻っていた。いつもの寡黙な人形師の父に、間違いなく戻っていた。よく整えられた眉にいかなる翳りも見えようがなかった。以降、それがかなしみに顰められることもなく、槐はいつものように工房に篭って、仕事に没頭した。薔薇水晶もまた、槐の顰などすっかり心のどこかへやり、そのうちに忘れ、暑熱のひどい夏休みをおくるようになった。
そして、いくらかの日が流れた。
夏休みもあと一週間という時期になって、薔薇水晶は雪華綺晶と共に、図書館へ行くことになった。数週間前にそこで本を借りた白崎の都合がつかず、代わりに返しにいくことになったのである。レンタルショップで借りたのではないし、数日返却の遅れたところで、どうというものでもないが、どうせこの一日、なんの予定もなかったわけだし、このさい、外出の口実に使おうと思ったのである。
駅前のバス乗り場で降りた時に、隣のクラスの双子と会った。図書館帰りらしいこの双子の、姉が翠星石で妹が蒼星石である。一緒に昼食をとって、ついでに親睦を深めようかという話になり、百貨店内で合流してから、ラーメンをすすりあった。これらはおおむね、薔薇水晶の言い出したことを実行した結果だった。
それにおいて薔薇水晶がこの双子についてわかったのは、翠星石は蒼星石の左側に、立つも座るもいるということ、それが歩く時には翠星石は半歩先を進み、背がそり気味なこと、蒼星石は終始ふせ目がちで猫背になりやすく、歩く時は翠星石との距離を半歩うしろにとっていた。どちらが先に歩みの足を出しても、必ずそうなった。ふたりのこうした姿は、薔薇水晶と同じクラスだった一年の時、親の離婚問題のごたごたのなかで、まるで母子のようだった頃と、なんら変わっていないように薔薇水晶には思えた。昨年秋に時計屋の大叔父夫妻にひきとられた双子は、それから一年近く経った今も、そういう関係であるらしかった。
あと蒼星石は、ものを食べるに咀嚼の回数が多かった。そんなに噛むのには、なにか意味があるのか。薔薇水晶は首をひねりたくなる。しかし、そのあたりのことを蒼星石に訊くと、顎が疲れるからそんなに噛んでないと言われたので、薔薇水晶はひねりたくてしかたのなかった首を、ついに大いにひねることになった。
それから、薔薇水晶の一番気になったことは、翠星石は白崎に気があるのではないかということだった。白崎と同じ日に本を借りたとか、その時色々とお話したとか、そういうことは家で白崎から聞いていたことだし、だからたまたま見かけた彼女たちに声をかけたとも言えるが、ともかく、白崎の話からはわかりようのないことが、その日の翠星石にあったのかもしれない。
薔薇水晶が白崎の名を出すたびに、翠星石の目の色が変わった。その変化はひじょうにわかりやすかった。白崎の名の出ない話には、まるで聞く耳のないようでもあった。
翠星石はうちの白崎に恋でもしてしまったのだろうか。以前、一度ドールショップに来て白崎と会ったらしいから一目惚れとは違うのだろうが……、しかし薔薇水晶は問わず、時計屋の双子と別れた。
帰りのバスのなかで、雪華綺晶が父の誕生日の近いことを思い出し、それを薔薇水晶に言った。薔薇水晶もそう言われて、忘れていたことと一緒に思い出した。九月に入ってすぐに、槐の誕生日がある。
家に帰ったら、早いところ残りの宿題を片づけてしまって、槐への誕生日プレゼントについて、雪華綺晶と話しあおう。学生の身の上、予算の都合をつけるにも時間がいる。今から見繕っておくに越したことはない。共同でなくそれぞれでプレゼントを買って贈るにしても、お互いがなにを買うかの話を最初につけていれば、プレゼントの内容の被らずにすむだろう。
あと十日――薔薇水晶は帰宅後にカレンダーで日付を確認して、思いの外に槐の誕生日の近かったことに驚いた。カレンダーの日数を見ると、いよいよ当日がまぢかにせまっている気がしてならなかった。これは早く決めてしまわないといけないと思った。
おりしも、よかったのかよくなかったのかはさて置いて、槐の腕時計が壊れてしまったらしい。家から出ることはほとんどないから、槐にとって腕時計はどうしても必要なものではないが、ともかく近いうちに買いなおさなければいけないと、夕食中に槐が言った。
喜んではいけないことなのだろうが、薔薇水晶には喜ばしいことだった。
悩むまでもなく父への誕生日プレゼントが決まったのである。食後、薔薇水晶は白崎に言って、槐が時計を買わないようになんとかしてほしいと頼みこんだ。この奇妙な依頼の理由を、白崎は問わなかった。問わずともわかった。槐の誕生日の近いことを彼も知っている。薔薇水晶が槐に時計を贈る気になっているとわかりきっていた。
百貨店に行くまでもない、時計なら目と鼻の先で売っている。薔薇水晶の頭のなかには昼間に会ったばかりの双子の顔がくっきりと浮かんでいた。
小さな小さな時計屋の店内は、老人がひとりいるだけだった。薔薇水晶が名のって、そして老人の養女ふたりの名を出して、老人がその名の養女を呼びにいって、すると奥からどたどたという足音と共に、翠星石があらわれた。なにをしにきたんだという翠星石の怪訝な顔に、時計を買いにきた決まっているという顔を薔薇水晶は返した。ここは時計屋だ。
ところで、蒼星石は?
薔薇水晶は、こういうことの相談は翠星石より蒼星石のほうがよい気がしていた。ふたりの性格の違いをよく知っているわけではないが、一年の頃の記憶だとか聞いた評判だとかを考えると、そう思えてならなかったのである。身内への贈り物は蒼星石に、思い人へのそれは翠星石に、なんとなくそういう印象があった。しょせんは自分と同い年の翠星石に、そんな豊富な恋愛経験があるかどうかは知らないが。
あきらかに暑熱ではない熱気がにわかに起こった。狭い店内はあっというまにその熱気につつまれた。薔薇水晶にはすぐに熱気の正体がわかった。これは怒りの炎というやつだ。そして炎上しているのは翠星石に違いなかった。翠星石は口を尖らせながら、黙って人差し指をつきだした。どこかを指し示しているのは薔薇水晶にもわかったが、なにも言わず、室内でそんなことをされても、どこのことを示しているのかわかるはずない。
薔薇屋敷。そんな言葉がこの世に存在するのも嫌だというほどの顔つきで声音で、翠星石は言った。
愛しい双子の妹は、たった一度しかない十四歳の夏を、高台の薔薇屋敷の思い出で締めくくろうというのです。怒りの炎は、どうやら嫉妬の炎らしいことを薔薇水晶はそれで感じた。
しかし翠星石の老父はのん気なものだった。年の余裕か気づいていないだけなのか、薔薇水晶にどんな時計がよいのかと訊き、彼女が父への誕生日プレゼントに腕時計を買いたいと言うと、親孝行なことだとひとしきり感心して、それなら手作り時計でもプレゼントしてみないかね、と笑いながら提案した。
手作りと言ってもほんとうに一から作るのではない。やることはせいぜい、ケースや針のデザインを選んだり、文字盤に名前などを書いたりするだけである。それでもけっこう、自分だけのオリジナル時計という気分を味わえるものだ。
二、三時間程度ですぐにできると老父に言われ、薔薇水晶は喜んでその提案に乗った。
言われたとおり、数種のケースと針のなかから、槐に似あいそうなものを選んで組み立てて、文字盤には、翠星石から借りた英和辞書片手に考えた英文を刻み入れた。失敗が怖いので、これは老父にやってもらった。文法あっているかな、文字を指でなぞって、薔薇水晶は笑った。
包装は翠星石がやってくれた。手慣れたものだった。店の手伝いをよくしているのだろう。
帰る前に家へ招き入れられ、お茶とお菓子をご馳走された。おばばの淹れるお茶は日本一おいしいんですよ、と翠星石が言って、おばばと言われた老母は照れて微笑した。大げさと言えばそうかもしれないが、お茶はじっさいに、とてもおいしかった。
帰り際に薔薇水晶は、白崎の誕生日を翠星石に教えてやった。翠星石は、それがどうかしたのと言わんばかりの目を向けた。いきなりなにを言い出すのこの子は、そう思っても、雪華綺晶がいないから通訳してもらえない。
薔薇水晶には、翠星石の反応の薄さが意外だった。おかしい。こんなはずではなかった。
ここで薔薇水晶が期待していた翠星石の反応というのは、顔を真っ赤に染めて怒り出すというものだった。お前のところの家政夫なんてどうも思っちゃいねーです、とか、誕生日教えられたってプレゼントなんかやらねーです、とか、そういう反応を見聞きしたかったのだ。
薔薇水晶はてっきり、翠星石が白崎に恋をしてしまったのだと思っていのに、もしかして違うのだろうか。ではラーメン屋でのあれは、いったいなんだったのか。
(おそらくそれは吊り橋効果のようなものだったのだろう。翠星石にとって白崎そのものをどう思うというところはなく、あくまで、図書館での楽しい会話という付加要素があって、初めて白崎は翠星石の心を煩さくさせていたのだ。もし、その付加要素の舞台が図書館ではなく時計屋だったなら、翠星石は期待どおりの反応を寄越してきたかもしれなかった)
白崎の春はまだまだ先かあ……。心のなかで呟いて、薔薇水晶は自宅に続く夕暮れの道を歩いた。
九日後、薔薇水晶が腕時計をプレゼントすると、どういうわけか槐は彼女を叱った。怒声をあびせかけたわけではなく、彼の表情は明るく、喜色の彩だけがあった。
槐は腕時計の文字盤を指さして、その文を読んだ。
“Defend my precious”
こういうことは、親が子に贈る時に書くものだから、子どもがこんな気遣いをする必要はないんだよ。
ありがとう、薔薇水晶。
槐は、嬉しさを隠さずに言った。薔薇水晶も嬉しかった。
庭の槐の葉を落とした冬は、木枯らしが聞こえて久しい。今は二学期終業式の午後である。
「はあ」「ふう」「ほっ」「かしらー」
金糸雀の溜め息は語尾と同じである。なんでそんな奇妙で器用なことになっているのか、つきあいの短い水銀燈や翠星石はとんと知らない。比較的長い薔薇水晶も知らない。――みっちゃんさんに訊けばわかるかな。と、薔薇水晶は甘酒を飲みながら思った。みっちゃんは金糸雀のことならなんでも知っているに違いない。しかし、わざわざみっちゃんに訊きたいと思うほど、金糸雀の変な溜め息は、薔薇水晶にとって、また水銀燈や翠星石にとっても、興味のあることではなかった。
それはともかく、こたつでぬくもるこの四人は、雪華綺晶お気に入りの酒粕で甘酒をつくって一杯やっていた。取り置きはそれで最後だったらしく、酒粕は尽きてしまったが、そのありったけを使った甘酒は、まだたくさんある。まあ無くなっても白崎が買ってくるはずだ。
「これ、勝手に飲んじゃってよかったの」どうしたって悪びれているようには聞こえない調子で水銀燈が言った。薔薇水晶に訊いたというより、ただ言ってみただけのようだった。「いい。全然問題ない」薔薇水晶はにべもなく言った。「三人とも、じゃんじゃん飲んじゃって。どうせお姉ちゃんのお金で買ったんじゃないし。選んだだけ」「でも、あとが怖いかしら」「見つかったらカンカンですよ」と言いつつ、金糸雀と翠星石の甘酒を飲む手は、先ほどからちっとも休まるけはいがない。「だいじょうぶ。お姉ちゃんは今日は蒼星石とデートだから、夕方まで帰ってこない。それまでに片づけとけばオーケー。取り置きの数なんて覚えているわけない」現場を目撃されたら危ない事態なるということは、薔薇水晶もわかっているらしい。
デート、という言葉に、水銀燈は眉間を指で押しながら言う。
「デートじゃなくて、買い物のつきそいね。クリスマスプレゼント選ぶの手伝ってって頼まれたんでしょう」「しかも相手はお金持ちのおじいさん。高台の薔薇屋敷の」「誠実そうに見えて、蒼星石もやるかしら」「玉の輿狙いって意味ですか。お馬鹿なこと言うんじゃねえですよ」
このでこっぱち、と言って、翠星石は金糸雀の広いおでこをぺしりとたたいた。
金糸雀は少し赤くなったおでこをさすりながら、こたつのまんなかに置かれている皿に手をのばす。口に入りこんできた皿の上のそれは、おいしい。
「柿の種うまうまかしら」「あなたの家、いつもピーナッツが入っていないのを買うのねぇ」「ピーナッツは柿の種じゃないからいらない」「でもピーナッツはピーナッツでべつに買うなら、ピーナッツ入り柿の種買ったほうがいいと思うかしら」「それ、同感ですぅ」「うーん。家族会議の議題として考えとく」
こたつには皿の上で混ざりあう柿の種とピーナッツ。床にはそれぞれの入っていたプラ印の包装袋。
おつまみを食べながら、四人はこたつで甘酒をちびちびと飲んでいる。みんな、ちょっぴり大人な酒の気分を味わいたいのか、おちょこにそそいで、ちびちびと飲んでいたので、たっぷりつくった甘酒は四人がかりでもなかなか減らない。
それで、と翠星石が話を切り出した。三人を家まで連れこんだ理由は、どういうものなのか。翠星石が訊くと薔薇水晶はこういうふうに答えた。
最初は水銀燈とふたりきりの予定だったのだけれども、朝のHR前に教室に戻ってきた時、午後から蒼星石と買い物に行くことになったと姉は言うものだから、じゃあわたしは翠星石を誘ってあげなきゃね、ひとりでさびしいだろうからね、そんな使命感が自分の内で、むくむくと湧きあがってきた。
その説明に金糸雀がさらに訊いて、
「カナは?」「こたつが四角いから」
金糸雀まで誘ったのは、とどのつまり、こたつは四隅なのに奇数三人というのは、あまりにもおさまりがわるい。
すまし顔で薔薇水晶は言い、水銀燈はまた眉間を押さえ、金糸雀は癇癪をおこし、翠星石は笑いころげ、もうどうしようもなかった。
ひとしきりわめき散らした金糸雀が、薔薇水晶を懲らしめんと勢いよく立ったために、こたつのなかに冷たい空気が入ってきた。ひゃあ、と翠星石が小さな悲鳴をあげる。
気の短い翠星石が今度は立ち上がらんばかりに怒り、金糸雀をキッと睨んだ。金糸雀は慌ててこたつに戻った。
冷たい空気が遮断され、再び足もとが暖かさでくるまれた。
ふと、翠星石がサイドボードの上に置かれている化粧箱に気づき、「あれって、夏に買っていった時計のやつじゃねえですか」と、その化粧箱を指さした。
そうだよ、と薔薇水晶は言った。時計はそこに健在、状態はとても良好、よい時計だと父も喜んでいた。
槐は結局、薔薇水晶に貰った腕時計をほとんどつけていない。これはしかたのないことだった。仕事中にしていても邪魔なだけだし、外出はめったにしない。それはプレゼントする前から、薔薇水晶もわかっていたことだが、槐の自室ではなく客の目にもふれやすい所に常置されるとは、考えてもみなかった。時計入れの蓋は開けられていて、夜になるまで閉じられない。見せびらかすために、槐がそうしているものだった。
「いいお父さんだけれど、ちょっと恥ずかしいお父さんね」
金糸雀が言った。薔薇水晶もそれには同意せざるを得ない。でも、金糸雀の父や叔母のみっちゃんだって、きっと同じことをするに違いないのだ。薔薇水晶が言うと、金糸雀は、たしかにあのふたりはそうしかねないから、それには同意せざるを得なかった。「うちのおじじも、似たようなことしていやがるです。恥ずかしいったらねえです」翠星石まで同意した。「水銀燈の家はどうかしら」金糸雀が、残る水銀燈の父について訊いた。
水銀燈は、言おうかどうかしばらく迷ったあと一度目をふせて、なにか思い出すところがあったのか苦笑してから、「すごく恥ずかしかったわ、あれ」と言った。父の部屋のタンスの三段目の引き出しに、水銀燈が幼稚園の時に描いたへたくそな似顔絵が、大事にしまわれていた。父の日のプレゼント代わりにと思って部屋を掃除していたら、そんなものが出てくるのだから、たまったものではない。
わたしたちの父親は、もう阿呆ばっかりだ。
呆れとも嘆きともわからない溜め息の落ちた室内に、やがて、やわらかな笑声があがった。
薔薇水晶は庭の槐の木に目をやった。父と同じ名を持つ木は、夏の盛りの面影もなく、花も葉も散らせてしまっている。
薔薇水晶は笑った。
幻の花の香りが自分の鼻をくすぐるのを、はっきりと感じたのである。
おしまい。
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