記憶の物語・きっかけ
きっかけ、なんて大層なものが世の中に存在するとは思えない。大きな変化っていうのは日常の中でさりげなく徐々に起こりそれに気づいた時人は始めて「変化した」と感じるものだ。 なんて……世の中とはそういうものだと思っていたが、例外も存在するらしく僕と金糸雀の場合は少し違った。唐突に起こる変化。何の前触れもないプロローグ。人生って言うのはいつも何が起こるかわからない。これは僕と金糸雀が出会った時の話。きっかけカチカチカチカチ……寂寥とした高校の教室に時計の音だけが響いている。鉛筆の音もこだまするほどの静けさの中で、ぼくはただひたすらペンを走らせていた。普段なら邪魔で仕方がないあらゆる騒音に、気をとられていたのも最初の三十分だけで五時間も継続してテキストと格闘していれば流石に気にならなくなっていた。「ふぅ……」僕はため息をつく。ただそれは酷く疲れたときのため息でもあり、同時に深い達成感も含む「いい意味」でのため息だ。テストはあと3日後に控えていた僕はいまさら死に物狂いで勉強していた。まだ宿題すら処理していない僕はいつの間にかこれくらいの時間までがんばらないと駄目な状況に追い込まれていた。テスト勉強を四時ごろから始めてもう五時間近く。四時には夏なだけあって全力で紫外線を放っていた太陽も、今では地球の影で面影すらない。時刻はもう九時。窓から外を覗くとひたすら闇、その中でぽつぽつと小さな光ががんばっている。時間が過ぎていくのを実感して、僕は少し充実感を得る。がんばった感じがする。むしろがんばりすぎた気もするが……。
まぁ何度も言うようだが僕は今ピンチだ。それはもう背水の陣と四面楚歌を足してそれを二で掛けたような大ピンチで昨日も夜遅くまで勉強して結局寝たのは五時半。それでも朝はやってきて起きたのは七時。結局1時間三十分しか寝てないという快挙を成し遂げて、学校の方針にめらめらと殺意を感じたが着替えて家を出る頃には自業自得と気づき寝不足の頭と焦点の会わない目を全力で駆使して今日も眠いだけの学校生活を満喫したのだ。「ふわ……」そんな不規則な生活をしていれば、あくびが出るのも理解してほしい。心なしか体も重たいのもきっとそのせいだろう。先ほどのあくびで溜まった涙をふき取りながら窓を閉め、教室の鍵を閉めた。廊下に出るとやはり闇。とても心細い。この時刻は四階の廊下は真っ暗だ。足元に気を付けないと危ないな。僕は三階へと急いだ。高校二年生の僕は、普段なら三階で勉強しているが今回は少し事情が違った。しばらく勉強していると下の階で定時制の生徒がぎゃあぎゃあ騒ぎ始め、それに耐え切れなくなった僕はすぐに職員室にいき、特別に四階の教室を貸してもらったのだ。時計の音すら気になってしまう僕は、定時制の声なんて旅客機が頭上を通過するほどの音量に聞こえてしまう。几帳面と呼ぶのか繊細と呼ぶのかは勝手にしてくれ。まぁそんなこんなで僕は四階に居る。静かな場所を選んで勉強を始めていたのだから当然だが……今この階は非常に静かだ。シューズが地面をはじく音だけが、廊下に響く。やはり足元は真っ暗で、さっきまで蛍光灯の下に居た僕の目は、外から差し込む月光だけでは少し頼りない。「うわ」そうすると、何かにひっかかってもおかしくはないわけで……。僕は放置してあったバケツに足を突っ込み勢い良く、転んでしまった。「いったー……。ちゃんと片付けろよ!」とは言っても、今バケツはもともとこの位置においておくものだが。
むなしいな……わかってても八つ当たりしてしまう自分がたまらなく虚しい。神様は、僕がこんなにがんばっているのにこんな仕打ちしかできないのか。いや、自分の不注意だけどさ。制服についたほこりを払いながら立ち上がろうとしたその時、弱い風が僕のほほをなでる。夏には嬉しい風だ。こんな風が毎日吹いててくれたらいいのになぁ。……あれ?この風って、どっから吹いてきたんだ?この学校には多分誰もいない。しかも廊下の窓なんかは、掃除の時間中にとっくに全部封鎖済みなのだ。この学校って隙間風こんなに酷かったっけ?不思議に思いキョロキョロ回りを見渡す。ひゅう風が僕の脇を吹きぬけた。さっきより冷たく強い風だ。「……?」窓の隙間や、壁のひび割れなどに手を当ててチェックしてみる。当然そんなところからは大気の流れは感じない。しだいに疑問は大きくなる。なんだ?どこからだ?ひやり、と背中が冷たくなるのを感じた。それは冷や汗のせいなのかそれとも……ひゅうまた来た。これはちょっとやばいんじゃないか?いや、別に何がやばいってワケじゃないけど。もしも、もしもの話だけど………もしかしてこれは幽霊的な……?
一瞬、僕脳内で血まみれの女の子が後ろに立っている映像が掠める。いやいやいやいや!!!ないってそれは!!!!!だってアレじゃん、そんなもん人間の恐怖心が生んだ幻じゃん幻影じゃんプラズマじゃん。おまえ、そんな物信じてどうすんだよ。ばかだなぁ僕って。ははははははは。HAHAHAHAHAHAHA.がしゃん!「はぁ!!!!」どこからか何かが落ちる音が響く。それに反応して思いっきり変な声を上げてしまった。警戒するのも忘れてとっさに音のした方を振り返ると、屋上の階段から月光に照らされ蒼いバケツが転がってきているのが見えた。当然怖い。怖いが気になる。純然たる好奇心。僕の足はそれだけで屋上へと近づいていく。僕はさきほどの心臓に悪いバケツを迂回して、止まったのを確認してからゆっくりと屋上へと向かった。シューズの音がさっきよりも大きく感じる。高鳴る鼓動。自分の息遣えさえも轟音に聞こえる。それほど静かな夜の学校で俺はいったいなにをしてるんだ。ほんの数メートルがやけに長い。もしかしてこのままずっと屋上にたどり着けないかもと思った。むしろそうでもいいと思った。が、そんなものはやはり幻影ですぐに屋上の階段へとたどり着いてしまった。恐怖と好奇心の混ざった生唾をごくりと飲みこんで。そして直感的に感じ取った。(……屋上に何かいる)僕の第六感がそう叫んでいる。行って確かめろと騒いでる。その何かはなんなのかは良くわからないが、僕にはわかった。
それに屋上にいけばなんなのかわかる。僕は深呼吸をして呼吸を整える。あまり効果はなかったが準備体操には十分だ。そして僕は覚悟を決めるとワックスがけされた廊下をいきよいよく蹴った。始めは一段飛ばし、次第に二段飛ばしになり、あっという間に屋上の扉にたどり着く。倒れていた掃除用の箒を跳びこえ、そのままの勢いで屋上の扉を蹴破る。屋上の露骨なコンクリートが足に伝わってきた。ちょっとした達成感と自分の勇気に拍手を贈りたい気分だが今はそんなことしてる暇はない。すぐに屋上を見渡した。…………………………………………………………………?「あれ?」何もいない、と言うことはなかった。何かいたのは確かだが、その「何か」が予想を大きく外れていたからだ。それだけならまだ冷静に対処できるが、ほかにもっと複雑な要因がある。その人は、なぜか屋上の手すりの向こうに座っていた。手摺りの向こうのあまっている空間の端っこに座り、あしをぶらぶらさせている。今日は風も吹いていて非常に危険だ。ふとその人が振り向く。後ろで少しカールした髪に、大きなひとみ。そしてもっとも特徴的なのは広いおでこ。うちのクラスの室長。そして生徒会書記の超優等生。金糸雀がいた。何度も言うが、なぜか手すりの向こう側に。唐突な変化が訪れる。綺麗な星が夜空が広がっている。僕の髪が風にさらわれて揺れる。さっきまで汗をかいていた分、首筋が少し寒かった。いや、今現在も非常に嫌な汗をかきまくってるからきっとそのせいだろう。感じたくはない感覚だったが。さて、この状況どうしたもんだろう。僕は困っていた。このあまりにも異質な状況で困らない奴なんてたぶんいない。いや、絶対いない。僕は手摺りの内側、彼女は手摺りの外側。一歩間違えば、高さ約十メートルから真っ逆さまに落ちる位置にいる。何度も言うようだが今日は風が強く、彼女の膝より上の長さのスカートも肩の位置でカールした髪も風のリズムで動き回っていた。それに加えて小柄でほっそりとした体系なんだから、手摺りをつかんでないと飛んでいってしまいそうだ。と、思った途端にふいに強いの風が吹く。ちょっとした風だったが、彼女の体はそれだけですこしバランスを崩してしまった。おそらく体重も恐ろしく軽いに違いない。そんな弱弱しい彼女を見ていると、なんだか不思議な感じがした。いつもしっかりしてそうな彼女の姿しか見た事がなかったからだ。彼女とはクラスが一緒でもほとんど話した事はなかった。あったとしても業務連絡的な会話のみで、必要な事を話したら忙しそうにすぐにどこかへ行ってしまう。いつも重たそうな資料の束をいつも持ち歩いているような子だったので一度だけ「手伝おうか?」と聞いてみたが、「大丈夫かしら~♪」と明るく言われたのを良く覚えている。室長であり生徒会書記である忙しさはたぶん半端ではないだろう。常人ならきっと嫌になるほどの仕事をこなしているに違いない。
だが彼女はいつも楽しそうに笑っているのだ。一時期は少しだけ不思議だったがいつしかそんな疑問は、「たぶんなってみないとわからない喜びや快感があるんだろうなぁ」と曖昧な結論を出してずっと前に完結していた。人間の感情というのはコンピュータや数学といったロジカルなものを超越して、あらゆる可能性を秘めている。それを一文系(希望)の高校生が理解しようなんて無理な話だ。それにもっと身近な疑問が目の前にあるじゃないか。生徒会の会議や室長の仕事で遅くなるのはわかるが、屋上に来る理由がわからない。まさか、これも仕事のうち?……そんなわけないか。金糸雀さんが日本人なら、どんなに状況が異質でも言葉は通じるはずだ。原因理由はどうあれ、その前にやる事がある。「そこ、危なくないか?」その途端びくっと金糸雀さんの体が跳ねる。そしてすばやく僕の方を向くと、「い、いつからいたのかしらー!?」大袈裟に叫んだ。あんなに勢いよく扉を開けたのにこの子は気づかなかったのか。気づいててあえてこっちを見てないのかと思った。「さっきだよ。何してんの?」「え……何って特に何も……いろいろ考えてたらこんなトコに来てたかしら」そう言って彼女は、下を向いて手摺りを掴む。ただ、その目はなぜか悲しげで、なんだか僕は少し不安になった
でもなんで不安なのか、と聞かれると困ってしまうし、今はそれを知る術もない。結局、僕も「ふ~ん」と、なるべく気のない素振りで返事を返して、彼女に近づき手摺りにもたれかかった。近くで見る彼女は、昼の元気な印象とはまた違った感じがする。月光は彼女の白い肌をまたいっそう白く、雪よりも白く染め上げている。どちらかと言うと日焼けしているイメージの彼女の肌は思ったより綺麗と言う事に今さら気づいた。目鼻立ちや輪郭なんて一寸の歪みもなく、ずれもなく精巧な人形のような錯覚さえ覚える。大きな碧眼はどこか悲しげにつまらない街の風景を眺めていて、そうしていると不思議と彼女の目に映る町の風景まで悲しげに見えてきた。彼女の美貌が、街を演出している。(こうしてみると美人なんだな……)頭の中で言葉にしてみるとますますそんな気がしてくる。一度だけ、大きく心臓が高鳴った。いつもはただクラスの一員としか思っていなかった子が急に女の子に見えてきて、少しだけこのシュチュエーションを意識しちゃったりしたからだ。急に恥ずかしくなった僕はとっさに彼女から目をそらすと、その先にあった景色を見つめた。ぽつぽつと光る民家や、建設中のビルの溶接の光が点滅しては消え点滅してを繰り返している。何度も見たことある退屈な景色だが、会話と会話の間の暇つぶしにはちょうどいい。僕は彼女が何か話しだすまで中途半端に都会化した街を見つめている事にした。そうしないとなんか気まずい。緊張する。こういう感覚は久しく感じていない。
それだけで僕の頭は少し混乱していたのにさらに追いうちをかけるように、完全不測の事態が起こった。「う……ぐす……」「ん……何? ってうわ!?」彼女がなにか言ったと勘違いして、すごく間抜けな声をだしてしまう。恥ずかしさを紛らわすために景色に集中していた僕は、途端頭の中が真っ白になる。本物の思考停止とはこう言う事を言うんだろうか。彼女は泣いていた。顔を涙でくしゃくしゃにしながら制服の袖でひたすら目を擦っている。必死に顔を隠しているようだが泣いてることはバレバレだった。え、えええええええええええええええ!!「な、え、なんで泣いてんだよ!?」彼女は答えない。ただただあふれる涙をぬぐっている。「ちょ、泣くなって!」まだ答えない。彼女は涙が止まらないようだが、僕は全身から汗が止まらなかった。ものすごい罪悪感。頭でわるくないとわかっていても本能がそれを訴え続けている。すごく悪いことした気分。何もしてないのに。「あー……ごめん! なんかごめん!」
とりあえず謝っとくが、やっぱり彼女は泣きやまない。水溜りができそうな勢いで泣き続けている彼女の袖がみるみるうちに涙に染まっていく。僕は完全に困っていた。突然泣き出した女の子にできる事なんて僕は知らない。ましてや、まともに話すのも始めてのこの子にできる事なんて見当もつかないのだ。畜生、なんてへたれなんだ僕は。こんなとき恋愛経験の少なさが悔やまれる。「と、とりあえず危ないからこっちこれば!?」もっともな意見だと自分でも思う。今はもっと別のことがあるんじゃないか?とも思うしかしやっぱり彼女は動かず、それでいて泣きやまず体中から水分を集めては目から放出と言う機械的ながらも人間独特の作業を繰り返していた。俺の言った意味わかってんのかな?そもそも俺の言った事聞こえてんのかな?なんて当たり前でわかっている事を考えるのも混乱のなせる技だ。(どうしろって言うんだよ!)なんて言葉が思わず口から漏れそうになるのをこらえて、必死に対処法を考える。しかし当然と言うべきか──。僕はあるドラマを思い出した。すっごく古い、中学校の1年生くらいに見たべたべたな恋愛ドラマ。実体験から打開策を見つけ出すのは無理と早々にあきらめた僕はTVの向こう側の世界から答えを導き出そうとしていた。これに似た状況が確がテレビの向こう側であったんだ。ヒロインの親友が事故で死んじゃう。
葬儀の日、ヒロインがめちゃくちゃに泣いてるところに主人公がいる。なきやまないヒロインに主人公は───(これだ!)僕は手をぽんとたたいてすぐに実行する事にした。──混乱する頭と焦る気持ちが生み出した答えなんてろくなモンじゃないのだ。僕は泣いている彼女にゆっくり歩み寄ると静かに腰を下ろした。ちょうど彼女と同じくらいの目線で静かに手を伸ばす。手摺りの感覚は狭かったが手を伸ばすくらいは容易だった。「泣くなってっ」そう言って後ろから抱きしめてやった。思いっきり。それに彼女は体を瞬間びくっと震わせ、驚いていたと思う。やっぱり彼女の体は酷く弱弱しくて危なっかしくて、でもこうして抱き閉めているとなんだか安心できて。それでも彼女の体が微かに震えてるのが、僕にとってはとても恐ろしかった。ずっとこのままでもいいかもなんて馬鹿なことも考えたり考えなかったり。確認と言うかなんと言うか……様子を見ようと彼女の顔をみる。この角度じゃ泣きやんでいるかどうかはわからないが、涙をぬぐう手が止まっている事からおそらく泣きやんだのだろう。怖がっているのか、驚いているのか知らないが彼女が目線だけをこちらによこしてくる。ちらちらとおぼつかない視線でこちらを見ているのはやはり僕が抱き締めているからだろうか。だがその目からはもう涙は流れていなかった。
おもわずほっと息が漏れる。よかった。これで失敗したらどうしようもなかったな。深い安堵感に包まれて全身の筋肉から急速に力が抜けていくのを感じた。(まったくなんでこんな事になったんだか)勉強してて、帰る時間に鳴って風が怖くって、屋上が気になって……我ながら意味不明な流れだ。まぁ一番意味不明な事は今現在の状況だけどさ。なんだか酷く疲れた。今日は早く家に帰って寝よう。そう思った矢先。ぐんと体が地面に吸い寄せられた。多分僕はその時「あれ?」なんて間抜けな声出してたんだろう。手摺りを掴もうとして手を伸ばしたが手に力が入らずそのまま露骨なコンクリートにたたきつけられてしまった。全身に力が入らないのと同様に、まぶたにも力が入らず僕の視界はそのまま暗闇に覆われて、視界が無になってしまう。なんだ。何が起こったんだ。どうして?薄ぼんやりとした思考の中で出てくるのはさまざまな疑問。一方で「俺混乱してるなぁ」なんて事を思ったのが、なんだか妙にはっきりしていて、不思議だった。ただそんな事を思ったのもつかの間。僕の脳はまもなくその機能を停止して、僕も脳と共に深い眠りについていった。
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