自転車
ある日曜日。荒れたコンクリートの細道を、ジュンと翠星石は並んで歩いていた。ジュンの両腕には自転車のハンドル。これが二人の一緒に居る理由である。「……それにしても、翠星石が自転車に乗れないなんてなぁ」「うるさいです! 誰にでも向き不向きというものがあるですよ!」「僕よりも運動神経が良い蒼星石に教えて貰えば……」「またその話ですか! ……姉としてそう情けねー姿は見せられねぇですよ」意地っ張りめ。その辺りはジュンも似た者同士であるのだが。面子の為に面子を捨てる。何処か矛盾した翠星石が微笑ましくて、自然とジュンは口元を緩めた。「あっ、今笑ったですね、許さんですぅ!」「うお、痛っ。悪かったから、手を振り回すのは止めろって」そんな遣り取りを繰り返す内に、二人は目的の場所に着く。人気の無い静かな川原。耳を澄ませば小さな虫の音だけが辛うじて聞き取れる。「ここならそんなに人は通らないから、思いっきり転べるぞ」「……地面が草ばかりです。おまけにぼこぼこです」「整地されてないんだから仕方ないだろ。それに地面が固かったら転ぶと痛いぞ」「う……」渋々とジュンから自転車のハンドルを受け取る。彼女が跨るのを見て、ジュンは背後に回り荷台を掴んだ。「し、しっかり支えてるですよ。勝手に離したりしたら激辛スコーンの刑ですよ!」「はいはい……ほら、漕げよ」「……よーしッ、いくです!」翠星石の左足が、景気づけの様に勢い良くペダルを蹴る。そのまま片側に彼女の全体重が掛かり、自転車は真横にばたんと倒れた。「みぎゃあ! ……ち、チビ人間、なにぼおっとしているですか!?」「……流石に今のは無理。支えきれない」「ぺっぺっ、土食べちまったです……」(本当に初心者なんだな……ま、気長に構えるか)
それから、午前中はジュンの手本を交えつつ、姿勢その他基礎の学習、矯正を行い、昼を挟んで午後からはとにかく実戦、二人は愚直に自転車と格闘し続けた。どれだけ転ぼうとも、勢いだけは衰えない翠星石の挑戦に付き合い続けた結果、彼女となんら見劣りしないほど、ジュンも汚れてしまっていた。「……そろそろ日が暮れてきたな」「乗れるようになるまで、今日は帰らねぇです!」「はいはい。付き合ってやるよ」苦笑と共に翠星石の背中へ。荷台に添える手は、もう形程度のものでしかない。それでも手を離すとバランスが崩れるのは、未だ自転車に対する恐怖心を克服できないからだろう。(だけど、そろそろきっかけを掴めると思うんだけどな)既に乗りこなす土台はできあがっている。なら、一度でも自転車に操れると実感できたなら、恐怖など何処かへ吹き飛んでしまう筈だ。そしてその瞬間は近いとジュンは思っていた。事実として、時間の経過を指摘された翠星石は、並々ならぬ気迫を燃え滾らせている。今度こそ。そんな言葉を体現する彼女の合図を、ジュンは静かに待ち続けた。「……ジュン!」ペダルは回り、車輪が動き出す。覆い茂る雑草を掻き分け、でこぼこ地面に翻弄されて、二人は走る、何処までも走る。「…………よし、行けッ!」頃合いを見て、ジュンは追走を止めた。途端、ぐらりぐらり右へ左へ迷走する自転車。翠星石は必死にその舵を取り続ける。と、自転車が一際大きく揺れた。石にでもぶつかったのだろう。
既にバランスは滅茶苦茶だった。見守っていたジュンも、この後に広がるであろう見慣れた惨状に、もう目を閉じたくなったが、「―― い、いい加減に言う事聞けぇですぅッ!」翠星石は諦めなかった。力任せにハンドルを動かして、なんとか体勢を立て直そうとする。しかしその気概とは裏腹に、彼女のやり方は逆効果である。ジュンも思わず声を張り上げていた。「もう障害物は無いから大丈夫だ! 肩の力を抜いて、腕じゃなくて全身でバランスを取るんだ!」そんな有り触れたアドバイスは、今までに何度も伝えている。それでも今のジュンにできるのは、こうやって声を掛けて励ます事だけだった。―――― そして、蛇行を続けていた自転車が、だんだんと軌道を安定させていく。遂には揺れの無い直進と、大きなカーブを描いてだが方向転換さえこなした。そのままジュンの前を通り過ぎる。数時間の努力が実った喜びに、二人の顔は大いに綻んだ。「……やったです! 見てるですか! 翠星石の本気を出せば自転車だってこんなもんです!」「ああ! 始めたばかりの時とは見違え……お、おい! 馬鹿、前を見ろ、危ないぞ!」「馬鹿とはなんですか!? 前なんか見なくても今の翠星石なら―――― きゃあああッ!」悲鳴と共に、ジュンの視界の中で翠星石の姿は草の海へと沈んだ……。
「……結構酷いな」転んだ際に自転車ともつれ合ってできた右足の傷痕は、今日の間にできたどの痣よりもくっきりと残っていた。先程から翠星石の口数は少ない。傷は痛むのだが、気の強い彼女はそれを口にする事ができなかった。「時間も大分遅くなったし……」ぐ……と何かを堪えるように翠星石の顔が歪む。「……でもこの場合、仕方ないよな……うん。仕方ない」「別に置いて帰ってもいいです……」ジュンの言い方が責め苦に感じて、思わず自暴自棄的な内容の返事をした。しかし当の彼は、この状況にあって翠星石の言葉がまるで耳に届いていないか、仕方ない、仕方ないと……その単語を繰り返して呟く。まるで誰かに言い訳をするかのように。「……どうしたですか? チビ人間」「仕方ないんだ―――― こうなったからには仕方ない…………だからお前も諦めろ」「?」訝しがる翠星石を他所に、ジュンは倒れたままだった自転車を起こした。そしてそれを翠星石の前まで引っ張ってくると、スタンドを立てて、チェーン周りの簡単な点検をしてから、良し、と言った。
「乗れ」「……なに言ってやがるです」「今日は蒼星石が美味い手料理用意して待ってるんだろ? 心配掛けさせる気か?」「…………」「そういう事で妥協しとけよ。ほら、それとも起き上がれないぐらい痛いのか? 手を貸すぞ」「……そんな訳、ねぇです」ゆっくりと立ち上がると、すぐ傍の自転車の―――― 荷台に腰掛ける。それを暗黙の了解と受け取って、ジュンもサドルに腰掛けた。「腕回してくれ。これ以上怪我させたら蒼星石に殺される」「…………ふざけんなです」「嫌でもなんでも、言う事聞かないなら、その髪飾りで僕の身体に縛り付けてやる」「怪我人に無茶苦茶言いやがるですぅ……」暫し逡巡したものの、翠星石は大人しくジュンを掴んだ。ペダルを踏み、からからと音を立てて自転車が動き出す。「お、おお……! 思ったよりも力が要るな、これはっ……!」「きゃあっ! あ、あぶねぇです、翠星石よりもずっと下手ですぅ!」「腕の問題じゃないぞ、ぐっ……坂道とはいえペダル回すのも一苦労だ……」「このままだとジュンに殺されるですよ! 誰か助けてですぅー!」翠星石は誰にも届かない悲鳴を上げるが、その腕は決して彼を離そうとしない。夕日はもう半分以上が隠れて、その強い日差しが真っ向から二人を照らす。だから丁度良かった。素直になれない彼らは、お互いに負けないぐらい熱くて赤い。そんな自分を誤魔化して、相手の事も気にせずに、二人は言いたい事をぶつけ合う。真っ赤な夕焼けの下、何処までも伸びた一つの影は、ふらふら長い帰路を辿った。
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